☰59〕─1─反日派朝鮮人は、高宗を強制退位させた日本に激怒して内乱を起こした。明治天皇暗殺予告事件。明治40年7月~No.185No.186No.187 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 ロシアと清国(中国)は、不気味なほど沈黙し、朝鮮と日本の関係を眺めていた。
 日本は、自国の安全の為には、ロシアと清国(中国)の介入を避ける為にも朝鮮暴動を鎮圧し、親日派で朝鮮を固める必要があった。
 対朝鮮強硬派は、ロシアと清国(中国)の介入を完全排除する為に朝鮮併合を主張していた。
 対朝鮮宥和派は、武装闘争を止めない反日朝鮮人を含んだ朝鮮を国内に引き込む事は、日本を内部から崩壊させる危険があるとして猛反対した。
 日本は、ロシア・清国(中国)・朝鮮三ヶ国による対日軍事同盟を恐れていた。
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 朝鮮人は、自分の思い通りにならないと半狂乱となって騒ぎ、見境もなく何をしでかすか分からない性格をしている。
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 1907年8月から09年末まで、反日民族運動である義兵闘争が半島各地で発生した。
 統監府は、反日的国際世論への配慮と清国及びロシア帝国の軍事介入を恐れ、短期間で内戦を解決する為に1個師団を増派させ、苛烈を持って迅速に大討伐作戦を実行した。
 警察と憲兵隊は、占領地域で一般人に化けて破壊工作を続ける反日派を炙り出し、見せしめとして公開処刑した。
 朝鮮のキリスト教宣教師は、日本軍の行動をバチカンに報告し、世界に伝えた。
 姜在彦の『朝鮮の儒教と近代』(明石書店)では、殺戮された朝鮮人義兵は1万6,700人で、負傷者3万6,770人以上とされている。
 金永学の編集による『韓国独立運動史』では、義兵参加総数6万人で死傷者1万4,500人以上、日本側死者は127人とされた。
 総督府慶北警察局編の『高等警察要史』では、義兵死亡者1万7,779人で、日本側死者は336人と記されている。
 朝鮮駐屯日本軍司令部の『朝鮮暴徒討伐誌』では、殺害は1万7,777名で、負傷者は3,706名で、捕虜は2,139名と記載されている。
 イギリスの新聞「デーリー・メール」などの反日系新聞は、日本軍の残虐行為を現地特派員やキリスト教会関係者らの目撃談として反日報道を繰り返していた。
 日本側の攻勢で組織的義兵軍は壊滅したが、愛国心による反日気運は衰える事なく、庶民は秘かに反日義兵軍残党を支援した。
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 間島に逃亡していた李東寧とアメリカから帰国したキリスト教徒の安昌浩(アンチャンホ)らが帰国し、救国の為に秘密結社・新民会を結成して反日運動を始めた。
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反日派高宗の退位
 日本側は、大国の軍事力を利用して日本を窮地に追い込もうと陰謀をめぐらす高宗を退位させる様に、大韓政府に圧力をかけた。
 大韓政府は、日本国の保護国として国を滅ぼそうとも、日本に宣戦布告して国民を殺す気はなかった。
 高宗は、退位を避ける為に、皇太子の李拓を摂政として国政を任せる事に同意した。だが、日本を朝鮮から追い出す為に反日派と共謀して陰謀を続けた。 
 伊藤博文は、韓国民の協力が得られず韓国の近代化に挫折して、統監職を同じ日韓併合消極論者の曽根荒助に譲って帰国した。
 宿痾の多い韓国を併合しても苦労が多く得るところは少ない為に、責任の少なく何時でも撤退できる保護国に留めて置くべきであると考えていた。
 韓国問題で、文官の伊藤ら保護国論者と軍人の山県ら併合論者らは激しく対立していた。
