☱21〕─1─関東大震災。上海のキリスト教系朝鮮人テロリストは、皇族を暗殺するべく大震災後の東京に潜入した。大正12年9月~No.43No.44No.45 @ 

関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実

関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 災害が起きると恐怖でパニックを起こして暴動と略奪、殺人と強姦を起こしたのは、日本民族日本人ではなく朝鮮人と中国人であった。
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 歴史的事実として、日本民族日本人は、自然災害が発生すれば助け合い庇い合い慰め合ったが、相手の弱みにつけ込んで暴動・強奪・殺人・強姦を行った事がない。
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 日本民族日本人は、厳しい気候風土と尽きる事のない自然災害から、建て前では神や仏を畏怖して敬虔な祈りを捧げたが、本音では神の奇跡を信用しないし仏の慈悲も期待していなかった。
 幾ら神や仏を信仰したところで、全てを奪い尽くす天災は減らないし、天災で奪われた命は戻ってこないからである。
 日本民族日本人の信仰とは、ただただ、心・魂による「絆」を持って静寂の内でひっそりと「偲ぶ」ことである。
 そして、威勢良く心の底から祈りとしての「言霊」を絞り出して張り上げ、熱気を振りまきながら騒々しく信仰としての祭りを行った。
 仏教は、信心が弱く、猜疑心が強い日本民族日本人をつなぎ止める為に、如何なる宗教でも忌避してきた怒りや苦悩や悲哀などの表情を、慈悲深さを表現する仏像にとり得た。
 空海「慈悲のみでは届かぬ事がある」
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 日本人にとって、朝鮮人は理解できない。
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 韓国の権威ある歴史学界は、日本の対して、関東大震災で多くの朝鮮人が殺害された事は事実である以上、名称を「関東大虐殺」に変更するように要請している。
 韓国側の主張に同調する反日派日本人のグループが、日本国内に存在する。
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 朝鮮日報は、関東大震災から90年を記念して、朝鮮人が日本人によって大量に虐殺された事を忘れないようにする為に「関東大虐殺」との特集を組み、「ユダヤ人虐殺、南京虐殺に次ぐ大量虐殺だった」と報じた。
 そして、新たに判明した犠牲者数を2万3,058人と発表した。
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 朴春琴(パクチュングム)は、親日派在日朝鮮人を集めて相愛会を組織し、日本人と一緒に震災後の片づけを行った。
 日本人は、被災地での朴春琴の行動で彼を信用した。
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 2013年11月20日 中央日報は、韓国政府が「日本震災(関東大震災)時被殺者名簿」を公開したと報じた。
 「関東大震災当時の韓国人犠牲者は少なくとも6,000人、ドイツ外務省の資料では約2万人となっている。……朴景国国家記録院長『名簿の犠牲者の数が多くないのは、国内に縁故がいる犠牲者達を調べた為と認められる』と説明した。……日帝独占期間の被害補償問題も追加で提起される」
 与野党の国会議員103人は、翌14年4月に「関東大震災朝鮮人虐殺事件真相糾明及び犠牲者名誉回復に関する特別法」を発議した。
 翌5月26日に国会内で、「1923年の関東大震災における朝鮮人虐殺の真相究明と名誉回復に関する特別法の制定を目指す推進委員会」が発足した。
 同委員会は、「韓国政府が公式に真相を糾明するときまで、日本の国家的責任を要求するときまで、その歩みは決して止めてはならない」と宣言し、特別法制定を促した。
 民間の市民団体は、日本に対して朝鮮人虐殺に関する謝罪と賠償を要求する運動を開始した。
 韓国の日本に対する謝罪と賠償の要求には、時間的制約はなく1000年前の歴史的事件までも持ち出す。
 つまり、日本が存在する限り終わる事はない。
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関東大震災 
 9月1日午前11時58分 マグニチュード7.9の大激震が関東地方を襲い、関東南部で大火災が発生して地獄と化した。
 数日間、大きな余震が断続的に起き、この世の終わりになると被災民は恐怖におののいた。
 家族や友人を失い家財道具を一瞬にして焼失した被災民は、平静を装いながらも心中ではパニック状態にあった為に、他人を平気で見下す特権意識の強い朝鮮人への恐怖心から、不逞朝鮮人の動向を警戒した。
