☰56〕─1─大韓帝国は、日本に対して敵対的中立を宣言し、日本軍の機密情報をロシア軍に流していた。明治37年~No.161No.162No.163 @ 

朝鮮王朝実録 【改訂版】

朝鮮王朝実録 【改訂版】

  • 作者:朴永圭
  • 発売日: 2012/03/01
  • メディア: 単行本
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 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。 ↗ 
   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 日露戦争前夜。
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 1904(〜05)年 アーソン・グレブスト「釜山で朝鮮が私に与えた第一印象は、さほど良いものではなかった。道は狭く不潔で、家屋は低くて見栄えがしなかった。日本の様に人目を引く商店や、古い寺などもない。四方から悪臭が漂い、戸外にはゴミが積もり、……あちこちに干上がった下水道があるが、そのベトベトした底ではいろんな汚物が腐りかけている」(『悲劇の朝鮮』)
 朝鮮を旅行した欧米人や日本人は、朝鮮の実状を残した為に数多くの写真を撮影していた。    
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 マッキンダー「半島国家が大陸勢力の手に落ちると、対岸の島嶼国家が国家存亡の危機となる。よって島嶼国家は半島国家のランドパワー化を阻止せねばならない」
 ドレイク提督「海洋国家の国防線は、大陸側の海岸にある」
 フォン・デル・コレツ元帥「軍事的に弱体な国家が武装国家に隣り合わせると、戦争は避けられない」
 J・C・フラー少将「国家の安全保障力が不十分であると、それはもっと基本的な戦争の原因となる。とりわけ周辺諸国が軍事的であれば、その傾向は強い」
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 親日派朝鮮人は、日本の味方で、日本軍に協力した。
 反日朝鮮人は、ロシア帝国の味方で、日本軍に敵対行動をとっていた。
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 日本がロシア帝国と戦争しない最善策は、国防に支障をきたす恐れがあろうとも目をつぶり、日本周辺海域でロシア海軍艦艇の自由な航行を認める事であった。
 戦争を避ける手段は、相手が要求する全てにおいて、自主独立国というプライドを捨て国益を損なっても、ご無理ご尤もとして無条件に受け入れる事である。
 例えば、日韓合邦のように。
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 社会主義者幸徳秋水キリスト教徒の内村鑑三は、最後までロシア帝国との戦争に反対していた。
 レーニン日露戦争の原因はロシアの満州への野望であり、この戦争は人民に苦痛を課するが、これにより革命が近づくであろう」
 現代日本反戦平和市民団体は、日露戦争は日本の大陸侵略であるとして否定し、非暴力無抵抗主義から侵略してくるロシア軍と戦うべきではなかったと主張している。
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 ウィッテ「日露戦争は、カイゼルが製造したもの」
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 1904年 H・アレン駐韓アメリカ大使「(韓国人は)自国を統治できない。彼等はこれまでと同様に、統治者を必要としている。それが中国でなければ、ロシアか日本という事になる。日本に韓国を統治させるべきである」
 セオドア・ルーズベルト大統領は、朝鮮人には国家を統治し運営する能力が無いと判断した。
 フランスは、対ドイツ戦略から、イギリスと英仏協商を締結した。
 国際情勢は、欧州列強間の勢力均等で曲がりなりにも平和を保っていたが、日露戦争によって激変した。
 日本軍は、156個大隊で、総兵力は約20万人であった。
 ロシア軍は、1,740個大隊で、総兵力は約207万人であった。極東配備は、100箇大隊で、兵力は約10万人であった。
