☲21〕─1─日本軍は、戦場での兵士による強姦と性病蔓延を予防し、占領地の治安を維持する為に慰安施設を必要とした。昭和17年~No.67 @ 

帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い

帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い

  • 作者:朴 裕河
  • 発売日: 2014/11/07
  • メディア: 単行本
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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 親日派朝鮮人は1割。反日朝鮮人は3割、中間の朝鮮人は6割。
 現代韓国では、親日派知日派韓国人ゼロ、反日派韓国人7割、中間の韓国人は3割。
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 日本人は、「死ぬ民族」として、強制的に徴兵されて戦死する運命であった。
 朝鮮人は、「生きる民族」として、志願して徴用工となって生きる事が許されていた。
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 昭和17年から昭和19年9月迄 朝鮮総督府は、日本国内の労働者不足を補う為に官斡旋を行い、朝鮮人を日本へ送り出していた。
 朝鮮人は、強制ではなく、自分から志願して徴用工になった。
 日本が、戦時中に徴用した朝鮮人は約17万人(法務省調べ)であった。
 韓国の調査では、徴用工は約22万人とさ、全員が強制的に徴用されたと訴えている。 
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 日本製造業は、一等国民の日本人青年が戦場に取られ労働力が不足した為に、徴兵制の対象外であった二等国民の朝鮮人を大量に徴用した。
 時間と金をかけて仕事を教えても徴兵に取られる事のない朝鮮人は、安定した労働力であった。
 日本人は国民として戦士を強要されたが、同じ国民であっても朝鮮人は戦死を免れていた。
 戦死は、朝鮮人とは違って日本人として生まれた定めであった。
 日本人は戦死し、朝鮮人は戦死しなかった。
 朝鮮人で戦死したのは、志願した者だけである。
 軍部は、朝鮮人に銃を持たせると背後から日本軍兵士を撃つ危険があるとして信用せず、志願した全員を日本軍兵士には採用しなかった。
 朝鮮人の熟練工や熟練炭鉱作業員は、引く手あまたであった。
 日本企業は、成案力を挙げる為に未熟な日本人労働者を雇うより彼らを引き抜く為に好条件を提供した。
 朝鮮人労働者には居住地移動の自由があり、職業選択も概ね自由であった。
 朝鮮人熟練労働者を雇っている企業は、競争他者に引き抜かれる事を恐れ、その熟練度に合わせて高給を払い、朝鮮人専用の遊郭を用意した。
 ただし。給料や待遇に不平不満をがなり立てて真面目に働かない不良朝鮮人は差別し、戦時下増産体制に邪魔として折檻して単純労働を強いた。
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 文学者達は、西洋に対する東洋の戦いである大東亜戦争を、軍事・経済ではなく文学・思想の面から西洋近代をどう乗り越えたら良いのかを議論し、雑誌『文学界』に「近代の超克」として掲載した。
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 1942年 朝鮮の総人口は、朝鮮人・日本人・外国人を合わせて約2,636万人で内日本人は75万2,823人であった。
 皇民化教育として日本語を公用語と教えても、習得できない朝鮮人が圧倒的多数いた。
 その為に。日本語普及率は、43年までになんとか22%に達していたと言われているが、日本人との会話に耐えられるのは12.3%に過ぎなかった。
