☲17〕─2─水豊ダム。日本は北朝鮮の飢餓民救援の為に大量の食糧を何度も送った。戦後賠償。~No.45 @ 

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 久保田貫一郎「日本は韓国でははげ山を緑にした、鉄道を敷いた、港湾を建設し、水田を造成した。そのために国家予算から毎年1,000〜2,000万円も出して半島のインフラ整備をやったではないか」
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 日本は、日本人拉致事件が解決するまで、拉致被害者が最後の1人まで帰国するまで、北朝鮮への金銭支援を行うべきではない。 
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 水豊ダム(スプンダム、すいほうダム)は朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮平安北道の朔州郡と中華人民共和国遼寧省の寛甸満族自治県鴨緑江(国境)にあるダムである。
 概要
 朝鮮半島が日本の統治下であった1937年(昭和12年)に満州国と朝鮮の電力確保の為、建設が開始された。建設されたのは鴨緑江下流平安北道新義州府(現在の新義州市)から80Km地点の日満国境(現在は中朝国境)であった。
 湛水面積は日本の琵琶湖(670.33平方キロメートル)のほぼ半分に相当し、総工費は約5億円である。なお、この金額は同時代に構想されていた「東京・下関間新幹線」に匹敵する巨額であり、その費用は当時朝鮮半島でも一大重化学企業であった朝鮮窒素肥料(朝鮮窒素)(現在のチッソ)が負担したという。太平洋戦争の泥沼化の中、1944年(昭和19年)3月、水豊水発電所(発電能力:60万KW)と共に竣工した。この発電規模は当時の世界最大級であり、1940年(昭和15年)当時の日本国内の水力発電規模である280万KWと比較してもその大きさは容易に比較できる。7基の発電機は各々約10万KWの発電能力を持っていたが、これも当時世界最大級の能力であり、製造を受注した東京芝浦電気(現在の東芝)は製造にあたり新工場を建設したという。
 1945年(昭和20年)8月9日、ソ連軍の侵攻により、7基の発電機のうち5基を略奪された。略奪された発電機は、カザフスタン共和国、イリティッシュ川(エルティシ川)上流のダムで確認されている。
 朝鮮戦争中に雷撃を含む、アメリカ軍機の攻撃を受けたが、ダム構造が堅牢であったため決壊を免れた。ただしこの攻撃で北朝鮮では発電能力が激減し、一時、広域にわたって停電した。休戦後に北朝鮮は発電能力を増強して復興した。新しく設置された発電機7基のうち、3基は朝鮮向けの60Hz、3基は北京向けの50Hz、1基は50Hz、609Hzどちらでも発電可能な物である。竣工から60年以上経過した現在もダム本体は大きな改修工事が行われず現役であると思われ、現在も北朝鮮の重要なエネルギー源の一つである。なおダム湖は中朝国境となっており、北側は中国領である。
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 日本と朝鮮半島との関係(第二次世界大戦後)
 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
 日本と朝鮮半島との関係(第二次世界大戦後)
 日本と朝鮮半島との間には、今日さまざまな問題が横たわっている。この項目では、第二次世界大戦後、現在に至るまでの日本と朝鮮半島との間の、主として政治的な問題について、戦後初期の日本と朝鮮半島との関係、日本と韓国(大韓民国)との関係(日韓関係)、日本と北朝鮮との関係(日朝関係)の大きく三つに分けて扱う。なお、古代から日本の明治時代に至るまでについては別項「日朝交渉史」を、日本の侵略から解放・独立に至るまでの日本と朝鮮との関係については「朝鮮史」の項目を参照されたい。[川越敬三・並木真人]
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 (みちのり)">日朝国交正常化への遠い道程(みちのり)
 日本と北朝鮮の間には国交がなく、政府レベルの二国間実務協定もほぼ皆無である。第二次世界大戦後すでに半世紀が経過し、世界中のほとんどすべての国と国交が開かれ、往来が自由になったもとでのこの異常な状態は、他方での日韓関係の緊密さの裏返しである。1960年(昭和35)日米新安保条約の締結や、1961年5月韓国軍事政権の登場とそれに対するアメリカの承認によって構築された日・米・韓の「三角安保体制」は、北朝鮮にとって大いなる脅威であった。1961年7月に北朝鮮が中国・ソ連と締結した二つの「友好協力相互援助条約」も、この体制を警戒した軍事同盟条約であった。その後も1965年日韓基本条約の締結によって北朝鮮は危機感を募らせていき、1969年在日米軍基地を組み込んだ米韓合同軍事演習(チーム・スピリット)の開始とともに、「日本軍国主義の復活」を激しく非難し、またこれに対峙(たいじ)する軍事力の強化に邁進(まいしん)した。
