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朝鮮儒教の二千年 (講談社学術文庫)

朝鮮儒教の二千年 (講談社学術文庫)

  • 作者:姜 在彦
  • 発売日: 2012/02/10
  • メディア: 文庫

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博・    
 陰湿で狡猾な狐・朝鮮は、獰猛な虎(ロシア、中国、アメリカ)の威(軍事力)を借りて宿敵日本を滅ぼそうとした。
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 朝鮮半島地政学
 2016年12月号 正論「古田博司 近代以後
 ……
 危機の廊下に立つボンボン
 朝鮮半島地政学は、以前から繰り返し言ってきたように、『行き止まりの廊下』であり、武器を持った異民族の往来を防ぐことができないという、致命的なものであった。そのため歴史上、遼の侵攻・モンゴルの侵攻・豊臣秀吉の侵攻・清の侵攻、朝鮮戦争とあったが、偽政者が国を守れたことはなく、必ず民を捨てて逃走した。
 そのような国家では、民は偽政者を信用せず、諦念と無念の恨を抱きつつ、逃げだせない者だけが行き止まりに滞るように生きてきた。そこで偽政者はいうことを聞かない民衆に常に強権で臨むほかはなかったのである。
 この君と民との不信の関係は、そのまま宮中政治にも持ち込まれ、『王権と官僚は相互に依存しあう関係であると同時に、ときには牽制しあう機構』(平木實『朝鮮半島における王権について──朝鮮王朝を中心に』松原正毅『王権の位相』弘文堂、1991年、321頁)であり、王権と官僚群のシーソーゲームとして顕れたのであった。官僚グループは、武人を使って王を廃することもあったし、王を見捨てて一斉に故郷に帰ってしまうことさえあった。
 朝鮮で『独裁』というのは、4つの派閥(国内派・延安派・ソ連派・甲山{カブサン}派)を粛清し、最後に自分の派閥(パルチザン派)まで皆殺しにし、『主体』の確立に並々ならぬ努力を傾注した、金日成だけにできたことなのである。その過程は同時に、ソ連の傀儡国家からの脱却であり、中国に主体を突きつけるインディペンデンスでもあった。」
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 崔基鎬「李氏朝鮮は権力者による醜い抗争に明け暮れ、精神的な主柱を欠いた国だった。……李氏朝鮮は五世紀にもわたって、中国文明という汚濁しきって、腐臭を発する甕のなかに漬けられていた。……(P.132)
 国が尚武の心と独立の精神を失うと、人々が公益を忘れて、私利だけを追求するようになり、社会が乱れて、国が亡びることになる。……(P.133)
 李氏朝鮮の悪法中の悪法であった連座法ともが、いまだに慣行として生きている事を表している。連座法は縁座法とも呼ばれるが、王に対する批判、反逆、国外への脱出を図った者の親族に適用されたが、その罪科によって三等親から八等親までが、根絶やしにされた。
 連座法によって罰せられた多くの人々が理由もよく分からないままに、惨酷な刑に処せられた。そこで一家系の族長が、万一、連座法の犠牲になって、刑罰が自分たちの身におよばないように、親族の思想や、行動を監督するかたわら、互いに監視し合った。これは専制体制を守る手段として、きわめて有効であった。……(P.192)
 日本では徳川時代を通じて、偽善者が民百姓の生命と財産を守り、民衆が安定した生活を営むように力を尽くすのが、つとめとされた。ところが、李氏朝鮮においては、偽善者が民百姓を奴隷化して、生殺与奪をほしいままにして、懐ろを肥やすのが、常態であった。日本と朝鮮では人のありかたが、まったく違っていたのだ。……(P.193)」(『日韓併合の真実』)
