☲35〕─2─元徴用工裁判を焚きつける親韓派や人権派の日本人達。韓国の反日的『日帝強制動員歴史館』。~No.135No.136No.137 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 元徴用工問題において、如何なる妥協も譲歩もするべきではない。
 よって、元徴用工とその家族に賠償金を支払う為の基金を設け救済財団を新設する事はあり得ない。
 元徴用工の為の基金と救済財団を主張する日本人の常識を疑うべきである。 
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 日本国内外の朝鮮人は、契約労働者か志願軍属であって強制徴用工ではなく、各種挺身隊は国民の義務であった。
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 1945年頃 朝鮮人は、朝鮮半島に約3,000万人、日本国内に約200万人いた。
 親日派知日派朝鮮人は味方であったが、反日派や中間派(傍観者)は敵であった。
 敗北に追い込まれた日本民族日本人は、一縷の望みとして、万分の1に賭け、最後の勝利の為に1億総玉砕を行い本土決戦を覚悟していた。
 日本民族日本人は、最後の最後、その瞬間まで望みを希望を捨てず諦めず、正々堂々と潔く死力を尽くして戦っていた。
 竹槍で、戦闘機や爆撃機や、戦車や大砲や、戦艦や空母と戦おうとした。
 バケツや竹箒で、原爆や焼夷弾に挑もうとしていた。
 日本人と朝鮮人とは違うのである。
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 2019年1月号 Hanada「〝徴用工〟を焚きつけた反日日本人 櫻井よしこ /西岡力
 『原告の元徴用工』の嘘
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 西岡 そもそも朝日新聞をはじめ日本のマスコミでは『徴用工判決』と報じていますが、彼らは『徴用』で渡日したのではないのです。
 1人は1941年に、3人は43年に『募集』に応じて渡日しています。そのうちの2人は、平壌で日本製鉄の工員募集の広告を見て、担当者の面接を受けて合格し、その引率で渡日しているのです。
 櫻井 この点は非常に重要です。安倍首相も11月1日の衆議院予算委員会において、『旧朝鮮半島出身労働者というもとで、この事案を捉(とら)えている』と述べました。
 国家総動員法に基づく朝鮮人労働者の動員は軍需産業に労働者を向けようとしたものですが、結論から申し上げると、それは全体として失敗でした。順を追って説明します。まず、同法が公布されたのが1938年。内地では翌39年から国民徴用令による動員が始まった一方、朝鮮では徴用令は発動されず、当初は『募集』で行われました。『徴用』は、戦争末期の44年9月からのことです。 
 櫻井 つまり、原告4人はいずれも徴用の始まる44年9月以前に、募集に応じて日本に働きに来た労働者だったわけれですね。
 身分を偽る不正渡航
 西岡 そうです。整理すると、動員は三段階に分かれます。39年から41年に民間企業が朝鮮に渡って実施した『募集』、次に42年から44年9月まで朝鮮総督府が各市、郡などに動員数を割り当てて民間企業に引き渡した『官斡旋』、そして44年9月から45年3月頃までの徴用令に基づく『徴用』です。
 櫻井 どれも動員先は民間企業で、通常2年の期限契約でしたね。のちほど述べますが、待遇も相対的に良かったとされています。
 西岡 当時、朝鮮と内地の産業開発の差や日本人男性の多くが徴兵のため不在で、日本本土は極度の労働者不足となり、賃金が高騰していました。
 櫻井 募集人数に対して2倍の募集者があったとの事例も見られます。こうしたことは鄭大均氏(首都大学東京名誉教授)の研究によって、当時の新聞記事にも書いていることが明らかになっています。
