☲28〕─1─拉孟守備隊・騰越守備隊・ミイトキーナ守備隊。戦場から逃げた朝鮮人軍属。昭和19年~No.106No.107No.108  @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 軍国日本にとって朝鮮は味方か?敵か?。
 戦場では、鉄砲の弾は前の敵からではなく、味方が居て敵が居ないはずの横や後ろからも飛んでくる。
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 日本人の兵士が玉砕あるいは特攻している時、
 民間人が飛び降り自決していた時、
 朝鮮人は、何処にいて、何をしていたのか?
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 日本人の兵士が玉砕している時、
 日本人の一般市民と日本人慰安婦が集団自決している時、
 朝鮮人軍属や朝鮮人慰安婦達は如何していたのか?
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 慰安婦は、朝鮮人女性より日本人女性の方がはるかに人数が多かった。
 日本人慰安婦は逃げずに死んだ。
 朝鮮人慰安婦は逃げ降伏して助かった。
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 日本軍は、戦友として共に戦う親日派朝鮮人には武器を与えたが、戦う気のない反日朝鮮人は戦闘に邪魔にならない後方に遠ざけた。
 戦争の時代に於いて、命を大事に死を覚悟にして戦わない卑怯者は目障りであった。
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 当時の日本人は、中国軍の捕虜になると、中国人兵士達によって世にも恐ろしい方法で惨殺される事を知っていただけに、捕虜になるより死を選んだ。
 つまり、戦陣訓の「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」は、中国戦線においては正しいかった。
 非人間的殺人集団ともいうべき中国軍の捕虜になる事を勧めるのは、無責任で有り、狂気名沙汰であった。
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 中立国アメリカは、1939年頃から、ファシスト・中国が日本軍に勝利する様に中国軍に軍事支援を行い、日本軍が敗北する様に軍国日本に対して経済制裁を行っていた。
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 火野葦平「泥によごれし背嚢にさす一輪の菊の香や 異国の道をゆく兵の眼にしむ空の青の色」
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 桐山靖雄「(靖国神社に祀られた英霊への感謝して)生き残った人々は、自分は独りではないという事、家族や同胞、連綿と続く命の絆を実感したでしょう。その絆は、今生きている者同士だけにあるのではなく死者との間にもある。こんも死者との結び付きを忘れてしまったら、日本人は日本人でなくなると思っています」
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 日本軍兵士は、絶望し、自暴自棄となって狂い死にしたわけではない。
 日本軍は、絶体絶命の窮地にあっても諦める事なく、生きる為に全力を尽くして戦った。
 今やるべき事に全神経を集中し全体力を尽くしきって戦った。
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 1942年 ジョセフ・スティルウェル中将は、反撃の為にインド東部コルカタカルカッタ)近郊のランガールや昆明に軍事訓練所を設置し、敗残兵や徴用した農民達合計数万人にアメリカ製武器を与えアメリカ式軍事教練を行った。
 アメリカ軍と中国軍を指揮したのは、中国人将軍ではなく、参謀として従ったアメリカ軍将校団であった。
 アメリカ軍は、太平洋戦線での攻勢を続ける為にも、日本陸軍主力部隊を中国大陸で釘付けにし、武器弾薬を大量消費させる必要があった。
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 1944年6月2日(〜9月7日) 拉孟(ラモウ)守備隊玉砕。
 日本陸軍は、ビルマ・援蒋ルートを遮断するべく第33軍を新たに編成した。
 第33軍は、1942年に雲南省ビルマとの国境付近にある拉孟・騰越地区に第56師団を派遣し占領した。
 拉孟は、中国名で松山といって、無名の廃村であった。
 第56師団の歩兵第113連隊長(連隊長松井秀治大佐)は、拉孟に堅固な防衛陣地を築き、武器弾薬や食料・医薬品を集積させた。
 また、軍属によって酒保(売店)や慰安所が開設された。
 1943年中頃以降 松井連隊長は、反撃に転じた20万人の雲南遠征軍(中国・アメリカ軍)に対応するべく連隊兵力を分散配置した。
 拉孟守備隊は、野砲兵第56連隊第3大隊長金光恵次郎少佐が指揮し、兵力は1,280人であった。
