☯14〕─1─朝鮮には、個人の主体はあっても国家・政府の主体はない。~No.30No.31No.32 ④ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2018年12月号 正論「古田博司 近代以後
 社会科学とは厳しい学問である〜主体思想の正体
 人文研究と社会科学との違い
 まず文系は、人文研究と社会科学に大きく分けられる。人文研究は、扱う対象が人や心や物と、その関係であり、古代からある。目指しているところは、明らかに高貴なものとか、厳かなものだろう。
 だから研究には金がかかる。……
 とにかくその労力と金は社会科学の比(費)ではない。ようするに古代からあるので、本質的に貴族の学問なのだ。だから文化資本の少ない人がやると、趣味程度で終わる。
 社会科学はそうではない。資本制の発展とともに、ようやく中世の飢えから解放された大衆が、啓蒙され始める19世紀頃から盛んになってくる。扱う対象は、マスと構築物である。哲学者1人の深堀りなんかは絶対にしないし、人間の構築物の研究だから、社会・協会・政界・国家・経済・外交・金融・人の作るものは何でもござれの学問である。
 ……
 社会科学の殺伐として結論
 というわけで、社会科学は貴族的ではなく、大衆による、大衆のための、大衆の学問であり、高貴さとか厳かさとか含蓄とかは、あらかじめ無縁だと思った方がよい。
 でも、人文研究は科学ではないが、社会科学はれっきとした科学である。なぜならば、科学の本質である、『こちら側の無根拠に耐えながら、向こう側の根拠に近づく営為』だからである。
 向こう側の根拠というのは、例えば、『人体の根拠はDNAだ』とか、『朝鮮半島の向こう側の根拠は行き止まりの廊下だ』とか、結構解明が大変なのものから、『建築の根拠は人のスミカだ』とか、『犬の根拠はオオカミの家畜化だ』みたいなものである。
 下らないのもある。『金日成主体(チュチェ)思想の根拠は、国の主人になったことのない人たちの幻想だ』。つまり根拠がないということ。だがそれが分かるまで、私は30年も費やしてしまった。バカバカしいが解説しておこう。
 北朝鮮主体思想は、実は全くローカルな思想であり、歴史上、モンゴルに国を二分され王子をハーフにされ、明国にたえず臣下として掣肘(せいちゅう)され、夷狄だとバカにしていた満州族に臣従し、豊臣秀吉の子孫に国を統治され、最後はソ連によって解放されたが、その傀儡国家となり、そこから中国派やソ連派の内通者を根絶やしにして、『俺が国の主人だ』と、高らかに宣言した思想なのである。
 だから、金日成主体思想の眼目は、彼らの言った通り、『人間は自分の運命の主人だ』、なのである。この『主人』を『主人公』と誤訳してはならない。あくまでも、国の主人になったことがない人たちの思想なのだ。
 これがバカバカしいのは、いまでも北朝鮮は核放棄を迫られ、終戦宣言に同意してくれないアメリカと中国によりがんじがらめになっているからである。結局『主人』になっていないから、主体思想はただのファンタジーなのだ。それが文在寅をうっとりさせた。
 第一、主体思想を唱えるはずの者が、朝鮮戦争で身が危うくなると、中国の通化まで逃げだすだろうか。『主人』の責任放棄だろう。ちなみに歴代朝鮮の王は、外寇があるとみんな真っ先に逃げた。高麗の恭愍王(きょうびんおう)などは紅巾賊が来ただけで逃げだし、安東の湖で舟遊びしていたところを、民衆に見つかった。だから、『朝鮮半島の向こう側の根拠は行き止まりの廊下』であり、外寇からは遁走するしかない地形で、歴代政権は無責任で強権、民衆は無念と諦めのハンを抱くしかなかったのである。
 現実に引きずり落とす学問
 社会科学研究の結論は、単純で冷酷、殺伐として、場合によっては下らなく、時にして、えげつないのである。高貴なものや厳かなもの、含蓄のあるものとは無縁だ。
 ……
 ちなみに、社会科学というものを私なりに定義しておかないと、この実験ができないので、次のように定義した。
 『社会科学とは、清次・経済・軍事に着目し、諸国家・諸民族・諸宗教(思想)に関する因果ストーリを矛盾なく組み立てることにより、社会の生活態を明らかにし、大衆の世界認識に用立てる学問である』。異論も承知で、これで旧約聖書という『記録』を分析してみた。
 ちなみに定義中の『生活態』とは、記録からは読み取りにくい生き生きとした日々の動態のことでり、『世界認識』とは、今と未来の先見を含んでいる。そうでなければ、大衆に用立てることはできない。これからどういう行動を取ればよいかを、大衆に暗示しなければ意味がない。
 そこで研究成果だが、やはり単純で、殺伐としていて、冷酷で、下品で、えげつないものだった。
 厳かなはずの預言者たちは、実はマスとしてみると、逃げ出すやつがいる。モーセ・ヨナ・ウリヤである。」
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 韓国・北朝鮮の正しい歴史は、日韓併合後の日本に対する「恨」と「怒」の歴史で、遡っても日清戦争までで、それより古くなると日本とは違って姿形があやふやとなって消えていく。
 朝鮮の歴史は、異民族の侵略・占領・支配を受け続けた中国の歴史同様に、自分の歴史を先の歴史と切り離し、先の歴史を完全否定しなければ成立できない。
 韓国及び北朝鮮の先の歴史とは日本統治であって中華帝国への隷属ではない以上、日本統治を「100%悪」として否定しなければならず、日本統治よりも悲惨だった中華帝国への隷属はファンタジーとして語られる。
 韓国と北朝鮮反日を止められないのは、このためである。
 日本が歴史の事実を明らかにして説明したところで無意味であり、幾ら熱っぽく話し合っても分かり合う事は不可能である。
 「日本は、誠意を持って接すれば韓国や北朝鮮と友人となる事ができる」、という期待は捨てるべきである。
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 ウィキペディア
 主体思想またはチュチェ思想とは、朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)及び朝鮮労働党の政治思想である。

