☳11〕─1─8月、大阪留置所暴動脱走事件。11月、首相公邸乱入騒動事件。昭和21年~No.30No.31No.32No.33 @ ⑥ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 独立派朝鮮人朝鮮人テロリストは、在日朝鮮人犯罪者となって日本国内で凶悪犯罪を繰り返し、日本人に甚大な被害を与えていた。
 諸外国で、日本に同情する国は一ヵ国もいなかった。
 日本は、戦争犯罪国として見捨てられた。
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 もし本土決戦が行われ連合軍の大部隊が上陸した時、日本全国に強制連行された数万人の中国人は連合軍に味方したであろう。
 では、200万人の朝鮮人は、連合軍に味方して日本軍を攻撃したであろうか? あるいは日本軍に協力して連合軍と戦ったであろうか?
 朝鮮人は、軍国日本の味方か?敵か?
 朝鮮人テロリストは?
 日本共産党員は?
 反天皇反日的日本人は?
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 朝鮮人は、GHQ仁対して、戦勝国の一員という地位を要求した。
 GHQは、朝鮮人の執拗な要求に辟易して、敗戦国人でもなく戦勝国人でもないとして「第三国人」という呼び方を与えた。
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 1945年8月15日 日本全国に第三国人と呼ばれていた朝鮮、台湾、中国を原籍とする者約236万人が、自由意志或いは官製徴用で日本の炭鉱、鉱山、軍需工場、工事現場き来て働いていた。
 朝鮮人が231万人で、残りの5万人が台湾省民と中国人であった。
 敗戦国日本がアメリカ軍の占領下に置かれるや、彼らは日本国籍がなくなり解放国民として祖国に帰国し始めた。
 朝鮮人は、「もう日本人じゃない」と乱舞して悦んだが、日本姓は捨てず日本国内にいる間は日本姓を名乗っていた。
 11月 GHQは、「第三国人を解放国民として処遇する」という命令を発して、彼らが住む地区は軍国日本の法律は及ばない治外法権の解放区と定めて尊重した。
 「分断して統治する」という植民地政策の原則に従い、旧日本軍や軍国主義者・右翼等に対抗する為に第三国人を敵対勢力として利用しようとした。
 朝鮮人は、GHQによって特権が認められたと確信し、戦勝国民として振る舞い敗戦国民・日本人を見下し、不法行為を行い始めた。
 朝鮮人は、戦勝国民の特権として、混乱に付け込んで都市部の駅前の一等地を占領し、物資不足で経済統制がなされてる中であっても食糧、雑貨、菓子類、ウィスキー、外国の医薬品などの物資を集めて闇市を開いて売りさばいた。
 違法のヒロポンや密造酒を作り、中国産麻薬を密輸して闇市で売り大金を稼いでいた。
 同胞の朝鮮人には安く物を売り、日本人に高値で物を売り、不服を言えば殴る蹴るの暴力を加えて闇市から追い出した。
 日本人憎しの朝鮮人は、惨めたらしく逃げ惑う日本人を見下して優越感を味わい、高笑いで勝利の雄叫びを上げた。
 日本人は、朝鮮人の豹変に驚き、アジアを白人支配から守る為に戦った戦友と信じていただけに憎しみの目を向けたが、戦争に負けたという喪失感から無抵抗にされるままになって我慢した。
 第三国人でも台湾省民は、親日的で反日朝鮮人と反目し、中華街を縄張りとして闇市に加わらなかった。
 朝鮮人が支配する解放区・闇市で犯罪行為が起きても、日本の警察には取り締まる事ができなかった。
 日本人テキ屋達は、露天商同業組合を組織し、地元の任侠・博徒といった正統派ヤクザ者の支援を受けて闇市の利権を巡って対立した。
 全国各地で、朝鮮人の凶悪犯罪が続発し、日本人戦災者の被害が増えていた。
 日本の警察は、GHQの対日制裁占領政策で法の行使が厳しく制限されていた為に、日本人戦災者を朝鮮人犯罪者から守る事を任侠・博徒ら正統派ヤクザ者に依存した。