 敵の襲撃に備えて、約100日分の弾丸と食料を備蓄した。
 6月 重慶は、援蒋ルート遮断後も空輸によって中国軍の増強を図り、ビルマ・ルート再開の為に各地で反撃に転じ、圧倒的兵力で数に劣る日本軍を攻撃した。
 雲南省の日本軍・第33軍は、補給路を断たれて孤立し各守備隊に対し、援蒋ルート再開阻止の為に撤退命令を出ず、さりとて予備兵力がなかった為に救援部隊も送られなかった。
 6月2日 ジョセフ・スティルウェル米陸軍大将は、拉孟攻略に、蒋介石の直系栄与第1師団を中心とする5個師団4万8,000人を差し向けた。
 蒋介石直属部隊であっただけに、他の中国軍に比べて士気は旺盛で、新式装備が配備された優秀な精鋭部隊であった。
 守備隊長金光恵次郎少佐は、上層部の死守命令に従い全滅覚悟した。
 敵の重包囲網の中から、同地にいる従軍慰安婦20名(日本人慰安婦15名・朝鮮人慰安婦5名)を如何に逃がすかが問題であった。
 慰安所においては、日本人女性の方が多かったが、辺境の最前線では報酬が多かった為に朝鮮人女性の方が多かった。
 慰安婦達は、日本軍兵士と共に戦うとの申し出て、軍服を着、鉄兜をかぶり、戦場を走り回って負傷した兵士を看護し、そして弾丸飛び交う中を弾薬を運んだ。
 負傷した日本兵士は、援軍も補給もなく、孤立して玉砕する事が分かっていても逃げだす事なく戦い続けた。
 6月28日 日本軍は、孤立無援となった各守備隊に対し、陸軍機による空中補給作戦を実施した。
 日本軍は、最初から見捨てたのではなく、出来うる限りの支援を行っていた。
 アメリカ陸軍戦闘機は、日本軍機を攻撃しその多くを撃墜した。
 地上では。中国軍が、投下された物資の多くを奪って、日本軍守備隊に渡らないようにした。
 9月6日 金光少佐が戦死した為に、副官の真鍋邦人大尉が指揮を執った。
 9月7日 真鍋大尉は、抗戦はこれまでと判断して軍旗と重要書類を焼き、木下昌己中尉ら3名に第33軍本部への報告を命じて脱出させた。
 生き残っていた朝鮮人慰安婦5名は、殺すには忍びないとして脱出させ、山を下りアメリカ軍に投降させた。
 「日本人でなければ、殺されない」
 日本軍兵士が朝鮮人従軍慰安婦を虐待し殺した事はなく、日本軍は日本人女性とは違ってむしろ逃していた。
 死ぬ間際で、慰安婦と結婚した日本軍兵士もいた。
 朝鮮人慰安婦達は、真鍋大尉の指示に従ってアメリカ軍陣地に逃げて保護された。
 もし、間違って中国軍陣地に逃げ込んだら命の保証はなかった。
 日本人は、サムライ精神から、朝鮮人を一緒に死ぬ仲間ではないとして差別し、自決を志願しない朝鮮人を生き恥を晒す卑怯者として軽蔑し、神聖な玉砕の場から金を持たせて追い出していた。
 日本人は死を事を定められた一等国民として上位に置かれ、朝鮮人は死ぬ事を定められていない二等国民として下位に置かれていた。
 15名の日本人慰安婦達は、敵軍の捕虜になり強姦され生き恥をさらす事を潔しとせず、大和撫子の決意として、大事に持っていた和服に着替え、最後の化粧をし日本人女性として青酸カリを飲んで集団自決した。
 日本人慰安婦は、貧困ゆえに家族を食わせる為に従軍慰安婦となって異郷の地に来て、戦場に巻き込まれて死ぬ事となったが、身の上の不運と諦め、昭和天皇も政府も軍部も誰を恨む事もなく、祖国日本を愛し、故郷の父母・兄弟を想い、哀しみを堪え、笑顔で死を迎え、自決した。
 彼女らが、狂信的な軍国主義者であったわけではなく、洗脳された不幸な日本人であったわけではなく、嘘偽りもなく、自然体として素直にして純粋な気持ちで死を迎えた。
 たとえ、売春行為をして身体を汚していても、心は純粋無垢な乙女であった。
 日本人兵士は、日本人慰安婦を差別したり軽蔑したりせず、苦楽を共し死んで行く同じ日本人として接していた。
 中国軍の捕虜となった日本人兵士は、収容所で日本人慰安婦4名と朝鮮人慰安婦5名を目撃したと証言した。
 日本軍守備隊は、全滅した。
 中国軍の被害は、戦死者4,000人、 負傷者7,000人以上であった。
 日本人慰安婦は、身は汚れて異郷の地で朽ち果てようとも、霊魂は清らかとなり故郷の鎮守様の杜に帰って家族に会える事を信じた。
 日本人は、死ぬと神や仏になって家族の元に帰るという、祖先神・氏神の人神信仰を持っていた。
 心弱い日本人は、家族から離れて、神の国・天国に行って永遠の命を得て永久に幸せに生きるよりも、貧しく苦しく悲惨であっても家族の元に帰って家族を見まりながら静かに眠る事を希望した。
 日本の死後の世界には、家族から離れたキリスト教が説く栄光に包まれた神の国などはない、あるのは祖先が祀られている家の近くにある神道の神社にあり、さもなくば仏教における極楽・浄土ぐらいである。
 日本軍将兵も、靖国神社に英霊として祀られ、愛する家族と靖国神社で会える事を信じていた。
 朝鮮人で、日本人と玉砕する事を志願した朝鮮人兵士を日本の神として靖国神社に祀った。
 現代日本人には、彼女らの清んだ気持ちを理解できる者は少なく、靖国神社を戦争を美化する場所であると否定するも者には絶望的に不可能である。
 若し、哀しみを堪えて死んで行った日本人の心情が理解できると言う反靖国派日本人がいたら気を付けた方が良い。