 概要
 この思想は、中ソ対立のはざまで、自国の自主性維持に腐心する金日成が、「我々式の社会主義(ウリ式社会主義)」に言及する中で登場し、金正日によって体系的に叙述された。この過程で、モスクワ国立大学哲学博士である黄長菀が哲学的緻密化に貢献したといわれる。後に金日成により性格づけられ、1972年の憲法で「マルクス・レーニン主義を我が国の現実に創造的に適用した朝鮮労働党主体思想」と記載された。朝鮮人民が国家開発の主人であり、国家には強力な軍事的姿勢と国家的資源が必要、とする。
 「主体(チュチェ)」は、哲学およびマルクス主義の用語「主体」を朝鮮語に変換したもので、また「主体」とは、北朝鮮では「自主独立」や「自立精神」を意味する場合も多い。主体思想は「常に朝鮮の事を最初に置く」との意味でも使われている。金日成は、主体思想は「人間が全ての事の主人であり、全てを決める」という信念を基礎としている、とした。

 用語
 ハングルでは「????」、朝鮮漢字では「主體思想」と表記される。日本語では「主体思想」と表記される場合が多いが、「チュチェ思想」の表記も使用されている。なお統一教会文鮮明による「三大主体思想」は全く別の意味である。

 歴史
 朝鮮労働党の公式党史では「主体(思想)」の起源は1930年代で、最初の言及は1930年(主体19年=昭和5年)6月30日の金日成が18歳の時の演説とされている。しかし、これらの情報には信憑性が無い。
 知られている北朝鮮での「主体(チュチェ)」への最初の言及は、1955年12月28日の金日成による演説『思想的研究における教条主義および形式主義の除去と「主体(チュチェ)」の構築」』である。金日成はこの演説で、党の宣伝担当者はソビエト連邦から思想や慣習を輸入するのではなく、朝鮮自身の「ウリ(われわれ)式」の方法によって朝鮮革命を前進させるべきであると論じた。これは、スターリン批判が国内に波及することを恐れた金日成が防波堤を作ったものであるとの見方もある。

 朝鮮で革命を行うために、我々は朝鮮人民の慣習と同様に、朝鮮の歴史や地理学も知るべきである。それらが彼らに適合し、彼らの生まれ故郷や祖国への激しい愛情を彼らに呼び起こすことを通じてのみ、我々の人民を教育する事が可能になる。
        ??金日成

 1950年代後半、金日成マルクス・レーニン主義の彼自身の見解の構築を考えていた時に、首席思想相談役だった黄長菀が、この演説の「主体」がマルクス・レーニン主義の独創的な発展とみなせる事を発見し、この概念を社会的に定義された信条として構築を開始したとの主張がある。1958年までに金日成北朝鮮での支配を確立すると、この言葉は人民による彼への献身を示す目的で使い始められ、金日成やその家族(金王朝)の歴史や指導者としての正統性への美化など、個人崇拝が進められた。
 冷戦の期間中、北朝鮮は主体(思想)と自立の原則を他国、特に非同盟諸国への経済発展の方法として推進した。1967年から自己への権力集中を強化していたルーマニア大統領ニコラエ・チャウシェスクは、1971年、朝鮮民主主義人民共和国を含むアジア諸国訪問時に、北朝鮮の思想的な動員力と大衆による賞賛に影響を受け、その後、朝鮮労働党をまねた大衆動員・組織化方法を取り入れた。