 朝鮮総督府は、41年までハングル(諺文)電報を認めていたが、太平洋戦争により熟練者が減少した為に窓口業務の簡略化か日本語に統一した。
 子供教育に力を入れ、日米戦争による財政逼迫と物資不足にもかかわらず1面(村)2校の整備を完了した。
 設置された小学校は4,271校であったが、内地とは違って親の賛同が得られず完全義務教育が遅れていた。
 次ぎに、完全義務教育を翌43年から4年かけて完成させるべく資金を投入した。
 警官の半数以上が、朝鮮人であった。
 ソウルや地方の警察署を指揮する警視や警部などの中堅幹部の大半も、日本人ではなく朝鮮人であった。
 朝鮮人警察官が、朝鮮半島の治安を守り、犯罪は年々減少して42年どは約400件ほどしかなかった。
 朝鮮から従軍慰安婦や単純労働者の強制連行があったとすれば、それを行ったのは日本人ではなく、朝鮮人であった。
 戦時下の日本は、朝鮮人テロリストが混じっている朝鮮人を国内に引き込む事に不安を抱いていた。
 多摩川流域軍需品窃盗団事件、軍需品工場を荒しまわる組織的窃盗団、窃盗338件、104人検挙。
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 1942年当時 日本国内の中学以上の高等教育機関には、朝鮮人留学生が2万9,427人が在籍していた。その内、75%が中学生であった。
 朝鮮人学生は、日本国籍保有者として国政に対する投票権と立候補権はあったが、日本人学生とは違って国民としての徴兵義務がなく、日本軍に入隊するには志願しなければならなかった。
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 戦前までの朝鮮には、日本と同じ様に公娼制度が存在していた。
 日本の公娼制度は女郎であったが、朝鮮の公娼制度かキーセンであった。
 日本軍は、必要の数の慰安婦朝鮮人業者に依頼した事は事実で、如何なる理由がったにせよ広義的な強制連行責任はあった。
 朝鮮人業者は、日本姓名を名乗り、日本軍の依頼という名目的強制で、各地の公娼婦館に大金を約束して慰安婦募集を行った。
 人数が足りなければ、地方の貧しい農村地帯を廻り、前貸金を渡し騙して素人の女性を集めてきた。
 日本軍は、日本人慰安婦には年齢制限を課したが、朝鮮人慰安婦に関しては年齢制限を適用しなかった。
 性的異常者に近い日本人兵士は、年端もいかない朝鮮人慰安婦を好んで凌辱して楽しんだ。
 今も昔も、異常な性欲を持つ日本人がいたことは事実であり、日本人女性より外国人女性を好む日本人もいた。
 日本人兵士の行く所に、慰安婦がいた。
 今も昔も、セックスにだらしない日本人が存在する。
 現代日本の雑誌は、外国人でも呆れ嫌悪するほどに、女性の裸の写真が溢れている。
 中には少女の写真を掲載する雑誌さえあって、女性人権団体から少女虐待と非難されている。
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 日本軍部は、兵員不足を補う為に陸軍特別志願制度を発表した。
 台湾で1,000人の志願兵を募集したところ、台湾人青年約40万人が応募した。
 多くの台湾人青年が、血書嘆願してまで日本軍に志願した。
 そこには、強制は存在しなかった。
 靖国神社には、約2万8,000人の台湾人志願兵の英霊が祀られている。
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 東條英機内閣は、戦争の拡大で国内の労働力不足を補うべく「華人労働者内地移入に関する件」を閣議決定した。
 軍国日本は、激しく抵抗した抗日中国人兵士捕虜数万人を労働者として強制的に国内に連行して働かせた。
 その結果、中国人労務者6,830人が死亡した。
 仙台俘虜収容所長は、監視を多数付けて牛馬の如く働かせたと証言した。
 中国・アメリカ・イギリスなどと戦っている資源小国日本は、数万人の敵国人を国内に移住させて数万人の日本人監視を付けて働かせていた。
 其れは、外の敵に加えて内に敵を抱えるという敗北必至の愚策であった。