 昭和天皇は、靖国神社に神として祀られている、日本人兵士と共に戦死した朝鮮人兵士や台湾人兵士、従軍看護婦や学童、軍馬・軍犬・軍鳩らに日本を代表して感謝の意を持って頭を垂れていた。
 日本を代表して参拝する資格があるのは、唯一、神の裔である天皇のみである。
 選挙で選ばれた任期を持った総理大臣の公式参拝と、任期を持たない祭祀王・天皇公式参拝は、歴史と伝統という重みからして全く異なるものである。
 総理大臣や政治家の公式参拝などは、吹けば飛ぶような薄っぺらい紙切れにすぎない。
 祭祀王・天皇公式参拝は、2000年以上という時間と空間を越える、神聖不可侵の伝統と文化と宗教の重みがある。
 この神聖は、世界中に他に例がないものである。
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 日本人は、「恥」を嫌った。
 女性を辱める事は「男の恥」として忌み嫌っていた。
 子供を虐待し殺す事は「大人の恥」と嫌悪した。
 弱い者イジメをする事は「人の恥」と憎んだ。
 日本軍が相手にしたのは、何時の時代でも自分より強い相手であり、自分よりも弱い相手ではなかった。
 日本人は、自分自身に恥じて生きる事を最も嫌った。
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 中国と朝鮮は、川に落ちた犬を打ち据えて喜ぶ。
 強い相手は戦わずに逃げて、弱い相手は攻撃して根絶やしにした。
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 日本人と中国人・朝鮮人は、正反対である。
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 日本人兵士は、生きて祖国の土を踏めない事を知っていただけに、朝鮮人慰安婦に同情し生きて朝鮮半島に帰れる事を願って逃がしていた。
 日本人の心の支えは、死して後に靖国神社に神として祀られる事であった。
 靖国神社があったればこそ、玉砕を覚悟で戦っていた。
 靖国神社は、日本人にとって特別な神社であった。
 靖国神社の桜を思い、故郷の山河を思い、死ぬ為に戦っていた。
 靖国神社
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 真のサムライは、全滅覚悟で、悲しいほどの愚直さで命令を遂行した。
 サムライの勇気とは、過去の祖先と未来の子孫の為に自分を犠牲にする事であった。
 靖国神社の信仰とは、限りある肉体の快楽ではなく、永遠にこの世に残る霊魂の存在である。
 故に。日本将兵は、不死の霊魂になる為に肉体を銃弾が飛び交う戦火に放擲した。
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 激戦の最中。兵士は敵の進撃を食い止め陣地を守るというに任務に没頭して、死への恐怖はなくなっていた。
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 アメリカ、中国、韓国・北朝鮮など幾つかの国々は、国の命令で無理矢理徴兵され戦死した日本兵士の霊魂を祀る靖国神社を完全否定し、有名兵士の霊魂を追悼しない無名兵士の国立記念碑を建てる事を要求している。
 彼等は、靖国神社の廃絶を望んでいる。
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 日本軍は、日本兵士が慰安婦と性交渉を行って性病に感染して戦力が低下する事を恐れて、駐屯地近くにある慰安所の衛生管理を徹底して行っていた。
 慰安所は、売春施設であって強姦所(レイプ・センター)ではなかった。
 日本人慰安婦より数が少なかった朝鮮人慰安婦は、拉致され無理矢理慰安所に強制連行されたわけではない。
 性奴隷(セックス・スレイブ)として、自由を奪われて慰安所に監禁され、強姦されるように性交渉を強要されたわけではない。
 そして、証拠を隠滅する為に大半が虐殺されたわけではない。
 日本人兵士は、朝鮮人軍属とは違って何時死ぬか分からない身の上である為に、慰安婦と疑似恋愛を愉しんでいた。
 確実な死を目の前にした日本兵士は、慰安婦を疑似恋愛の恋人を助けたいと思い、何とか逃げられるように祈った。
 20代の日本男児は、死を前にして、男粋として顔で笑って心で泣いて見栄を張っていた。
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 日本陸軍は、兵士に支給した給金の内3分の1を半強制的に郵便貯金させた。
 兵士は、3分の2を外出時の飲食費と日常雑貨費にあてた。
 一般将兵の給料は一ヶ月平均13円で、サラリーマンの初任給が40円であった。
 兵士は、日用雑貨費の中から慰安所への支出を工面していた。
 憲兵隊は、慰安婦に正規の料金を払わない不届きな兵士を取り締まっていた。
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 朝鮮人慰安婦は、慰安所で稼いだ大金を持つてアメリカ軍陣地に逃げ込んで保護された。
 なぜ、アメリカ軍で中国軍ではなかったのか。
 戦時中の朝鮮人は、日本国籍の威を借りて中国人を軽蔑して威張っていた為に、中国人から日本人以上に嫌われていたからである。