 戦前の日本人は、清水の次郎長などの忠君愛国の国士的ヤクザや国定忠治などの反権力・反権威の愛民的ヤクザへの親しみから、正統派ヤクザに味方していた。
 正統派ヤクザは、外国の権力や権威と裏取引する犯罪組織とは違うし、現代日本暴力団や凶悪ヤクザとも違ってい、貧しい日本人と強い絆を持っていた。
 最初は朝鮮人団体が数の上で優位に立っていたが、朝鮮人が帰国し始めるやを構成員数が減って劣勢になるや、より凶暴化して誰彼なしに喧嘩を売った。
 朝鮮人は、追い詰められて冷静さを失うと、誰も止められないほどの半狂乱となって暴れた。
 2年間の内に、191万人が帰国した。
 代わって、外地からの復員者が増大した。
 復員者の多くは、故郷に帰り、家族と再会し、元の仕事に復帰して普通の生活を再開した。
 都市の残った復員者の中で気の荒い日本人は、闇市を巡る喧嘩に参加した。
 日本に絶望した者は勢いのある朝鮮人団体の手下になり、日本人被災者を食い物にして暴利を貪る朝鮮人への敵意に燃える者はテキ屋・任侠の組に加わり、何れにも与せず独自の道を歩む愚連隊を組織した。
 闇市の対立が殴る蹴るの喧嘩から日本刀や銃を使用した抗争に発展するや、GHQは不法地帯化して暴力的共産主義革命の危険性が増大するとして取締に乗り出した。
 中国共産党は、大量の麻薬を日本に密輸し、協力者を使って日本国内で売りさばき反日反米の活動資金を得ていた。
 ソ連は、日本を共産主義化して天皇制度を破壊する為にマルクス主義者に活動資金を与えていた。
 日本の警察は、GHQの対日占領政策共産主義容認から共産主義取締へと変更に伴い、闇市健全化の為に公権力を行使し始めた。
 警察官は、法権力を行使し、地元の正統派ヤクザの情報提供を得て、朝鮮人犯罪者を現場で逮捕して留置所や拘置所に収監した。
 取り締まり強化によって、都市の刑事施設は朝鮮人被疑者や被告人で満杯になり、さらに過剰になっていた。
 全ての施設が一杯の為に、仲が悪い日本人、朝鮮人、台湾人、中国人を分ける事ができず同じ監房に入れた。
 そして、1946年8月11日に大阪北区若松町大阪拘置所朝鮮人による暴動脱走事件が起き、3ヶ月後には堺の大阪刑務所内の拘置所臨時拘禁所でも暴動が起きた。
 同様の、朝鮮人収容者による暴動事件が全国でも刑事施設で起きていた。
 昭和21年8月21日 大阪朝日新聞「11日午後5時ごろ大阪市北区若松大阪拘留所雑居房一階101号収容中の未決囚が入口の扉を打ち破り雑居房食堂の出入口を破壊、他の房の扉をも開放して数百人の未決囚が集団脱走した、同拘留所では全府下ならびに近畿各府県警察の応援を求めて逃亡者の逮捕にあたり午後7時ごろまでには過半数を逮捕した。……
 監房を破って逃走を試みたものは約2,000名近くに上り、南、北、西門の三ヵ所に分かれて殺到、各門を守っていた看守がピストルを突き出し制止したために大部分は拘置所内に留まり、約50名が脱出したものと見られる。なお同拘置所の定員は300名であるのにもかかわず当日の収容者は1,698名の多数にあがっていたうえ日曜日のこととて警戒の看守は20余名であった」
 銃使用の内部記録「当時大阪拘置所の拳銃は26年式13挺、うち2挺は故障で11挺を使用し、射耗弾丸122発、混乱中の拳銃射撃により負傷は被告3名、右肩、右下腿、右脾などの貫通または盲管銃創であった」
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 監獄に収監されたいた囚人達は、恩典で出獄しても、家はなく、職はなく、食べ物がない焼け野原の日本に絶望して、雨露しのぐ屋根があり、働かなくとも三度の飯が食える刑務所に犯罪を起こして舞い戻っていた。
 彼らは、犯罪を起こしても罪の意識はなく、ゴロゴロして税金で飯を食う恥の気持ちもなかった。
 刑務所にいれば、空腹に耐えながら焼け野原の日本を彷徨う事はなく、飢え死にする恐怖はなかった。
 看守に殴る蹴るの暴力を振るわれても、食うや食わずでひもじい思いをして、雨に濡れ、風に吹かれて路上で寝るよりもマシであった。
 日本の監獄は、外国の監獄に比べても、普通の一般生活に比べても天国のような所であった。