 清国・中国は、ロシア帝国との対日秘密協定にもとずき、満州をロシア軍に明け渡すべく奉天などの諸都市から軍隊を撤退させた。
 日本、アメリカ、イギリスの三国は、清国に対してロシア帝国の要求を受け入れない様に要請した。
 清国は、「夷を以て夷を撃つ」の伝統戦略から、ロシア帝国の軍事力を利用して仇敵日本を滅ぼそうとしていた。
 清国は、平和の為の日本との友好はもちろん、欧米列強の侵略からアジアを守る為に日本と提携する事よりも、日本によって傷付けられた大国としての面子の回復を優先した。
 事大主義の朝鮮も同様に、日本の侵略から自国を守るべく反日武装運動を行っていた。
 日本の生き残りを賭けた瀬戸際外交が、地球規模の再編成を誘発させ、新たな時代への扉を開いた。そして、日本の一か八かの日露戦争が、世界を巻き込む大戦争を招いた。
 ウィッテは、小村寿太郎に、ロシア帝国満州を併合する可能性がある事を示唆し、大韓帝国から日本を排除する為に韓国中立案を提案した。
 ウィッテ「ロシアが満州を占領しようと思えば、それを実行するのは簡単である。占領しようとしまいとそれはロシアの意思しだいである。……もし満州がロシア領となれば、韓国に対するロシアの位置は、日本の韓国に対するものと較べても、さらにいっそう大きなものとなるから、日本が韓国の独立を傷付けるという事はロシアの同意できない所である」
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 安重根は、朝鮮の黄海道載寧で、清国人と喧嘩となり激情して射殺して上海に逃亡した。
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 1月 日本は、朝鮮の独立及び領土保全の維持以上に、ロシア帝国の半島侵攻を防ぐ為に、大韓帝国と議定書交渉を進めていた。
 林駐韓国公使は、ロシア帝国と戦争が近いとの分析から、議定書の早期成立を切望していた。
 李址鎔外務大臣は、日本の焦りを逆手にとって意図的に交渉を長引かせ、議定書の調印を遅らせていた。
 高宗の意向を受けた政府高官は、清国で、政府声明として局外中立の声明を発表した。
 清国とイギリスなどの主要国は、中立声明を承認した。
 日本政府は、朝鮮の保護防衛を含めた外交交渉の最中に中立声明は裏切り行為であるとし承認を拒否し、煮え湯を飲まされたとして激怒した。
 朝鮮は腐敗堕落し、言語は不一致で信頼に足る相手ではなく、日本の安全の為には保護権を手に入れ支配する必要があると判断した。
 強硬派は完全合邦を主張したが、伊藤博文ら穏健派は反対した。
 伊藤博文は、ある程度の自主権を持たせた保護国化案を譲らなかった。
 日本軍部としても、局外中立を認めると、朝鮮半島での如何なる軍事行動も取れなくなり、ロシア軍との戦争に不利に働くと深刻に受けとめた。
 高宗皇帝とその側近は、日本とロシア帝国が戦えば日本は負けるという国際常識を信じて、ロシア帝国に恩を売る為に中立宣言を行ったのである。
 大韓帝国の局外中立は、日本に対する敵対的中立であり、ロシア帝国に対して友好的中立であった。
 事実。鮮満国境付近におけるロシア軍の軍事行動に、口先だけの抗議はしても具体的な行動を取らなかった。
 大韓帝国は、日本に対して欺瞞的行動を取っていた。
 ロシア帝国も、大韓帝国の中立表明を短絡的愚策と見なして承認しなかった。
 ロシア帝国の対アジア政策は、朝鮮をも版図に組み込む事であり、日本軍を破って朝鮮を軍事占領するには中立宣言は邪魔であった。
 1月12日 太山巌参謀総長は、御前会議で、外交での話し合いでの戦争回避は不可能である以上は早期開戦を主張した。
 「シベリア鉄道は完成しても、今の段階ではロシアの軍隊輸送能力は十分ではなく、海軍力も、現在4対3の比率で日本に有利である。開戦を遅らせれば、日一日と日本に不利になる」
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 サムライは、戦争を回避する為の無意味な話し合いに無駄な時間と労力を費やすよりも、戦争を決断すべきであると主張した。
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 日本とロシア帝国は、いつ戦争に突入するかわからない一触即発の危険状態にあった。
 大韓政府は、日本とロシア帝国が戦争状態に突入した時、大韓帝国は局外中立を取ると宣言した。同宣言は、日本側の監視を避けるために、清国からフランス語で諸外国政府に打電した。