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 南方戦線に配置されたの日本軍部隊は、借金を返し貯金して朝鮮へ戻る事を希望している慰安婦をあくどい手口で許さない朝鮮人悪徳業者を罰し、彼が経営している慰安所を廃業させ、悲惨な生活を強いられていた朝鮮人慰安婦を解放して自由の身とした。
 慰安婦には、廃業の自由があった。
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 国連と各種国際機関及びアメリカ、中国、韓国・北朝鮮と数多くの国は、1944年頃、日本軍は朝鮮で朝鮮人女性を従軍慰安婦にする為に強制連行したと断定し、日本批判を強めている。
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 日本国内には、日本を憎む反日的日本人が存在する。
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 6月27日(〜9月13日) 騰越(トウエツ)守備隊玉砕。
 騰越は、最前線の拉孟から北東60キロ地点にある、雲南省怒江西地区随一の城塞都市で、騰越平野のほぼ中央にある。
 人口4万人で、漢民族、タイ人、シャン人など住んでいた。
 第33軍は、騰越防衛するには少なくとも3個連隊(約7,000人)を必要とする事が分かっていても、兵力不足に為に多くを派遣できなかった。
 第55師団(『壮』)師団長水上源蔵少将は、拉孟、ナムカム付近に降下した英軍空挺部隊掃討の為に、騰越を蔵重康美陸軍大佐に託して出撃した。
 ジョセフ・スティルウェル米陸軍大将は、騰越攻略の為に4万9,600人を派遣した。
 7月27日 蔵重大佐は、2,800人の兵力で騰越城に籠って抵抗した。
 日本人と朝鮮人慰安婦7名は、日本軍と共に戦い手榴弾で集団自決した。
 中国軍収容所で、朝鮮人慰安婦6名が目撃された。
 9月13日 騰越守備隊は玉砕した。
 中国軍被害は、戦死者9,168人、負傷者1万200人。
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 7月26日 来鳳山玉砕。
 9月8日  松山玉砕。
 9月14日 騰衝城陥落。
 9月15日 連合軍映画班は、騰衝城とその周辺の激戦地の後を記録する為に撮影した。
 9月20日 中国国民党の機関紙『掃蕩報』(7月31日の騰衝城内での取材として)「軍(日本軍)についてきた朝鮮人女性三十余人の営妓(慰安婦)、台湾籍の通訳3人、対日協力者3人らが同29日午前、我が軍に投降した。」
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 日本軍は、敗北・玉砕するに当たり、朝鮮人や台湾人を連合軍に投降させて助けた。
 ましてや、非戦闘員である朝鮮人慰安婦や軍属を証拠隠滅として殺す事はなかった。
 ただし、日本人の慰安婦や軍属は本人が希望すれば共に玉砕した。
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 ミイトキーナは、騰越から北西にあり、ビルマ北部最大の要衝でインド・中国間の空輸ルートの中継点である。
 5月17日 ガラハッド部隊を中心とする空挺部隊と地上部隊は、ミートキーナ郊外の飛行場を急襲し奪取した。
 ミートキーナ市を守備していたのは、歩兵第114連隊(丸山房安大佐)であった。
 水上源蔵少将は、第56師団から増援部隊を率いてミートキーナに駆けつけ、兵力は約3,000人となった。
 7月10日 ミートキーナ攻防戦。中国軍3個師団とアメリカ軍工兵隊及び歩兵部隊は、ミートキーナ市を攻撃した。
 第33軍作戦参謀辻政信大佐は、本多軍事司令官の名で、玉砕を命ずる暗号電報を水上少将に送った。。
 1,軍は主力をもって龍陵正面に攻勢を企図しあり。
 2,バーモ・ナンカン地区の防備未完なり。
 3,水上少将はミイトキーナを死守すべし。
 水上少将は、返電した。
 1,軍の命令を謹んで受領す。
 2,守備隊は死力を尽くしてミイトキーナを確保する。
 7月12日 米中連合軍の攻撃が始まる。
 日本軍守備隊は、15倍以上の敵の攻撃によく耐えたが、戦死傷者が続出し、補給がなかったために弾薬や食糧も底をつき始めた。
 7月下旬 南方軍総司令部は、ミートキーナ守備隊の玉砕は近いと判断して、水上少将に暗号電報を送った。
 「貴官を2階級特進せしむ」
 さらに、その2日後に更に電報を送った。
 「貴官を以後軍神と称せしむ」
 日本軍の愚かさの極みであり、戦死した将兵は浮かばれないほどの無神経さである。
 8月1日 水上少将は、残存する守備隊に対し、ミートキーナ死守からミートキーナ付近死守に変更して、イラワジ対岸を目指して南への転進を命じた。
 8月2日 水上少将は自決し、脱出する兵士が敵前逃亡で軍法会議にかけられないように。「ミートキーナ守備隊の残存しある将兵は南方へ転進を命ず」の命令書を残した。
 連隊本部は、命令に従って残った兵を集め、夜陰に紛れて敵の包囲網を突破して退却した。