 正確な情報が途絶えた為に被災地は大混乱に陥り、不逞朝鮮人が「井戸に毒を投げ入れた」或いは「暴動を起こして略奪や暴行をしている」という流言飛語が、至る所に黒こげの死体がまだ残る焼け野原となった首都圏を駆け巡った。
 東京(総人口約450万人)の被害は、死者・行方不明者10万人以上、被災者90万人以上。
 東京・横浜などの関東南部での被害は、死者・行方不明者14万人以上、被災者340万人以上。
 横浜刑務所に収監されていた囚人達は、解き放たれた。
 午後3時 川崎署と神田外神田署に、朝鮮人暴動の情報が飛び込んできた。
 午後4時 デマ、王子署。
 立憲労働党の山口正憲は、避難民約1万人を集めて大会を開き、「鮮人が夜間内地人を襲撃して危害を加えうるの説あるを以てお互いに警戒せざるべからざる」と扇動した。
 山口は、党員による横浜震災救護団を組織し、横浜正金銀行を襲撃したり被災者の家で略奪したり、幾つかの強盗事件を起こしていた。
 日本人が、助け合って、盗みや暴動を起こさなかったというのは、嘘である。
 午後4時半頃。政府は、初期の混乱から立ち直り、治安維持と被災者救済の為に戒厳令を施行する事を決定し、軍部に対して出兵要請を行った。震災の大混乱を鎮め、共産主義勢力による天皇打倒の暴力革命を防止する為に、緊急時として戒厳令を発令した。
 待ったなしの緊急事態であった為に、通常の国会審議を経ず、政府は国会を無視して独断で決済した。平時では違法であったが、緊急勅令をもって国難にあたった。
 第123代大正天皇も、摂政宮裕仁皇太子も、政府と軍部に全幅の信頼を寄せて憲法の拡大解釈と強権的処理を許した。
 軍部は、政府の出動要請を受け、「治安と救済」の名目で関東近辺の連隊に対して部隊を震災地に投入する様に命じた。
 当時の日本人にとって、誰も経験した事のない大惨事であった。
 もし対応を誤れば、ロシア帝国ドイツ帝国の様に日本が消滅する危険があった。
 政治家や軍人であれば、くだらない言い訳をせず、自己責任で最善と思う手段を自己判断し、暗中模索ながらも情勢を分析して自力で行動した。
 関東大震災の対応は迅速であったが、淡路・神戸大地震での政府と地方自治体の対応は鈍く無駄に6,000人以上の犠牲者を出した。現代日本人は、口で言うほど、昔の日本人ほどの危機感もなければ、情報分析能力も、決断力も、実行力もない。
 つまり、責任能力がなく、終始狼狽して右往左往し、事態の変化に対応できず場当たり的な対策しか取れない。
 現代日本は、戒厳令施行が朝鮮人大虐殺を誘発したとして、天皇と国家の犯罪を告発している。
 朝鮮人テロリストと共産主義者日本人は、日本転覆の好機と捉え行動を起こした。
 朝鮮人テロリストは、越中島の糧秣廠を爆破して、逃げ場をなくした被災民3,000人を焼き殺した。被災民や在郷軍人は、爆弾を投げ込んだ不逞朝鮮人を捕らえ、殴る蹴るのリンチを行って犯行を自白させた。
 「暴風雨襲来すべければその機に乗じて一旗挙げる陰謀を廻らし、機の到来を待ち構えていた折柄大震災あり、これで御大典もどうなる事かこの地震こそは好機、逸すべからずとなし此所に決行したのである」(河北新報 大正12年9月6日)
 午後6時 デマ、芝愛宕署。
 本所中ノ郷付近。朝鮮人が、日本人被災者から衣服道具を略奪して逃走中している処をを逮捕された。
 午後8時 デマ、横浜寿署。
 日本人の朝鮮人への恐怖心が悪意のデマを増産し、逃げ惑て思考力を失った日本人被災者を追い詰めた。
 日本中の新聞が被災地での朝鮮人による犯罪行為を報じ、日本人は朝鮮人ならやりかねないと信じた。
 午後11時 朝鮮人姜金山ら30名の盗賊団が、本所柳島元町呉服商仲里奥三方に押し入り、店員に暴行して呉服類を強奪した。
 本所柳島電車終点で。朝鮮人金孫順が、通行中の婦人に暴行してバスケットを強奪した。
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 「伊豆大島の沈没と島民全員の溺死」「宮城炎上」「山本権兵衛首相の暗殺」数多くのデマが被災地を駆け巡り、その中に「朝鮮人が井戸に毒を入れて日本人を殺そうとした」「朝鮮人社会主義者が気脈を通じて東京を全滅させようとしている」「不逞朝鮮人が略奪、強姦、殺戮を行っている」というデマがあった。
 日本人は、朝鮮人を「人の弱みに付け込んで悪逆非道な犯罪を行う危険がある」と恐怖していた。
 事実。人数は少なかったが、被災地でそうした行為を行った朝鮮人がいた事は事実である。
 好例を挙げれば、東日本大震災の被災地での日本人とセウォル号沈没事故の現場での韓国人の違いである。
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 焼死・水死した10万人以上の犠牲者の処理が進まず、時間と共に腐乱が進んでいた。
 命辛々生き残った100万人近い被災者達は、食べ物と水を求めて焼け野原を彷徨い、糞便を催せば公衆トイレも臨時トイレもないために、人が見てても構わずしゃがんで垂れ流していた。
 被災地は、腐乱死体と糞尿からの悪臭が立ちこめ衛生状態が急速に悪化して、伝染病が大流行した。
 細菌兵器で使用される病原菌である腸チフス赤痢ジフテリア天然痘などによって、1万4,000人が発病し、2,000人以上が死亡した。
