🎍9〕─1─日本生まれの百済王子・武寧王は、武烈天皇の軍事支援で百済王国に帰国して、百済王に即位した。502年~No.23 

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 正系男系の皇室断絶で万世一系天皇制度消滅の危機。
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 残虐な武烈天皇崩御で中央の正系が絶え地方の傍系継体天皇が即位するが、中央の保守派は猛反対した。
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 百済は、親日派王国であった。
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 502年 第25代武烈天皇紀4年。是歳条「百済の末多王(東城王)が暴虐であったので、百済の国人は王を殺し、嶋王を立てて武寧王とした」
 日本生まれの武寧王(在位502〜522年)は、天皇の意に従い、倭国の軍事援助を得て、帰国して百済王に即位した。
 そして、前例に従って王子の純陀太子を天皇への人質として日本に送った。
 純陀太子は、後に帰国したが、その子孫は日本に土着して帰化した。
 純陀太子から数えて9代目に生まれたのが和乙継で、その娘が高野新笠である。
 高野新笠が、桓武天皇(在位781〜806年)を生んだ。
 武寧王から数えて200年後の事である。
 日本(倭国)は、朝鮮南部の一部を領土して百済王家を軍事・経済両面で支え、百済を攻めてくる新羅高句麗を協力して撃退した。
 百済反日として敵対する時は、軍隊を派遣して懲らしめた。
 百済新羅は、日本軍に屈する度に、跪き「日本の犬」として使える事を誓った。
 百済王家の子孫は、文才はあっても軍略がなく、奥州討伐の命を幾度も受け出兵するが全て失敗した。
 武寧王の棺材には、日本原産のコウヤマキが使用されていた。
 韓国南部にある権力者の墳墓からは、日本製の宗教儀式的青銅器や銅鏡、日本原産のヒスイが付いた戴冠が、埋葬品として大量に出土した。
 新羅国王も、権力の象徴として日本原産のヒスイを王冠に付けた。
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 武寧王(ムリョンワン、462年 - 523年)は、百済の第25代の王(在位:502年 - 523年)。『三国史記百済本紀・武寧王紀によれば先代の牟大王(東城王)の第2子であり、諱を斯摩、分注では隆とする。『梁書』では余隆、『日本書紀雄略天皇紀5年条では、加須利君(かすりのきし、第21代蓋鹵王)の子、名を嶋君とする。また、武烈天皇紀4年条では『百済新撰』の引用として、「諱は嶋王という。これは昆支王の子である。則ち末多王(東城王)の異母兄である」としながらも、「今考えるに、島王は蓋鹵王の子である。末多王は昆支王の子である。これを異母兄というのはまだ詳しく判らないとしている。『三国遺事』王暦では『三国史記』と同じく、諱を斯摩とする。
 旧都漢城ソウル特別市)を高句麗に奪われ混乱した百済の安定を回復した王とされる。

 『日本書紀』の記述[編集]
 武寧王の出生の話として雄略天皇紀5年(461年)条に、百済の加須利君(蓋鹵王)が弟の昆支王を倭国に貢る際、自身のすでに妊娠した婦を与えて、途中で子が生まれれば送り返せと命じた。一行が筑紫の各羅嶋(かからのしま・加唐島)まで来たところ、一児が生まれたので嶋君と名付けて百済に送り返した。これが武寧王であるとしている。また、即位については武烈天皇紀4年(502年)是歳条には百済の末多王(牟大、東城王)が暴虐であったので、百済の国人は王を殺し、嶋王を立てて武寧王としたとしている。
 継体天皇6年(513年)に、任那の上??(オコシタリ、現在の全羅北道鎮安郡及び完州郡)・下??(アロシタリ、忠清北道錦山郡及び論山市)・娑陀(サダ、全羅南道求礼郡)・牟婁(ムロ、全羅北道鎮安郡竜潭面)の四県、7年(514年)に己?(コモン、全羅北道南原市)・滞沙(タサ、慶尚南道河東郡)の地をそれぞれ、倭国から百済に譲渡した。これに応えて百済は517年に、日本に送っていた博士段楊爾に代えて五経博士漢高安茂を貢上した。