 他方、北朝鮮が安全保障の確保のために、かねてから日本との関係改善を提唱してきたことも見落とせない。早くは、朝鮮戦争休戦後の1955年2月、外相南日(なんにち/ナムイル)が声明を発表して、「貿易・文化関係およびその他の関係の樹立と発展のために話し合う用意がある」と日本政府に呼びかけた。同趣旨の発言はその後もたびたび行われたが、日本側はいつも黙殺してきた。だが、この間、両国の間になんの変化も起こらなかったわけではない。徐々にではあるが、人の往来と経済・文化の交流が進展した。それは日本の民間の努力が政界を動かし、政府を動かしてきた結果である。
 1959年8月には、それまで海外渡航が許されなかった在日朝鮮人北朝鮮への集団帰国の道を開く、在日朝鮮人帰還協定が日朝両赤十字間で締結された。その結果、1960・1961年の2年だけで7万名を超える人々が帰還し、その総数は、1984年までに約9万3,000名に達した。これらの人々は、朝鮮戦争からの復興過程で不足していた労働力を補充するものであったが、帰還事業を機とする日朝関係の緊密化は韓国政府を狼狽(ろうばい)させ、韓国では激しい「北送」反対運動が展開された。1936年1月には、札幌での国際競技開催を契機に、北朝鮮スポーツ選手団の入国が認められるようになった。さらに1971年から1974年にかけて、一般民間人の北朝鮮への渡航北朝鮮からの入国に対する規制が一部緩和され、北朝鮮政界人の入国もケース・バイ・ケースで認められることになった。1977年には超党派の日朝友好促進議員連盟の協力で、日本漁船の北朝鮮近海での操業に関する民間協定が、両国の漁業団体の間で締結された。北朝鮮との貿易は、日本の業界が1956年に日中貿易の形を借りて始めたのが最初で、1961年には政府の許可を得た直接取引に変わり、1974年には輸出入計3億6,000万ドルにまで成長した。ただし、この貿易は取引品目に制約が多く、日本輸出入銀行(現国際協力銀行)の融資も1974年に2件について認められただけであった。おまけに1970年代後半から北朝鮮側の貿易代金決済の停滞という悪材料が加わったため、その後の取引は低迷を続けた。北朝鮮は、1984年1月外交関係のない資本主義諸国を含む諸外国との経済・技術交流の拡大に努力するという新政策を決定し、同年9月には合営法を制定して日本からの資本・技術の受け入れにも意欲をみせたが、日本経済界の反応は鈍かった。そして、事実上債務不履行となった決済に対して、日本側の商社は政府の保障を求めるに至った。
 ついに、1986年1月通産省は、朝鮮貿易を行う商社30社に対して総額300億円に上る輸出保険を適用した。その結果、貿易の停滞はいっそう深刻になり、北朝鮮の対外債務の累積は破産同然の状況に至った。1988年1月日本政府は前年11月に発生した大韓航空機爆破テロ事件に関連して、北朝鮮に4項目の制裁措置をとると発表した。これと関連して、1987年10月から始まった日本人観光客の受入れも一時中断された。
 このように冷却した関係を大きく転換させたのが、日朝国交正常化交渉である。1990年(平成3)9月自民党金丸信)と社会党(田辺誠)の代表団が北朝鮮を訪問し、朝鮮労働党との間で、「自主・平和・親善」の理念に基づく国交正常化を推進することを訴える「三党共同宣言」を発表した。これに基づき、1991年1月政府間会談が平壌(へいじょう/ピョンヤン)で開始された。会談は、1992年11月まで8回行われたが、両者の交渉は曲折の連続であった。すなわち、北朝鮮側が植民地支配など過去の歴史的関係の再評価と清算(交戦権に基づく戦時賠償と戦後の敵対政策に対する「償い」)を行ったうえでの関係樹立を求めたのに対して、日本側は核開発疑惑問題や大韓航空機事件の犯人の日本語教育係とされる「李恩恵(りおんけい/リウネ)問題」を討議することを要求し、両者の議論がかみ合わないまま、交渉は中断した。その後1995年3月連立与党3党(自民党社会党新党さきがけ)の代表団が訪朝し、朝鮮労働党との間で日朝会談再開のための「四党合意書」を採択したが、新たな進展はみられなかった。
 これと前後して、食糧危機にあえぐ北朝鮮は、1995年5月日本にコメ支援を要請した。日本政府は、これにこたえて同年6月30万トン(無償15万トン・有償15万トン)、10月20万トン(有償)の供給を行った。しかし、韓国の同様の支援に対する北朝鮮の処置や、1996年9月の北朝鮮潜水艦の韓国への侵入事件に反発した韓国政府の牽制(けんせい)、さらに北朝鮮による日本人拉致事件(らちじけん)(当時は北朝鮮政府が拉致の事実を否定していたため「拉致疑惑」の呼称が使われていた)の浮上などで、1996年度は政府レベルの支援は中断した。
 そうしたなか、1997年8月になって、ようやく国交正常化交渉再開に向けた両政府代表者の予備会談が開催された。日本側は、本来の国交交渉再開問題に加え、北朝鮮在住の日本人配偶者の里帰り問題や日本人の「拉致疑惑」問題も議題とした。その結果、日本人配偶者の里帰りは、11月第一陣15名の一時帰国が実現した。また、同月訪朝した連立与党代表団との交渉により、「拉致疑惑」も一般の「行方不明者」として調査される可能性がでてきた。この背景には、食糧支援を求める北朝鮮の柔軟な対応があった。[川越敬三・並木真人]」


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