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 2月 戦争の激化で日本人労働者が不足した為に、朝鮮でも徴用令が施行され官斡旋が始まった。
 この徴用は、朝鮮人の強制連行とされた。
 朝鮮人総人口約3,000万人中200万人以上(最大400万人)の朝鮮人男子が、奴隷の様に日本に連れ去られ、日本各地の工場や炭鉱で重労働を強要されたと言う。
 朝鮮人は、強制連行されても抵抗せず。
 同じ朝鮮人でありながら、非人道的な扱いをされても、激怒して抗議行動も起こず、報復の為の反日暴動を起こさなかった。
 自己中心的な個人主義朝鮮人にとって、他人がどの様な災難に見舞われようとも、自分が不利益を蒙らなければ気にもとめなかった。
 サムライを気取る日本人は、弱い者イジメを嫌い、女性や子供を助ける為ならば犠牲になる事を厭わなかった。
 それが、大和魂による真の「特攻精神」である。
 「神風」とは、命を捨てても、祖国や郷土を女性や子供を守りたいという、止むに止まれぬ自己犠牲であった。
 そこには、殉教者という偏狭な宗教的狂信さも、革命家の様な殺人狂的〜イズムも無縁であった。
 今の日本。現代日本から、無くなりつつある伝統的精神主義である。
 朝鮮には、日本の様な他者を思い他者の為に戦って死ぬよいう悲壮な心情は存在しない。
 それが、強制連行の実態である。
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 3月5日〜8日 シンガポールの昭南日報は、「各民族の接待婦数百名、17〜28歳、月給少なくとも150ドル、娼婦経験者可(受付ラッフル・ホテル)」
 日本軍は、占領地での日本兵による地元住民に対する暴行や性犯罪を警戒し、同時に性病の蔓延で少ない兵力が戦闘不能に陥る事を恐れ、現地の業者に慰安施設の開設を依頼した。
 日本人の多くが兵士として徴兵されていた為に、慰安婦施設の経営と慰安婦との契約は、主に徴兵対象外の朝鮮人がおこなっていた。
 日本人兵士は最前線だ戦い、朝鮮人軍属は後方で土木工事や物資輸送や収容所管理などをおこなっていた。
 慰安施設の管理・監督とし、医師と看護婦を常駐させて、慰安婦らの性病予防などの健康管理を徹底させていた。
 朝鮮人や中国人の斡旋業者は、慰安婦との契約をおこなっていた。
 従軍慰安婦は、日本人娼婦が大半であったが、朝鮮人や中国人やその他の国の女性も混じっていた。
 多くの日本人娼婦の慰安婦は、「俘虜の辱めを受けず」との精神から、各戦場で日本兵と共に運命を共にして万歳突撃や集団自決をして死んだ。
 現代において、朝鮮人や中国人などの元従軍慰安婦は存在するが、日本人の元従軍安婦は存在しない。或いは、嫌らしい娼婦として人権を否定され完全無視されている。
 だが。日本人従軍慰安婦は、日本国民の一員として、祖国日本を守る為に命を捨てて戦った。
 日本人従軍慰安婦の大半が、地方農村の極貧農家の娘で、昭和9年・10年の大凶作で借金と飢餓で飢え死にしかけた家族を救う為に売られてきていた。
 現代日本の都市で活躍する市民団体は、大凶作で借金地獄に追い込まれていた農村を切り捨て、餓鬼地獄のような生活にあった農村出身の娼婦を淫らな女と嫌悪し、その人権を否定している。
 明治以降の都市は、農村を切り捨てる。
 都市の投資家は、中小農家を借金付けにし、借金の抵当として農地を巻き上げて寄生地主となっていた。
 中小農家は、都市の投資家・寄生地主小作人に転落し、多額の小作料でやっと食いつなぎ、不平を言えば容赦なく小作地から追放されていた。
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 4月 労働者が確保できない事業者は、朝鮮における労働者確保の為の条件緩和を求めた。
 日本政府は、強制ではなく朝鮮人の自由意思を尊重する「官斡旋」を決定した。
 事業者は、朝鮮総督府許可申請を行い、役場を通じて労働者を募集した。
 朝鮮人労働者の自由意思を尊重した為に、職場が気にくわなかったり、賃金及び労働条件に不満があったら止めて、待遇のいい職場や条件のいい作業場に転職した。