 軍部は、これら毒性の強い細菌・ウイルスに関する研究を極秘で開始した。
 政府と軍部は、優先順位を決め、第一に生き残った生存者の保護と救済、第二に治安維持、第三に遺体処理と決めた。
 遺体処理にあたっては、遺族の気持ちを完全無視して身元を確認せず処理した。
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 宮城(皇居)前広場には、30万人以上の人々が火災から避難してごった返していた。
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 旧陸軍被服廠跡で、約5万8,000人があっという間の火焔風・火流・火柱で死んだ。
 都新聞「東京災難晝信」「7,被服廠跡 災害の翌日に見た被服廠は実に死体の海だった。戦争の為に戦場で死んだ人達は、おそらくこれ程悲惨ではあるまい。ついさっきまで生活していた者が、何の為でもなく、死ぬ謂われもなく死んでゆくのだ。死にたくない、どうかして生きたいと、もがき苦しんだ形がそのままに、苦患の波が、ひしめき重なっている」
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 首都・東京は生き地獄と化していた。
 死を目の前にした人々は、自分一人が生き残りたいという自己保存本能で、助け合うどころか、邪魔になる相手は押し分け押しのけて逃げた。
 半狂乱の頭をよぎったのが、在日朝鮮人は何をするか分からないという恐怖であった。
 その在日朝鮮人への恐怖心は冷静さを取り戻すまで続き、その恐怖心理で在日朝鮮人虐殺という悲劇が起きた。
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 9月2日 内幸町、千住、越中島など数カ所で火災が発生し、徒党組んだ火事場泥棒が被災地を荒らし回っていた。
 警察や自警団は、火事場泥棒の一団と乱闘の末に逮捕したが、その多くが朝鮮人や中国人で、日本人はごく少数であった。
 政府は、震災被災者はもちろん全日本人の自由な行動を制限するべく、正式に戒厳令を施行した。
 山川出版社「震災の大混乱のなかでさまざまな流言蜚語が乱れ飛び、戒厳令がしかれて、社会不安はいやがうえにも高まった」(『詳説 日本史研究』P.413)
 警察当局は、暴力的共産主義革命を防止する為に全国で思想弾圧を実施した。上京しようとした共産主義者無政府主義者などの左翼・左派活動家らを、各地で列車に乗り込む前に逮捕した。同様に、社会主義者キリスト教徒らの反天皇活動をも厳しく監視した。震災の混乱が収拾され治安が回復してから、拘置していたマルクス主義活動家らを釈放した。
 陸軍は、社会不安を鎮静化させ帝都防衛の為に、関東近辺の師団に対して部隊を震災地各所に配置するように命じた。
 海軍も、軍艦を東京港に入れて被災者の救護にあたった。
 東京や横浜などに碇泊していたアメリカやイギリスなどの船舶や軍艦も、日本政府からの正式要請はなかったが、自主的に被災者の保護に協力した。
 アンドレー・ヴィオリ「あるイギリス巡洋艦は、海岸に救助艇を何隻か送った。これは注目すべきことだが、勇敢さをもって基本的な美徳と考えている男子達が、子供達を払いのけ婦人を押しのけてボートに真っ先に乗り込もうとした。これにむかついた水兵達が彼等をオールで押し戻し、彼等が侮辱している婦女子の仲間の方を引き上げ救い出した時、彼等は本心から憤慨し驚いていた。自分達の婦女子とは比べ物にならぬくらい貴重な生命を祖国の為にとっておく事は、愛国的義務ではないか、と言うわけである」(『内側から見た日本』)
 この頃から、朝鮮人が被災地で日本人被災民を襲撃しているという目撃談が、被災民の間に流れ始めた。事実、震災前から不逞朝鮮人による凶悪犯罪が頻発しており、震災後はさらに犯人不明での略奪や放火や暴行といった被災者・弱者を狙った犯罪事件が多発していた。
 混乱した一部の警察官は、不逞朝鮮人の殺害を容認する様な発言を行った。
 新聞各社も、連日、朝鮮人が暴行、強姦、放火、略奪を繰り返しているとの目撃談を事細かに報じ、被災者に対して不逞朝鮮人の襲撃に備える様に警告を発していた。
 内務省警保局は、不逞朝鮮人による放火や略奪の情報を全国に伝達し、反日暴動に警戒する様に注意を呼びかけた。
 命辛々生き残った日本人被災者達は、政府に命じられたわけでもなく、自発的に日本的な隣保扶助精神で自警団を組織した。1日夜から4日までの間に、被災地で3,689ヵ所に自警団が誕生した。
 極限状態に置かれた自警団と青年団は、流言飛語に過敏反応を起こし、恐怖心から挙動不審の朝鮮人を虐殺した。
 山川出版社「事件の核心ともいうべき流言の出所についても、自然に発生したとする説、日本の治安当局が意図的に流したとする説、右翼の一派が流したとする説などがある」(『詳説 日本史研究』P.413)
 大災害が発生するや、暴動と略奪で治安が悪化する事は、世界常識である。日本も例外ではなかった。事実、震災地では犯罪者が横行して治安が急速に悪化し、秩序が崩壊し始めた。そして、震災地・東京で数多くのデマが流れた。
