☰61〕─1─日本国民は、元勲・伊藤博文を暗殺したテロリスト安重根を憎み朝鮮人を嫌悪した。明治42年~No.191 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 伊藤博文は、日本を近代国家に作り替えた政治家であり、日本をロシアの侵略から救ってくれた指導者であった。
 日本民族日本人にとって、伊藤博文は民族史に欠かせない英雄・英傑であった。
 それ故に、全ての日本民族日本人から敬愛されて、誰も口汚く罵る者はいなかった。
 感謝こそすれ罵声を浴びせる者は誰一人としていなかった。
 伊藤博文を否定し批判する者は、日本民族日本人ではない。
 全ての日本民族日本人は、伊藤博文が非業の死を遂げた事を悲しみ、殺したテロリスト安重根を憎んだ。
 日本民族日本人が、朝鮮人を嫌い憎み、そして差別し軽蔑するのは当然の事であった。
 当時の諸外国の元首・政治家・指導者も、日本の近代化と清国及びロシアとの戦争を勝利に導いた伊藤博文の功績を讃え、そして卑劣なテロで殺された事に対して哀悼の意を示した。
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 小作人の子供であった伊藤博文が才覚と努力で元勲まで出世した事は、身分卑しき下層民・部落民に生きる夢と希望と意欲を与え、そして自力で道は切り開けるという明るい未来を示した。
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 日本は、対ロシア・対清国(中国)戦略から、開化派・改革派が親日政権を樹立し、親日政権との攻守同盟を期待していたが、反日朝鮮人の抵抗が激しかった。
 伊藤博文は、それでも日本と朝鮮の提携を諦める事なく努力していた。
 合併推進派は、反日朝鮮人が依然としてロシアと清国(中国)を引き込むべく内戦を繰り返している事に疲労感を抱き、さらには日本を攻撃できる新手の大国を探し始めた事に絶望した。
 現実的解決法として、日本の安全を確保する為には朝鮮を併合するしかないと。
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 開化派は、腐敗した朝鮮指導部では近代化は不可能として併合に賛成した。
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 帝国主義時代における近代的文明国とは、世界を侵略して植民地を拡大する事であった。
 一流国とは、侵略して植民地を獲得できる国か、他国の侵略を食い止めて自国を守れる国の事であった。
 二流国とは、侵略戦争ができない国か他国の侵略から自国を守れなかった国である。
 ゆえに。日本は一流国とされ、中国は二流国であり、国を失った朝鮮は国家としてその存在さえ認められなかった。
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 韓国が日本に求めている「正しい歴史認識」とは、国家元首及び重要人物の暗殺テロを正当化し、テロリストを礼賛する歴史である。
 現代日本で、其の歴史的事実を充分に理解した上で、韓国が主張する「正しい歴史認識」を受け入れようとしている日本人がいる。
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 漢字における近代用語の7割以上は、日本生まれの和製漢字と言われている。
 中国と朝鮮で生まれた近代用語はそれほど多くない為に、日本人が作り出した和製漢字を使わないと近代を理解できないし語れないと言われている。
 中華思想共産主義や民主主義といった用語も、日本語に翻訳された和製漢字と言われている。
 つまり。中国も朝鮮も、日本を真似して近代国家となり、日本を通じて大衆文化や科学技術や近代教育を取り入れた。
 中国と朝鮮にあったのは、2000年前の古典的儒教価値観のみであった。
 現代日本人以上に、江戸時代末期から明治初期にかけての前近代的日本人は、会話力が稚拙でも、国際的感覚と未知に対する理解力と豊富な語彙による表現力が優れていた。