 野戦病院では、動けない重傷者や病人の処分が決められ、一発ずつ手榴弾が渡された。
 動ける者は戦友の助けを借りて移動したが、途中で動けなくなった者は自決した。
 生き残った将兵は、約700人であった。
 アメリカ軍は、朝鮮人慰安婦達を保護して事情聴取を行い、日本軍と朝鮮人慰安婦に関する報告書をワシントンに送った。
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 9月
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 日本人は、中国人や朝鮮人とは違って絶望的な状況に追い込まれても、最後の勝利を信じ、考えられ事や実行できる事は全て行い、持てる力を全て使い諦める事なくよく戦った。
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 ビルマ方面で、日本軍陣地から逃げてきた朝鮮人慰安婦達が連合軍に保護された。
 アメリカ軍情報機関は、朝鮮人慰安婦を事情聴取し、従軍慰安婦の実態を報告書にまとめてワシントンに送った。
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 海軍は、昭和18年末から戦局が悪化した為に、激戦が予想される島嶼から従軍看護婦慰安婦達を内地に帰還させた。
 陸軍は、赤十字社から派遣された従軍慰安婦は帰国させたが、民間業者が集めて軍管理の慰安所に送り込んでいた慰安婦は所管がハッキリせず放置した。
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 国際世論は、日本軍は足手纏いになる朝鮮人慰安婦を皆殺しにしたと信じ切っている。
 「日本人は血も涙もない殺人鬼」「日本人は朝鮮人女性を性奴隷にした」という認識を国際世論に信じ込ませ、現代日本人はその子孫であるという評価を世界に広めたのは、反日的日本人である。
 反日的日本人は、日本の子供や孫達が世界から、軽蔑の眼で後ろ指をさされる姿を自慢げに喜んで眺めている。
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 インド・ビルマ戦線のイギリス軍兵士は、現地女性を強姦する事件は少なかったが、売春婦との性交渉で6人に1人が性病に罹っていた。
 イギリス軍は、日本軍と戦う以前に性病による戦力低下に悩んでいた。
 性病による戦力低下に悩んでいたのは、アメリカ軍でも同様であった。
 ヨーロッパ戦線などでは、連合軍の進撃と共に売春婦達も兵士を追っかけて移動した。
 戦場となった地域の女性被災者達は、食べて生きる為に連合国軍兵士に身体を打って金を稼いでいた。
 アジア・太平洋戦線は島嶼攻防戦の為に、売春婦は移動できなかった。
 連合軍兵士達は、欲情の捌け口として地元女性や日本人女性を強姦していた。
 何れの国の軍隊も、自国軍兵士を性病から守る事が急務であった。
 特に深刻であったのは、宗教価値観から売春を禁止ていたアメリカ軍であった。
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 少数の日本軍守備隊は、敵大軍の猛攻を受け助かる事なく全滅する事が分かっていても、最悪な状況を正確に把握し、兵士である自分が今どう対処すべきかをかを自分で考え行動した。
 祖国から遠く離れた異国の地で、今この時に生きているという実感。
 敵に囲まれて何時殺されるか分からないという、限られた命をどう有意義に使い切るかであった。
 逃げられない死を見詰めて、人間としての尊厳を守りながら平常心で生きる。
 兵士であるという自覚と死んだら靖国神社の桜になるという覚悟から、弾丸飛び交う中を死を恐れる暇もなく、敵の攻撃を防いでいた。
 エピクロス「貴方が死を恐れる時、死はまだ来ていない。死が本当に来た時、貴方は其処にはいない。だから、死は恐れるに当たらない」
 死を覚悟した日本軍兵士は、自分の屍体が弔われる埋葬される事なく山野に放置され朽ち果てようとも、霊魂が祖国日本に戻り、故郷、我が家の仏壇・神棚、靖国神社護国神社氏神神社菩提寺に帰ればそれでいいと諦めた。
 キリスト教徒ではない日本人は、死んで肉体は塵となり魂が神の国・天国に行って永遠の命を得るよりも、霊魂は愛する家族のもとに帰り、生まれ育った故郷の自然と一体になり、戦友と靖国神社の桜になる事を切望した。
 彼らの口癖が「靖国神社で会おう」であり、その真の心境が分かるのやはり日本人だけで、幾ら説明しても儒教マルクス主義の価値観を持つ中国人や韓国人では理解できない。
 屍体より霊魂を大事にする宗教観から、敵兵によって遺体がゴミとして扱われても意に介さなかった。
 日本軍兵士を支えたのは、遺骨の埋葬とは無縁の霊魂だけを弔う靖国神社であった。
 仏教は、葬式仏教として、遺骨・遺灰・遺品を墓に埋葬し、位牌を家の仏壇に置いた。
 死者を亡者として生者から切り離して求道者に変え、葬儀で御経を上げ、戒名を与えて出家者に導き、この世からあの世である浄土=仏の世界に送り出していた。
 仏教において、キリスト教同様に、死者も霊魂もこの世には存在しない。