 マルクス主義者日本人が、「国家を転覆させる為に山本権兵衛首相ら政府首脳を殺害した」とか、「共産主義革命を起こして天皇や皇族を虐殺した」とか、忠良な臣民であれば卒倒する様な噂もあった。
 朝鮮人が「井戸に毒を投げ入れた」とか、「朝鮮人が暴動を起こし、略奪し,放火している」などの流言が広がった。
 気弱な日本人にとって、朝鮮人の民族的精神疾患である「火病ファビョン)」による自分勝手の異常行動は理解できないどころか、近寄りがたい恐怖心を抱いた。さらに、民族独立の為ならば、裕仁皇太子暗殺などのテロ行為を当然の権利として繰り返す不逞朝鮮人は、何をするか分からない得体の知れない不気味な存在であった。
 日本人被災民は、何をするかわからない朝鮮人への底知れない恐怖心から、愛すべき「家族」を守る為に武器をとり、襲い来る架空の暴徒と戦った。集団となって助け合いながら、「自分と家族の命」を守ろうとしただけである。
 関東大震災における異常心理下で、日本人被災者と自警団は2,000人〜2万人の朝鮮人を虐殺した。混乱中で、日本人や中国人も朝鮮人と間違えられて殺された。
 片野次雄「あるいは竹槍などで刺し殺された。朝鮮人朝鮮人だという理由だけで、いたるところで公然と殺された。朝鮮人であれば、女子どもも例外ではなかった」(『1910ー2010 日韓併合』P.225) 
 こうした、日本人の自発的自衛行動は差別意識による凶悪犯罪とされた。
 朝鮮総督府は、震災地での虐殺情報が広まれば反日暴動の原因になるとして、報道を規制し、日本から帰郷した朝鮮人に箝口令を強要した。日本側は、抗議運動を恐れて朝鮮人の凶悪犯罪事件を意図的に公表し、朝鮮人虐殺事件は隠蔽した。
 被災した日本人は、数日は被害の大きさに呆然と立ち尽くしたが、民族性として物事を忘れやすい単純性格から、悲惨な惨状を「仕方がない事」と「諦め」て気にしなくなった。
 皇国教育を受けていた日本人は、天災馴れした民族の特性から、明日への希望を持って立ち上がり、救いと癒しを2600年以上守って来た「現人神・天皇の神聖」に求めた。
 それ以外の、「民族の精神」や「民族の絆」を否定する嘘っぽく安っぽいマルクス主義のような舶来思想や、「民族の心」や「民族の魂」を否定する排他的独善的な大陸的宗教にも頼る気はなかった。
 集団主義の日本人は、地に足の着かない、個人主義の「浮ついた、薄っぺら」な生き方は性に合わなかった。そして、人は一人では生きられない事を誰よりも知っていた。
 日本は、世界有数の天災多発地帯であった。
 日本民族は、如何に神に捧げ物をして祈ったところで、大災害を引き起こす自然現象が減らない事を身をもって知っていた。
 苛酷な日本の風土では、「神の御利益」はあっても「神の奇跡」はなく、「命の生まれ変わり(魂の再生)」はあっても「永遠の命(魂の断絶)」は無かった。当然、救世主による救済信仰も生まれなかった。
 「ものの憐れ」を知る気弱な日本人は、世の「無常」に打ちひしがれて泣くばかりであった。相手の迷惑を気にせず吠えるが如くがなり立て叫きちらす朝鮮人や中国人とは正反対に、相手に気を遣いながら人に見られない様に静かに涙を流していた。
 河北新報。横浜の各所で、朝鮮人約2,000人が略奪と強姦を繰り返していると報じた。警察は、軍隊に応援が期待できない為に、監獄の囚人を解放して朝鮮人暴徒と戦って朝鮮人を殺害した。
 北海タイムス武装した朝鮮人300人が、横浜方面から品川に押し寄せ、爆弾を投げ、銃を乱射して暴れ回った。住民は、自警団を結成して不逞朝鮮人の一団と戦った。第三連隊は、救援に出動して暴徒を武力で鎮圧した。
 反日朝鮮人は、血に飢えた日本人は狂暴化して無実の朝鮮人を虐殺したと主張した。
 午後8時 荒川放水路付近。ダイナマイト11個を所持していた朝鮮人呉海模が逮捕された。
 午後9時 府下吾嬬町京成電車踏切で。朝鮮人二人組が、付近を警戒中の在郷軍人にピストルを発砲して逃走。
 午後10時 南葛飾郡木田町四ツ木荒川放水路堤上。朝鮮人4人が、避難してきた10代の少女を暴行し、殺害して荒川に遺棄した。
 午後11時 吾嬬町にて。朝鮮人林松致が、伊藤染工場屋根に上って、群衆に向けて6連発のピストルを乱射して逃走。
 午後12時 瑞江村江戸川橋陸橋を破壊しようとしていた朝鮮人が、射殺された。
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 崔圭悰(チェキュジオン)「革命はこんな時でなければ起こらないのだ」
 反天皇反日の欧米ジャーナリストは、「無慈悲な朝鮮人虐殺」を報道し、日本への同情や励ましや激励はなかった。
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 9月3日 戒厳令がしかれ、日本兵が被災地に入る事で、不逞朝鮮人への恐怖に怯えていた被災民はようやく安堵した。
 亀戸事件。亀戸警察署は、皇太子暗殺と国家転覆を図ったとして700名以上のマルクス主義者を逮捕し、拘留した。留置されていた平沢計七や川合義虎ら共産主義者8名は、プロレタリア革命の好機と捉え、革命歌を謳って暴動を起こそうとした。戒厳軍は、法秩序を守る為に衛戌警務規定に従い、「天皇へのテロを未然に防ぐ」事を理由として彼等を殺害した。
 現代日本は、この思想弾圧を国家犯罪として非難している。