 詳細は「ニコラエ・チャウシェスク#共産主義体制の影響」および「セクリターテ#歴史」を参照

 1972年の憲法改正で、主体思想は公式な国家思想としてマルクス・レーニン主義と置き換えた。これは中ソ対立の影響でもあったが、主体思想は「マルクス・レーニン主義の創造的な適用」と定義された。金日成はまた、主体思想は全てのスターリン主義国家を継承する、計画的な位置づけであると説明した。1977年8月、北朝鮮政府は主体思想に関する最初の国際的会議を主催し、その中で日本のチュチェ思想国際研究所と、スペインの朝鮮友好連盟(英語版)が注目された。
 金日成は1994年の死去以後も崇拝され、1998年の憲法改正で「永遠の主席」とされた。後継者の金正日は「金日成主席にならぶ偉大な指導者・民族の太陽」と呼ばれるようになった。朝鮮の歴史は1866年に遡って、アメリカ帝国主義米帝)に対して闘争する「英雄的な」金一族と、その祖先について書き直された。これらの金一族への崇拝は、主体思想によって支援され、金日成は全人民の「最上の指導者で太陽」とされた。

 「金正日の呼称一覧#リスト」も参照
 1997年には主体暦が開始された。
 2012年4月に開催された第4回党代表者会の中で、主体思想は定義が拡張され、金正恩金日成思想の包括的な理解者かつ金正日思想の発展かつ進化であり、「金日成金正日主義」との用語で表現された。金正恩は党代表者会の直前、党中央委員会の責任幹部を前に以下の演説を行った。

 金日成金正日主義は、整合性ある思想体系であり、チュチェ(思想)の理論と手法であり、チュチェ時代を代表する偉大で革命的な思想である。金日成金正日主義に従い、(金日成)主席および(金正日)将軍の思想と方向性を合致させて、我々は党建設と党活動を指揮し、我々の党の革命的な特性を強化し、革命を前進させ建設すべきである。
        ??金正恩

 内容
 主体思想の確立期
 主体思想自身は1956年から表面化した中ソ対立による政治的緊張下で、全体的で思想的なドクトリンとして段階的に形成されていった。すなわち北朝鮮国内における親ソ派(ソ連派)・親中派(延安派)の粛清(8月宗派事件)とソ連、中国の影響の排除を通じ、金日成マルクス・レーニン主義の独自解釈を進めることとなった。特に、フルシチョフ政権下のソ連共産党第20回大会で「西側諸国との平和共存路線」が打ち出されると、朝鮮半島の解放(すなわち南朝鮮からのアメリカ帝国主義の排除)を国是とする北朝鮮と、ソ連との対立は深まってゆく(これに対し、ソ連の平和共存路線を「修正主義」として批判した中国は、北朝鮮と接近することになった)。
 「朝鮮民主主義人民共和国の歴史#1960年代 主体思想」および「中ソ対立#中ソ対立と東側諸国・各国共産党」も参照
 主体思想は約10年間は脇に押しやられ、1963年の金日成朝鮮人民軍への「主体」原則の演説により再登場した 。
 主体思想という言葉は、1965年4月14日に金日成インドネシアのアリ・アハラム社会科学院で行った演説『朝鮮民主主義人民共和国における社会主義建設と南朝鮮革命』に登場する。同演説によると、一国の独立には「思想における主体」「政治における自主」「経済における自立」「国防における自衛」の確立が必要であり、北朝鮮が保持してきたこの立場が「主体思想」であるとされた。
 その後1966年10月の朝鮮労働党第2回代表者会では主体思想が定式化され、「帝国主義との徹底闘争」「植民地民族解放運動と国際労働運動の支持」「社会主義共産主義」「内政不干渉・相互尊重・互恵平等」が北朝鮮の進むべき路線であるとされた。このように、主体思想はその確立期にあって、大国による内政干渉を排除し自主路線を歩むこと、そのためにマルクス・レーニン主義に対する独自のアプローチをとることを主要な内容としていた。
 1967年5月の党中央委員会全員会議では、「唯一思想体系」を確立し、修正主義分子を排除することが謳われた。これにより、金日成と共に抗日パルチザン闘争を戦った甲山派も党内から排除された。主体思想朝鮮労働党の首領である金の思想であることが確立されたことで、党内のイデオロギー的対立は形式的には克服されたことになった。
詳細は「唯一思想体系#解説」および「甲山派#概要」を参照