 武寧王の子孫
 523年の武寧王没後、百済王を継承したのは聖王(余明)であるが、『日本書紀』は514年に百済太子淳陀が倭国で死去したと伝える。武寧王の本来の太子は淳陀であるが、倭国で死去したために余明が代わって太子となったという解釈も可能である。この淳陀太子がいつ倭国に来たのか記載はないが、武寧王は41歳に至るまで倭国で生活していたとして、淳陀は倭国で生まれ、そのまま倭国に留まっていたと主張する説がある。   
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 日本で生まれ成長して帰国した、百済王や新羅王が幾人かいた。
 その逆に、朝鮮半島で生まれ成長して帰国した日本天皇は誰もいない。
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 残虐な武烈天皇が、若くして子供をつくらず、後継者も定めず、夭逝した。
 天皇輔佐の大伴金村は、万世一系の皇統が断絶すると、中国や朝鮮のように、内戦と大虐殺で日本が消滅すると危機感を抱き、次期天皇を定めるべく取り掛かった。
 日本が中国のような殺戮の巷とならない為にも、初代神武天皇の血筋を根拠とする万世一系男系天皇の皇統を守る必要があった。
 皇位は、神代から綿々と受け継がれてきた「血」が最大の根拠とされた。
 日本の伝統、歴史、文化、宗教は、「血筋」による万世一系男系天皇と共に存在している。
 「血筋」を否定した民間出身の天皇では、世界最古の皇統は断絶する。
 直系であれ、傍系であれ、重要なのは、皇祖皇宗の天照大神神武天皇につながる血筋であった。
 現代日本は、皇統を、宗教的血筋よりも憲法的法解釈で決めようとしている。
 神話的「血筋」物語の完全否定である。
 大伴金村は、応神天皇の5世の孫に当たる継体天皇を越国から迎えた。
 日本は、儒教価値観が支配する中国のような悲惨な国にならない為にも、神聖不可侵の万世一系男系天皇(直系長子相続)を死守する必要があった。
 日本の平和と安寧は、血を依り代とする祖先神・氏神信仰の万世一系男系天皇(直系長子相続)に係っている。
 皇祖皇宗を祀れるのは、祖先神の血を正しく受け継ぎ子孫のみである。
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 日本は、中華世界の常識であった、王朝交代の易姓革命と学識偏重の科挙制度を採用せず排除した。
 中華儒教も中華仏教も、中華秩序の核心である易姓革命を称賛していた。
 日本の天命説と中華(中国・朝鮮)の天命説は根本的に違う。
 易姓革命科挙制度を採用しなかった事が、日本と中国・韓国・北朝鮮とは違い社会を生み出した。
 その代わりに、日本社会には先祖代々の稼業を優先する血統・血筋の世襲制が蔓延った。
 その象徴が、家の遺伝子を継承・伝承する家元制である。
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 現天皇・皇室は、傍系の継体天皇の子孫である。
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 天皇の即位は、群臣の協議つまる日本式民主主義が決めていた。
 ヤマト政権は、天皇の絶対的王権ではなく、諸豪族の連合政権で支えられていた。
 政治・軍事は有力な諸豪族が談合して決定し、天皇は衆議の結論を承認し裁可を下していた。
 諸豪族は、天皇が強力なカリスマ性を持ち豪腕なリーダーシップを発揮する事を嫌い、むしろ操作しやすい温和しくひ弱な天皇を望んだ。
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 天皇は、神々の聖な世界と人々の俗の世界の間・境界に神性を帯びて一人で存在している。
 それ故に、ドス黒い陰謀が渦巻く政争の場、政治権力から切り離されている。
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 北畠親房神皇正統記
 「武烈天皇の性格は暴虐で荒々しく、行わない悪行はなかったので、『天祚(あまひつぎ)』(皇位)も長くはなかった。仁徳天皇はあれほど聖徳が高かったのに、その皇胤もここで絶えてしまった。……
 この方(継体天皇)は越前国におられた。武烈天皇がお亡くなりになり、皇胤が絶えてしまったので、群臣はこれを悲しんで、諸国をめぐり、血縁に近い皇胤を探したが、この方には王者の風格が備わっており、その潜龍の勢いが世に知られていたのだろうか、群臣が協議して皇位にお迎え申し上げた。帝は三度まで固辞なされたが、ついに即位なさった。