 淀橋警察署は、独立運動家である両班出身の朴烈(本名・朴準植)と金子文子を、朝鮮人保護を名目として予備検束した。さらに、朴烈の同志である14名を治安維持法違反で逮捕した。
 朴烈らは、大杉栄や岩佐作太郎らと共謀してテロ組織「不逞社」と「黒友会」を結成し、裕仁皇太子暗殺テロ目的で爆弾を上海や朝鮮の安東方面に準備した。
 警察当局と憲兵隊は、同年8月以前から皇太子御成婚式爆破テロ計画を察知していた。
 26年3月25日に、朴烈らは摂政宮裕仁皇太子の暗殺を計画していたとして、刑法73条の大逆罪として死刑判決を受けた。
 若槻礼次郎首相は、23年4月5日にテロ用の爆弾が入手できず実行にいたらなかったとして、無期刑に減刑した。
 天皇主義者や国粋主義者らは、天皇・皇太子・皇室へのテロを計画する朝鮮人テロリストを減刑した若槻礼次郎首相に対して、テロリストに温情を施して改心させようとする事は、国體を亡ぼす原因になるとして激しい抗議運動を起こした。朝鮮人と如何に話し合っても、けっしてわかり合えないというのが、右翼・右派の基本認識であった。
 大正デモクラシーを標榜する野党は、国家の安泰よりも政権の争奪を優先して政争を激化させた。
 朴烈「俺は、日本の皇帝、皇太子を爆弾投擲の最も主要なる対象物にしていたのだ。それで、爆弾が手に入ったらいつでも機会を見て使用するつもりだった。できるだけ日本の皇太子の結婚期までに全てが間に合う様に計画を進めていたのだ」
 朝鮮人は、下等な日本人との話し合いを望んではいなかったし、劣等民族の日本人とわかり合おうとも思ってもいなかった。当然、愚劣な日本人との友好関係も希望してはいなかった。
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 首都・東京を焼いた炎は、三日三晩続いてようやく燃える物がなくなって自然鎮火した。
 被災者は、4日間、火焔地獄に苦しめられた。
 地震災害が少なかった静岡、山梨、栃木、群馬では、着の身着のままで命辛々逃げてきた被災民を受け入れ、婦人会や学生達が炊き出しを行った.
 国鉄や民間鉄道及びバス会社などは、金より命が大事として、赤字覚悟で運賃を取らず、被災民を安全な周辺地域に移送した。
 日本の神道的価値観では、人が災害などで困っているのに付け込んで荒稼ぎする行為を「さもしい行い」「心の穢れ」として軽蔑し、金儲けした人間を災害が収束してから「社会の空気」として家族諸共に差別した。
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 手の施しようもない大災害に襲われた人間は、外因的要因による絶望から日頃から恐れている心の闇に突き動かされて、恐怖という内因的要因に突き動かされて異常行動を起こす。
 それが、朝鮮人虐殺事件である。
 現代。正常な判断ができず理性を失った制御不能なパニック的衝動行為は、非人道的犯罪とされている。
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 9月5日 被災地の混乱は治まらず、輸送網の復旧作業も思う様に進まなかった。恐怖心から立ち直れずにいる被災者は、食料などの生活物資等の配給が滞り空腹で神経質となり、朝鮮人への差別と敵意をつのらせていた。
 政府は、報道操作を行い、「不逞朝鮮人による放火と略奪」の事実はなかったものとして隠蔽し、数多くの「善良な朝鮮人による美談」を捏造して報道する様に指導した。
 人間を大事にする気の弱い日本は、人を人と認めない中国などの気の強い東アジアとは違い、貧しい被災者を全力をあげて救済した。
 後藤新平内相は、被災地での日本人自警団と朝鮮人被災民の衝突を回避する為に、自警団の武装を半強制的に解除させ、国権を持って朝鮮人被災民を保護した。後藤新平は、忠良なる臣民として、「国體」を護持し、朝鮮人テロリストや共産主義者から皇太子や皇族を守ろうとした。臣民にとって、守るべきは天皇を中心とした「国體」であった。
 戒厳司令部は、朝鮮人被災民を保護する為に1万5,000人分の小屋を建て、暴動を恐れて充分な食糧・水・衣服そして医薬品などの必要物資を運び込んだ。
 収容所に、被災した在日朝鮮人6,797人を収容した。それ以外に、日本人浮浪者が朝鮮人被災者を装って紛れ込んでいた可能性があるとされている。淡路・神戸大地震でも、そうした被災者ではない浮浪者がいたといわれている。
 収容手段は、徒歩であった。
 トラックの大半が、救援物資の輸送と死体処理の搬送で不足していた。
 朝鮮人は、日本人に対して民族的優越感を持っていた為に、銃剣を持った日本兵士が監視する収容所まで歩かされた事に激昂した。彼等は、人権を無視した陰険な差別行為と言い募り、銃による「強制連行」であると反発した。彼等は、決して、日本人の好意には感謝しないし、恩義を抱いて感謝する事も絶対にない。温和しく唯唯諾諾と従わない朝鮮人は、全ての責任は日本人にあると言い募り、騒々しく日本人を責め立てた。
 日本人の気弱な温情は、病的な自己中の朝鮮人には通用せず、全てが裏目に出て日本人への憎悪を植え付けたのみであった。
