🏹60〕─3─李舜臣と東郷平八郎の違い。~No.192 @ 

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 旭日旗は、現代では海上自衛隊艦艇の旗であったが、敗戦までは日本海軍艦艇の旗であった。
 日本海軍を代表する提督は、東郷平八郎である。
 旭日旗を否定する事は、東郷平八郎提督を否定する事である。 
 北欧諸国やトルコでは、日本陸軍乃木希典将軍と同様に東郷平八郎提督は偉大な英雄である。
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 2018年10月30日 産経新聞「【軍事ワールド】李舜臣って誰? 旭日旗NOの韓国最大の“英雄”とは
 国際観艦式で掲揚された李舜臣将軍を象徴する旗。手前は韓国の文在寅大統領=11日、済州島(聯合=共同)
 韓国の済州島(チェジュド)で10月中旬に行われた韓国主催の国際観艦式で、海上自衛隊旭日旗の掲揚を妨害するため、韓国側が参加各国に軍艦旗使用を自粛するよう要請した問題は、各国海軍が要請を黙殺して終了した。かたや韓国海軍は「抗日の英雄」李舜臣(イ・スンシン)が掲げたとされる旗と同じ図案の旗を用意。文在寅ムン・ジェイン)大統領が駆逐艦で演説した際、背景に広げてみせた。韓国では無敵の名将とされ、首都ソウルに立像がそびえるほどの李舜臣だが、軍事的に見ると切ない現実が浮かび上がる。(岡田敏彦)
 文禄・慶長の役で朝鮮の水軍を率いて日本軍と戦い活躍したとされる李舜臣。特に文禄の役における閑山島(かんざんとう)海戦(1592年)では脇坂安治率いる水軍を海上で撃破した、あるいは慶長の役の鳴梁(めいりょう)海戦(1597年)では藤堂高虎ら日本の武将を苦しめ海戦に勝利した−とされるが、朝鮮側と日本側の記録では戦果が異なり、朝鮮側では大勝利の評価が、日本側ではわずかな被害であったりする。
 戦役中最大の海戦とされる鳴梁海戦でも、日本側の被害は数十人が戦死というレベル。この戦闘では朝鮮水軍が撤退し、鳴梁海峡の制海権は日本のものとなって終了している。「大海戦で朝鮮圧勝」とは言い難いが、後世、名将との評価が一人歩きしていく。
最たるものは、東郷平八郎と知己だったという韓国人実業家の李英介(イ・ヨンゲ)氏が、東郷本人から聞いたとされる言葉だ。
 東郷は「あなたのお国の李舜臣将軍は私の先生です」。「自分はネルソンに比べられるかも知れない。しかし李舜臣は私を越えている」などと李舜臣を称えたという。大国ロシアを打ち破る決定的な海戦で圧勝し、ロシアの圧迫を受けていた北欧などの国々から「アドミラル・トーゴー」として英雄視された東郷の言葉となれば決して軽くない。本人が言ったかどうかも含め疑問が呈されている。まずは軍事的観点から比べてみよう。
 目先の勝利と戦局
 東郷平八郎日露戦争連合艦隊司令長官として日本海軍を率い、日本海海戦で完勝したことで知られる。日本海海戦はロシアのバルチック艦隊がはるばる本国から来襲したことで生起した。艦隊の目的は、ウラジオストック港に入港し、以降は大陸と本土を行き来する日本船団や日本艦隊を攻撃し、大陸への兵站(補給)線を潰すこと。
 一方の日本では、ロシアがシベリア鉄道を完成させれば大量の兵員輸送が可能になり、不凍港を求めるロシアが南進の戦争を仕掛けてくることは必定とみていた。その完成前に叩くというのが日本の戦略であり、兵站を維持するためにはバルチック艦隊を撃破することが必要だった。
 日本海海戦の結果、日本海軍がバルチック艦隊全38隻のうち主力艦含む21隻を撃沈、6隻を拿捕し、艦隊は壊滅した。これを機に講和条約が結ばれ、戦争目的の本土防衛は果たされた。
 一方、李舜臣の場合。海上で日本=豊臣軍の進攻を防ぐことはできず、あっさり橋頭堡(拠点)構築を許した結果、大軍が上陸。海上の補給線を脅かすことも叶わず、大量の補給物資輸送や援軍の増派も妨害できなかった。当時日本にいた宣教師の記録では、膨大な補給物資を海路運搬できる豊臣秀吉の力を高く評価する文書を本国に送っているほどだ。
 国王は逃亡、王子は朝鮮の一般人に捕まり豊臣側の武将に差し出され人質とされる始末。首都開城(ケソン)も制圧された。海軍も積極的な攻勢をかけることはほとんどなく、これといった戦術もなかった。