 日本外務省は、中立声明文を受け取るや、漢城の日本公使館に真偽を問い合わせた。
 漢城の日本公使林権助は、大韓国政府から通告を受けず蚊帳の外に置かれて、外交官として恥を掻かされ面目を失った。
 林権助は、国家を代表する外交官というより人間として、大韓政府の堂々としない不誠実と朝鮮人の陰険な姑息さに激怒した。
 大韓帝国の局外中立は、優勢にあるロシア軍には有利であったが、劣勢にある日本軍には不利であった。
 高宗や親露派は、世界常識に従ってロシア帝国の大軍は日本軍を破って快勝するすると考え、勝ち馬に乗る為にロシア軍に有利になる様に中立宣言を行い、日本に対して非協力な姿勢を取り始めた。
 反日義兵軍も、日本は必ず敗北するとみて両国の戦争を望み、日本が敗北するまでは高みの見物と決め込んでいた。
 日本軍は、黄海を渡って大軍を満州に輸送しなければならなかった。
 満州と日本との間には朝鮮半島が横たわり、黄海は清国・中国の領海といっても間違いなかった。
 1月23日 小村寿太郎外相は、受け入れられない事知りながら、ロシア帝国のローゼン公使に日本側の最終対案を提出した。
 大韓帝国は、日露両国の紛争に対して局外中立を宣言した。
 高宗と親露派は、日本とロシア帝国が戦えば日本の負けは必至で、日本軍が敗走した頃に反日大暴動を決行すれば大勝利が転がり込んでくるとほくそ笑んだ。そして、ロシア軍を勝たせる為に日本側の情報を流していた。
 だが、反日派は活動方針で分裂した。穏健派は日本軍の敗走状況を見極めてから行動するべきだと主張したが、過激派は開戦と共にロシア軍に協力して日本軍と戦うべきであると主張した。
 朝鮮に駐屯していた日本軍は、軍施設への破壊工作を行っていた過激派3名を射殺し、親日派の協力を得て抗日義兵団の掃討に力を入れていた。
 日本軍部は、反日抵抗運動を公表しては日露戦争に悪影響を及ぼすとして、国民の知る権利を踏みにじり情報を統制し、朝鮮人の愛国運動を隠蔽し闇に葬った。
 反日朝鮮人は、祖国を救う為にロシア軍に協力し、日本軍の情報をロシア軍に伝え、日本軍の補給線で破壊工作を行っていた。
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 2月3日 日本は、外交交渉を断念して、自衛を目的として開戦する事を決定した。
 2月4日 日本政府は、ロシア帝国との外交断絶を決定した。
 ロシア軍は、日本との戦争の為の準備を進めていたが、出来ればシベリア鉄道が完成するまで嘘の外交を続けて欲しいと願っていた。
 2月6日 駐露公使栗野慎一郎は、ロシア帝国ラムズドルフ外相に、国交の断絶と軍事を含む自由な行動を取るとの最後通告書を手渡した。
 日本外務省は、イギリスやドイツ帝国にもロシア帝国との国交を断絶し、軍事的敵対関係に突入したことを通告した。
 イギリスは、同盟国として、条約文を忠実に履行する事を保証した。
 ドイツ帝国は、両国が戦争に突入した時、厳正中立を守ると約束した。本意は、ヨーロッパからロシア帝国の脅威を取り除く事にあった。
 国際社会は、日本の通告で両国が満州と朝鮮をめぐって無謀な戦争をする事を知り、そう遅くない時期に軍事大国ロシア帝国が大勝し、弱小国日本はロシア軍に占領されると話し合った。
 日本は、ロシア帝国に対して国交断絶を通告した。
 日本陸軍は、韓国国内の陸上電信・電話線を切断した。
 日本海軍は、砲艦愛宕の陸戦隊を馬山浦に上陸させ馬山の電信局を占拠させ、釜山の陸軍守備隊に依頼して釜山の電信局を占拠させた。
 日本軍は、韓国国内の通信網を占領し、韓国とロシア・清国間の連絡を遮断した。
 京城の在韓ロシア公使館と仁川碇泊中のロシア海軍巡洋艦ワリヤーグ・砲艦コレーツは、外部との情報連絡が途絶した。
 芝罘(チーフー)のロシア総領事は、旅順・芝罘間の海底ケーブルが切断された為に、陸上通信で旅順と連絡を取り合った。
 日本海軍は、デンマーク大北電信会社が設置したウラジオストック・長崎間の海底ケーブルを遮断し、ケーブルを引き上げて韓国と日本間の仮設軍用水底線に再利用した。
 2月6日 ロシア帝国首都サンクトペテルブルグ駐在の日本公使栗野慎一郎は、ラムズドルフ外相に国交断行通告書と公使館撤去に関する公文書を手渡した。それが、即宣戦布告となるわけではなかった。
 高宗と親露派は、局外中立宣言をした以上は、国際世論の反発を恐れて日本軍は暴挙に出る事はないと高を括っていた。