 収容された朝鮮人は、日本人以上の特権と優遇を主張し、日本人以上の食べ物を要求して騒いだ。朝鮮人には、日本的な温情や善意は通用せず、敵意を増幅させるだけであった。
 彼等を管理する日本人兵士は、要求をエスカレートさせる朝鮮人に腹立たしくなって暴力を振るった。
 それが、「火病」を民族疾患とする朝鮮人達の反日感情を煽った。
 こうした日本人による朝鮮人虐殺は、被害者数を増やし、反日プロパガンダに利用された。
 右翼などの民族主義者は、傲慢な朝鮮人に腹を立て、朝鮮人を憎み、そして差別した。
 被災地の日本人数十万人は、焼け野原の中、着の身着のままで野宿し、配給される極わずかな食べ物で飢えをしのいでいた。
 日本人被災者は、天皇を盲信し、御上のいう事に盲目的に従い、秩序を持って暴動を起こさず、お互いに食べ物を分け合って空腹を堪え忍んでいた。
 その辛抱強さゆえに、天皇制打倒の共産主義革命は起きなかった。
 左翼・左派のマルクス主義者は、人民革命の好機ととらえたが、民衆は共産主義者の期待を裏切って天皇中心とした国體を守った。
 世界中の報道機関が、特派員を日本に送り、被災地の惨状を伝えていた。
 後日。東京府会震災救済実行委員会協議会で、馬場刑事部長や正力官房主事ら警察庁幹部は、震災で朝鮮人社会主義者らによる暴行や放火はなかったと報告した。
 フランス王国ロシア帝国ドイツ帝国の三ヵ国は、戦争や災害による緊急事態の対処法を間違えて滅亡した。フランス国王とロシア皇帝人民裁判で処刑され、ドイツ皇帝は退位して国外に亡命した。
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 9月7日 北海タイムズ「鮮人達は東宮殿下御成婚式当日に一斉に暴動を起こす事を牒合(ちょうごう)して爆弾等をひそかに用意して居たが此震災で一斉に活動したのだと云う。……彼等には又誰か後押はあるらしい風であったが死ぬ程責めても到頭実を吐かなかった」
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 9月8日 北海タイムズ「彼等は二百十日を期して蜂起するの計画を立て8月28日に銀行や郵便局の預金をことごとく引き出し準備した。今秋の御盛典を期して行い事に決して居た」
 摂政宮裕仁皇太子は、テロの危険を冒して被災地を視察した。 
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 9月9日 朝鮮の独立派は、日本国内の同志に対し、反日暴動を起こして内戦に追い込む様に指示を与えた。さらに、ソウル青年会、朝鮮教育会、天道会、キリスト教会など多方面の反日組織も、震災地帯で多くの朝鮮人が惨殺されたという報道に激怒して、責任は日本側にあるとして天皇と日本人への報復を支持した。
 上海に移動していた反日テロ組織「義烈団」は、民族の独立が可能かどうか、情報収集の為に混乱している東京に多数の工作員を送り込んだ。マルクス主義者日本人は、反天皇革命を行う為に彼等に協力した。
 9月10日 関西方面の宣教師や朝鮮人留学生は、東京や横浜などでの朝鮮人虐殺の実態を調査して、各国の大使館・公使館・国際報道機関に被害者数を通報した。
 反日朝鮮人は、損傷が激しく日本人か朝鮮人か判別できない惨殺屍体を朝鮮人と断定して集計した。身元が分からないが、同胞同士の勘で朝鮮人犠牲者認定した。
 ロンドンで発見された反日的雑誌は、被災地で日本人自警団・青年団・警察によって2万3,000人以上の朝鮮人が虐殺されたと報道した。
 公式記録は、被災地での虐殺は6,415人であったと認めたが、地震と火災による朝鮮人犠牲者は一人も認めていない。
 上海フランス租界の上海臨時政府(大韓民国臨時政府・上海仮政府)は、日本政府に対して、非人道的虐殺を中止する様に激しい口調での抗議文を送った。
 9月13日までに、104万人以上の日本人被災者は、不逞朝鮮人の凶悪犯罪やマルクス主義者による暴力的共産主義革命に恐怖して、列車や汽船で帝都東京から脱出した。
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 9月15日 『朝鮮日報』社説、「日本人諸君よ、流言に因り君達が如何なる行動をしたかを反省すべきだ」
 裕仁皇太子は、摂政宮としての責任から、午前6時から9時頃まで震災地を視察した。
 新聞各社は、翌日、皇太子の行啓を報道した。
 東京日々新聞「本所被服廠跡の光景を市長と総監から申し上げた時は、暗涙を催されたように拝した」
 この後も、裕仁皇太子は被災地を視察し、被災者達が助け合い慰め合い庇い合いながら、前向きに復興に協力し合って努力している事に安堵した。
 裕仁皇太子の視察を目の当たりにした臣民・日本人は、感激し、涙を流し、皇室への敬愛を一層募らせた。
 反天皇マルクス主義者日本人は、裕仁皇太子の偽善的行為と嫌悪し、日本人の心を蝕み、貧しい人民から搾取するだけの天皇制度を破壊する事を誓った。
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 9月16日 上海臨時政府と義烈団は、震災地・東京と横浜で爆弾テロを行う為に朝鮮人テロリスト数十名を潜入させた。