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 庶民は、両班と違って文化を持たない極貧層として、蓄えがないその日暮らしの生活をしていた。
 食文化も育たず、冷麺や犬肉食べられれば良い方で、大抵は残飯のような貧相な食事であった。
 朝鮮は、中国同様に、日本のような多種多様な明るい庶民文化はなかった。
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甲午農民戦争東学党の乱)
 「金の樽に入った美酒は、千人の血からできており
  玉椀にある美味い魚は、人民の油でできている
  ロウソクから?が滴るとき、人々の涙も滴る
  歌舞の音楽が高く鳴り響くとき、人々の怨嗟の声も高く轟く」
 日本の極右勢力である玄洋社は、密かに東学党を支援し、東学党が鎮圧されるや最高幹部で見識の高い全?準に日本への亡命を勧めた。
 朝鮮政府は、捕らえた全?準を井上馨公使が助命する事に危機感を抱き処刑した。
 3代目教祖の孫秉熙は、日本人の手引きで日本に亡命し、在日朝鮮人を集めて新たに反日天道教を組織した。
 李容九は、朝鮮の改革には日本の支援が欠かせないとして一進会を組織した。
 東学党は、政府の悪政と貪官汚吏の搾取によって、塗炭の苦しみに喘ぐ農村部で信者を集めた宗教組織である。
 1860年頃から、教祖の崔済愚は、呪文を唱え、護符を受ければ、望みは叶えられ、病気は平癒し、大金を手に入れられると、現世利益信仰を布教して廻った。
 中国の儒教や西洋のキリスト教(天主教)などの西学では、朝鮮は救えないとして、民族主義的東学を説いた。 
 凶作続きの上に容赦なき重税で貧困地獄にあった農民は、両班などの支配階級が絶対真理とする儒教を嫌い、崔経愚を救世主と仰ぎ現世利益の東学を受け入れた。
 上流階級は、農民から容赦なく搾取していた為に、その農民を中心にして教勢を拡大する東学党に危機感を募らせた。
 政府は、宗主国清国・中国の儒教価値観を否定する東学党を、社会の礼儀を乱し人心を惑わす邪教であるとして弾圧した。
 1864年 大院君は、事大主義を原則とする守旧派の求めに従って、崔経愚を捕らえて処刑した。
 政府への不満を持つ農民は、政府が血眼となって弾圧すればするほど、東学党を支持して入信した。
 二代目教主崔時享は、弾圧を避けながら、信者を拡大して半島南部を東学党支配下に置いた。
 朝鮮は宗教組織から政治組織を生み出すの譬えの如く、東学党も弾圧に対抗する為に政治団体へと変貌した。
 1866年3月 閔妃が、王妃に選ばれて宮中に入る。閔氏一族は、閔妃外戚として政府の要職に就いた。
 高宗の実父である大院君は、過去の歴史から、外戚が政治を私物化して独占する勢道政治に陥る事を警戒した。
 何時の時代でも。王家としての権力を守ろうとする王族とさらなる権力と富を求める外戚は、激しく政治闘争を繰り返して政治風紀は乱れていた。
 事実。大院君の保守派と閔妃外戚による政争で、朝鮮は混乱した。
 権力欲の強い閔妃が、大院君の追い落としの為に、清国・中国、日本、ロシア帝国などの外国勢力を利用しようとした事が、朝鮮の崩壊を加速させた。
 権力者は、貧困に喘ぐ庶民を顧みる事なく、重税を課し、搾取して、飢饉や疫病から救済しようとはしなかった。
 朝鮮農民は、収穫した米や麦の大半を税として徴収され、残った米や麦を生活費に充てる為に日本人や中国人の商人に売った。
 朝鮮農民は、日本農民の様な現金収入につながる副業を持たなかった為に、食料とすべき米や麦の大半を売却した。その為に、ヒエやアワなどの雑穀を食べて飢えをしのいでいた。
 朝鮮農民の極貧状態は、日本人が来る以前から始まっていた。それも、最悪な状況下にあった。
 王家や政府や両班から、儒教教養が理解できない身分低い卑しい小人として見捨てられ、救済される事なく放置されていた為に、まさしく地獄の様な惨状であった。