 現代日本人は、英語などの外国文化を表現する語学力が優れてきたが、古典的日本文化を理解し表現する語彙が乏しくなりつっある。
 自国の文化に造詣の深い外国人は、日本文化を自慢げに語らず西洋文化を得意げに外国語で説明する日本人を、良く出来る猿真似の「お馬鹿さん」とその軽薄さに薄笑いを浮かべて軽蔑する。
 人間力の乏しい国際派を自認する現代日本人は、軽蔑の薄笑いを好意を持って貰えた証しと有頂天になり、日本文化よりも相手国の西洋文化の方が教養度が高いハイレベル文化であると持ち上げる。
 真に教養のある知識人は、自分には博学な知識があると自慢げにひけらかすが、同時に、果てしない好奇心から自分の知らない事に興味を持つ。
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 1890年代 西洋列強は、バルカン半島を巡って、ロシア帝国オスマン・トルコ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国ドイツ帝国がにらみ合っていた。
 イギリスはロシア帝国がインドに進出してくる事を警戒し、フランスはエジプトから中東への勢力拡大を狙っていた。
 ロシア帝国は、ドイツ帝国から再保障条約更新を拒否された為に、孤立を避けるべくフランスとの間でフランスと露仏同盟を結んだ。
 フランスは、普仏戦争(1870〜71)年に敗北して、ドイツ帝国とイギリスに挟まれて孤立していただけにロシアとの同盟を歓迎した。
 フランスとロシア帝国は、1891年に政治協定を、94年に軍事協定を結んだ。
 ドイツ帝国は、ロシア帝国と手を切ってフランスやイギリスとの友好関係を望んだが失敗した。
 イギリスは、海軍強国として、ドイツ帝国の海軍力強化政策を海上輸送網への脅威警戒していた。
 ドイツ帝国は、ロシア帝国との関係を修復する為に1895年の三国干渉に参加した。
 日本が、三国干渉を抵抗せずすんなりと受け入れた為に、アジアに於けるドイツ帝国を基点としたロシア帝国とフランスという協調関係は消滅した。
 ロシア帝国は北の満州から、フランスは南のインドシナ半島から、中国の鉄道網を支配するべく鉄道施設に乗り出した。
 イギリスは、中国における優先権を確保する為に両国に接近した。
 アメリカは、依然として中国進出の足場を確保できずにいた。
 日本は、欧米列強のパワーゲームに巻き込まれないように日英同盟を外交の基本として、満州鉄道とその周辺地域のみを得る事で満足して極東アジアに閉じ籠もった。
 朝鮮は、国際状況を理解しようとせず、反日のみを最優先として欧米列強に祖国救済の密使を送り、あわよくば強国の軍事力で日本を滅ぼそうとした。
 極東アジアの不安材料は、没落し始めたち清国ではなく、時局が理解できない朝鮮にあった。
 日本の安全の為には、朝鮮処分が欠かせなかった。
 欧米列強は、脆くはかない国際秩序を維持するという力の均衡から、日本の韓国併合に歓迎こそすれ反対する国はなかった。
 その事が理解できなかったのは、朝鮮の無能ゆえんであり、日本の責任ではない。
 ドイツ帝国は、イギリス、フランス、ロシア帝国に対抗する外交戦略として3B政策を採用した。
 そして、隣国オーストリア・ハンガリー帝国との関係を強化にするべく、ロシア帝国が日本との戦争による敗北と国内の革命および暴動で弱体化している隙をついて、バルカン半島への勢力拡大を図った。
 西洋とその周辺地域は、イギリス、フランス、ロシア帝国ドイツ帝国オーストリア・ハンガリー帝国オスマン・トルコ帝国の陣営に二分された。
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 朝鮮の基本戦略は、日本と清国(中国)とロシア帝国の力を利用して生き残ろうとしていた。
 朝鮮は生き残りをかけて、清国(中国)及びロシア帝国の軍事で日本を滅ぼそうとしていた。
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伊藤博文暗殺
 伊藤博文な、恩師・吉田松陰座右の銘としていた「至誠にして動かざるものは、未だこれ有らざるなり」(『孟子』)を行動指針として、朝鮮に善かれとの思い出で朝鮮統治に臨んだ。