 ……
 天皇の直系の子孫がいらっしゃる場合は、賢明で皇位を継承するにふさわし諸王がいても、どうして望みを果たすことができようか。皇胤の絶えた時に、賢明な人が皇位に即かれることは、天の許すところである。継体天皇は、わが国中興の祖と仰ぎ奉るべきである」
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 佐藤優「近代まで、日本は中華文明圏の辺境に位置していた。しかし、朝鮮や琉球のように中国の制度を移入することはなかった。漢字・仮名併用制、中途半端な律令制など、日本の特徴が維持された。中華文明圏においては、天命が変化すれば、地上の秩序も変わり、王朝交替が起きる易姓革命が普遍的ドクトリンとされていた。
 ……
 現在に至るまで、天皇家には姓がない。天皇に姓がないということが、日本では易姓革命が起きないことを象徴的に示している。
 日本において、天皇は神々と人々をつなぐ特異点なのである。それは、イエス・キリストが、真の神で真の人であると考えられ、神と人間の媒介項となるキリスト教に似た構成だ。
 ……
 貞永式目御成敗式目)は、現人神(あらひとがみ)である天皇の人という要素を重視して、人である天皇の代理機能を果たすという形で制定されたのだ。同時に(北条)泰時は、自らが天皇になろうとはしなかった。神である天皇には従属すると考えていたからだ。現在の象徴天皇制を泰時が作ったシステムの延長に見ることも可能だ。」
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 山本七平天皇は、臣下たちの決定をただ承認することを通じて、『これは私の意志だ』『それは私の意志だった』という印を付すのだ。この機能を、天皇という地位から切り離し、一般の人が担ったとしたらどうだろうか。たとえば、一介の県知事が、起請詞(きしょうのことば)に『武蔵守(泰時)』の署名がある貞永式目こそは、まさに、それである。特別に上奏されるわけではない。自然発生しつつある秩序に、『それは私の意志だ』という徴(しるし)が、一般のひとりの人間、一介の臣下によって付せられる。そうすることで貞永式目が得られることになる」
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 天皇の皇統は、初代神武天皇の子孫で皇族が継承する。
 皇統の根拠は、古事記日本書紀である。
 皇室の血統は、最高位の女神・天照大神の子孫・裔を指す。
 血統の証明は、日本中心神話・天孫降臨神話である。
 天皇の正統性は、皇統と血統に拠る。
 皇統と血統に繋がらない者は、何人たりともい天皇には即位できない。
 日本天皇とは、万世一系男系天皇(直系長子相続)である。
 正系に近い傍系皇族であれば、男系であれ女系であれ天皇に即位する資格はある。
 例えれば、イギリス王家である。
 イギリス国王位は、開かれた王家の代表として、イギリス人だけではなく、ドイツ人でもギリシャ人でもその他の国の人間でも女系王位継承権を持って即位できた。
 この点で、天皇家は閉ざされている。
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 女系継承権とは、王女と結婚すれば、自国の人間だけではなく他国の人間にも与えられる。
 女系天皇賛成派はその事を知って、皇室のグローバル化を目指し民族的ローカルを抹消する為に、中国系天皇、韓国系天皇北朝鮮天皇ユダヤ天皇、ロシア系天皇など外国所縁の天皇誕生を容認する日本人である。
 女系天皇賛成派の最終目的は、家族的皇室と政治的天皇位を分離し、一般人でも他国人でも日本国籍のみを根拠として自由に天皇に即位させる事である。
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 武烈天皇仁賢天皇2年 - 武烈天皇8年12月8日)は、第25代天皇(在位:仁賢天皇11年12月 - 武烈天皇8年12月8日)。 名は小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)・小泊瀬稚鷦鷯天皇(−のすめらみこと、以上『日本書紀』)、小長谷若雀命(『古事記』)。暴君として伝えられているが、実在した人物かどうかについては議論がある。