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 1884年 開化派は、日本を手本にして社会改革を断行するべく、諸悪の根源である閔妃派要人とその支持者の多くを殺害した。
 閔妃は、高宗を動かし、清国軍の介入を要請して開化派と親日派を追放した。その家族はもちろん三族の親族は、女子供まで容赦なく虐殺した。
 金玉均の、実父は絞首刑に処せられ、実母と妹は毒をあおって自殺し、弟は獄死した。
 朝鮮による処刑は、日本では想像も出来ないほど徹底して残虐である。
 清国は、日本によって弱められた宗主権を回復させる為に、大院君を担ぎ出した。
 閔妃は、政権強化の為に閔妃派と支持者を中枢に据えて、清国に対抗する為にロシア帝国の支援を取り付けた。
 ロシア帝国は、アジア進出の足掛かりとする為に閔妃や高宗に接近した。
 日本は、朝鮮における基盤を失い、ロシア帝国の出現に恐怖した。
 李氏王朝の内紛が、朝鮮国内はもとより、周辺諸国を混乱させ、戦争を誘発させた。
 日本、清国・中国、ロシア帝国の三国は、朝鮮の無節操の為に、疑心暗鬼となって戦争へと暴走させられた。
 福沢諭吉は、西洋に対抗する為に開化派や親日派を支援して両国の提携に協力したが、彼等を虐殺し中華秩序で反日を鮮明するた朝鮮を見限り脱亜論を発表した。
 軍国日本は、帝国主義を掲げてアジアを植民地化しようとする欧米列強の攻勢に対抗する為に、清国と朝鮮との三国同盟を希望したが、その望みは絶たれた。
 軍部は、朝鮮を清国の属国のままに置いては、いずれはロシア帝国に呑み込まれる危険があると分析した。そこで、朝鮮を独立させ強力な防衛力を持たせて、日本の盾にしようとした。
 日韓清三国提携論を提唱したのは勝海舟であり、西郷隆盛はその影響を得て征韓論に組みした。
 勝海舟は、幕府崩壊を食い止める為にフランス軍の全面支援を得るという抗戦派に猛反対し、国内問題に外国勢力を加える事は亡国につながると論破した。
 戦前の日本が、近代的憲法を制定し、独自の軍事力を持って、自主独立を保ち得たのは、如何に苦し困窮状態にあっても、他国の支援を受けず自力で乗り越えてきたからである。
 つまり、死ぬほどのひもじさでも、サムライは体面を気にして意固地となり、「武士は食わねど高楊枝」で空威張りした。
 そして、たえず生きるか死ぬかの丁半博打の様な、絶体絶命下で一か八かの行動を切り抜けてきた。
 日本には、援軍を送ってくれる味方はいなかった。
 たとえ勝利しても、援軍を得れば、弱味を握られる事になる為に、敢えて他国に援軍を頼まず資金提供も受けなかった。
 近代化に於ける、日本の成功と、朝鮮の失敗は、国内外の情勢分析の正確さと事に望んでの自己責任と、他人に頼らない独立独歩の自立心にあった。
 帝国主義時代において、財政難から資金援助を受けた極貧国は、資金を出してくれた裕福国の奴隷となった。他国の資金を当てにする国には、自主独立はなかった。
 ちなみに、橋本左内靖国神社)はロシア帝国との提携論を主張していた。
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 1880年頃から、朝鮮は凶作に襲われ、食糧が不足した。
 政府は、国家の近代化の為に財源を確保する為に大増税を行った。
 閔妃は、王宮生活豪華にして李氏王家の勢威を諸外国に見せびらかせる為に、政府に対して多額な必要経費を要求した。
 国家財政は、外国の借款に対する返済金もあって、破綻寸前にあった。
 地方の役人や両班は、飲まず食わずの農民から暴力的に税を徴収し、その一部を着服して私腹を肥やしていた。
 日本国内では、民権運動が激化し、各地で暴動が起きていた。過激な民権派は、政府転覆や政府高官暗殺などのテロ計画を練っていた。
 1885年から1895年にかけて。搾取され続ける農民や炭鉱夫らは、閔妃派政権への不満から各地で暴動を起こし、略奪と放火を繰り返していた。