 伊藤博文「韓国国民の生活状態を察するに、この3年有半の間において改良進歩するを得たりと信ずる程度に達しない。これ自分の力およばざるが為か、或いは韓人自ら務めず、自ら励まず、ややもすれば他国の保護の下に居るを甘んぜざると往々にあるが為にしかるか。自分は今日まで韓国政府を指導啓発して韓国民の幸福を増進せんと欲し、この為に自分の心力を尽くして韓国皇室及び政府又は地方官に警告した。自分はもとよりその方針に誤りなしと確信するも、その功績未だ相伴わざるもの往々あるのはすこぶる遺憾とするところである」
 井上馨「もはや国家としての体をなしていない韓国を併合しても、日本が過大の負担を強いられるだけで、そのような余裕は日本にはない」
 7月19日 高宗は、日本の圧力に屈して、退位し譲位するまで皇太子李拓を摂政に任命する事を発表した。
 漢城各地で住民数千人が、日本の横暴に憤り、抗議する為に暴動を起こした。
 大韓国軍と暴徒は、高宗を退位させた日本の横暴に激怒し、政府の制止命令を無視して暴動を起こして日本人警察官を殺害した。
 大韓政府は、政府軍内の不満分子が武器を持って暴徒に走る恐れがあるとして、自力による治安回復を放棄し、統監府に武器庫の警備との暴徒の鎮圧を依頼した。
 日本軍は、内政不介入の原則から静観していたが、大韓政府の要請に従い部隊を派遣して武器庫を暴徒の襲撃から守った。
 市街地に出動した日本軍部隊は、暴徒に銃を向け威嚇する事で自然解散する事を期待して、攻撃されないかぎり反撃しなかった。
 反日派暴徒は、武装化の失敗した事でさらに逆上し、逃げ遅れた日本人や親日派朝鮮人を見つけ出すや暴行を加え、強姦し、殺害した。そして、攻撃を控えていた日本軍部隊を弱腰とみて襲った。
 暴徒は膨れ上がって5,000人を超え、凶悪化し、親日派李完用総理大臣らの邸宅を焼き討し家具調度を略奪した。止めにかかった警官や家人は容赦なく打ち据えて、重軽傷を負わせた。
 暴動は広がり、被害は増大し、死傷者が巷に溢れた。
 統監府は、憲兵隊、警察隊、日本軍部隊に対して、治安の回復と日本人居留民の保護を目的として凶器を持った暴徒に対しての武器使用を許可した。
 大韓政府は、流血を避ける為に暴徒側と話し合で解決しようという意思を持たず、暴徒の不満を鎮める為の如何なる慰撫も講ぜず、日本軍の武力鎮圧を傍観した。
 反日派は、暴徒の敵意が日本側に向き、さらに増幅するように誘導した。
 高宗も、僅かに声を発したのみで沈黙していた。
 翌20日になっても、暴動は続いていた。
 朝鮮政府軍や朝鮮人警察隊の一部は、日本側の武力鎮圧で同胞が殺害されているのを見て、同胞を救う為に武器を持て反日暴動に参加した。
 暴徒は数万人に膨れ上がり、半島各地でも反日本暴動が起きていた。
 大韓政府内の反日派高官は、日本軍に反感を持つ政府軍幹部と、譲位式の当日に親日派高官を皆殺し、日本打倒の詔勅渙発して日本人を半島から追放する武装蜂起計画を練っていた。
 日本軍は、愛国的叛乱計画を察知し、先手を打って朝鮮政府軍の全ての武器庫をおさえた。
 親日派高官は、治安回復を妨害した罪で叛乱を計画していた反日派の大半を逮捕し、粛軍を行った。
 逮捕を逃れた一部の将校は、各地の暴動に参加し、反日義兵軍を組織して指揮をとった。
 伊藤博文統監と朝鮮駐屯軍司令官長谷川好道大将は、武器を持った政府軍(約2万人)と警察隊が反日派として叛乱を起こす事を恐れた。
 日本軍は、ロシア帝国と清国が反乱を支援し、復讐戦として軍事行動に出る事を恐れた。
 日本政府は、暴動鎮圧に失敗して弱体化をさらけ出し、朝鮮統治もまともに出来ない無能力国家との謗りを受け、国際社会での信用を失う事を警戒した。
 日本人は、没個性的に気弱なだけに、他人の視線を神経質に意識し、他人の評判を病的なまでに気にしていた。
 世界はまだ、弱肉強食の帝国主義時代であり、容赦なき略奪型市場原理主義社会であった。
 帝国主義には、理性ある道義は存在しないし、話し合いによる解決もなかった。
 正義は、軍事力、経済力、金融力の強さで決定されていた。
 温厚になって気を許せば、今の朝鮮の運命が、明日は日本の運命となった。