 だが。伊藤が目指した「誠を尽くす(至誠)」は、朝鮮の「恨」と「怨」で潰された。
 しょせん、日本の「相手に善かれ」という思いは朝鮮には通じなかった。
 伊藤博文統監は、韓国の近代化と韓国人の生活水準を向上の為に、西洋の植民地政策とは違う手法で巨額の資金(血税)を惜しげもなく投じていた。
 日本国内は、依然として悲惨な状況で、貧しい国民は塗炭の苦しに喘いでいた。
 伊藤博文の理想は、近代化の為に一時期保護国とするが、近代化がなった暁は独立国として対等な関係での同盟を結ぶ事であった。
 韓国を近代国家にするべく腐心していた。
 一部の過激な義兵(抗日武力勢力)は、日本の植民地支配に激しく抵抗していた。
 ロベルト・ウェーバー神父(ドイツ。聖オティリエン・ベネディクト修道会総長)「その蜂起は日本人を撃つという名分を掲げていたが、実際には盗賊の性格を帯びた集団が彼方此方に出没した。もちろん当初は、義兵集団として出発した。だが、指導者の数が次第に減り、日本人をコテンパンに懲らしめるという旗印のその集団に無秩序が蔓延り始めた。……ひもじさが彼らをとんでもない方向に導いていったのである。そうして遂には、日本人を悩まそうとしていた彼らの同胞達を略奪する身の上に落ちぶれていったのだ」
 幾つかの義兵は、抗日活動資金獲得の名目で民家に押し入り金品や食糧を略奪し、止めようとした家人を親日派と決め付けて制裁を加えていた。
 アメリカやイギリスは、日本に対して、ロシア帝国の侵略から東アジアの権益を守る為にも朝鮮の併合を勧めた。
 伊藤博文は、朝鮮に幾度も裏切られ煮え湯を飲まされても、保護国化して一時的に統治すれば十分で、無理して朝鮮を合邦するべきではないと反対した。
 日本が韓国の成長を手助けした後に、韓国人自ら自立した独立国家をつくれば良いと考えていた。
 伊藤博文「私は、朝鮮を植民地にする気は全然ない」
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 安重根は、黄海道道都・海州の裕福な両班の順興安一族の長男として生まれた。
 生誕である黄海道は、韓国ではなく北朝鮮の地にある。
 父親の安泰勲は、科挙に合格して進士の称号を得てたが、地方の両班(觶班、士班)と差別されて希望した官職には付けなかった。
 各種の差別で硬直した朝鮮を改革するべく親日的な開化派(独立党)に傾倒し、日本留学を希望していた。
 甲申政変の失敗で開化派は弾圧されたが、安泰勲は正式な独立党員ではなかった為に罪に問われずに助かった。
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 朝鮮は密使外交を行い、大国を嗾けて日本を滅ぼそうと陰謀をめぐらせていた。
 日本は、自国の安全の為に、朝鮮を合邦して取り込み消滅させる必要があった。
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 夏目漱石は、満州と朝鮮を旅行して「日本人に生まれて、まあ良かった」と発言した。
 夏目漱石は、公費でイギリスに留学して西洋文明を肌身で接し、帰国後は、西洋文学にかぶれる事なく独自の文体で日本文明を小説で表現した。
 多くの明治の文豪達は、文明開化として古い日本を捨て、西洋文明を日本に根付かせる為に小説や随筆等を発表し啓蒙活動を行っていた。
 日本の近代化は、文学から始まった。
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 1909年 日本政府は、欧米中心の国際関係を重視して、国内での独立運動を禁止するべくベトナムなどからの留学生を全て国外追放した。アジア諸民族は、欧米追随の日本の裏切りで独立運動が潰された。
 伊藤博文統監は、日本の民間銀行が他国の中央銀行券業務を取り仕切る事は金融支配であるとの批判を受け、大韓帝国の自主権を尊重して第一銀行券を朝鮮銀行発行の銀行券に切り替えた。
 3月4日 対日強硬派のタフトが、新たなアメリカ大統領に就任するや、満州に進出するべくロシア帝国との提携を模索し始めた。