 政府は、暴動が内戦に発展する事を恐れて武力鎮圧するべく政府軍を派遣した。
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 1893年 朝鮮の農村は、貪官汚吏による悪政により疲弊していた。搾取による搾取で、農民は餓えに苦しんでいた。資産家の利益誘導の投機によって物価は高騰し、農民や下層階級は食べ物を失って餓死者を出していた。
 東学第二目教主崔時亨は、飢えた農民を救済する為に、2万人の教徒を率いて漢城にのぼり、王宮前に座って請願を行った。彼等の要求は、搾取と横領を繰り返して私腹を肥やす貪官汚吏の追放と、朝鮮を我が物にしようとする日本などの蛮夷の追放であった。
 政府にとって、財産のある者に官職を売る事が重要な収入源であった。
 王宮は、国庫の金を自由に湯水の如く浪費し、贅沢三昧の放蕩生活を満喫していた。
 政府も王宮も、腐敗堕落して統治者としての自覚が消失していた。
 王宮と政府は、請願者に対して、軍隊を出動させその武力で威嚇して解散させた。
 1月18日 政治団体となった東学党は、政府が暴動鎮圧に手こずっているところで、全羅道の州觥・全州に近い参礼で大集会を開催した。集会は、東学の公認と、前教祖崔経愚の汚名を晴らす事を決議した。
 3月29日 東学党幹部約40名は、漢城の王宮におもむき、前教組の冤罪を訴えた。
 政府は、勢力を拡大した東学党が農民暴動と共闘する事を警戒したが、近代国家を目差す以上は国法で処刑した崔経愚の名誉回復要求を却下した。
 東学党は、政府批判を叫んでも、反王家として叛乱を起こす気はなかった為に、国王高宗が処刑の裁定を支持した為に、それ以上の政治運動を控えた。
 政治基盤を強化する為に、鎖国政策への復帰を求める守旧派を取り込むべく、日本人を含む全ての外人を追放せよという「斤和斤洋」のスローガンを掲げた。
 東学党は不満市民を巻き込んで徒党を組み、諸外国の公使館や領事館を取り囲んで、罵声を浴びせて威嚇行動を取った。
 政府は、いきり立った群衆を取り締まって暴徒化する事を恐れて、沈静化を図らず傍観した。
 東学党は、騒ぐだけ騒いで気が晴れた為に帰途に就いた。一部の不満分子は、閔妃政権への欲求不満から各地でなおも騒いでいた。
 清国代表・袁世凱は、暴徒を放置している朝鮮政府の無能さに不快感をあらわにし、本国の李鴻章に軍隊の派遣を要請した。
 李鴻章は、統治能力をなくした朝鮮政府にかわって、暴徒・東学党を殲滅する為に軍艦2隻と軍隊の派遣を決めた。
 日本の臨時代理公使・杉村一等書記官は、暴徒が乱入すれば迎え撃とうと血気にはやる館員を押し止めていた。東学党の暴挙は、大院君が閔妃政権を揺さぶる為にそそのかしたものであり、大院君を背後で操っているのは清国との分析を、東京の本省に伝えた。
 日本政府は、清国が軍隊を派遣するとの情報をえるや、6代目公使に任命されている大鳥圭介に部隊を付けて急ぎ朝鮮に向かわせる事とした。
 ロシア帝国は、日本が朝鮮出兵の口実をつくる為に仕掛けた謀略と睨んでいた。
 4月25日 東学党は、忠清道の報恩で、約2万人の信徒を集めて大集会を開いた。
 政府は、集会が暴動に発展すれば武力鎮圧する為に、政府軍兵士約600名を出動させて警戒に当たった。
 東学党大会は、穏健派と過激派が今後の活動方針をめぐって激しく対立した。さらに、伝統的な出身地や族譜や身分や職業などの各種の差別も表面化し、怒鳴り合い、暴力沙汰が多発し、冷静さを失って収集が就かなくなった。
 お互いが信用できず、自分勝手に行動し、自分の我を通す為に暴力をふるい、冷静さを失うのが、朝鮮人の民族姓である。 
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 朝鮮は、アジアの中でも最低ランクとして腐敗堕落していた。
