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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
新羅人渡来人は、忠誠の強い百済系・高句麗系帰化人と違って、忠誠心が薄い異邦人であった。
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岡田英弘「歴史というものは地域によって違うもの、つまり歴史は地方文化であって、普遍的なものではない。ということなのである。このことはつい忘れがちだが、大事なことである」
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2018年10月16日 読売新聞「文化 文芸
校倉(あぜくら)の風土記
正倉院宝物と新羅 上
奈良仏教 新羅の影響強く
第70回正倉院展(奈良国立博物館、10月27日〜11月12日)に出展される宝物からは、古代日本の知られざる国際交流が浮かび上がる。朝鮮半島・新羅との深い関わりを示す宝物も多く、大仏造立に至る奈良仏教に与えた新羅の影響の大きさを物語っている。
複数の経巻をまとめて包むカバー『華厳経論帙(けごんきょうろんのちつ)』の内側の芯は、村の名称や面積、戸数などを記した公文書が貼られていた。かさね器『佐波理加盤(さはりのかばん)』の包装紙には、租税の納入状況、フェルトの敷物に『色氈(しきせん)』『花氈(かせん)』に縫い付けた麻のラベルには、製造元の人名や官位が記録されていた。すべて新羅で書かれたものだ。
これらの文字資料から、華厳経論を含めた多くの経巻や、匙(さじ)や皿などの合金(佐波理)でできた各種製品、氈などが新羅から奈良時代の日本にもたらされたことがわかってきた。鈴木靖民・国学院大名誉教授(日本古代史)は、こうした新羅物のほとんどが、仏事に用いる道具や調度品であることに注目する。『つまり奈良仏教は新羅仏教、とくに華厳宗の影響を強く受けているということです』
天平12年(740年)、聖武天皇の大仏(盧舎那仏{るしゃなぶつ})造立の発願(ほつがん)を受ける形で、盧舎那仏を世界の中心と説く華厳経の講義が始まった。講師を務めた大安寺の審祥(しんしょう)は史料に〈新羅学生〉〈青丘(朝鮮)留学〉とあり、新羅で華厳宗を学んだことがわかる。鈴木名誉教授は、『当時の新羅は華厳宗の最盛期で、東大寺は教義だけでなく、法要で僧侶が座る氈に至るまで新羅物を求めた』とみている。
ところで聖武天皇が大仏造立を発願したのは、『続日本紀』によると、河内国大県(おおがた)郡の智識寺(ちしきじ)で盧舎那仏を拝したのがきっかけだった。
寺名の智識とは、寺や仏像を造るために私財や労働力を提供する者のことで、天平15年の『大仏造立の詔(みことのり)』でも、〈一枝の草、一把の土を持ち、像を助け造らん〉と、智識による造立がうたわれている。
大阪府柏原市にある智識寺跡は現在は住宅地に埋もれ、近くの神社に塔の心礎のみが残る。一帯では古墳時代以降、百済系渡来人が住んでいたことが発掘調査で判明しており、出土した智識寺の瓦も百済系という。『そのような中で、伽藍配置は新羅の流れをくむ双塔式を採用されているのです』と同市教育委員会文化財課の山根航(わたる)主査は言う。智識によって新羅的な盧舎那仏を造立した智識寺は、大仏造立のモデルといえるだろう。(文化部 池田和正)」
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10月17日 読売新聞「文化 歴史
校倉の風土記
正倉院宝物と新羅 下
武蔵国に移住地『新羅郡』
奈良・正倉院に伝来する『新羅琴(しらぎこと)』。伽耶(かや)琴ともよばれる朝鮮半島起源の12絃(げん)の楽器で、羊の耳のような形をした緒留めが特徴だ。
宝物の出入記録『雑物(ざつもの)出入帳』によれば、この新羅琴は弘仁14年(823年)、もともと正倉院に伝来していた別の新羅琴が出蔵されたのに代わって納められたもの。平安前期に新羅琴が宮中で演奏されたことがうかがわれ、また代替品となるべき楽器が正倉院以外に伝来していたことがわかる。
このころ活躍した新羅琴の名手として、沙良真熊(さらまくま)という人物が記録に残っている。弘仁7年ごろ貴族の興世書主(おきよのふみぬし)に新羅琴の〈秘道〉を伝授し、別に皇族の高枝王(たかえのおう)にも教えたと『文徳天皇実録』にある。同書は真熊を〈新羅人と伝えるが、『続日本紀』には奈良時代の宝亀11年(780年)、〈武蔵国新羅郡の人、沙良真熊等二人に広岡造の姓を賜ふ〉と見える。