 こうして朝鮮は当時の中国の王朝の明に救援を要請。以後戦争は日本と明の戦いとなった。戦争の流れを俯瞰して見ると、李舜臣も朝鮮海軍も戦局に寄与していない。
 名将とは
 世界で名将として知られる軍人は、最終的な勝ち負けだけでなく、時代をリードする新たな戦術を実施したり、寡兵で大軍と互角に戦ったりといった「並外れた実績」があるからこそ名が語り継がれる。
 第二次大戦の独ソ戦の最中、第三次ハリコフ戦(1943年2〜3月)で武装親衛隊の幹部(装甲軍団司令官)でありながら総統アドルフ・ヒトラーの「最後の一兵までハリコフにとどまり戦え」との死守命令に逆らい、ウクライナの重工業都市ハリコフから撤退して機甲兵力を救ったパウル・ハウサー。そして、その機甲兵力も活用して約8倍の兵力を擁したソ連軍をほぼ壊滅させたエーリッヒ・フォン・マンシュタインの2人はともに、防御戦において塹壕や要塞にこもるなど「土地にしがみつく」従来方式ではなく、敵主力を快速の機甲部隊による機動戦で撃破して、結果的に戦域を保持する「機動防御」という新たな概念を実戦で証明したからこそ、歴史に名を残す。「マンシュタインの後手の一撃」といえば、軍関係者や専門家がまず想起するのは第三次ハリコフ戦なのだ。
 とはいえ、こんな名将と肩を並べる英雄的人物が世界各国にいるわけではない。韓国での李舜臣英雄視も“無い袖は振れない”ことの裏返しとも見ることができる。過去には、そんな英雄視がエスカレートして大問題となった事例がある。
 国宝は永久欠番
 韓国では李舜臣将軍といえば「亀船」(亀甲船とも)。甲板より上を側壁と刃物のついた屋根で覆った軍船で、敵が乗り移って斬り込むことを防ぐ構造だったとされる。李舜臣はこの船を用いて活躍したとされるのだが、この軍船に積まれていたとされる大砲が1992年に見つかった。後の「国宝274号事件」である。
 当時、韓国海軍には海戦遺跡発掘団という組織があり、その発掘団が統営(トンヨン)市閉山島(ハンサンド)沖で小型砲(銃筒)を発見、引き上げた。砲身に「亀艦」「萬歴丙申」などと刻まれていたことから、1596年に鋳造され亀船に搭載されていたものと分析され、世間の話題をさらった。閉山島は李舜臣が根拠地としていた場所でもあり、発見から4日後には専門家がその価値に太鼓判を押し、発見17日後にして韓国国宝274号に指定された。
 また銃筒には「亀艦黄子 驚敵船 一射敵船 必水葬」(亀船の砲は驚く敵船を砲撃1発で沈める)との銘文もあり、韓国海軍では当時「一射敵船〜」がモットーのように用いられたという。
 銘文の鮮明さなどから「おかしい」という声はあったが、李舜臣が日本=豊臣軍に初めて迎撃戦を行ってから400年の節目という話題性のなか、異論は注目されなかった。
 しかし4年後の96年6月に発掘団の団長だった海軍大佐が収賄罪で逮捕され、その捜査時に真相が判明した。大佐は発掘団がまったく実績を上げられない事に悩み、鋳物工場も営む知人の骨董商に銃筒を作らせていたのだ。そのあとは自分で海に沈め、自分で“発見”し、ひきあげていた。
 不都合な真実ばかり
 ねつ造発覚後、国宝指定のための鑑定作業がわずか30分だったことなど連鎖的に問題が発覚した。事件以前にこの骨董商が海軍に寄贈していた「朝鮮時代の青銅測雨器」も偽物と判明。また同団が94年に引き上げた亀船の一部部材も偽物だったことがわかった。大佐の逮捕から2カ月後、「李舜臣の亀船」の銃筒は国宝指定を解除され、国宝274号は欠番となった。
 ちなみに文大統領が掲げさせた旗は「帥字旗」と呼ばれ、指揮官の居場所(座乗艦など)を示す旗だが、こちらも歴史がある。1866年に朝鮮軍が米国測量船ジェネラル・シャーマン号を焼き討ちした事件の5年後、米海軍は事件への謝罪と開国、通商などを求め米艦5隻を派遣した。朝鮮海軍は反撃したものの根拠地3カ所を攻撃され事実上壊滅。上陸した米海兵隊により「帥字旗」は持ち去られ、2007年に長期貸与という形で里帰りしている。」


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