 西岡 なので出稼ぎ目的の『個別渡航』が多数あったのです。その数は『募集』の15万人に対して44万人、約3倍にのぼりました。つまり、朝鮮人労働者は内地で働きたがっていたのです。強制連行などではなく、自発的に来ていた。
 櫻井 なかには不正渡航も横行していましたね。それに対して日本は取り締まりを行い、不正渡航者を本国に送還した。約1万6,000人が送り返されたとの記録が残っています。
 西岡 『不正渡航者を強制送還した』──これが実体です。不正渡航者のなかには身分を偽り、動員対象者になりすましたケースもありました。
 結局、計画外に約3倍が勝手に渡航することが常態化し、『募集』による動員計画は失敗に終わります。そこで『官斡旋』が始まったのです。『募集』では無秩序に渡航する出稼ぎ者の流れを止めることができないと判断して、統制を強めました。その結果、『官斡旋』『徴用』の時期には個別渡航や不正渡航はほぼなくなりました。
 好待遇の職場に移る
 櫻井 企業側の募集に対して官が斡旋する際、当該する職場に行くか行かないかを労働者の自由意思によって決めることができました。納得いかなければ断る自由が彼らにあった。これは官斡旋の重要なポイントと言えます。
 西岡 おっしゃるとおり、強制力はありませんでした。実際、官斡旋によって約53万人が動員されましたが、そのうち40%が動員された職場から逃亡して、動員計画とは別のより待遇の良い他の職場に移っています。当時の言葉で言えば、『自由労働者』となったわけです。また、2年間の契約が終了した労働者の多くも帰国せず、かつ動員された職場での再契約を拒否して、同じく『自由労働者』となっていました。
 逃亡の多さを待遇の悪さの例とする論が一部にありますが、それなら逃亡した者らは朝鮮に帰ったはです。ところが実際は、帰らず別の好待遇の職場に移動した。
 櫻井 なかには渡日した直後に逃亡したケースも多々あったとされています。
 西岡 渡航の手段として官斡旋を利用し、内地に着いたら隙を見て逃亡しようと考えている者が60%もいたという調査結果さえ残っています(『炭鉱における半島人労務者』労働科学研究所、1943年)。
 あるいは、事前に連絡を取っていたブローカーの助けで別の職場に移るケースもありました。逃亡しても罰則などはなかったのです。
 櫻井 新日鐵住金を訴えていた裁判で、原告は『賃金の大部分は強制貯金させられ受け取れなかった。逃亡したかったが警備が厳しくできなかった。募集広告に出ていた内容と実際の仕事が違った。憲兵に理由もなく殴られた』などと主張しています。
 毎晩酒盛りをした徴用工
 西岡 民事裁判などで、被告が法廷で争われる部分については被告の言い分が認められてしまうので。これは由々(ゆゆ)しき事態ですので、日本企業は過去の記録や先輩社員らの証言を早急に集めておく必要があります。
 仮に強制貯金の預金通帳をなくしたとしても、企業側に記録として残されているケースもあります。過去に、元慰安婦が2年半で貯めた2万5,000円の貯金記録が見つかった例もありましたから。
 櫻井 当時は5,000円で家一軒建てることができた時代ですから、2万5,000円は大変な大金です。ここに一冊の本があります。タイトルは、『朝鮮人徴用工の手記』(河合出版)。1944年11月末にソウルで徴用された鄭忠海(チョンチュウヘ)氏が書いた回想録です。『親子四代にわたる日本への怨恨は戦後40年でも解消しきれない』と書かれているなど、鄭氏の対日観は非常に厳しいものがあります。
 それでも氏は、朝鮮人に対する当時の日本の対応は丁寧だったと振り返っています。『強制動員』される鄭氏の出発に際して、『広場は出発する人、見送る人々で一杯だった』『各地から動員されていた人々と共に壮行会が催された』と書かれています。本当に『強制動員』であれば壮行会など行われるはずがない、と考えるのが常識です。