 3月30日 小村寿太郎外相は、伊藤総監の韓国保護政策は日本の財政を圧迫し、韓国人に受け入れられている所か逆効果であるとして、桂太郎首相に「対韓大方針」と「対韓施設大綱」を提出した。
 桂首相も、日本の国防の為には韓国を適当な時期に併合した方がよいと考えいたが、問題は併合に慎重な伊藤博文総監をどう説得するかであった。
 4月10日 桂太郎総理と小村寿太郎外相は、上京し赤坂の官邸に滞在中の伊藤博文統監を訪れ、朝鮮問題解決の密議を凝らし「併合のやむなし」の説得を行った。
 伊藤博文は、4年間にわたる保護国化政策が、韓国人の激しい抗日運動には阻まれている事に心身共に疲労し、日本の安全保障の為に保護国化する統監支配の失敗を認めて併合に同意した。
 伊藤博文は、満州開発の為に英米資本を導入する様に力説した。英米資本とは、ユダヤ人の事である。
 ロシア帝国は、太平洋への道を切り開く為に、日米関係を悪化させる必要があった。
 5月21日 伊藤博文は、韓国近代化への失敗で挫折を感じて桂太郎首相に韓国統監の職を辞する意向を伝えた。
 6月14日 伊藤博文は、韓国への思い入れが強かったぶん失意の打ちひしがれ正式に韓国統監を辞任した。
 義兵の救国の抗日武装闘争は、韓国の日本的近代化を目指していた伊藤博文を韓国から追い出す事に成功した。
イギリスのクロード・マクドナルド駐日大使ら欧米列強は、伊藤博文が推し進めていた新しい植民地政策の斬新な試みとして高く評価していただけに、「両国にとって大きな損失」と残念がった。
 第二代統監に、副統監の曾禰荒助が昇格した。
 7月6日 日本政府は、併合に消極的な伊藤博文がいなくなった事で、韓国併合閣議決定した。
 9月4日 日本は、アメリカ資本の攻勢から満州権益を守るべく、清国の圧力をかけて間島い関する協約と満州5案件に関する協約を一括して日清協約を結んだ。
 見返りに、間島地方4箇所に領事館を設置する権利と鉄道の敷設権を得た。
 日本軍は、清国側の要求に従って撤退した。
 清国は、自国領とあった間島の朝鮮人を差別し、盗賊紛いの義兵を討伐した。
 ロシア帝国は、日本が軍事強化して北満州沿海州を奪いに来ると警戒し、アジアの勢力圏を確保する為にアメリカとの協定交渉に乗り出した。
 ロシア軍情報部の報告「日本が、ロシアの報復戦に備えて新たな戦争準備をしている。日本軍は、朝鮮半島を拠点に鉄道線や軍需倉庫、兵舎を建設している」
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 安重根は、反日独立運動家ではなく、日本との提携を望んだ知日派活動家であった。
 だが、国家要人を暗殺した犯罪者である。
 韓国や中国共産党政府は、他国の要人を殺害する事を英雄行為として容認している。
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 10月14日 伊藤博文は、最後の御奉公として、ウラジーミル・ココツェフ蔵相とハルビンで会談する為に大磯駅で列車に乗った。
 伊藤博文は、最後の最後まで日本の安全を第一に考えて行動した政治家あり、諸外国もその忠君愛国の気高さを認めていた。
 10月19日 伊藤博文は、大連に到着して地元の官民連合歓迎会に出席し、東アジアの平和と地域諸国間の協調が日本の発展には不可欠であるとの演説を行った。
 「日本は、清国を援助すべし」
 「日本とロシアの利益は衝突しない」
 「満州の平和的な発展を期する」
 10月20日 伊藤博文は、旅順の官民連合歓迎会でも、戦争ではなく和解による平和と尊厳をもたらす人道こそが重要であるとの演説を行った。
 「戦闘は国家にとって非常に不利益であり、人道の為にも好ましくない」
 「平和と人道の二大理想に国家の経綸を怠らず、新日本の建設を目指そう」
 伊藤博文は、世界から勝てないと言われた日清戦争日露戦争を指揮して辛勝をもたらした政治家として、数十万人の日本人兵士はもちろん清国人兵士やロシア人兵士が戦死した大地に立ち、その戦跡に巡る事で、改めて平和の尊さと人命の貴さを痛切に感じて、歓迎会に集まった人々に平和の重要さ語りかけた。