奈良時代には国家による、渡来人の地方への集団移住が行われた。新羅郡は天平宝字2年(758年)、新羅僧ら男女74人を武蔵国の閑地に移して新設された。後の新座郡にあたり、現在の埼玉県新座、和光、朝霞、志木一帯とされる。
宮瀧交二・大東文化大教授(日本古代史)は、武蔵国には新羅郡のほかに、高句麗人を集めた高麗(こま)郡も置かれていることに注目、『周辺の異民族を従えている、という日本版の中華思想を具現化しようとする政治的意図があった』とみる。
郡を代表して姓を賜った真熊は新羅人のリーダーだったはずで、相応の年齢だったと考えられる。このため三十数年後の弘仁年間に登場する真熊はその子孫で、父祖以来の芸能によって、中央の雅楽寮の楽師に取り立てられたと宮瀧教授はみている。
『沙良とは新羅のこと。文徳天皇実録に本姓の沙良のまま』
和光市新倉(にいくら)では韓国で出土例がある火熨斗({ひのし}古代のアイロン)のほか、沿面硯(えんめんけん)などが発掘されており、郡役人の居住を示唆する。市教育委員会の鈴木一郎・文化財保護担当統括主査は、『市内では8世紀中頃から遺跡が増加しており、郡の設置に対応しています』と話す。
新倉という地名も新羅が転化したものと言われている。新羅人の記憶は現在も受け継がれているのだ」
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日本は、優れたモノは、味方・友好国・同盟国はもとより敵国・仇敵・親の敵であっても積極的に取り入れた。
日本民族日本人は、殺し合うほどの憎い敵であっても、敵が持っているモノが優れていれば是が非でも欲しいという、欲望があった。
手に入れる為には、敵を倒して手に入れるか、中立の第三者を経由して買うか、和解し仲直りをし友人となって譲り受けた。
敵対して戦争した敵と仲直りして相手の優れたモノを譲り受けた好例が、日米関係である。
争いごとを嫌う日本民族日本人は、欲しいモノは平和的に手に入れる事に心がけた。
日本の発展は、そうした柔軟な融通無碍なところにある。
日本民族日本人が最も重要視したのが、「信用」であった。
人として、ウソをつかない、偽らない、騙さない、欺かない、事であった。
人として、命を賭けても「信用」を守る。
日本民族日本人にとって、「信用」は命以上に価値があるものであった。
「信用」を守る為なら命を捨てたのが、日本民族日本人であった。
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縄文人の流れをくむ倭族は、太古の昔から朝鮮半島南部で平和に生活していたが、西方系草原モンゴロイドの血をひく侵略者に圧泊され、這々の体で日本列島に逃げ込んだ。
日本列島は朝鮮半島にとっての避難地で、侵略された人々、戦争に負けた人々、戦争・殺し合いが嫌いな人々が難民として日本列島に逃げ込んできた。
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奈良時代。日本は、唐や新羅に多くの僧侶を留学させ、多くの新羅人を受け入れていた。
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758年 藤原仲麻呂は、唐で安禄山の乱が起きたとの報せを受けるや、戦乱が日本に波及する事を恐れ、大宰府など諸国に防備を厳にする事を命じた。
759年 藤原仲麻呂は、新羅が日本の使節に無礼をはたらいたとして、新羅征伐の準備を始めた。
征討軍は軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な遠征計画が立てられるが、この遠征は後の孝謙上皇と仲麻呂との不和により実行されずに終わった。
780年 日本は、新羅の廉恥心なく信義を踏みにじる無節操を嫌悪して、正式な遣新羅使の派遣を中止した。
800年 日本の総人口、600万人。
803年 日本人は、人が好く、物忘れが激しいだけに、かっての新羅の無礼千万な仕打ちを忘れて新羅との国交を回復した。
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820年 600万人対700人。
2月13日 弘仁新羅の乱。駿河・遠江2カ国の新羅系渡来人700人以上は、反乱を起こし、伊豆の穀物を強奪して海上に逃げた。