 西岡 徴用工の待遇も決して悪くありませんでした。『朝鮮人徴用工の手記』には、広島工場で月給140円を支給され、新しい寄宿舎にふかふかの布団があり、アワビや柿やみかんを食べながら毎晩酒盛りができた、と記されています。
 鄭忠海氏が手記を書いたのは、今日のような裁判が始まる以前のことです。妻帯者だったけれども日本の戦争未亡人に愛されて恋に落ち、夜中に彼女の家に行き、ご飯を食べてお風呂まで用意されていた。朝鮮に帰ると言ったら泣かれたといった、青春時代の思い出を書いているのです。
 あるいは別の者は、大阪の工場を逃げ出して東京の朝鮮人親方の飯場に行くと、戦争末期の1945年にもかかわず、白米、牛肉、どぶろくがあり、日給15円ですぐに雇ってもらえたとの記録が残されています。
 日本側からすれば、朝鮮の人たちに日本の戦争のために来てもらうのだから待遇ぐらい良くしよう、との思いがあったのです。
 櫻井 鄭忠海氏の手記は、当時の朝鮮半島から働きに来ていた労働者たちがどのような暮らしをしていたのかを知る貴重な資料と言えます。
 西岡 朝鮮の労働力を戦争遂行に必要な産業に効率よく移送しようとする戦時動員計画は、計画とは関係なく自分たちが望む職場で働きたいという多くの朝鮮人労働者のため成功しなかった。
 平和な農村から、いやがる青年を無理やり連れていって奴隷のように酷使したという『強制連行』のイメージは全くの虚構です」
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 炭鉱や金属鉱山など甚大な事故が起き命の危険性が高い現場では、働く者同士の仲間意識が高い分だけ、日本人や朝鮮人などという人種・民族に対する差別意識は低い。
 何故なら、お互いに信じ合わなければ生き残れないからである。
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 歴史通17ーWinter(WiLL11月号増刊)「『朝日新聞と韓国・北朝鮮』に捏造される歴史
 ユネスコも唖然?韓国『日帝強制動員歴史館』の嘘八百   三輪宗
 荒唐無稽なまでのニセ写真の展示による歴史歪曲。これで『国立歴史館』とは?
 歴史を忘れた民族
 韓国の『国立日帝強制動員歴史館』は釜山にある。
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 まず、『炭鉱から無事戻った人は数少ない』とあるが、明らかな嘘である。筆者が目を通した石炭統制会の作成した統計資料(茨城県立歴史館所蔵)では、労務者の日本人と朝鮮人労働者の死亡率は殆ど差がない。その一方、炭鉱で働きつづけた日本人炭鉱労働者と、日本人で甲種や乙種で徴用された労働者の死亡率との間で大きな格差がある。日本人鉱夫は死と隣り合わせの戦場に赴いたのである。その代役として朝鮮人労働者が日本に移入し、炭鉱で働いた。
 ……
 もう一点は一旦朝鮮に戻った移入労働者が密入国で日本に再び戻ろうとした事実である。『奴隷労働』であったならば、なぜ帰朝鮮後に日本に密入国を企てるのか説明できない(シベリアに『強制抑留』され、『強制労働』をさせられて命からがら舞鶴に戻ってきた日本人が、再びシベリアやソ連で働きたいといって密入国した例があるだろうか?)。米国国立公文書館のRG331(レコードグループ331)の中にTllegal Entry of Koreannsという統計データが日々、毎週、月次で記録が残っている。国立日帝強制動員歴史館はその記録(密入国を試み、GHQに捕まった朝鮮人で、昭和20年、昭和21年は1万人近くにもなる。密入国に成功した人も相当いるだろう)を正々堂々と事実の説明をつけて展示したら、多くの来訪者に複眼の視点を提示できるのであろう。もっとはっきり書こう。展示の解説の信憑性が根底から揺らぐであろう。
 『日本人』を『朝鮮人』と取り違え!