 神道は、死後の世界を持っていなかった為に、霊魂は家族や故郷もとに留まると信じていただけに神社での慰霊・鎮魂儀式を重視している。
 生きて日本には帰れないと諦めた日本軍兵士は、家族の元に遺骨・遺品が届かなくとも、霊魂は靖国神社に行けると信じていたが故に戦い続けた。
 当時の日本人は無神論者ではなかっただけに、死ねば無になると考えず、靖国神社の大鳥居と拝殿を思いだし、その先に鎮座する姿形のない祭神を思い描いていた。
 日本の宗教観で大事にするのは、遺骨・遺灰を納めた墓ではなく、霊魂を祀る靖国神社であった。
 平安の時代から、遺体は葬られる事なく町から離れた草むらに捨てられ、獣か魚の餌となった。
 浄土真宗の開祖・親鸞は、自分が死んだら魂はあの世の世界=浄土に行ってこの世にないのだから遺体を賀茂川に流して魚の餌として、墓を建てる必要はないと遺言を残した。

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 2017年7月5日 産経ニュース「【歴史戦】「朝鮮人慰安婦」の映像初公開 ソウル 中国で撮影、記憶遺産登録に利用も(動画あり)
 5日、ソウル市などが公開した朝鮮人慰安婦を映したとされる映像(動画サイト「ユーチューブ」より)
 【ソウル=名村隆寛】韓国のソウル市とソウル大学人権センターは5日、「朝鮮人慰安婦」の存在を証明するという「初の映像」を公開した。
 映像は1944年9月8日ごろ、中国雲南省・松山で米軍により撮影されたもので、撮影時間は18秒。映像には慰安婦とみられる7人が映っており、うち1人が中国軍将校とみられる人物と話している。当時、米中両軍は日本軍から松山を奪還し、慰安婦24人のうち10人が保護されたという。
 映像は、ソウル市の予算支援を受け、ソウル大の研究班が米国立公文書記録管理局所蔵のフィルムから探し出した。慰安婦が誰かは特定できないが、すでに公開されている写真と、顔や服装の一致などが朝鮮人である根拠という。発表によれば、これまで朝鮮人慰安婦を示す「証明資料」は文書や写真、証言のみで、映像資料は今回が初めて。
 韓国の市民団体が中心となる「国際連帯委員会」は慰安婦関連資料のユネスコ世界記憶遺産への登録を申請しており、9月に登録が決まる。朴元淳ソウル市長は「歴史を記憶し正していく」とし、市では今回の映像が登録への後押しになるよう期待を寄せている。」

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 2013年12月26日 安倍晋三首相は、靖国神社参拝という選挙公約を実行した。
 中国と韓国は、軍国主義の復活、日本の右傾化として激しく批判した。
 アメリカも、不快感を表す為に「失望した」との強い口調で声明を発表した。
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 2014年9月30日 msn産経ニュース「北京で「烈士記念」式典 中国、また愛国運動[中国]
 「烈士記念日」の式典に臨む、中国の習近平国家主席=30日、北京の天安門広場(共同)
 中国共産党と政府は30日、北京市天安門広場で「烈士記念日」の式典を開催する。記念日は、習近平指導部が今年、愛国キャンペーン強化の一環として設定した。指導部メンバーが出席し、広場にある人民英雄記念碑に献花する予定。
 記念日を通じて「国民の愛国主義を培う」としており、革命や抗日戦争の英雄とされる人々が記念対象。民政省は事前に、全国の関係部門に記念日の活動を盛大に実施するように指示した。
 中国の全国人民代表大会全人代=国会)は今年、烈士記念日のほか、9月3日を抗日戦争勝利記念日、12月13日を旧日本軍による南京虐殺の犠牲者追悼の日と決めた。(共同)」
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 2014年10月4日 産経ニュース「ソウルからヨボセヨ 特攻隊慰霊碑の行方【外信コラム】 .
 先の大戦末期、日本軍の特攻隊員として戦死した韓国人青年を慰霊する「帰郷祈念碑」がやっと“安住”した。ソウル近郊・龍仁市の法輪寺(尼寺)で今週、ゆかりの女優、黒田福美さんなど日韓双方から十数人が寺を訪れ、ささやかな供養が行われた。
 祈念碑は「彼らの魂を故郷に帰したい」という黒田福美さんの発案で6年前に完成した。遺族の賛同も得て、設置は当初、彼女が思いをかけた「特攻隊員・光山文博大尉(本名・卓庚鉉)」の故郷に近い南部の泗川市に予定されていたが、反日派の妨害で除幕式ができず実現しなかった。
 祈念碑はその後、法輪寺が引き受け境内に設置された。しかし、2年前にまた反日団体が押しかけ倒してしまった。反対の理由は「日本の戦争に協力した者の慰霊は認められない」というものだが、寺では「仏の慈悲に国家や民族の壁はない」と、このほどあらためて設置し直した。
 碑は本来、5メートルの高さだが、寺では上部にあった不死鳥を象徴するヤタガラスの造形物と碑石を分離し碑石は縦に寝かせてある。裏面の碑文は見えないものの、そばには日本語と韓国語で由来が表記されている。碑が寝かされたのは反日への妥協だが、これも知恵である。寺への感謝の気持ちでお布施を出させてもらった。(黒田勝弘)」