 聴衆で、伊藤の演説に万雷の拍手を万雷の拍手で答えた。
 諸外国の外交官も、伊藤博文の人を思う心に感銘を受けた。
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 10月26日 伊藤博文暗殺。伊藤博文は、アメリカとロシア帝国の接近は日本の脅威になると判断して、両国の提携を食い止め、ロシア帝国を日本側につなぎ止めるための交渉を行うために北満州に向かった。
 両班出身の安重根キリスト教徒)は、伊藤博文小作人出身・束荷神社)をロシア軍占領下のハルピン駅で暗殺した。
 安重根を支えたのは、フランス人神父ヴィレヘムであった。
 伊藤暗殺は、アメリカのユダヤ系国際金融資本という噂が流れた。
 伊藤博文「日本は韓国を合併するの必要なし、合併は甚だ厄介なり、韓国は自治を要す」
 伊藤博文は、韓国人の自発的意思を尊重し、韓国人による内閣を組閣して自治与え、その上に日本人の総督を置く構想を持っていた。
 山県有朋らは、対ソ戦略から強権的統治が必要で在り、伊藤博文の一定の自治権を与える宥和構想には反対であった。
 安重根「日本は東洋の攪乱者なり、……伊藤公は韓国に対し逆賊」
 ロシア当局は、伊藤暗殺テロに関わった容疑者として安重根を初めとする計16名を逮捕して日本側に引き渡した。
 大韓帝国は、明治38年に制定された第2次日韓協約に基づき、暗殺テロリスト安重根らの身柄を日本側に渡す事を認めた。
 安重根らは、護送される際、正規な高級軍人としての待遇を要求して口汚く日本側官憲に食ってかかっていた。
 国際法は、如何なる正当な理由があろうとも政府高官への暗殺テロは認めてはいない。
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 安重根は、反日過激派組織・連合大韓義軍の参謀中将の肩書きを主張したが、国際法で承認された組織ではな為に、何処の国も正式に承認はしていなかった。
 法律重視の国際常識からして、連合大韓義軍は国際社会が認めない非合法の武装した秘密犯罪集団であり、安重根は卑劣な凶悪テロリストであった。
 国際法において、武器を持たない一国の文民高官を暗殺するテロ行為は許されざる重犯罪であった。
 若し、捕虜と扱って欲しければ、軍服を着ているか、私服であれば徽章を付けている必要があった。
 安重根は、国際法に於いても、如何なる国の国内法に於いても、重罪を犯したテロリストに過ぎない。
 三浦了覚「世人或いは伊藤公を狙撃せる安重根を……以て志士仁人とするものあるは是れ容易ならざる誤謬(ごびゅう)なり。若し是等の人物を以て志士仁人なりと誤解する時は帝国の将来に向かって実に恐懼(きょうく)の至りに堪へざるなり」(『禅と武士道』大正4年)
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 斉藤充功「韓国人の安重根像は誤りだ」
 「安重根は伊藤を排除すれば、東洋平和が復活すると思い込んでいたようです。しかし、安の『東洋平和論』という思想は、東洋から西洋勢力を排除する事で真の東洋平和が到来し、その為には韓国、中国、日本の3国が手を結ぶべきとするものでした。そもそも反日思想のようなものはもっておらず、安の書き残したものを読むと、日本の皇室に対して尊敬の念を抱いていたと思われます。一方の伊藤博文も日清韓の連帯で西欧列強の侵略を防止するという思想を持っていた。実は二人は非常に近い考え方をしていたのです」
 「安は逮捕され、検察官の訊問を受けたとき、『これで日本の協力のもとで韓国は独立できる』よ供述しています。その後、旅順監獄に収監されてから、自分の考えが甘く、時代認識に欠けていたことを反省している。しかし、明治天皇は東洋の平和と韓国の独立を願っていると最後まで信じ続けていた」
 「もし安重根が生きていたら、中韓両国が連携して自分を反日の道具にしようとしていることに対して不本意だと考えたでしょう」(『伊藤博文を撃った男』)
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 安重根は、反日テロリストではなく、大久保利通暗殺犯や大隈重信暗殺未遂犯と同様に、アジアの平和の為に日韓両国の連帯を望んだ国士であった。