 とにもかくにも、この博物館、7階建ての立派な建物である。エレベーターで4階に上がり、展示スペースに入っていく。写真④が入り口にある。写真には、痩せこけたパンツ一丁の男たち。この人たち、朝鮮人労働者でなく、1926年の旭川の道路工事現場での日本人労働者なのだ。その写真が、なぜか、韓国の『日帝強制動員歴史館』にいる私の目の前に飛び込んでくる。『日本人労働者』を『朝鮮人労働者』とした上に、年代まで違っており、周知のように労働動員の募集が始まったのは1939年からである。これでは、情けない限りである。のっけからインチキ写真を掲げたのでは、『国立日帝強制動員歴史館』の展示や内容がイカサマでないかとの疑惑を深めるだけだろう。大失態ではないか。
 この写真はボンで世界遺産軍艦島が登録された際にも、韓国側が国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会の全委員に配った宣伝ビラにも使用していた。この写真の下地にして『目覚めよ! ユネスコ目覚めよ! 世界 目覚めよ! 人類』と英語で書かれていたのだ(⑤写真)。この事実は、産経新聞(2016年4月3日)が報じている。記事によれば、この写真は旭川新聞の大正15年5月9日の道路工事現場の日本人労働者であると説明されている(写真⑥)。思い込みとは恐ろしいことである。いつこの写真を撤去するのであろうか。それとも今後も掲げ続けるのであろうか。私が心配することではないが、この写真の運命や如何!ユネスコ様にはぜひ目覚めていただきたいものである。小生の駄文を読んでウェイクアップ(お目覚め)していただければ、望外の幸せである。
 『草取り』も児童の強制労働?
 そもほか、児童が草取りをしている写真がある。ハングルで『サハ公立小学校勤労奉仕』(写真⑦)と書かれているが、英語や日本語の説明はない。この一枚も子供たちまで『強制労働』『勤労動員』をしたということを示すために掲げてあろうか。だが、筆者も小学校の時に校庭などの草取りをした記憶がある。……展示の意図として、要は、日帝は残虐で子供や児童まで『強制動員』したということを強調するために児童の写真を掲げているのである。
 ともあれ、関連する展示をもう少し紹介しておこう。日本で『強制労働』させらたという現場は、炭鉱、建設土木、造船業、鉄鋼関連であるとしている(写真⑧⑨)。……解説文はハングルしかないが、石炭鉱山や金属鉱山ではタコ部屋と納屋に住まわされたとある。1日10時間以上働かされたとあるが、当時は10時間の労働時間が普通であった。朝鮮人労働者は社会と隔離されていたと書かれ、ハングルで『日本は工場法によって満14歳未満の児童労働を原則的に禁止しながらも朝鮮人少年や少女に労働力を搾取した』(写真⑩ )と書いている。 だが帰国後日本の炭鉱関連資料を精査したが、徴用された朝鮮人労働者はほとんどが16歳以上であった。中にはごくわずかであるが、15歳がいる。数え年と満年齢との関係で15歳がいるのであろう。日本人労働者と朝鮮人労働者は隔離などされていない。隔離していたら、そもそも逃亡などできないだろう。私が聞き取りをした、ある炭鉱マンの話では、三井山野炭鉱では当時の小学生と朝鮮人労働者が一緒にお風呂に入っていたとのことであった。……何を根拠に『社会と隔離されていた』とするのか、私には理解できない。
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 というのも、給料明細があるということは、徴用した労働者に、給与を払い、そこから貯金などで天引きされていた金額や家族への送金額などがちゃんと知られていたということになるからだ。私見では、炭鉱や金属鉱山では基本的に当時の賃金は、出来高に応じて支払われていた。年齢、経験、学歴も考慮されたが、日本人と朝鮮人という別々の賃金体系は、管見(かんけん)の限りみたことはない。多くの統計をしらみ潰しに調べてみたが、民族差別的な賃金大系などなかった。
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 私は九州大学に赴任した平成16年以降、資料にあたってきたが、内地人と半島居住者の間に賃金の区別があったと示す資料は見当たらない。
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 炭鉱労働は、基本的にいくら石炭を掘り出したかという出来高払いだった。
 『慰安婦』は『性奴隷』か 