 系譜
 父は仁賢天皇、母は雄略天皇の皇女・春日大娘皇女。同母姉妹に、手白香皇女継体天皇の皇后・欽明天皇の母)・橘仲皇女(宣化天皇の皇后)らがいる。
 皇后:春日娘子(かすがのいらつめ) - 『古事記』に見えず。
 皇子女なし
 『日本書紀』に「男女無くして継嗣絶ゆべし」、『古事記』にも「日続知らすべき王無かりき」とある。

 皇居
 都は泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや)。奈良県桜井市出雲の十二柱神社に「武烈天皇泊瀬列城宮跡」の石碑がある。『古事記』では「長谷之列木宮」と記す。

 略歴
 仁賢天皇7年正月3日に立太子する。同11年8月8日に仁賢天皇崩御した後、大臣の平群真鳥が国政をほしいままにした。大伴金村などは、それを苦々しく思っていた。
 皇太子は、物部麁鹿火の娘影媛(かげひめ)との婚約を試みるが、影媛は既に真鳥大臣の子平群鮪(へぐりのしび)と通じていた。海柘榴市(つばいち、現桜井市)の歌垣において鮪との歌合戦に敗れた太子は怒り、大伴金村をして鮪を乃楽山(ならやま、現奈良市)に誅殺させ、11月には真鳥大臣をも討伐させた。そののち同年12月に即位して、泊瀬列城に都を定め、大伴金村を大連とした。
 なお、日本書紀は、武烈天皇の異常な行為を記している。その部分を以下に列挙する。
 二年の秋九月に、孕婦の腹を割きて其の胎を観す。
 三年の冬十月に、人の爪を解きて、芋を掘らしめたまう。
 四年の夏四月に、人の頭髪を抜きて、梢に登らしめ、樹の本を切り倒し、昇れる者を落死すことを快としたまふ。
 五年の夏六月に、人を塘の樋に伏せ入らしめ、外に流出づるを、三刃の矛を持ちて、刺殺すことを快としたまふ。
 七年の春二月に、人を樹に昇らしめ、弓を以ちて射墜として咲いたまふ。
 八年の春三月に、女をひたはだかにして、平板の上に坐ゑ、馬を牽きて前に就して遊牝せしむ。女の不浄を観るときに、湿へる者は殺し、湿はざる者は没めて官やつことし、此を以ちて楽としたまふ。
 なお、これら天皇による悪逆非道の記述は、『古事記』には一切見られない。
 天皇には子がなかった。御子代として小長谷部(小泊瀬舎人)を置いたという。
 武烈天皇8年12月8日に、後嗣なく崩御した。『扶桑略記』『水鏡』などに18歳とあるが不明な点が多い。

 『日本書紀』と『古事記』の違い
 『日本書紀』には「頻りに諸悪を造し、一善も修めたまはず」とあるように、非常に悪劣なる天皇として描かれている。その一方で、厳格な裁判を行ったとするなど相矛盾する記事が併存する。この相違の背景には、血縁関係が薄い次代の継体天皇の即位を正当化する意図が『書紀』側にあり、武烈天皇を暴君に仕立てたとする説が一般的である。事実『古事記』には、暴君としての記述はなく、太子がいなかったことと天皇の崩後に袁本杼命(おおどのみこと、後の継体天皇)が皇位継承者として招かれたことしか記述されていない。また、天皇の御名小泊瀬稚鷦鷯尊は、仁徳天皇の御名(大鷦鷯尊)と雄略天皇の御名(大泊瀬幼武尊)の一部を接合したもので、ここには、聖帝仁徳によって開かれた王朝が、雄略の時代を経て悪逆非道の武烈で断絶し、次の継体によって新王朝が開かれるとする王朝交替の歴史観が現れているとの説もある。
 『日本書紀』には、物部麁鹿火の娘の影媛(かげひめ)をめぐって、平群臣鮪(へぐりのおみしび)と歌垣で争ったことが記され、それに敗れた太子は大伴金村に命じて鮪を討ち取らせたという。ところが、この歌垣の場面は『古事記』に、袁祁王(をけのみこ、後の顕宗天皇)が菟田首(うだのおびと)の娘の大魚(おうお)をめぐって、志毘臣(しびのおみ、『日本書紀』の平群臣鮪に相当)と争ったこととして記されている。つまり、歌垣に出てくる皇子も女も、全く別の設定になっているのである。何れが原伝承かの判断は分かれるが、少なくとも『古事記』と『日本書紀』とでは、武烈天皇の伝承にかなりの食い違いが見られており、武烈天皇自身が実在したかどうかについても疑問が残る。

 陵・霊廟
 武烈天皇 傍丘磐坏丘北陵(奈良県香芝市
 陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県香芝市今泉にある傍丘磐坏丘北陵(かたおかのいわつきのおかのきたのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は山形。
 陵号は顕宗天皇の傍丘磐坏丘南陵に対応するものであるが、『古事記』には「片岡之石坏岡」、『日本書紀』には「傍丘磐坏丘陵」とあり、本来南北の区別はない。なお、この2陵と孝霊天皇の片丘馬坂陵は合わせて「片岡三陵」と呼ばれる。
 上記とは別に、奈良県北葛城郡広陵町大塚にある宮内庁の大塚陵墓参考地(おおつかりょうぼさんこうち)では、武烈天皇が被葬候補者に想定されている。遺跡名は「新山古墳」。
 継体天皇2年10月に奉葬された。元禄探陵の際は香芝市平野にあった平野3・4号墳(消滅)が陵に擬定され、幕末まで保護された。蒲生君平の『山陵志』は大和高田市築山の築山古墳(磐園陵墓参考地)を比定したが、安政の陵改めではこれを否定。幕末には諸説分かれて修陵出来ず、明治22年(1889年)現陵が治定された。しかし、宮内庁管理下にある現陵は「古墳として造営されたものではなく、単なる自然丘」という見解が学会における一般的な見方で、陵そのものの実在を疑う意見もある。
 また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

 在位年と西暦との対照
天皇の在位について、実態は明らかでない。『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。


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