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 反日朝鮮人集団の首相官邸乱入事件。
 11月10日 在日朝鮮人は、在日朝鮮人生活権擁護委員会を結成し、朝鮮人に対する生活物資の優先配給を要求して、中央、地方の関係機関に対する波状的集団闘争を展開した。
 反米反天皇反日の市民団体は、政治運動に利用し、吉田政権打倒を叫んだ。
 12月20日 皇居前広場で「朝鮮人生活権擁護全国大会」を開催され、約1万人の在日朝鮮人が結集した。
 日本共産党徳田球一らは、応援演説を行い、倒閣運動への結集を強調し、終始政府を攻撃して大会を扇動した。
 午後1時頃 大会は、各地区朝鮮人代表者らによって生活権擁護の決議文と「在日朝鮮人の処遇改善」「朝鮮人に対する警察の差別的不法取締りの撤廃」等5項目の要求を採択し、これを首相官邸、国会、連合国軍最高司令部へ陳情することを採択して解散した。
 午後1時30分 一部の在日朝鮮人達が、「朝鮮人虐殺政策絶対反対」「吉田内閣は日本の敵だ」といったプラカードを掲げてデモ行進を開始。
 午後2時頃 在日本朝鮮民主青年同盟荒川支部を先頭にしたデモ隊2,000人は、首相官邸前に差し掛かると、申請して許可をえていた指定路線を無視して官邸正門方向に向か。
 警戒中の麹町警察署員は、デモ隊の進行を阻もうとした。
 デモ隊は、スクラムを組んで気勢を揚げ警戒線を突破して官邸正門前に殺到した。
 官邸警備の警官隊は、侵入を阻止する為に急ぎ官邸正門を閉鎖しようとしたところ、デモ隊は投石し、プラカードを振るって警察隊に襲い掛かり、官邸内に雪崩込んだ。
 その中に、朝鮮進駐軍部隊が加わっていたと言われている。
 日本の警官隊は、アメリカ軍憲兵隊に応援を頼んだ。
 デモ隊は、制止しようとした警察官23人に重軽傷を負わせ、拳銃2丁が奪い取った。
 午後2時30分頃 急を知って出動したアメリカ軍憲兵隊は、首相官邸を占拠したデモ隊全員を門外に排除しようとしたが、デモ隊は座り込んで抵抗した。
 午後2時50分頃 アメリカ軍憲兵隊と警察隊は、座り込んだデモ隊を暴力的に強制排除して解散させた。
 アメリカ軍憲兵隊が大銃撃の後に実力で排除したというのは、悪意に満ちた捏造である。
 警視庁捜査第二課は、現場に急行して警察隊と協力して、朝鮮人生活権擁護委員会・李秉哲委員長ら10名を「暴力行為等処罰ニ関スル法律違反」被疑者として逮捕し、身柄をアメリカ東京憲兵司令部に引き渡した。
 アメリカ軍東京憲兵司令部は「右10人は、氏名不明の約一万人の群衆とともに暴動を起こし、暴力と武器を持って、非合法又は暴動的行動をした。そして、狂暴かつ激烈なる方法によって混乱を起こし、日本政府の財産たる首相官邸に侵入して、不法かつ暴力的に佐川文夫及び日本東京警視庁警備警察官を襲撃して、麹町区民を恐怖と混乱の中に陥れたことは占領目的の違反行為である」として起訴した。
 12月26日 アメリカ陸軍第八軍の軍事裁判は、全員を有罪とし、重労働5年等の刑を言い渡した。
 翌年3月8日 10名は国外追放された。
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 吉田茂首相「朝鮮人の中で犯罪分子は大きな割合を占めている。彼らは日本の経済法令の常習的違反者であります。多くは共産主義者ならびにそのシンパで最も悪辣な政治犯罪を犯す傾向が強く、常時7,000名以上が獄中にいるという状態である」
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 反日過激派の在日朝鮮人は、武装解除された日本軍の武器と軍服を盗用して武装し朝鮮進駐軍(3万人)を組織して、日本各地で強姦、暴行、金品略奪、銀行襲撃、警察署襲撃、農家や農協倉庫の襲撃、貨車襲撃、商店街や国の食料倉庫を襲撃、土地・建物の不法占拠、鉄道の不法乗車等、横暴の限りを尽くしていた。
 朝鮮進駐軍の個々に部隊は、各地で日本人ヤクザと縄張りを巡って流血事件を起こしていた。