 朝鮮人は、腐ったような最低な社会を自力で改善する意思も気力もなかった。
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 1894年2月15日 東学接主の金琫準は、全羅道の古阜郡で、貪官汚吏の強欲な横暴に激怒した。
 全羅南道の飢えた農民を組織して暴動を起こし、私腹を肥やした官吏を襲って資産を奪った。
 役所から武器を奪い、倉庫の中に貯め込まれら税穀を飢えた民に炊き出しし、両班や地主から奪った金を貧民に分配した。
 政府は、農民の訴えを聞き、改善を約束して、解散を命じた。
 だが、約束を反故にし、暴動の原因を調査し、地方官の供述を受け入れ、暴動の全責任は東学党にありとして参加した農民を大量に逮捕し、処刑し、その家族を奴卑として売った。
 官憲は、逮捕連行した東学信者から仲間の居場所を吐かせる為に地獄の様な拷問を行った。朝鮮の拷問は、中国的に惨たらしいものであった。
 3月 東学党の幹部である金琫準は、政府の裏切りに激怒し、東学党や農民に檄文を送った。
 農民は、政府の不誠実に激怒して暴動を拡大させ、各地の役所を襲い、役人や資産家を殺害した。
 4月25日 金琫準は、東学党過激派の協力を得て、蜂起した農民8,000人以上を白山に集めて蹶起した目的を宣言した。
 高宗は、叛徒討伐の為に政府軍を派遣した。
 甲午農民戦争の勃発である。
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 農民軍は、戦意のない政府軍を撃破し、各地の農民暴動を吸収して暴徒数は1万人を超した。
 東学党と農民軍は、全羅道の全州を占領し、政府軍を敗走させて半島南部の大半を支配下に置いた。
 東学党過激派は、貧困に苦しむ庶民の膏血を絞る腐敗堕落した李氏朝鮮を打倒し、東学の教えによる神聖な宗教王国を実現しようとした。
 6月2日 閔妃派政権は、勢力を拡大しながら進撃してくる農民軍の自力による鎮圧を諦め、宗主国清国に援軍を要請した。
 金弘集は、自力解決を放棄して、他国の軍隊で内乱を解決する事は国を失うと猛反対した。
 李鴻章は、高宗からの要請お受け、鎮圧の為の大義を得て軍隊の派遣を決断した。
 6月4日 日本政府は、迅速に行動を起こして皇居の大本営を広島に移し、朝鮮有事に備えた。
 6月7日 清国は、天津条約に従って、日本に朝鮮政府の要請に従って軍隊を出兵する事を伝えた。
 李鴻章は、袁世凱の情報で、日本は国内事情で100名前後しか出兵できないと判断していた。
 清国は、朝鮮を実効支配する為に3,000人の軍隊を半島に派兵した。
 6月10日 閔妃派政権は、清国軍の到着までの時間稼ぎとして「全州和約」を結んで、表向きに農民軍の要求を受け入れてた。
 閔妃には、身分卑しい者との約束を守る気はなかった。
 儒教差別意識の強い両班や儒生らは、日本排斥は望むとこであったが、賤民や奴卑や白丁ら下層階級を解放する事には反対であった。
 理想派の金琫準と過激派は、今後の行動方針で激しく対立し、そして分裂した。
 金琫準は、甲申政変を教訓として、閔妃派政権が清国に軍隊派遣を要請する事を恐れて、農民軍を解散し、帰農するように命じた。
 だが、過激派は内戦が拡大すれば朝鮮政府は自然消滅するとして、農民軍の解散には反対した。
 日本は、国家の安全保障として、将来における世界軍事大国・ロシア帝国との戦争に備えて朝鮮を支配下に置くべく、軍事大国・清国と戦争する事を覚悟して派兵を決断した。
 発展途上にある小国日本は、大国であるロシア帝国と清国の侵略に備える為に、国家と国民が一丸となって富国強兵政策を推し進めた。
 日本は、朝鮮が清国・中国の支配下に入る事は自国の安全に脅威になるとして、公使館と居留民の保護を名目として出兵すると宣言した。
 当時の日本陸軍の総兵力は、7個師団と後備軍を加えて約2万人であった。