 主体思想の変容期
 北朝鮮の自主独立路線と、マルクス・レーニン主義の独自解釈を打ち出した主体思想は、やがて、首領=金日成の唯一絶対の思想としての地位を確立し、これに対する一切の批判を排除することを通じて、金の絶対的権力を正当化するイデオロギーとしての色彩を強めていく。そのことは、いずれ訪れる長男・金正日への地位の継承を準備する意味も持っていた。
 1972年(主体61年)12月27日の最高人民会議第5期第1回会議でそれまでの朝鮮民主主義人民共和国憲法を全面的に改正した朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法では、主体思想が国家の指導指針とされた。同時に国家主席のポストが新設され、それまで朝鮮労働党の「首領」とされていた金日成憲法上も最高指導者の地位が付与された。
さらに、1974年には党の唯一思想体系確立の10大原則が成立。主体思想の目指すところを具体化しつつ簡潔にまとめた、社会主義憲法朝鮮労働党規約を上回る北朝鮮公民の最高規範と位置付けられた。そして、公民に対しては戦前・戦中の大日本帝国教育勅語にも劣らぬ徹底的な教育が行われた。
 詳細は「党の唯一思想体系確立の10大原則#旧条文」および「朝鮮民主主義人民共和国の歴史#1970年代 1972年憲法金正日の台頭」を参照
 「教育ニ関スル勅語#第二次世界大戦中」も参照
 1982年の金正日の『チュチェ思想について』によると、国家政策における主体思想の適用の概要は以下である。
 人民は、思想や政治的には独立し、経済的には自己供給し、国防では自己依存していなければならない。
 政策は大衆の意思と願望を反映し、革命と建設の中で彼らを完全に雇用しなければならない。
 革命と建設の手法は、国家の状況に適応されなければならない。
 革命と建設の最重要作業は、人民を思想的に共産主義者に形成し、彼らを建設作業に動員する事である。
 「主体」の視点では、革命的な党と指導者への絶対的な忠誠心を要求した。北朝鮮では、それらは朝鮮労働党と、最高指揮官たる金日成であった。スターリンが押し進めた個人崇拝を北朝鮮の実情に合わせて進化させたもので、「領袖は党、党は国家」というスローガンとともに朝鮮社会への浸透を推し進めた。そして金日成の死後、金正日指導の下では先軍思想が主体思想と同列に推されたことにより、事実上「領袖は軍、軍は党、党は国家」という軍国主義的な要素を含んだものへと変質する。
 「北朝鮮の個人崇拝#背景」および「先軍政治#概要」も参照
 北朝鮮の公式な歴史では、「主体」の最初の適用とされるものの1つは千里馬運動とも呼ばれている1956年から1961年の五カ年計画である。この五カ年計画はソビエト連邦中華人民共和国の両方からの政治的独立を確実にするために、重工業に焦点を当てた北朝鮮の迅速な経済発展を目的としたが、1928年のソビエト連邦の第一次五カ年計画と同様の中央集権的な国家計画の手法を適用し、また毛沢東の第一次五カ年計画や大躍進政策とも部分的には関連があった。
 しかし、経済的自立の願望に反して、北朝鮮は他の諸国からの経済援助に依存し続けている。歴史的には、1991年のソ連崩壊まではソビエト連邦からの援助に最も依存していた。朝鮮戦争後の1953年から1963年は「兄弟」諸国からの経済援助や資金に頼り、1953年から1976年はさらにソビエト連邦の産業支援に強く依存した。ソ連崩壊により北朝鮮経済は危機に陥り、社会基盤の運営にも失敗し続けたことから、1990年代半ばには大規模な飢饉が発生した。
 詳細は「朝鮮民主主義人民共和国の経済史#大飢餓と深刻な経済難」および「苦難の行軍#概要」を参照
 その後、中華人民共和国が最大の援助国となり、人道援助に年4億ドルを提供し、北朝鮮の貿易は中国が90.6%も占めている。2005年には北朝鮮は2番目に多い国際食糧援助を受けており、恒常的な食料不足に悩まされている。
 詳細は「朝鮮民主主義人民共和国の経済史#混迷続く経済状態」および「朝鮮民主主義人民共和国の国際関係#中華人民共和国」を参照


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