朝廷は、叛乱が全国の渡来人に飛び火する事を恐れ、相模と武蔵にも鎮圧を命じた。
討伐軍は、新羅人賊徒を追い詰め、殺害し、捕らえた者を処刑して叛乱を鎮圧した。
朝廷は、渡来人達に対して、如何なる理由があろうとも天皇に対する叛乱は許さないとの断固たる態度を示すべく、容赦のない血の粛清を行った。
もしこの時、各地の反大和朝廷派諸勢力が一斉に反乱を越していれば、確実に、大和天皇は殺され、大和朝廷は滅亡した。
そして、日本は幾人もの天皇が乱立して四分五裂し、天皇同士の殺し合い・虐殺が繰り返され、東南アジアのような統一国家は成立しないか、成立しても中華世界のような不安定な国家となっていた。
儒教の易姓革命として、軍事力を背景として南九州に隼人天皇、北九州に筑紫天皇、中国地方に吉備天皇・出雲天皇、北陸に越天皇、関東に上毛野野天皇・下毛野天皇、東北に蝦夷系諸天皇、外国系として百済天皇・高句麗天皇・新羅天皇・唐(中国)天皇、その他多くの天皇達が乱立し、日本統一戦争を繰り返し虐殺を行った事だろう。
それは、弥生の大乱への逆戻りであり、虐殺時代の到来である。
アジアにおいて、外国人移民・難民を受け入れるという事はそういう事になる。
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日本天皇に忠誠を誓い、日本国の為に働いて貢献する外国人は帰化人である。
忠誠を誓わず貢献しない外国人は、渡来人である。
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日本民族日本人にとって、日本天皇は「御一人」であって、余人に換えられない存在であった。
日本天皇とは、戦争・内戦を早期に終結させ、人を余り殺さないようにする為に存在する。
日本が、中華世界や西洋社会のような戦争・内戦による大虐殺を行わない為に、神聖不可侵の皇統による「日本天皇」を生みだした。
神聖不可侵の皇統とは、最高神・天照大神の正統な男系による直系家族の事である。
もし、日本天皇が、中華皇帝や朝鮮国王あるいは西洋の皇帝・国王そしてローマ教皇などのように誰でも即位できるのであれば、日本は戦争・内戦で大虐殺が起きる阿鼻叫喚の地獄地帯となっていた。
天皇制度を否定すると言う事は、そういう意味がある。
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日本を統一国家として一つにまとめる為に必要だったのが、大和天皇を中心とする日本版中華思想であった。
自国を世界の中心とする中華思想は、中華帝国(中国)、日本、琉球など多くの国々にあったが、唯一朝鮮にだけにはなかった。
朝鮮にあったのは、自立できない属国根性、小中華主義、事大主義であった。
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824年 第53代淳和天皇は、神代から続く万世一系の男系天皇制度(国體)を守り、外圧・外国勢力の介入による国家崩壊の内戦を回避し、大陸の侵略を防ぐ為に新たな新羅系渡来人移民・難民の入国を禁止した。
淳和天皇は、朝鮮系渡来人等の反乱を恐れ、勅を出して一回目の鎖国を宣言した。
831年 朝廷は、新羅と国内の半島系渡来人との接触を遮断するべく、九州の太宰府に新羅商人の私的交易の取り締まり強化を厳命した。
834年 東国に於いて。日本人百姓は、傲慢に日本人を見下し、平気で嘘をつき騙し、当然の権利として人の物を盗み、人を傷つけても反省せず、恥じない新羅人移民に激怒して、新羅人移住部落を襲撃した。
地方に定住した新羅系渡来人達は、自己防衛として武装して朝廷への年貢を強奪し、役所を襲って暴れ回っていた。
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843年 前筑前守の反乱。
870年 太宰府少弐藤原元利麻呂は、新羅国王と共謀して反乱を起こした。
日本国内の不満分子は、自己利益を朝廷の権力から守る為に、新羅の支援を受けるべく通じていた。
国際情勢を知り外交感覚を持つ日本人の野心家は、新羅や唐との友好・善隣に力を入れていた。
中華世界(中国・朝鮮)の侵略から日本国と日本民族日本人を守るのは、日本天皇しかいなかった。
ゆえに、日本民族日本人は命を捨てても日本天皇を守護してきた。
それが、本当の「国體護持」である。