 日本政府も軍部も、戦争遂行の為の軍需物資生産を朝鮮人労働者に頼らざるえず、戦争の勝利の為に銃後の国内の治安を維持する必要があった。
 国内の朝鮮人労働者を監視する為に、戦場の兵力を割くわけには行かなかったのである。
 連合軍と戦っている日本の国力、兵力、軍事力には、全くと言っていいほど余裕はなかった。
 その為に、自然と朝鮮人優遇策をとらざるを得なかった。
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 5月13日 長崎丸沈没事故。
 {2016年5月28日 産経ニュース「【大人の遠足】長崎丸沈没の責任を取り自決した菅源三郎船長の石像が学生たちを見守り続け…東京海洋大越中島キャンパス
 菅源三郎船長の銅像 愛媛県・菊間
 東京高等商船学校の流れを汲み、重要文化財明治丸などの重厚な歴史遺産群がある東京海洋大越中島キャンパス(東京都江東区)。そこに、ひっそりたたずむ一体の石像がある。74年前の5月、船沈没の責任を取って割腹自決した卒業生、菅源三郎・長崎丸船長(1883〜1942年)。そのまなざしは、戦後の価値観の転換により忘れられた武士道精神、そして平和のありがたさを静かに語りかけている。
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 荘厳な石造りの1号館脇。
 柔和な目、双眼鏡を手に背筋を伸ばした姿が、木漏れ日を浴びて薄灰色に浮かび上がっていた。「コンクリートみたいな材質ですよね」。OBボランティアガイドの藤田善範さん(88)が、像の表面をそっとなぞった。
 建立は昭和20年1月。「立派な銅像を建てたかったでしょうが、金属供出の戦時下。物資不足のなか像が立てられるほど、国民から大変な尊敬を受けていました」。当時、旧制中学に通っていた藤田さんも感銘を受けて同じ道に進み、船長を務めたという。
 貨客船でありながら、先の大戦で米国船を座礁させる功績を上げた長崎丸。船長自決の経緯は、当時の新聞などによると次の通りだ。
 昭和17年5月13日、長崎港外で日本海軍が敷設した機雷に触れ沈没。船と命運をともにした菅船長は、海上に浮かび生き延びたものの、後始末を終えた1週間後に自決した。死者・行方不明者39人。海軍の不手際による事故で船長に過失なしとされたが、「それでは海員道が相立たぬ」と遺言した。海員道とは、船員の武士道という。
 命をかけて職責を全うしたが、大学の史跡めぐりの案内には自決の件は書かれていない。「残念」と藤田さん。「一切の言い訳をせず、船長として全責任をわが身に負った明治の男の爽快な気構えに、感服するばかりです」
 菅船長の像は、戦後も複数制作され、故郷の愛媛県・菊間には昭和30年に建立された。足を伸ばすと、瀬戸内海を見下ろす高台に堂々たる銅像が立つ。一時は雑草に覆われていたが近年顕彰の機運が高まり、昨年、慰霊祭も開かれている。
 菅船長の研究に取り組む船員の渡辺伸吾さん(60)が、次女の杉山春子さん(94)が神奈川県内で健在だと教えてくれた。
 「海洋大の像が一番、面影がある。温かい雰囲気で。除幕式で初めて見たとき、父にまた会えた気がした。たまに訪ねているし、像の写真も部屋に飾ってあるんですよ」と、明るい声で話す。
 自決の報を聞いたとき、春子さんは東京の文化学院で美術を学んでいた。「女性が好きな道を進むことに、とても理解のある父でした」
 民主的な気風も備えた人格者。戦後どれだけ活躍されたか…と思うと、惜しまれる。
 「父は立派でしたが、娘としては悲しかった。あんな時代がまた来ないように見守っている。それが、あの石像なのではないでしょうか」(重松明子、写真も)
 東京海洋大越中島キャンパス 東京都江東区越中島2の1の6。OBによる明治丸のガイドは火・木曜と第1、3土曜に実施。申し込みは、明治丸海事ミュージアム事務室(電)03・5245・7360。」}
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 6月5日 ミッドウェー海戦。空母「飛龍」の山口多聞司令官と加来止男艦長は、敵の猛攻を受けても最後の最後まで諦めず死力を尽くして戦い、多くの戦死者をだしてつい戦闘不能に陥り、艦と運命を共にして海に沈み戦死した。