 2月7日 日本海軍の奇襲攻撃で、日露戦争が始まった。
 サムライ日本人は、全ての面で劣勢で勝利はおぼつかない事を自覚していたが、日本をロシア帝国の植民地にしない為に宣戦布告した。
 日本は、小国といえども、明治天皇明治神宮)の名誉と国家の面目を守る為に、如何に相手が強敵であっても臆する事なく正々堂々と戦いを挑んだ。
 日本民族日本人は、祖先の名誉と志を大事にし、民族の宝である神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)を守り、子孫を白人キリスト教徒の奴隷にしない為に、絶対不利という条件下で絶望せず、わずかな勝利という希望を捨てず自分を殺しても戦い続けた。
 昔の日本人は、巨大な軍事力を背景とした理不尽な外圧に屈せず、強い相手に卑屈となって土下座して醜態を晒さず、絶体絶命の窮地に追い詰められても諦めず立ち上がり、かすかな望みを信じて「死を覚悟」して立ち向かった。
 日本軍は、日本武道の極意である「勝つ」のではなく「負けない」ことを心がけ、大軍に対して絶えず一歩前に踏み出して攻撃を続けた。
 反日朝鮮人は、宿敵日本を滅ぼす為なら、どんな卑怯な手段でも、如何に卑劣な方法でも、当然の権利として実行した。過激派は、時来たれりとして、日本軍の後方で補給路を破壊する為の暴動を起こしていた。
 小国日本は、援軍を派遣してくれる同盟国を持たず、一国で超軍事大国ロシア帝国を相手に戦う事を決断した。
 ロシア帝国は、日本の卑怯な不意打ちで戦争を仕掛けてきたと抗議した。
 小村寿太郎外相は、「この非難に公然と弁明するだけの価値を認めない」と撥ね付けた。
 現代日本にはない、毅然とした態度でる。今の日本人には、外交能力はない。
 2月8日 仁川沖海戦
 日本軍部は、ロシア軍と戦闘状態に入る前に非協力的な大韓政府を押さえ込む目的で、漢城占領の為に2,200人の部隊を仁川港に上陸させた。
 瓜生外吉少将が率いる連合艦隊第四戦隊14隻は、派遣部隊を乗せた陸軍輸送艦3隻の護衛と同時に、ロシア海軍の軍艦に遭遇したら直ちに攻撃せよとの密命を受けていた。
 仁川港には、旅順艦隊の所属の巡洋艦と砲艦の2隻が停泊していた。
 日本軍部隊は、上陸するや、直ちに、漢城に向かった。
 漢城の日本公使林権助は、李址鎔外部大臣に日本軍部隊が仁川に上陸し漢城に進駐する事を説明し、高宗に伝えるように依頼した。
 瓜生少将は、夜半に仁川の日本領事館を通じて、ロシア軍艦に対して仁川港からの退去と従わない場合は攻撃もあり得るという通告書を手渡した。
 ロシア公使は、半島における日本軍の不穏な動きと韓国政府の内情を旅順の極東総督・太平洋艦隊司令部に報せるべく、砲艦コレーツを出航させる事にした。
 午後11時頃 日本の連合艦隊は、駆逐艦隊に対して、旅順港外に碇泊しているロシア艦隊への攻撃を命じた。
 ロシア軍側は、日本軍が宣戦布告前に奇襲攻撃をかけてくるとは思わず、油断して、無警戒であった。
 2月9日 ロシア軍艦は、日本側に抵抗せずに拿捕されるのは軍人として恥辱であるとし、勝てない事はわかっていたが、軍人は名誉と皇帝への忠誠心から戦闘旗を掲げて湾外に逃走した。
 日本艦隊は、湾外でロシア軍艦を攻撃した。
 ロシア軍艦は、逃走を諦めて、湾内に逃げ込んで自爆した。
 仁川湾に碇泊していた諸外国船は、退艦して海上に漂っていたロシア海軍水兵を救助し、宣戦布告なしで攻撃した日本海軍を厳しく非難した。
 これが、仁川沖海戦である。
 林権助公使は、高宗に謁見し、日本とロシア帝国が戦闘状態に入り、日本軍が漢城に進駐する事を説明した。
 日本軍派遣部隊は、漢城校外に駐屯して高宗と大韓政府に圧力をかけた。
 高宗と親露派は、日本は絶望的戦争を避ける為にロシア軍の軍門に下ると思っていただけに、いざ戦争になると知るや驚愕した。
 大韓政府は、狂暴な日本軍が漢城に進駐してくると知るやさらに恐怖しておののき、如何に対処すべきかで混乱した。
 日本軍は、朝鮮に上陸し、満州に向けて北上した。
 日本は、李容翊ら反日強硬派がロシア軍に内通する事を畏れ、戦争が終結するまで日本へ半強制的に渡航させた。





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現代語訳 古事記 (河出文庫)

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