 漢城における暴動は、日本軍の圧倒的な武力で鎮圧された。
 敗走した暴徒は、各地の反日義兵軍に参加して、反日愛国運動を続けた。
 大韓政府は、勝者となった統監府に協力し、各地に潜伏した反日派を炙り出すべく逮捕して、おぞましい拷問で仲間の隠れ家を聞き出した。
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*第三次日韓協定。
 7月24日 第三次日韓協約。 秘密覚書。日本側は、朝鮮国内での反日運動の過激化から日本人居留民を保護する為に地方裁判所や刑務所長への日本人の任命と、朝鮮の近代化の為に各部次官への日本人の採用を認めさせた。
 世界的著名な旅行家イザベラ・バードや宣教師らは、朝鮮の司法裁判所は賄賂によって判決が左右され、刑務所内の環境は家畜小屋の様に劣悪で、収容者の人数が多くなるや減らす為に刑罰に関係なく闇から闇へと処刑していた、と書き記していた。
 朝鮮に於ける儒教倫理とは、身分の低い者を家畜以下の虫けらのように扱っていた。
 家柄を気にする両班は、下位の両班や庶民が日本式近代教育で出世して、自分達が没落する事に絶えられなく反日的民族運動を組織した。
 日本は、反日行為を止めない大韓国帝国を放置しては日本の安全に悪影響が出るとして、朝鮮国内に親日派の地盤を固める必要があって内政権を剥奪した。同時に、いつ何時、反日的軍事行動で暴発するか分からない韓国軍隊を解散させた。
 伊藤博文統監は、政府の各部署に日本人官吏を次官として送り込み、朝鮮人官吏による反日活動を抑え込んだ。
 伊藤博文は、キリスト教白人諸国のアジア侵略を警戒し、日本を含む極東アジアの平和と発展の為に両国の強力な連帯を希望していた。日韓併合は、ロシア帝国など国際社会からの賛同を得られていないし、荒廃甚だしい朝鮮を併合すればいま以上の血税を浪費するとして反対した。
 朝鮮人気質は、日本人の様に御上の威光に恐懼して従おうとはせず、自分一人の利得に奔走り、大義・大局を見ず、不平不満を並べ立てるだけで凶暴化するのみであるとして、併合には不同意を表明した。
 併合消極派は、恐露派として、北の脅威から日本を守る為には併合ではなく保護国化した方が日本の為である、という「北進論」を唱えた。
 併合派は、日本の発展の為には、不毛の南満州を北への緩衝地帯として固定化し、豊かな南の中国市場に打って出る必要がある。その為には、後顧の憂いを立つ為に、利敵行為を繰り返す反日派の朝鮮を併合すべきであるという「南進論」を唱えた。
 伊藤博文「弱国は、強国の障害物である。したがって今の強国は弱国を助けて富強に赴かしめ、共に力を合わして、各々その方向を守らんと務めるのである」
 日本政府は、韓国軍兵士が日本の警察官を殺害した事を理由にして、第三次日韓協定で韓国軍を解散させた。
 韓国軍将兵の多くは、充分な退役給付金をえ、両班意識に支配された悲惨な韓国軍の内情を知っていただけに、親日派として、各地で起きていた反日派の義兵運動に参加しなかった。
義兵運動の中には盗賊が参加していて、日本軍と戦うよりも、朝鮮人民衆を襲撃して虐殺と略奪と強姦を繰り返していた。
 日本軍は、1914年頃までに義兵運動を鎮圧した。
 義兵運動の残党は、満州などに逃げて朝鮮独立運動を継続した。
 7月29日 伊藤博文は、漢城の日本人倶楽部で催された演説会で「合併する必要なし、合併は甚だ厄介なり」と演説し、国内で高まっている「韓国併合論」に反対を表明した。
 7月30日 日本は、フランスの口添えでロシア帝国との間で第一次日露協約を結び、朝鮮における自由裁量権ロシア帝国に認めさせた。ロシア帝国は、日本に北満州への侵攻をしないという確約を取り付ける事で、北満州から外モンゴルまでの権益を確保した。
 イギリスも、ロシア軍の南下を阻止できるとして同協約を歓迎した。
 ロシア帝国は、伝統的南下政策から、アジアへの進出を断念した分を中近東とバルカン半島で取り返そうとした。バルカン進出が、ドイツ帝国オーストリア帝国との新たな衝突を引き起こす恐れが出た為に、1815年から宿命的敵対関係にあったイギリスに接近した。