 日本人で、安重根を悪く言う者は少ないばかりか、その人柄に惹かれて遺体を丁重に埋葬して弔う者が多かった。
 日本の宗教観で、儒教に支配された韓国・朝鮮や中国の様に死者を鞭で打つ様な事はしない。それが、どんな犯罪を犯した敵・罪人であっても。
 死者の名誉を傷付け魂の尊厳を踏みにじる様な「罰当たりな」行為をする日本人は、神道的な大和心・大和魂・日本精神を持った真の日本人ではない。
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 伊藤博文と接した欧米列強や清国の指導者や賢人の多くが、伊藤の死を嘆き悲しんだ。
 何れの国も、国家的指導者を暗殺するテロ行為を許すつもりはなかった。
 伊藤博文の死を喜んだ者は、世界広といえども朝鮮人だけであった。
 韓国太皇帝(太上皇)高宗は、併合を食い止めてくれていた伊藤博文が暗殺さてた事に驚き、その卓越した政治手腕が朝鮮の発展と東洋の平和に多大なる貢献した事を思い、世界的な政治家の死に謹んで哀悼の意を表した。
 そして、その暗殺テロリストが没落両班安重根であった事に怒りを感じ、旧臣下の、世界情勢を正しく理解せず物事の分別ができない愚かさと、後先を考えない短絡的な思慮浅い蛮行を恥そして嘆いた。
 高宗「伊藤を失った事で、東洋人の人傑を失った。我が国
伊藤は忠実正義をもって臨み、骨を長白山に埋めて、韓国の文明発展に尽くすと揚言していた。日本に政治家多しといえども、伊藤のように世界の大勢をみて、東洋の平和を念じた者はいない。実に伊藤は、我が国の慈父である。その慈父に危害を加えるような国民があるとすれば、物事の理非を解さないこと甚だしく、おそらく伊藤の真意を解さない、海外流浪者である」
 エルヴィン・フォン・ベルツ(ドイツ人医師)「韓国人が公を暗殺した事は、特に悲しむべき事である。何故かといえば、公は韓国人の最も良き友であった。日露戦争後、日本が強硬の態度を以て韓国に臨むや、意外に反攻に逢った。陰謀や日本居留民の殺傷が相次いで起こった。その時、武断派及び言論機関は、高圧手段に訴うべしと絶叫したが、公ひとり穏健方針を固持して動かなかった。当時、韓国は徹頭徹尾、腐敗していた。公は時宜に適し、かつ正しい改革によって、韓国人をして日本統治下にある事がかえって幸福である事を悟らせようとし、60歳を超えた高齢で統監という多難の職を引き受けたのである」
 世界の指導者の多くが、高宗と同じ感想を持ち、安重根の暗殺テロを絶賛した者は一人もいない。
 世界の法律家は、主権国家・日本が行った安重根の裁判と処刑は合法であると認めた。
 如何なるテロも認めず、如何なるテロリストも許さないのが、世界常識である。
 2014年1月28日 中央日報 宋虎根ウル大教授「コラム・安重根義士がテロリスト? 安義士はテロリストでありせけい判決を受けた? 誰がどんな論理で判決したのか。安義士が伊藤を狙撃したハルビン駅は中国領土だが、ロシア所轄区域だった。そこで韓国軍参謀長が日本軍首脳を殺害した。銃声は東アジアの複合交響詩だった。日本は安義士を旅順に急いで連行し、日本の刑法を適用した。国際法上、違法だった」
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 朝鮮各地で、伊藤博文の死を悼む追悼集会が開かれた。
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 伊藤博文狙撃に使用されたのはロシア軍騎兵銃とされ、安重根の持っていた拳銃ではなかった。
 伊藤博文を暗殺したのは、安重根ではない。
 伊藤博文に命中した弾丸は三発で、致命傷は斜め上部から撃ち込められたフランス騎兵銃の3発目が致命傷であった。
 同時に、5人の日本人随行員が13発の銃弾を受けて重傷となった。
 現場は、銃乱射の修羅場と化していた。
 安重根は、ブローニング拳銃から6発を撃っていた。
 伊藤博文は、安重根のテロで暗殺されたわけではない。