 日本海軍軍人はもとよりに民間船舶会社のサラリー船長も、沈没する船に最後まで留まり、数多くの部下や船員及び乗船客を助けながら船と運命を共にして殉職した。
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 7月6日 日本海軍設営部隊は、ガダルカナル島に上陸してルンガ飛行場を設営した。
 アメリカ軍は、8月7日に飛行場を奪取するべく第一海兵師団1万1,000人を送り込んだ。
 ガダルカナル島の攻防。
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 8月 インド国民会議は、「イギリスのインド撤退要求」を決議し、不服従運動を行った。
 イギリスは、インド支配を続け為に同派の幹部ら4万人を逮捕した。
 インド人独立派は、弾圧に抗議して暴動を起こした。
 イギリス軍は、インド人暴動が日本軍と組んで独立紛争に発展する事を恐れて、武力を持って鎮圧に乗り出した。
 犠牲者は、1万人以上であった。
 ヨーロッパ列強諸国は、植民地を維持する為に地元住民の独立派を弾圧し、拷問にかけ、そして虐殺した。
 キリスト教会は、非白人犠牲者の冥福を祈った。
 独立派インド人は、反日朝鮮人とは違って祖国独立の為に戦っていた。
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 8月1日 李垠殿下は、帝国陸軍将校として第1航空軍附となる。
 朝鮮人学徒志願兵は、将校として任官して戦場に送られ日本人兵士を指揮した。
 朝鮮では、独立を求める反日暴動も、戦争反対の反戦運動も、何も起きてはいなかった。
 日本軍部は、南方戦線に主力部隊を派遣して、朝鮮半島には予備部隊しか配置できなかった。
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 独立派朝鮮人は、軍国日本が敗北して祖国が植民地支配から解放される様を、ほくそ笑みながら高みで見物していた。
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 日本軍は、兵力が不足していたが、それ以上に武器弾薬やガソリン・石油も不足していた。
 そして、前線への補給も滞っていた。
 日本軍は、兵站が脆弱で、前線は絶えず兵員、武器弾薬、ガソリン・石油が足りなかった。
 日本軍の玉砕・全滅は避けられない運命にあった。
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 8月7日・8日 フロリダ諸島の玉砕。
 日本軍(海軍のみ) ツラギ島 第84警備隊(司令・鈴木正明 中佐)約400人。
 ガブツ島 、横浜海軍航空隊(病院班・舟艇班・工作班)約100人。
 タナンボゴ島、横浜海軍航空隊大艇隊(司令・宮崎重敏 大佐)350人。第14設営隊120人。工作関係部隊50人。特陸派遣隊20人。
 フロリダ島、横浜海軍航空隊二式水戦隊60人。
 日本軍守備隊計約1,100人。
 ほぼ全員戦死。捕虜3人。
 アメリカ 第1海兵師団4個大隊。計約8,000人。
 戦死122人。
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 太平洋上の島々に配置された日本軍守備隊の玉砕が始まった。
 その時、日本軍にいた朝鮮人志願兵や軍属はどうなったか。
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 9月 戦線の拡大に伴い、日本人青年男子が国民の義務として徴兵され労働不足しはじめた。
 次官通達として「女子勤労動員の促進に関する件」を出し、日本人女性にも戦争協力を求めた。
 女性も男子に負けない様に御国に奉公すべきという気運から、国内各地で自主的に女子挺身隊が結成され工場の現場に立った。