 日本はもとより欧米列強は、自国の独立と自由を戦っても回復しようとしない大韓帝国の存在を完全無視して、自国の安全を最優先して条約や協定を結んでいた。
 8月 フランスは、対ドイツ包囲策として、敵対関係にあったイギリスとロシア帝国を結び付けて英露協約を成立させた。
 ロシア帝国は、イギリスを中心とした対ドイツ(三国同盟)包囲の四ヵ国協商網に参加した。
 イギリスは、インド防衛の為に、ロシア帝国との間でペルシャからチベットにかけての利害調整を行った。
 世界は新たな枠組みで陣営化され、諸外国は国家戦略として何れかの陣営に参加した。
 この両陣営が、後に、世界新秩序の指導権をめぐって第一次世界大戦で戦う事になった。
 大陸史は、人間という動物が生きる為に必要とする生存圏を確保する為の、生きるか死ぬかの縄張り争いの歴史であった。大陸戦争において、殺し合い対する正邪・善悪の論議は、安心して生きられる縄張りを手に入れるという現実問題の前では無力であった。
 それが、大陸における人類史であり、人類の文明史であった。
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 セオドア・ルーズベルト「韓国には自治能力がなく、アメリカがその様な韓国に対して責任を負う事はない」
 「我々は、日本に反対してまで韓国人の為に積極的に介入する事はできない。……なぜなら韓国人は、彼等自身の防護の為にでありながら、敵に一撃も加えられなかった」
 「韓国は、絶対に日本のものである。確かに、条約は韓国が独立を保つべきだと厳粛に約束している。しかし、韓国自身は条約の実行に無力である。韓国が自分自身の為に全くできない事を、どこの他の国が韓国の為にしようと試みるなどと想定する事は問題外である」
 アレン駐韓アメリカ大使「感情的な理由で、アメリカが韓国の独立を支援するれば、アメリカは大きな過ちを犯すであろう。韓国民は、自己を治め得ない。私は、……親日派ではないが、過去の征服の権利と伝統によって韓国は日本に所属すべきものと考える」
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*人質となる皇太子李垠
 8月1日 日本は、大韓帝国の統治能力は無いと見なして内政権を接収した。
 伊藤博文統監は、国防を日本軍が肩代わりするとして、摂政純宗に朝鮮政府軍(約1万5,000人)の解散を命ずる詔勅を出させた。
 日本は、盗みや強姦を繰り返し軍律が無きに等しく腐敗堕落している朝鮮政府軍を存続させては、いつ暴動に加担して日本人居留民を殺害するか分からないとして、大韓国軍の解散を強要していた。
 将兵の多くが身分低く貧しい家庭の出身であり、農業以外に産業らしい産業がない経済破綻国家の朝鮮で、軍隊を追い出されたら行くあても生活する手段もなかった。
 漢城に駐屯していた9,000人以上の政府軍兵士の一部は、日本の横暴を許しては亡国につながるとして、武装蜂起した。
 民族主義に燃える両班や儒生は、ゴロツキのような失業将兵を集めて反日の義兵運動を起こし、一進会会員や日本人居留民を襲い、虐殺と掠奪を行った。
 一進会は、盗賊のような義兵から身を守る為に自警団を組織した。
 反日朝鮮人は、大国依存の事大主義から、野蛮国日本の保護国となるくらいなら、巨大国の属国となるか領国になる事を切望した。
 多くの朝鮮人は、義兵にも自警団にも参加せず、とばっちりを避ける為に家財道具を持って逃げ回った。
 日本軍は、純宗の詔勅を持って治安出動して反乱軍を鎮圧した。
 反乱軍は、徹底抗戦を主張した。
 敗走した朝鮮軍兵士は、降伏する事を潔しとせず、民家に逃げ込んで軍服を脱ぎ捨て、民間人に変装して市街地戦を続けながら漢城を脱出した。
 日本軍は、乱戦の中で、民間人を盾として銃を乱射する朝鮮人兵士を討伐した為に多くの民間人を殺害した。
 各地の朝鮮政府軍は、民間人を虐殺する日本軍の蛮行に激怒し、反日義兵軍と共同して日本軍に攻撃を開始した。
