🎍10〕─2─日本における「愛国」の始まりは奈良時代であった。『日本国紀』。~No.27No.28 @ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 
 リベラル派・革新派・エセ保守派そして一部の保守派そして左翼・左派・ネット左派は、「愛国」は偏狭的ナショナリズムを煽る元凶として否定している。
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 右翼・右派・ネット右翼ががなり立てる「愛国」は、本当の「愛国」ではない。
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 親日派知日派百済高句麗、古新羅渤海
 反日派敵日派‥統一新羅、高麗、李氏朝鮮大韓帝国
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 現代日本の高学歴出身知的エリートとは、敗戦後のキリスト教史観・マルクス主義史観と1980年代後半の日本人極悪非道の重犯罪者史観などの日本を貶める自虐史観で高得点を取った頭脳明晰な日本人である。
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 2019年1月号 Hanada「百田尚樹×有本香
 『日本国紀』を語り尽くす
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 朝鮮史観で書かれた教科書
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 『元寇』が消された理由
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 『愛国』の由来
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 百田 あるいは、『なぜこれがいまの歴史教科書に載っていないのか』と疑問に思う人物や事象も、すごく多く出てきます。
 たとえば、大伴部博麻(おおともべはかま)という無名の兵士です。隋を滅ぼした唐の強大な軍事力を誇り、新羅と同盟を結んで百済を攻めます。日本は百済を助けるために661年〜662年にかけて三度兵を送ったんですが、663年の白村江(はくすきのえ)の戦いで、唐と新羅の連合軍に大敗を喫(きっ)しま。
 この百済救援軍に参加していた大伴部博麻は唐軍に捕らえられ、長安に送られるんです。その頃、長安には捕虜になっていた遣唐使が4人いました。長安で幽閉されていた博麻は、そこで唐が日本侵略を企てているという情報を得るんです。『これはえらいこっちゃ!この情報を日本に教えないと、日本は間違いなくやられる』と考えるんですが、日本に帰れるだけの資金がない。
 『どないしょう』と皆で悩んでいた時、博麻は『よし、ええ方法がある。俺を奴隷として売れ』と、なんと自らを奴隷として売る策を考えます。その金を4人の遣唐使に渡し、彼らの帰国資金にしたんです。無事帰国した4人によって唐の侵略計画が伝えられ、日本は北九州沿岸に防衛基地を築く。この基地と、その任務に就く兵士を『防人』と言います。
 有本 奴隷となった博麻は唐で暮らしていたんですが、その後、自由の身となり、690年にようやく帰国を果たしますね。捕虜となって27年後のことです。
 百田 そこで時の持統天皇は、博麻の国を思う心と行動に感動し、彼に勅語を送るんです(朕嘉厥尊朝愛国売己顕忠)。この勅語は、125代続く天皇が一般人に与えた史上唯一の勅語です。この勅語を見ていただくとわかるんですが、『愛国』という言葉があります。これは文献上に初めて現れるものです。つまり、『愛国』という言葉はここからきているんです。
 『愛国』は、何も大東亜戦争中に造られた言葉なんかじゃないんです。千数百年前からの言葉なのです。
 有本 大伴部博麻の逸話が戦前の歴史教育では教えられていたようなのですが、戦後はその名前も業績も完全に消されてしまった。
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 教科書の『書かない自由』
 有本 いまの子供たちが、なぜか教えられていないことがたくさんあります。私たちの世代では教科書に載っていた任那日本府についても、いまでは教科書に書かれておらず、教えていませんからね。30代から下の世代はまず知らないんです。
 百田 そうなんですよね。任那日本府を知らないなんて、私たちの世代からすれば信じられないです。任那日本府朝鮮半島南部に存在したとされる日本(倭)の統治機関ですちょね。当時、朝鮮半島南部は弁韓(べんかん)と言われており、日本では任那と呼ばれていて日本の領土でした。
 ところが戦後になって、韓国の歴史学会が『偉大なる朝鮮半島が日本の領土として支配されていたことは気分が悪い』と、日本の歴史学会に『書くな!』と要求した。近隣諸国条項などの問題もあって、日本の歴史学会は『わかりました。消しますわ・・・』といって教科書から削除、それ以降、学校教育でほとんど教えられていません。
 有本 当時の社会科を教える先生も戦前生まれがほとんどで、その多くが『日本と朝鮮半島は昔からこれぐらい関係が近かった』という文脈でおしえていました。また、百済と日本の王朝は関係が緊密で、百済語と日本語にはかなり共通点があった、といったことも教師から普通に聞きましたが、いまはそういうふうには教えていません。
 百田 韓国ではいま、考古学会もおかしなことになっていて、百済の地に前方後円墳が出土すると、それを潰すか、形を作り変えてしまうんです。百済に出土する前方後円墳は日本のそれよりあとの時代のものなんです。つまり、日本の影響を受けている。『日本国紀』では、百済は日本の植民地に近い状況だったのではないか、といったことまで踏み込んで類推し、書きました。
