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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
朝鮮人で、日本陸軍高級将校となって日本軍を指揮し、軍功をたて昭和天皇から勲章を授与された者もいた。
最高階級は、陸軍中将であった。
日本人将兵は、上官である朝鮮人の命令に従って戦い、そして戦死した。
日本軍隊では、人種・民族・身分・出身ではなく、階級が絶対であった。
上官の命令は天皇の命令として、下位の階級者は上位の階級者の命令を聞かねばならず、命令に逆らえば天皇の命令に逆らったとして罰せられた。
日本人将兵は、朝鮮人将校の命令を直立不動で聞き、その命令に絶対服従として従って行動した。
朝鮮人将校が突撃して「戦死」しろと命じたら、日本人将兵は忠実に突撃して戦死した。
それが、靖国神社の精神である。
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2016年8月21日 産経ニュース「【満州文化物語(30)特別編】朝鮮出身者はエリートだった 満州国軍軍官学校で「日系扱い」に
17歳で満州国陸軍軍官学校に入校した金光植氏=昭和19年(同氏提供)
満州国軍の兵力は約15万(終戦時)。建国時(昭和7年)に交わされた日満議定書で満州国の国防は日本軍(関東軍)に委託されており、満州国軍は補佐的に一翼を担うことになる。
当初は張学良配下の旧東北軍などの軍閥、日満混合の靖安(せいあん)遊撃隊ら雑多なメンバーで構成されていたが、自前で士官(満州国軍では軍官と呼んだ)を養成する軍官学校を設立し、軍隊としての体裁を整えてゆく。
もちろん日本が“首根っこ”を押さえる形ではあった(日本人は指揮官のみ)が、軍官学校は満州国を構成する5族(日、満、漢、鮮、蒙)すべてを受け入れた。日本人軍官の上官に中国人が就(つ)いたり、モンゴル人騎兵部隊を日本人指揮官が率いるユニークな軍隊になったのである。
日本陸士を受けたが…
満州国の首都新京(現・中国長春)に創設(昭和14年)された陸軍軍官学校には、5族のうち蒙(モンゴル人)を除く4族が在籍。漢、満族と生活習慣などが相いれない蒙族のみ、彼らの居住地域にあった興(こう)安(あん)(こうあん)軍官学校で養成された。
新京の軍官学校においても日系と満系(漢、満)との区別(選考方法や所属区隊)はあった。その中で日本統治下の朝鮮出身者(鮮系)は1期〜6期まで満系に加えられていたが、19年12月入校の最後の7期は日系扱いに変わった。
この変更は5族協和を謳いながらも、日本が厳然と頂点に君臨する満州国のヒエラルキー(階層的秩序)に微妙な変化をもたらす。国軍内では「鮮系がその次になった」と見る向きもあったからである。
同時に鮮系志願者の選考制度も変わった。たとえば、韓国大統領になった2期生の朴正煕(パクチョンヒ)は満州国軍の試験を受けて入校しているが、7期生は日本人志願者と同じく日本の陸軍士官学校(予科)などを受験した中から“廻(まわ)し合格”というべきシステムで軍官学校の門をくぐっている。
金光植(キムグァンシク、88)はそのひとりだった。
昭和2(1927)年、日本統治下の朝鮮南部・麗水(ヨス)近郊に生まれた金は光州西中学(旧制)へ進み、成績優秀者だったがゆえに教師や配属将校から日本陸士予科の受験を勧められる。軍人としてはエリート中のエリート。極めつきの「狭き門」だが、朝鮮出身者に道が閉ざされていたわけではない。洪思翊(ホンサイク=陸軍中将・陸士26期、フィリピンで戦犯として処刑)のように陸軍大学校へ進み、将軍に登り詰めた人もいた。
「(朝鮮でも徴兵制度が始まり)いずれ兵隊にとられる。軍学校へ行けば勉強ができるし、その間に戦争が終わるかもしれない。ただ積極的に志願したわけではなく、配属将校や先生に言われるがままだった」
19年5月、金は地元で行われた日本陸士予科の試験を受ける。同じ中学から受験した朝鮮出身者は10人。このうち学科試験をパスした金ら4人が、京城(現・韓国ソウル)へ向かい、朝鮮軍司令部で身体検査・口頭試問を受けた。
ところが、しばらくたって届いた通知は、思いもしなかった「満州国陸軍軍官学校に推薦する」。同中からの合格者は結局、金ひとりだけだった。満州には縁もゆかりもない…。
一方で“廻し合格組”のプライドをくすぐる制度があった。予科は満州の軍官学校だが、本科へ進むときは日本の陸士で、予科から陸士に進んだ生徒と同じ教育を受けられる(軍医、獣医専攻は除く)。満州国陸軍軍官学校5期生なら日本陸士59期相当、同6期生→同60期相当である。トップエリートだった日本陸士組とそこで肩を並べることができるというわけだ。
19年12月、17歳になったばかりの金は、酷寒の満州に向かう。
多かった北の出身者
満州国陸軍軍官学校に在籍した1期から7期までの鮮系生徒は全部で48人。同期間の日本人生徒は約1400人だから鮮系生徒がいかに選び抜かれたエリートであるか分かるだろう。
鮮系48人のうち、日本陸士(本科)留学組は34人である。その制度は時代によって揺れ動く。軍官学校の前身、中央陸軍訓練処(奉天)時代には5期の丁一権(チョンイルグォン=後に陸軍参謀総長、首相)は日本陸士へ進み、55期相当になっているが、9期の白善●(=火へんに華)(ペクソンヨプ=朝鮮戦争の英雄、韓国軍初の陸軍大将)のときは陸士への留学制度自体がなかった。
そして、軍官学校2期の朴正煕のように鮮系は成績優秀者のみ(朴は首席)、留学できる時代を経て、戦争末期には軍官学校の鮮系生徒ほぼ全員が日本人生徒と同じく、陸士本科へ進むシステムに変わる。
ただし、6期までの鮮系生徒は、最初から満州国軍志望だった、ことを忘れてはならない。
丁も白もそうだが、彼らの出身地は朝鮮の北部(現在の北朝鮮地域)や朝鮮族の居住地だった朝満国境付近の間島(カンド)地域が多かった。地理的に近く、満州という地に親しみがあったのである。それは、新たな可能性を求める道でもあった。満州国建国(昭和7年3月)を機に起きた“満州ブーム”は日本人だけを突き動かしたのではない。日本統治下の朝鮮出身者もまた満州ブームに沸き、農地や仕事を求めて広大な新天地を目指したのである。
満州国軍官学校のつながりは地域だけでなく「タテ」(先輩後輩)「ヨコ」(同期)も強かった。
金光植が終戦直後、軍官学校日本人上官の機転によって危うくシベリア行きを免れ、鮮系先輩の手引きで丁一権率いる新京の「朝鮮保安隊」に加わるのは前回書いた通りである。
京城に戻った後、軍事英語学校(後に韓国陸軍士官学校)に入ったのも、朝鮮戦争(1950〜53年)のとき、いったん軍から離れていた金を呼び戻したのも満州人脈であった。軍官学校出身者は学校の所在地から「同徳台」と呼ばれ、韓国軍内の主要人脈のひとつとなってゆく。
1961年5月、朴正煕が軍事クーデターを起こし、政権を奪取したときも多くの満州人脈が支えている。だが後には、少なくない軍人が大統領になった朴から疎まれ、失脚させられてしまうのだ。=敬称略、隔週掲載(文化部編集委員 喜多由浩)」
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日本はいかにして中国との戦争に引きずり込まれたか: 支那通軍人・佐々木到一の足跡から読み解く
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