 日本国内では、国内の混乱を自力で鎮められない大韓帝国を併合すべきとの併合論が巻き起こった。
 伊藤博文は、人心共に荒廃した腐敗堕落した朝鮮を抱え込むのは日本にとって有害と認識し、むしろ大韓帝国に独自解決をさせるべきであるとして併合に反対した。
 大韓帝国内からも、朝鮮人では混乱を鎮圧し近代的発展はできないという絶望感から併合論に賛成する者が増え始めた。
 日本陸軍は、対露ソ戦略として、満州への兵站基地として朝鮮を活用する為に朝鮮併合を推進していた。
 日本軍は、徹底弾圧の為に討伐部隊を各方面に派遣した。
 反日義兵闘争は約4年間続き、日本軍は武器を持って抵抗する朝鮮人を、女子供に関係なく殺害した。殺害、1万7,000人以上。負傷者、3,000人以上。
 義兵軍は、日本軍の攻撃によって敗走し、北部朝鮮や満州の間島地域に逃げ込んでゲリラ戦を続けた。
 欧米の反日的新聞は、日本軍の民間人殺害という蛮行を事細かに報道した。
 現地の情報は、欧米の特派員やキリスト教宣教師によってもたらされていた。
 サンフランシスコ在住の朝鮮人は、秘密結社である共立協会を結成して、反日闘争を支援した。彼らの大半が、キリスト教会の支援を受ける為に改宗した。
 8月9日 純宗は、日本の支配下で第二代皇帝に即位した。
 新皇帝の純宗は、日本側の圧力で、反日を改め親日を表明した。
 公式の場では「両国の友好を希望する」と発言しなが、本心は父高宗同様に反日的であった。
 10月16日 次期天皇嘉仁親王(後の大正天皇)は、朝鮮を訪問した。
 明治天皇は、朝鮮の反日的気運と暴動の悪化を理由にして、皇太子の安全が保障されていないとして訪韓を渋っていた。
 天皇の側近も、反日派に殺害されたり誘拐されたりと、不測の事態が起きる危険性があるとして猛反対した。
 伊藤博文は、両国の友好の為には必要な事であるとし、皇太子の身辺警護は命を賭けても保証するとして押し切った。
 明治の元勲の多くは、幕末期に幼少の睦仁親王を玉として利用し、明治となって天皇に即位させてやったという思いが強く、天皇を単なる道具のように扱った。
 明治天皇は不満があっても、恣意的に政治利用されている事が分かっていても、元勲には逆らえずやむなく裁可した。
 明治天皇が信頼し、心を許したのは、逆賊となって死んだ西郷隆盛(下級武士、南州神社)であった。
 天皇は、絶対的専制君主ではなく、元老や重臣によって好き勝手に操られている存在であった。 
 11月3日 明治天皇暗殺予告事件。アメリカに渡っていた一部の日本人は、日本諸問題を解決する為には人民革命が必要であるとして「社会革命党」を結成した。
 社会革命党員は、無政府党暗殺主義者の名で、サンフランシスコ日本領事館の入り口に「日本皇帝睦仁(むつひと=明治天皇)君に与ふ」という檄文を貼り付け、明治天皇暗殺を予告した。
 「睦仁君足下、憐れなる睦仁君足下、足下の命や旦夕(たんせき)に迫れり。爆裂弾は足下の周囲にありて将(まさ)に破裂せんとしつつあり」
 渡米中の東京帝国大学の高橋作衛教授(国際法)は、社会革命党内の密偵から内部情報を集めて報告書を作成して、同僚の穂積陳重(のぶしげ)教授(民法)と八束(やつか)教授(憲法)の兄弟に送った。
 穂積兄弟は、高橋秘密報告書を山県有朋に提出した。
 山県有朋は、足尾銅山・長崎三菱造船所・三池炭鉱など国内各地で多発している暴動やストライキに危機感を募らせ、西園寺内閣の要人に高橋報告書を送って警告した。
 12月5日 大韓帝国は、皇太子である英親王李垠を日本留学の名目で東京に、人質として差し出した。
 伊藤博文は、高宗と共に純宗も反日的意識が強いと見抜き、幼い英親王李垠を親日派に育てる為に東京に連れ出した。
 愛国主義者の朝鮮人は、皇太子が人質として日本に連れ去られたと慟哭し、日本と天皇への復讐を誓った。
 狂信的民族主義者は、国を救う為には伊藤博文を暗殺するしかないとして付け狙った。




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