 唐と新羅の連合軍に攻め滅ぼされた百済を救済すべく、中大兄皇子は3回にわたって派兵するんです、累計でなんと2万7,000人です。当時、日本の人口は約300万人と言われていましたから国民の1%!しかも兵士ですから、壮健な男子で稲作や田植えなど貴重な労働力でもあった男たちが兵士として送られるとなれば一大事です。つまり、国をあげての総力戦に近かった。
 有本 しかも、渡航の成功率も低かった時代ですからね。
 百田 なぜ百済再興のために、そこまでして海外派兵を行ったのか。それほど日本にとって重要な地であったとかんがえるのが普通です。ところが、教科書にはそうした記述がありません。
 いまの歴史教科書は、たとえば南京大虐殺朝鮮人慰安婦の強制連行といった捏造された歴史や自虐史観に基づいた偏向された歴史教育の問題は先に述べたとおりですが、実はもう一つ問題があって、それはいまのマスコミの『報道しない自由』と同じで、歴史教科書は『書かない自由』を行使しているんです。
 『自虐しそう洗脳』の真実
 有本 『書いていないだけ』なので批判を受けることもない。自虐史観と並ぶ問題点ですね。ここで、自虐史観に関して改めて考えてみたいと思います。私が生まれた昭和30年代にはすでに、いわゆる自虐史観に基づいた教育が日本中で行われていたとみられているのですが、実は地域差があって、私の育った田舎ではそうした自虐史観教育が徹底されていなかったんです。ですから私の地域では学校でよく日の丸も掲げていましたし、国歌も当然歌っていました。ところが私が大学生の頃、80年代に歴史認識問題が起きました。これが一つの転換点です。
 百田 私は昭和31年生まれですが、小学校時代は元旦は全校生徒が学校に集まって──もちろん家庭の都合で集まらない子供は仕方がないのですが──国旗を掲揚し、君が代を歌い、紅白饅頭(まんじゅう)をもらって帰っていました。
 実は、日の丸掲揚や君が代斉唱の禁止など、自虐史観が学校教育をはじめ社会に強く浸透していったのは昭和40年代になってからです。GHQが7年間の占領期間中にWGIP(ウォー・ギルド・インフォメーション・プログラム)によって徹底的に自虐史観を植えつけてから、一旦ゆりれ戻しが起こり、再びGHQの自虐史観が顔をもたげてきたのは昭和40年代後半なんです。これは自虐史観を植えつけられた第一世代が成人して社会に出た時期と一致します。
 7年間の自虐史観で、日本人の大半は洗脳されていなかった。それを示す証拠が、占領軍が引き上げていったあとに起きた、ある大きな社会問題に表れています。それは戦犯の赦免運動です。驚くべきことに当時、日本の人口8,000万人のうち4,000万人の署名が集まっているんです。この数は当時の成人の大半ともいえる数です。なおかつ日弁連が政府に対して赦免の提言書を出すほど、積極的に働きかけを行いました。政府でも衆参全会一致で赦免が決定。当時の日本社会党共産党も賛成したんです。いまでは到底考えられません。
 つまり、昭和27年当時の日本人は、東京裁判など嘘っぱちだということが皆分かっていた。ところが占領期間中は声高に叫ぶことができず、占領が解け、主権が回復し、自由のにものが言えるようになってまず初めに行ったのがこの赦免だったのです。当時の大人たちのほとんどが自虐史観などには一切染まっていなかった、ということがわかります。
 しかし、子供たちは違いました。当時、何も知らなかった白紙の状態の子供たちは、自虐史観に見事に染まってしまいました。小中学校で『日本の悪さ』をこれでもかと教え込まれた生徒たちが、やがて社会に出て大学やマスコミに就職した辺りから一斉に自虐史観が社会を覆うようになるんです。
 日の丸掲揚拒否や君が代否定、南京大虐殺従軍慰安婦の強制連行、首相の靖国神社参拝反対──これらは昭和40年代後半から昭和50年代にかけて起きている。昭和10年代後半、あるいは団塊の世代という『洗脳第一世代』が一斉に社会に出た時と重なるんです。今回、『日本国紀』を書いていて、こうしたことに気付きました。
 有本 『日本国紀』には、公職追放や教職追放がどのような影響を日本社会に及ぼしたのかなど、全て書かれていますね。
 『私たちは何者なのか』
 百田 裏を返せば、この洗脳第一世代が社会から退場すれば日本は変わる可能性が高い、ということです」
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 中華世界(中国・朝鮮)は、西洋世界などと同様に、開放するグローバル原理であるなダーウィンの「進化論」に支配され、生存競争・自然淘汰・適者生存で動いていた。
 日本世界=縄文空間は、辺境の地域として、閉塞するローカル原理である今西錦司の「棲み分け」理論で、相互補完共生(相互に自立・自力・扶助・努力・責任)で動いていた。
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 日本列島は、甚大なる被害をもたらす自然災害多発地帯である。
 縄文時代火砕流で九州全域を死の大地とし西日本に大量の火山灰を降らせた絶滅的大噴火が鹿児島で起きていた。
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 日本民族日本人の祖先である縄文人は、数万年前には、北は蝦夷地(北海道)・北方領土四島・樺太・千島列島、南は琉球(沖縄)、西は朝鮮半島南部に広く生活し、船を移動手段として海上交易を活発に行っていた。
 海上交易の大動脈が日本海航路であり、日本海縄文人日本民族日本人の内海・庭であった。
 そこには、朝鮮人はもとより中国人も存在していなかった。
 何故なら、朝鮮人も中国人も黄河流域で生活していた北方草原の民の子孫で、移動手段が馬と牛そして川船であったからである。
 南方海洋民の子孫である日本民族日本人にとって、北方草原の民の子孫である朝鮮人と中国人は似ていない。
 日本民族日本人の性質・性格は、助け合う船乗りである。


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