 安重根単独犯説はなく複数犯とされているが、真犯人は不明である。
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 ハルピンは、清国領であったが、韓国人の治外法権を認めていた為に干渉できなかった。
 ハルピン駅は、ロシア東清鉄道の付属地であったが、ロシアには韓国人を裁く権限はなかった。。
 安重根韓国籍であった為に、領事裁判権として大韓帝国に裁く権利があった。
 日本は、第二次日韓協定を理由に裁判権を主張した。
 大韓帝国は、身柄を日本に引き渡せば死刑になる事が分かっていたが、清国とロシア帝国に勝った日本との戦争を避ける為に、安重根の裁判を日本に任せた。
 日本は、明らかに複数犯行であるにもかかわず、安重根の単独犯罪とし処理してそれ以上の追求を止めた。
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 安重根「吾の罪は弱い韓国の民たるが罪なり」
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 後年。マッカーサーは、伊藤博文暗殺について再調査を命じたが、体内にあった弾丸2発がフランス騎兵隊の銃であり、それぞれ別々の方向から撃ち込まれたとの報告を受けるや、再調査の中止を命じた。
 若し真実が明らかになると、新たにテロ実行犯を探さねばならなくなる可能性があったから。
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 11月 韓国政府は、「日本との『対等に』合邦して新たな帝国を築く」と声明を発表した。
 11月4日 伊藤博文国葬は、日比谷公園を臨時の斎場として厳かに執り行われた。
 棺が通過した、霊南坂官邸から日比谷公園までの沿道には人で溢れ、伊藤博文が如何に国民の間で人気が高かったかを証明した。
 国民は、下級民(小作人の子)から出世した伊藤博文の死を悼み朝鮮人を憎んだ。
 葬儀費用は、国庫から4万5,000円(現在のレートで約5,000万円)を支出された。 
 伊藤梅子(元芸者)「国のため 光をそえて ゆきましし君とし思へど かなしかりけり」 
 諸外国は、如何なる理由があれ、国家元首及び政府高官の暗殺テロ及び暗殺テロ未遂は断固容認しないとして、東京に駐在させている大使館・公使館から代表者を出席させた。
 何時の時代でも、如何なる国においても、暗殺テロは認められていない。
 韓国皇帝・高宗は、伊藤博文の死を悼み、暗殺テロリストを出した事を深く恥、勅使を使わして追悼の意を表した。
 韓国政府も、政府要人を派遣して国葬に参加させ、漢城李完用首相主宰の追悼式を行った。
 官民合わせて1万人以上が列席し、伊藤博文の遺徳を偲んだ。
 韓国のカトリック教会は、軍人ではない文民政治家を暗殺するテロ行為を「大罪を犯した」と厳しく非難した。
 キリスト教の教義は、暴君が信仰を打ち砕く為に弾圧や圧政を行っても抵抗せず耐える事を説くが、暗殺テロや暴動を絶対に容認していなかった。
 キリスト教徒の抵抗とは、絶対神への信仰を守る為に命を投げ出して「殉教」する事であって、武器を持って異教徒の敵を殺す事ではなかった。
 日本皇室とローマ教皇庁は、友好関係にあった。
 漢城市は、市内での歌舞音曲や朝市を自粛した。
 伊藤博文暗殺テロは、一部の独立派朝鮮人は悦んだが、多くの韓国国民は悲しんだ。
 良識ある者は、韓国の主権を擁護してくれていた伊藤博文が暗殺された事で、日本の対韓政策が強硬に変更される事を危惧した。
 安定根(アンチョングン)「私の知る兄は、金儲けばかり考える人でした」「今回の事件は、韓国に功労のあった伊藤博文公爵を殺害したもので、大いなる過ちであると思います。伊藤公爵は日本の勢力を背景に、国民に無理強いをした面はありますが、私共は服従するしかありません。しかし、諸事を改正して学校を次々に開設するなど、韓国の為に功績があった事も事実です」
 安恭根(アンコングン)「(兄の犯罪は)最も大きな過ちであります」
 如何なる国も、朝鮮正統政府軍及び日本軍と戦う「義兵」を単ある武装集団として正規の軍隊とは認めず、「国際法上の交戦団体」として承認しなかった。