 上海租界キリスト教会は、反日的欧米資本と協力して、独立派朝鮮人の上海臨時政府や抗日派中国人を秘かに支援していた。
 9月19日 義烈団は、日本の非人道行為に対する国際世論の非難を利用して、摂政宮や山本総理など政府要人を暗殺し、日本各地で騒乱を起こす為にテロ決死隊16名を選抜した。
 日本人の共産主義者無政府主義者らも、「放火こそ我が同士の快挙である」とし、震災による混乱を人民革命の好機として、朝鮮人テロリストと共同戦線を組んだ。
 警察や憲兵隊は、歴史的事実として、暴動が革命を誘発する恐れがあるとして被災地周辺で暴力的な取り締まりを強化した。
 中西伊之助「試みに朝鮮及び日本に於て発行せられている日刊紙新聞の朝鮮に関する記事をごらんなさい。そこにはどんなことが報道せられていますか。私は寡分にして未だ朝鮮国土の秀麗、芸術の善美、民情の優雅を紹介報道した記事を見たことは殆どないと云っていいのであります。そして爆弾、短銃、襲撃、殺傷─あらゆる戦慄すべき文字を羅列して、所謂不逞鮮人─の不法行動を報道しています。それも新聞記者の事あれかしの誇張的筆法をもって」(『婦人公論』23年11、12月合併号)
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 皇居前広場に避難用テント村を設営して、数多くの被災者を収容した。
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 10月31日 日本人は、大正天皇の誕生日を祝って避難者テントに国旗「日の丸」を掲揚した。
 日本民族日本人にとって、国歌「君が代」と国旗「日の丸・日章旗」と軍旗「旭日旗」は、何時如何なる時も誇りであり、如何なる苦境にあっても心の拠り所であった。
 一致団結して困難を乗る超える為に、国旗「日の丸・日章旗」と軍旗「旭日章」を天高く掲げて仰ぎ見、勇気と自信を漲らせる為に国歌「君が代」を高らかに合唱した。
 日本天皇を慕い、国體の下に集う事に、誰、はばかる事があろうか。
 日本天皇御一人おわせばこそ、である。
 それを憎悪し完全否定するのは、反日派の中国人と朝鮮人、そして反天皇反日的日本人である。
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 日本民族日本人にとって、神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)は自分の命を犠牲にしても守るべき特別な存在であった。
 彼等は、自分の祖先を神と祀って信仰していた。
 無国籍日本人にとっては、祭祀王・万世一系男系天皇(直系長子相続)は極普通の人間にすぎず、2600年以上受け継がれた天皇制度に愛着を持っていなかった。
 彼等は、祖先の神を信じてはいなかった。
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 ポール・クローデル地震の日の夜、私が東京と横浜の間を長い時間歩いているとき、あるいは生存者達が群れ集まった巨大な野営地で過ごした数日間、私は不平一つ聞かなかった」
 「廃墟の下に埋もれた犠牲者達の声も『助けてくれ!こっちだ』というような差し迫った叫び声ではなかった。『御願いします』という慎ましい懇願の声だった」
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 関東大震災における自警団の惨殺について、
 司法省は、死者133人、重傷者15人、軽傷者18名で朝鮮人犠牲者は計275人と発表した。
 内務省警保局調査は、朝鮮人231人、中国人3人、日本人59人。  
 朝鮮総督府は、精細に調査した結果として、犠牲者は2人で、震災による圧死、焼死、行方不明は830人。
 斉藤実朝鮮総督は、判明した830人の遺族のもとに地方官を弔問させ、一人につき200円の弔慰金を贈った。
 朝鮮総督府は、朝鮮人被害者への弔慰金は総額16万6,000円と発表した。
 日本政府と朝鮮総督府は、関東大震災で犠牲になった在日朝鮮人に対してできうる限りの誠意を尽くした。
 だが、日本の誠意は、日本の朝鮮支配という罪状によって全て否定された。
 そうした日本全面否定を支持する反日的日本人が、多数存在する。
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 2013年9月1日 朝鮮日報関東大震災90年:ホロコースト、南京に次ぐ人類抹殺の実態 関東大震災から90年、学界から名称変更を訴える声
 ……
 虐殺された朝鮮人は約6,600人というのがこれまでの説だが、1万ー2万人に上る統計もある。
 ……
 日本政府は真相を隠し、……従軍慰安婦の強制動員を否定する論理と同じ」
 国際的反日世論や日本国内の一部は、韓国の日本を糾弾する主張に同調している。
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 工藤美代子「当時、震災被害の大きかった京浜地区にいたと想定される在日朝鮮人は、およそ9,800人。そのうち、習志野の陸軍廠舎や目黒競馬場、東京周辺の警察署で約6,500人が保護されています。朝鮮人が多く居住していた地域の対人口比死亡率は約15%と推定されますが、当時の朝鮮人が置かれていた劣悪な環境を鑑みると死亡率は20%ぐらいだったと思われます。震災による朝鮮人の犠牲者は1,900人程度となります。