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 志願して日本軍将兵となった朝鮮人兵士は、日本人兵士以上に勇猛果敢に戦って戦死していた。
 朝鮮人慰安婦も日本人慰安婦同様に、避難せず積極的に日本軍に協力し、弾薬や食料を運び、負傷者を後方の野戦病院に運び、日本軍兵士の治療や看病に従事していた。
 その為に、多くの慰安婦が敵弾に倒れ、病魔に襲われて命を落とした。
 日本軍の多くは、朝鮮人慰安婦の献身的な協力に感謝し、玉砕・全滅を前にして彼女らを殺すには忍びないとして逃がした。
 ただし。日本人慰安婦で共に死ぬ事を希望するものは、竹槍か刃物を持たせて万歳突撃に加えるか、大和撫子として死ねるように自決用の青酸カリか手榴弾を手渡した。
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 戦陣訓(陸軍省 昭和16年1月8日)
  序
 夫れ戦陣は、大命に基き、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち、遍く皇道を宣布し、敵をして仰いで御稜威の尊厳を感銘せしむる処なり。されば戦陣に臨む者は、深く皇国の使命を体し、堅く皇軍の道義を持し、皇国の威徳を四海に宣揚せんことを期せざるべからず。
 惟ふに軍人精神の根本義は、畏くも軍人に賜はりたる勅諭に炳乎として明かなり。而して戦闘並に訓練等に関し準拠すべき要綱は、又典令の綱領に教示せられたり。然るに戦陣の環境たる、兎もすれば眼前の事象に捉はれて大本を逸し、時に其の行動軍人の本分に戻るが如きことなしとせず。深く慎まざるべけんや。乃ち既往の経験に鑑み、常に戦陣に於て勅諭を仰ぎて之が服行の完璧を期せむが為、具体的行動の憑拠を示し、以て皇軍道義の昂掲を図らんとす。
 是戦陣訓の本旨とする所なり。
 本訓其の一
 第一 皇国
 大日本は皇国なり。万世一系天皇上に在しまし、肇国の皇謨を紹継して無窮に君臨し給ふ。皇恩万民に遍く、聖徳八紘に光被す。臣民亦忠孝勇武祖孫相承け、皇国の道義を宣揚して天業を翼賛し奉り、君民一体以て克く国運の隆昌を致せり。
 戦陣の将兵、宜しく我が国体の本義を体得し、牢固不抜の信念を堅持し、誓って皇国守護の大任を完遂せんことを期すべし。
 第二 皇軍
 軍は天皇統帥の下、神武の精神を体現し、以て皇国の威徳を顕揚し皇運の扶翼に任ず。
 常に大御心を奉じ、正にして武、武にして仁、克く世界の大和を現ずるもの是神武の精神なり。武は厳なるべし仁は遍きを要す。苟も皇軍に抗する敵あらば、烈々たる武威を振ひ断乎之を撃砕すべし。仮令峻厳の威克く敵を屈服せしむとも、服するは撃たず従ふは慈しむの徳に欠くるあらば、未だ以て全しとは言ひ難し。武は驕らず仁は飾らず、自ら溢るるを以て尊しとなす。皇軍の本領は恩威並び行はれ、遍く御稜威を仰がしむるに在り。
 第三 軍紀
 皇軍軍紀の神髄は、畏くも大元師陛下に対し奉る絶対髄順の崇高なる精神に存す。
 上下斉しく統帥の尊厳なる所以を感銘し、上は大権の承行を謹厳にし、下は謹んで服従の至誠を致すべし。尽忠の赤誠相結び、脈絡一貫、全軍一令の下に寸毫乱るるなきは、是戦勝必須の要件にして、又実に治安確保の要道たり。特に戦陣は、服従の精神実践の極致を発揮すべき処とす。死生困苦の間に処し、命令一下欣然として死地に投じ、黙々として献身服行の実を挙ぐるもの、実に我が軍人精神の精華なり。
 第四 団結
 軍は、畏くも大元師陛下を頭首と仰ぎ奉る。渥き聖慮を体し、忠誠の至情に和し、挙軍一心一体の実を致さざるべからず。
 軍隊は統率の本義に則り、隊長を核心とし、掌固にして而も和気藹々たる団結を固成すべし。上下各々其の分を厳守し、常に隊長の意図に従ひ、誠心を他の腹中に置き、生死利害を超越して、全体の為己を没するの覚悟なかるべからず。
 第五 協同
 諸兵心を一にし、己の任務に邁進すると共に、全軍戦捷の為欣然として没我協力の精神を発揮すべし。
 各隊は互に其の任務を重んじ、名誉を尊び、相信じ相援け、自ら進んで苦難に就き、戮力協心相携へて目的達成の為力闘せざるべからず。
 第六 攻撃精神
 凡そ戦闘は勇猛、常に果敢精神を以て一貫すべし。
 攻撃に方りては果断積極機先を制し、剛毅不屈、敵を粉砕せずんば已まざるべし。防禦又克く攻勢の鋭気を包蔵し、必ず主動の地位を確保せよ。陣地は死すとも敵に委すること勿れ。追撃は断乎として飽く迄も徹底的なるべし。
 勇往邁進百事懼れず、沈着大胆難局に処し、堅忍不抜困苦に克ち、有ゆる障碍を突破して一意勝利の獲得に邁進すべし。
 第七 必勝の信念
 信は力なり。自ら信じ毅然として戦ふ者常に克く勝者たり。必勝の信念は千磨必死の訓練に生ず。須く寸暇を惜しみ肝胆を砕き、必ず敵に勝つの実力を涵養すべし。
 勝敗は皇国の隆替に関す。光輝ある軍の歴史に鑑み、百戦百勝の伝統に対する己の責務を銘肝し、勝たずば断じて已むべからず。
 本訓其の二
 第一 敬神
 神霊上に在りて照覧し給ふ
心を正し身を修め篤く敢神の誠を捧げ、常に忠孝を心に念じ、仰いで神明の加護に恥ぢさるべし。
 第二 孝道
 忠孝一本は我が国道義の精彩にして、忠誠の士は又必ず純情の孝子なり。
 戦陣深く父母の志を体し、克く尽忠の大義に徹し、以て祖先の遺風を顕彰せんことを期すべし。