 眠れる獅子と恐れられていた老大国清国の陸軍の総兵力は、100万人といわれた。
 最高権力者である西太后は、軍事費の多くを宮廷費に宛てた為に、軍備の近代化は遅々として進まなかった。
 よって、兵力数だけは世界規模であったが近代戦に耐えられる軍隊ではなかった。
 日本と戦うのは、李鴻章の私兵である北洋陸軍は数十万人であった。李鴻章は、私財を投じて私兵の近代化を進めたが、近代化できたのは3万人のみとされた。
 対日戦に投入して勝利しても、兵力数を減らし、近代装備をなくしては、北京での地位を危うくさせる恐れがあった。
 アジアの盟主を任ずる清国にとって、日本など歯牙にもかける存在ではなく、日本に勝利したからといって名誉な事ではなかった。
 当然。清朝政府は、日本との戦争に清国軍の正規軍を出す気はさらさらなかった。
 但し。戦う以上は、清国の面子に賭けて勝つ事が求められた。
 李鴻章は、北京の反李鴻章派への威嚇の為に、全兵力を朝鮮に投入するわけが行かなかった。
 よって、陸軍兵力の消耗を避ける為に、日本軍の大陸への補給路を遮断するべく制海権を握る事を最優先とした。日本海軍を全滅させべく、最強の北洋艦隊を出撃させた。
 李鴻章は、制限され、不利な状況にあったが、日本に勝つ自信があった。
 高宗は、両国が出兵を決めた事に狼狽し、東学党側の改革要求を受け入れて妥協した。
 だが、それは両国に撤兵させる為の方便にすぎず、放蕩三昧の特権を制限するような国内改革を行う意思はなかった。
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 安重根は、軍人ではなかったが父親の安泰勲や同志ら70名を率いて東学党軍を攻撃して、武器弾薬や兵糧を戦利品として手に入れた。
 後に、フランス神父から洗礼を受けてカトリック信者となり、反日運動に参加して、朝鮮併合反対派の伊藤博文を暗殺した。
 だが、伊藤を殺害したのは安重根ではなかった。
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 朝鮮は、清国・中国を利用して日本を滅ぼそうとしていた。
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 朝鮮人の悲劇は、国益より自分の信念を優先し、自分の利益の為に他人を顧みない、自己中心的な民族性にある。
 朝鮮人は、主義主張に疎い情緒的な日本人とは正反対の、情理を重んじ、思想と詩作に生き甲斐を感じる哲学的民族である。
 イギリスは、敵国ロシア帝国のアジア進出を食い止める為に、眠れる獅子と恐れられているアジアの軍事大国・清国に期待して清国軍を支援した。
 イギリス国籍の貨客船は、国際公法を無視して、清国に勝利をもたらせる為に清国軍を朝鮮へ運んだ。
 キリスト教会は、朝鮮の不安定を布教の絶好の機会ととらえて宣教師を派遣した。
 近代における朝鮮の亡国は、この時から始まった。
 それは、朝鮮人が自ら招いた悲劇である。
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 朝鮮とは、中国同様に、忘恩の民である。
 誠心誠意を以て尽くし、わかり合おうとしても、すべてが無駄であった。
 日本民族と韓・朝鮮民族は、全く別の民族であり、わかり合う事は決してあり得ない。
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 朝鮮人は、日本人との友好ではなく戦争を望んでいた。
 其れは、古代から変わる事がない。
 日本との友好関係にあったのは、親日派百済王国と高句麗王国と渤海王国のみであった。
 百済高句麗渤海は、親日国家であっり、反日国家ではなく、分けの分からない知日国家でもなかった。

 


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