 なお、内務省が殺害を確定した朝鮮人の数は233人。さらに、私の試算では、震災の混乱に乗じて活動を行っていた一部の朝鮮人およそ800人が、自警団にとって殺害されています。
 痛ましい事件があったことは事実ですが、震災による犠牲者も考慮すると、6,000人、ましてや1万人規模の虐殺など空想上の数字であることは明らかです」
 櫻田淳政治学者)「震災という『他人の不運』までも、自国の『歴史認識カード』にしようという意図が露骨に感じられます。震災最中に朝鮮人その他の犠牲があったのは事実であろうけれども、それは混乱に促された『偶発事件』と呼ぶべき。南京事件ナチスのジェノサイドと同類に扱おうというのは、飛躍した議論です。
 もし、彼らが伝えるような『大虐殺』が生じていれば、関東大震災当時のことは米英独仏など在日外交官が報告書を本国に送り、あるいは在日特派員が報じているはずなので、結果として日本は猛烈な批判にさらされていたでしょう。
 曲がりなりにも『研究者』と呼ばれる人々がおかしな言説を披露しているのを見ると、一種の戦慄を覚えます」
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 ハワイ大学ジュージ・アキタ名誉教授/コースタル・カロライナ大学ブランドル・パーマー准教授共筆『「日本の朝鮮統治」を検証する 1910ー1945』
 パーマー「絶大な権力を誇り、独裁主義的と目された日本の支配体制下で、朝鮮人に対して大量殺戮的な行動が取られた事を暗示するものは何も見当たらない」
 「特別志願兵制度と徴兵制度を実施するにあたって総督府が選んだ手順と行動は、日本の植民地政策は、日本の植民地政策は日本の国益に叶う形で施行されたとはいうものの、比較的穏健なものであった」
 アキタ「日本の植民地政策は、汚点は確かにあったものの、同時代の他の植民地保有国と比較において……『9分どおり公平』だったと判断されてもよいのではないか」
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 2017年9月1日 産経ニュース「関東大震災「慰霊の日」、騒然 朝鮮人ら追悼式典と疑義を唱える慰霊祭 
 「関東大震災94周年朝鮮人犠牲者追悼式典」が行われた。すぐそばで、関東大震災に際して日本人が行ったとされる虐殺人数に異議を唱える保守系団体も慰霊祭を開催。周辺では警察官ともみ合う場面もあった。=1日、東京都墨田区(寺河内美奈撮影)※画像の一部を処理しています
 関東大震災の犠牲者を悼む東京都慰霊協会主催の大法要が1日に営まれた東京都立横網町公園墨田区)。公園内では同じ時間帯に、震災時に「虐殺」されたとする朝鮮人らを追悼する式典や、その犠牲者数に疑義を唱える団体の慰霊祭も行われた。警察官や都庁職員らが厳重警戒する中、小競り合いが散発し、「慰霊の日」の公園内は騒然とした空気に包まれた。
 日朝協会など複数の団体で構成される実行委員会主催の「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典」では、関東大震災で犠牲となったとされる朝鮮人らに鎮魂の舞や、黙祷(もくとう)がささげられた。
 追悼式をめぐっては、これまでの歴代都知事が追悼文を送っていたのに対し、小池百合子都知事や山本亨墨田区長が今年から追悼文の送付を取りやめた経緯がある。小池氏は「今回は全ての方々への法要を行っていきたいという意味から、特別な形での追悼文提出は控えさせていただいた」と説明している。
 式典のあいさつや哀悼の辞では、小池氏らの追悼文送付取りやめに対し、「到底容認できない。流言飛語で命を奪われた犠牲者や遺族に寄り添う姿勢がまったく見受けられない」として批判の言葉が述べられた。
 実行委員長の宮川泰彦氏は式典後に会見し、小池氏が追悼文の送付を取りやめたことについて「知事の姿勢としていかがなものか。非常に残念」と語った。
 一方、公園内の数十メートル離れた場所では、女性団体「そよ風」が慰霊祭を初めて開催した。慰霊祭で鈴木由喜子代表は、震災の犠牲者を慰霊するとともに、「生き残った人々は虐殺の加害者とされ誹謗(ひぼう)中傷を受けた。父祖の名誉回復に努める」と趣旨を説明。読経や焼香、黙祷が行われた。
 小池氏の追悼文送付取りやめに対しては、「追悼文を送れば、(追悼式典側が主張している)6000人の虐殺を公の機関が認めることになる。ありがたく思っている」と評価した。
 公園内は警視庁の警察官や都職員らが厳重警戒。慰霊祭の開始前には、主張が異なる男性らと警察官がもみ合いになる騒ぎが起きるなど、会場が騒然となる場面もあった。」
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日本神話と古代国家 (講談社学術文庫)

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