 財を成した朝鮮進駐軍は、政治権力に野心を抱き、マルクス主義を取り入れ、裏で北朝鮮との関係が深い朝鮮総連と連絡を取り合っていた。
 朝鮮進駐軍武装占領していた土地が、在日朝鮮人連盟中央総本部となり、後に朝鮮総連本部となった。
 在日朝鮮人暴徒達は、腰には拳銃をさげ朝鮮進駐軍を名乗り、日本人に言い掛かりを付けて鉄パイプの凶器を振り回して集団暴行を加え、白昼に目に付いた婦女子を路上で集団強姦するなどの犯罪行為を日常茶飯事的に繰り返していた。
 日本人警官は、市民を在日朝鮮人暴徒から守る為に駆けつけるが、GHQ命令で銃器の所持が許されていなか為に無力であった。
 在日朝鮮人暴徒は、丸腰警官を袋叩きにした。
 GHQは、朝鮮進駐軍による犯罪行為で日本人4,000人以上が殺害されたとの記録を残したとされるが、真実は不明である。
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 坪井豊吉(公安調査庁職員)は、『法務研究』で在日朝鮮人終戦後に日本でおこなった犯罪状況についてに書いた。
 「本期における大きな傾向としては、個人的感情にもとづく報復的詐欺、脅迫、暴行などの一般犯罪のほか、いわゆる親日派民族反逆者への監禁、暴行、あるいは……帰国問題に起因する不穏行動、各地の保安隊、警備隊(朝連の自衛組織)などの警察類似行為、主食の集団要求や買出し、彼ら同士の派閥抗争などがみられた……またそれらの中の主な事件は、各地における集団強窃盗、官公署への横暴な態度と不当な要求、建築物の不法占拠、汽車、電車、バスなどの不法乗車、生産管理、人民裁判などであった……。彼らの不法行為は、敗戦による日本側当局の無気力と消極的な処置に乗じてやたらと増長され、戦後の混乱をいっそう助長するところとなった……敗戦の混乱におびえるに日本の一般社会人心は極度に不安な環境におちいり、一時は全く無警察状態が各方面に現出された。彼らの不法行為が、一般日本人はもちろん、在留外国人の間にまでも、彼らの性格が事大主義で、遵法精神が薄く、感情的で、極端な凶暴性をもっているとの深い印象を植え付けたことだけは、まぎれもない事実のようである。
 この時代は、特にその初期は右翼と称される民団、建青などによっても数々の不法行為が敢行されていた……」
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 1951年 エドワード・ワグナー(朝鮮史)、『日本における朝鮮少数民族
 「戦後の日本においては、朝鮮人少数民族は、何時も刺戟的な勢力であった。数においては大いに減ったものの、朝鮮人は、依然として実に口喧しい、感情的・徒党的集団である。彼らは絶対に敗戦者の日本人には加担しようとせず、かえって戦勝国民の仲間入りをしようとした。朝鮮人は、一般に、日本の法律は彼らに適用され得ないものとし、アメリカ占領軍の指令も同じようにほとんど意に介しなかった。その為、国内に非常な混乱を起こした」
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 1957年 朴在一『在日朝鮮人に関する総合調査研究』(新紀元社
 「15〜59歳の男女人口を犯罪年齢人口とすると、刑法犯、特別法犯の検挙人員は合計3万7276人(1949年)であるから、在日朝鮮人の成年男女の100人のうち、14.4人が検挙された事になる。外国人登録法違反による被検挙者数まで入れると、この数字はもっと増えて100人当たり20.2人になる。このほかに道路交通法違反による検挙者1万9,332人もいる。それ故に大都市警察の留置所が、何時でも朝鮮人で一杯であるという事も否定し得ない悲しむべき事実であろう」





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盛り場はヤミ市から生まれた

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