 老父母を介護する・子供を持つている・身体的障害など病気を持ちているなどの理由を抱えている女性は免除され、あくまでも職を持たず家にいる女性が対象とされた。
 こうした奉仕活動に参加しなかったり批判的な発言する者は、国防婦人会や町内会から非国民として嫌がらせや差別を受けた。 
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 10月1日 総督府は、戦時中を理由にして、反天皇反日運動容疑で朝鮮語学会員を大量に検挙した。
 この朝鮮人弾圧は、非人道的戦争犯罪とされた。
 軍国日本はアジアで孤立し、真に味方となってくれる国はなかった。
 戦争を戦う為に、朝鮮語教育を制限して、日本語の習得を強要した。
 反日朝鮮人独立運動家は、民族語の抹殺として猛反対し、日本語普及に抵抗して、日本語を使用しない様に朝鮮人を説得した。
 知識人朝鮮人は、子供達への日本語と朝鮮語の併用を希望した。
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 日本が最も恐れたのは、共産主義の浸透であった。
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 12月8日 東部ニューギニアのバサブア守備隊玉砕。日本軍800人死亡。
 ニューギニアの日本軍は、多くの戦死ではなく餓死者や病死者を出したが、後退しながら戦っていた。
 前線に取り残された数多くの日本軍部隊は、敵の猛攻に晒され、救援を得られず玉砕していた。
 それは、生き地獄であった。
 日本軍兵士は、絶望的状況で助かる事はないとわかっていても、「諦める」事なく、最後の最後には勝利する事を信じ切って戦っていた。
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 2018年10月19日 産経新聞「徴用工訴訟、30日に判決 韓国最高裁
 【ソウル=名村隆寛】日本による朝鮮半島統治下で、徴用工として日本の製鉄所で労働を強いられたとし、韓国人4人が新日鉄住金(旧新日本製鉄)を相手取り損害賠償を求めた訴訟の差し戻し上告審について、韓国最高裁は19日、判決を今月30日に言い渡すことを発表した。
 訴訟は、1941〜44年にかけ新日鉄の前身であった日本製鉄の製鉄所(岩手県釜石市)で労働を強いられたと主張する原告ら4人が2005年に起こした。
 請求権問題は1965年の日韓請求権協定で解決済みであり、1、2審では原告敗訴の判決が出された。
 しかし、最高裁は12年5月に上告審で「植民地支配の合法性について韓日両国が合意しないまま協定を結んだ状態で、日本の国家権力が関与した不法行為による損害賠償請求権が請求権協定で解決されたとみるのは難しい」とし、「個人請求権は消滅していない」と判断。2審判決を破棄し、差し戻した。
 ソウル高裁は13年7月の差し戻し審で、新日鉄住金に計4億ウォン(約4000万円)の賠償を命じる原告勝訴の判決を言い渡した。新日鉄住金は「請求権は消滅した」とする日本政府の見解に基づき上告。だが、最高裁は5年以上、確定判決を出さず、今年8月末に上告審の審理を始めた。 
 今回の再上告審では「個人の請求権」について韓国の司法が最終的に認めるかどうかが焦点となる。請求権を認める確定判決が出た場合、今後の日韓関係に悪影響が及ぶのは不可避となる。
 訴訟をめぐり韓国では、日韓関係の悪化を危惧した朴槿恵(パク・クネ)前政権の意向に最高裁の所属機関が配慮し、進行を遅らせたとの疑惑までが浮上。15日には検察が当時の責任者を出頭させ、取り調べた。」
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抵抗の拠点から 朝日新聞「慰安婦報道」の核心

抵抗の拠点から 朝日新聞「慰安婦報道」の核心

  • 作者:青木 理
  • 発売日: 2014/12/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
ひと目でわかる「慰安婦問題」の真実

ひと目でわかる「慰安婦問題」の真実