 第三 敬礼挙措
 敬礼は至純なる服従心の発露にして、又上下一致の表現なり。戦陣の間特に厳正なる敬礼を行はざるべからず。
 礼節の精神内に充溢し、挙措謹厳にして端正なるは強き武人たるの証左なり。
 第四 戦友道
 戦友の道義は、大義の下死生相結び、互に信頼の至情を致し、常に切磋琢磨し、緩急相救ひ、非違相戒めて、倶に軍人の本分を完うするに在り。
 第五 率先躬行
 幹部は熱誠以て百行の範たるべし。上正しからざれば下必ず乱る。
 戦陣は実行を尚ぶ。躬を以て衆に先んじ毅然として行ふべし。
 第六 責任 
 任務は神聖なり。責任は極めて重し。一業一務忽せにせず、心魂を傾注して一切の手段を早くし、之が達成に遺憾なきを期すべし。
 第七 死生観
 死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。
 生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の力を尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし。
 第八 名を惜しむ
 恥を知るもの強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。
 「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。」
 第九 質実剛健
 質実以て陣中の起居を律し、剛健なる士風を作興し、旺盛なる志気を振起すべし。
 陣中の生活は簡素ならざるべからず。不自由は常なるを思ひ、毎事節約に努むべし。奢侈は勇猛の精神を蝕むものなり。
 第十 清廉潔白
 清廉潔白は、武人気節の由って立つ所なり。己に克つこと能はずして物欲に捉はるる者、争でか皇国に身命を捧ぐるを得ん。
 身を持するに冷厳なれ。事に処するに公正なれ。行ひて俯仰天地に愧ぢさるべし。
 本訓其の三
 第一 戦陣の戒
 一 一瞬の油断、不測の大事を生ず。常に備へ厳に警めざるべからず。
 敵及住民を軽侮するを止めよ。小成に安んじて労を厭ふこと勿れ。不注意も亦災禍の因と知るべし。
 二 軍機を守るに細心なれ。謀者は常に身辺に在り。
 三 哨務は重大なり。一軍の安危を担ひ、一隊の軍紀を代表す。宜しく身を以て其の重きに任じ、厳粛に之を服行すべし。
 哨兵の身分は又深く之を尊重せざるべからず。
 四 思想戦は、現代戦の重要なる一面なり。皇国に対する不動の信念を以て、敵の宣伝欺瞞を破摧するのみならず、進んで皇道の宣布に勉むべし。
 五 流言蜚語は信念の弱きに生ず。惑ふこと勿れ、動ずること勿れ。皇軍の実力を確信し、篤く上官を信頼すべし。
 六 敵産、敵資の保護に留意するを要す。徴発、押収、物資の燼滅等は総て規定に従ひ、必ず指揮官の命に依るべし。
 七 皇軍の本義に鑑み、仁恕の心能く無事の住民を愛護すべし。
 八 戦陣苟も酒色に心奪はれ、又は欲情に駆られて本心を失ひ、皇軍の威信を損じ、奉公の身を過るが如きことあるべからず。深く戒慎し、断じて武人の清節を汚さざらんことを期すべし。
 九 怒を抑へ不満を制すべし。「怒は敵と思へ」と古人も教へたり。一瞬の激情悔を後日に残すこと多し。
 軍法の峻厳なるは時に軍人の栄誉を保持し、皇軍の威信を完うせんが為なり。常に出征当時の決意と感激とを想起し、遥かに思を父母妻子の真情に馳せ、仮初にも身を罪科に曝すこと勿れ。
 第二 戦陣の嗜
 一 尚武の伝統に培ひ、武徳の涵養、技能の練磨に勉むべし。
 「毎時退屈する勿れ」とは古き武将の言葉にも見えたり。
 二 後顧の憂を絶ちて只管奉公の道に励み、常に身辺を整へて死後を清くするの嗜を肝要とす。
 屍を戦野に曝すは固より軍人の覚悟なり。縦ひ遺骨の遅らざることあるも、敢て意とせぎる様予て家人に含め置くべし。
 三 戦陣病魔に倒るるは遺憾の極なり。時に衛生を重んじ、己の不節制に因り奉公に支障を来すが如きことあるべからず。
 四 刀を魂とし馬を宝と為せる古武士の嗜を心とし、戦陣の間常に兵器資材を尊重し馬匹を愛護せよ。
 五 陣中の徳義は戦力の因なり。常に他隊の便益を思ひ、宿舎、物資の独占の如きは慎むべし。「立つ鳥跡を濁さず」と言へり。雄々しく床しき皇軍の名を、異郷辺土にも永く伝へられたきものなり。
 六 総じて武勲を誇らず、功を人に譲るは武人の高風とする所なり。
 他の栄達を嫉まず己の認められざるを恨まず、省みて我が誠の足らざるを思ふべし。
 七 諸事正直を旨とし、誇張虚言を恥とせよ。
 八 常に大国民たるの襟度を持し、正を践み義を貫きて皇国の威風を世界に宣揚すべし。国際の儀礼亦軽んずべからず。
 九 万死に一生を得て帰還の大命に浴することあらば、具に思を護国の英霊に致し、言行を悼みて国民の範となり、愈々奉公の覚悟を固くすべし。
  結
 以上述ぶる所は、悉く勅諭に発し、又之に帰するものなり。されば之を戦陣道義の実践に資し、以て聖諭服行の完璧を期せざるべからず。戦陣の将兵、須く此の趣旨を体し、愈々奉公の至誠を擢んで、克く軍人の本分を完うして、皇恩の渥きに答え奉れべし。




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