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869年6月 貞観の入寇。新羅海賊船2隻が、博多に上陸して貢調船を襲撃し、年貢を掠奪して逃走した。
894年 唐の将軍も交えた新羅の船大小100艘と兵士2,500人は対馬を侵略した。
唐(中国)は、日本を朝鮮のような属国にするべく、日本への影響力を強めるべく新羅を利用していた。
統一新羅は、中華帝国の走狗として反日派敵日派であった。
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「日本は海に守られていた」を信じ公言する者は、歴史が正しく理解できない日本人か、正しい歴史を悪意を持って改竄・歪曲・捏造する日本人である。
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日本にとって、中華世界である中国や朝鮮はいつ侵略してくるか分からない恐るべき敵であり、そこに友好や善隣などは存在しない。
ゆえに、中華世界(中国・朝鮮)との友好・善隣を求める日本人を警戒しなければならない。
和やかに微笑みながら友好・善隣関係を求めてくる近隣諸国は、古代日本人同様に疑うべきである。
つまり、古代日本人は外国語が話せなかったが、現代の高学歴出身知的エリートよりも数段も国際感覚と外交能力は優れていた。
その証拠は、日本国内に於ける半島系渡来人による大きな反乱は1度しかなかった。
野心家の日本人は、味方を増やす為に外国人の入国を促進して保護した。
その意味で、古代から外国人の移民や難民に神経を尖らせていた。
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半島系渡来人の反乱を起こさない為に採用したのが、彼らを尊重する同化策であり、創氏改名として日本の姓を与え、各地に神社を建て彼らを日本の神として祀った。
つまり、半島系渡来人として異化では争いに原因になるとして日本民族日本人に同化させた。
それが、関東の地である。
関東には、朝鮮半島から逃げてきた人々の子孫が広く住み着いていた。
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古代人が生みだした異種と争わず共存共栄する方法とは、異種を消す為に同化させ神として祭り上げる事であった。
その為に、日本には半島所縁の神社が数多く存在する。
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古代朝鮮の百済、高句麗、古新羅は、現代の韓国・北朝鮮とは直接に関係ない。
そして、古代朝鮮の人々と現代の韓国人・朝鮮人との血筋は、日本民族日本人とは違い限りなく薄い。
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統一新羅は、敵対する唐に備えて軍事国家日本からの軍事支援を期待して、親善使節を日本に送っていた。
日本も、唐の侵略に備えて統一新羅を味方に付けるべく、親日派知日派の百済を滅ぼした仇敵であったが国防上の理由で新羅からの使節を受け入れていた。
だが、統一新羅は、唐との関係が修復され唐皇帝に忠誠を誓って臣下になるや、日本との友好関係を破棄し、水軍を派遣して対馬・壱岐・北九州などで虐殺・強奪・拉致などの海賊行為を始めた。
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地政学的に、朝鮮半島国家は中華帝国の臣下となり、日本への侵略の尖兵となって海賊行為を繰り返し日本人を惨殺し強制連行していた。
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朝鮮は冷徹な国益ファーストで、対日友好は「絵に描いた餅」に過ぎず、本心は日本との友好など望んではいない。
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親日派知日派の百済、高句麗、古新羅、渤海などの諸王国であった。
中華帝国の侵略で王国が滅亡するや人々は日本に逃げ込み、日本天皇と日本国に忠誠を誓って帰化人となり、日本に同化し、日本の発展に多大なる貢献をした。
日本人が感謝すべき朝鮮半島人とは、親日派知日派の諸王国であって、反日派敵日派を標榜する韓国ではない。
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