 ハーグ陸戦法規において。安重根は、正規の軍籍を証明する徽章を身に付けず、武器を隠匿して接近し文民伊藤博文を殺害したテロリストであり、僭称する「参謀中将」は認められず捕虜として取り扱う必要はないとされた。
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 日本側は、国際的関心の高い暗殺テロ事件である為に、後に日本批判の材料にされないように過剰なほどの厚遇を与え、自白を強要するような拷問などは一切行わなかった。
 外圧に弱い日本は、外国の批判を神経質なまでに警戒して国際法を遵守していた。
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 12月 李在明は、合併に反対する李完用総理大臣を襲撃して重傷を負わせた。
 李完用は、乱暴狼藉を厭わない一進会に政権を渡す事は亡国であるとして合併に反対していた。
 韓国総監の曾禰荒助も、大韓帝国の混乱の元凶が一進会(会員数100万人)を解散させなければ半島の安定が回復できないと訴えた。
 桂太郎首相は、日本陸軍から機密費を貰って活動している一進会の解散には反対すると返答した。
 内田良平国粋主義者は、白人のアジア支配からの解放と独立を掲げて、併合に反対していた。
 12月22日 反日朝鮮人テロリストは、親日派李完用首相を襲って重傷を負わせた。愛国者テロリストは、親日派を国を売る裏切り者として付け狙っていた。
 日本人や中国人の支援を受け、日本・朝鮮・中国などの東アジア全域で、天皇や皇族、政府要人や軍部首脳を暗殺するべく行動した。
 日本の警察当局と憲兵隊は、天皇制度打倒の共産主義者朝鮮人テロリストを弾圧するべく監視を強化し、逮捕者を半殺しにする様な拷問にかけて自白を強要して反社会的組織の壊滅を図った。
 臣民として国家元首昭和天皇を守ろうとした日本人の行為も、軍国日本の植民地支配による非人道的犯罪行為とされた。
 12月24日 日本の検察官溝淵孝雄は、尋問の結果、ハルビンから連行した9名中4名を釈放し、安重根ら5名を被疑者として残して更なる調査をおこなった。
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 新渡戸稲造「山野は実に墳墓に充ち、予の今過ぎる所の路傍にも土饅頭を列ねて、また、やがて埋葬されるべき棺を列ぬ。/(朝鮮衰亡の原因は)その国の気候に非ず。また、その土壌に非ず。かく死と密接なる国民は自ら既に半ば死せるものなり」(『枯死国朝鮮』)
「伊藤は、『植民地にする気はない』といって朝鮮人による朝鮮の統治を淡々と説いた」(『偉人群像』、実業之日本社、1931年)
 伊藤博文「君、朝鮮人とは偉いよ。この国の歴史を見ても、その進歩した事は、日本より遙か以上であった時代もある。この民族にしてこれしきの国を自ら経営できない理由はない。才能においては決してお互いに劣る事はないのだ」
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 2018年8月14日 産経ニュース「【歴史戦】南北で安重根遺骨発掘へ 韓国の文在寅大統領が表明 埋葬されたとされる中国に協力要請も
 安重根義士記念館の「参拝ホール」に鎮座する安重根像=2014年6月、ソウル(阿比留瑠比撮影)
 韓国の文在寅大統領は14日、初代韓国統監の伊藤博文を暗殺し死刑になった安重根の遺骨発掘作業を、北朝鮮と協力して進める考えを明らかにした。日本の植民地支配からの解放を祝う15日の光復節を前に、朝鮮の独立運動家の遺族らを招いた昼食会で述べた。
 1909年10月に事件を起こした安重根は翌年、中国大連市旅順口で処刑され同地で埋葬されたとされるが、遺骨は見つかっていない。発掘作業実現に向け、今後は中国側に協力を要請することも考えられる。
 文氏は「今まで遺骨が発見できず、『解放後、故国で弔ってほしい』という遺言を守れないでいる」と説明した。(共同)」
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