 日本人男性が足りない中、朝鮮半島出身者が、石炭増産に大きく貢献したのは間違いない事実である。半島出身者も日本人も、同じ条件の下で、賃金は支払わされていた。ソ連のやったシベリア強制労働、強制連行とは次元が異なる。」
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 単純労働の低賃金の朝鮮人労働者・朝鮮人不正渡航者・朝鮮人逃亡者・朝鮮人犯罪者達は、日本人の様に借家を借りられなかった為に各地の部落民居住区に潜り込んで住み着き人口を増やしていった。
 部落民・賤民は、江戸時代から明治維新まで、明治中期から明治後期まで、大正期から昭和前期の敗戦まで、敗戦混乱期、戦後復興から高度経済成長まで、そして現代に於いて全く違う。
 その特徴は、日本天皇家・皇室に対する思い、考え方である。
 生粋の日本民族日本人部落民・賤民であれば、命知らずの勤皇派・尊皇派である。
 反天皇部落民・賤民は、日本民族日本人の部落民・賤民ではない。
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 キリスト教朝鮮人テロリストや朝鮮人共産主義ゲリラが、日本・朝鮮・中国などで暗躍し、日本の国と軍の機密情報を連合軍に流し、日本軍が敗北している情報を流し、そして昭和天皇は殺すべく狙われていた。
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 労働者不足を解消する為の朝鮮人募集は、現代日本ベトナム人などの日本語学校留学生募集ににている。
 日本人の愚かさは、同じ失敗を反省もせず繰り返し、やはり失敗する事である。
 その愚かさは戦前より戦後に多く、現代の高学歴出身知的エリートにその傾向が強い。
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 日本政府と日本軍は、中国など海外で日本国籍保有朝鮮人が犯罪に巻き込まれると、日本民族日本人同様に差別する事なく保護した。
 日本民族日本人と朝鮮人日本国籍保有者として、諸外国から同じ権利が認められ、国際法や国内法によって生命財産が同等に保護を受けていた。
 国際社会は、日本民族日本人も日本国籍保有朝鮮人も同じ日本国民と見なし、区別しなかった。
 朝鮮人は、日本国籍・日本のパスポートを持っていれば、国際連盟常任理事国・世界の五大国の日本人としての優遇を当然の権利として受ける事ができた。
 反日朝鮮人は、日本国籍を否定し、日本国民として受けられる権利や優遇・待遇を拒絶した。
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 現代韓国の反日裁判を見るにつけ、日本軍が兵力不足を補う為に朝鮮人を徴兵して玉砕する戦場に送らなかった事は正解であった。
 現代の韓国人や朝鮮人の異常な反日感情を無視して、銃を持たせて日本軍部隊に配属していたらどんな事態になっていたか、恐怖の一言につきる。
 つまり、朝鮮人・韓国人が生死を共にして戦う戦友となったとは思えない。
 日本人と朝鮮人・韓国人が苦楽を共にできたとは思えない、不可能としかいえない。
 その点から、幾ら日本人と朝鮮人・韓国人が腹蔵なく話し合った所で分かり合えないし、心底から理解し合える事はない。
 日本人と朝鮮人・韓国人の断絶は埋まる事はない。
 永遠に変わらぬ友情は、決して訪れない。
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 一般常識を持つ日本人は、息子、兄弟、夫を徴兵されて戦場で死んでいるのに、同じ日本国籍を持ちながら、同じ年代の朝鮮人が目の前で働いて金を稼ぎ、笑いながら飯を食い家族で生活している事に、言い切れない不満を抱いていた。
 日本民族日本人は、一等国民として兵士にされて戦死したが、戦闘死は3分の1で残りは餓死(飢え死)・怪我死・病死であった。
 朝鮮人は、二等国民として労働者・軍属・徴用工として生き残った。

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日本が忘れ韓国が隠したがる 本当は素晴らしかった韓国の歴史

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  • 作者:松木 國俊
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