✲57〕─2─天武天皇。伊勢神宮。式年遷宮。〜No.183         

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 伊勢神宮
 式年遷宮
 国家神道
 日本仏教。
 道教を取り入れた。

 儒教を敬して遠ざけた。
 陸奥国蝦夷の先に蝦夷地のアイヌ
 奄美大島の先に琉球琉球人。。
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 伊勢神宮(いせじんぐう)は、三重県伊勢市にある神社。なお「伊勢神宮」とは通称であり、正式名称は地名の付かない「神宫(じんぐう)」。他の神宮と区別するため「伊勢の神宮」と呼ぶこともあり、親しみを込めて「お伊勢さん」「大神宮さん」とも称される。神社本庁の本宗(ほんそう)である。
 二十二社(上七社)の一社。また、神階が授与されたことのない神社の一つ。古代においては宇佐神宮、中世においては石清水八幡宮と共に二所宗廟のひとつとされた。明治時代から太平洋戦争前までの近代社格制度においては、全ての神社の上に位置する神社として社格の対象外とされた。
 
 歴史
 概史
 古代
 皇室の氏神として、天皇以外の奉幣は禁止された(私幣禁断)。天武天皇の時代に斎宮が制度化され、『扶桑略記』によれば天武天皇の皇女である大伯皇女が初代とされる。

 式年遷宮
 詳細は「神宮式年遷宮」を参照
 記録によれば神宮式年遷宮は、飛鳥時代天武天皇が定め、持統天皇4年(690年)に第1回が行われた。その後、戦国時代の120年以上に及ぶ中断や幾度かの延期などはあったものの、平成25年(2013年)の第62回式年遷宮まで、およそ1300年間行われている。

 年表
 遷宮に関しては「神宮式年遷宮」を参照。西暦の年月日はユリウス暦によるが、「1871年7月1日」はグレゴリオ暦。年と月の西暦との対応はおおよその目安である。
 天武天皇14年(685年) : 式年遷宮の制を制定。
 持統天皇4年(690年) : 第1回内宮式年遷宮
 持統天皇6年(692年) : 第1回外宮式年遷宮

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 天武天皇(? - 686年10月1日(朱鳥元年9月9日))は、7世紀後半の日本の第40代天皇(在位:673年3月20日天武天皇2年2月27日) - 686年10月1日(朱鳥元年9月9日))。
 
 概要
 舒明天皇皇極天皇斉明天皇)の子として生まれた。中大兄皇子にとっては両親を同じくする弟にあたるとされる。皇后の鸕野讃良皇女は後に持統天皇となった。
天智天皇の死後、672年に壬申の乱大友皇子弘文天皇)を倒し、その翌年に即位した。その治世は14年間、即位からは13年間にわたる。飛鳥浄御原宮を造営し、その治世は続く持統天皇の時代とあわせて天武・持統朝などの言葉で一括されることが多い。日本の統治機構、宗教、歴史、文化の原型が作られた重要な時代だが、持統天皇の統治は基本的に天武天皇の路線を引き継ぎ、完成させたもので、その発意は多く天武天皇に帰される。文化的には白鳳文化の時代である。
 天武天皇は、人事では皇族を要職につけて他氏族を下位におく皇親政治をとったが、自らは皇族にも掣肘されず、専制君主として君臨した。八色の姓氏姓制度を再編するとともに、律令制の導入に向けて制度改革を進めた。飛鳥浄御原令の制定、新しい都(藤原京)の造営、『日本書紀』と『古事記』の編纂は、天武天皇が始め、死後に完成した事業である。
 道教に関心を寄せ、神道を整備し、仏教を保護して国家仏教を推進した。その他日本土着の伝統文化の形成に力があった。「天皇」を称号とし、「日本」を国号とした最初の天皇とも言われる。

 天武朝の政策
 外交
 天武朝の朝廷は低姿勢をとる新羅と使者をやりとりし、文化を摂取する一方で、唐には使者を遣わさず、大国としての体面を繕った。この時代には西方海上済州島にあった耽羅からも使節が来た。11年(682年)7月25日には南西諸島の多禰(種子島)、掖玖(屋久島)、阿麻弥(奄美大島)の人に禄が下された。東北では11年(682年)3月2日に陸奥国蝦夷に冠位を授け、4月22日には越の蝦夷伊高岐那に評を建てることを認めた。
 天智天皇との対比で、天武天皇は親百済的だった前代と異なり親新羅外交をとったと評される。ただ、国内的には新羅系の渡来人を優遇したわけではなく、百済系の人を冷遇したわけでもない。天武天皇2年(673年)閏6月6日の沙宅昭明、3年(674年)1月10日の百済王昌成への贈位、14年(685年)10月4日の百済僧常輝への封戸30戸など、百済人への恩典は多い。朝鮮半島から帰化した人には元年(672年)から10年(681年)まで課税を免除し、10年後の8月10日には入国時に子供だった者にも免除を広げた。

 文化政策
 天武天皇は古来の伝統的な文芸・伝承を掘り起こすことに力を入れた。外来のものが排斥されたわけではないが、以前と以後の諸天皇の事業と比べると、土着文化の掘り起こしと整頓に向けた努力が著しい。天武天皇壬申の乱に敗れていれば、『古事記』『万葉集』に代表されるような土着的な文化は、『日本書紀』『懐風藻』に代表されるような中国風の文化に侵食され、あるいは伝わらないまま終わっていたかもしれないとさえ言われる。
 君主の号を天皇とした始めは、天武天皇であるとの説が有力である。資料的には推古天皇の代の天皇号も複数あるが、それでは中国で天皇号を君主に用いた時期より前になること、個々の資料の性格に疑いがはさまれることにより、天武朝まで下げる。
 天武天皇は民間習俗を積極的にとりこみ、それを国家的祭祀とした。五節の舞がその確実な例であり、新嘗祭を国家的祭祀に高め、特に大嘗祭を設けたのも、天武天皇であろうと言われる。現代の歴史学者の多くが、後述する神道の祭祀も含め、後代に伝統として伝えられた主要な宮廷儀式の多くが、天武天皇によって創始されたか大成されたと推測している。
 天武天皇4年(675年)2月9日には畿内とその周辺から歌が上手な男女、侏儒、伎人を宮廷に集めるよう命じ、4月23日に彼ら才芸者に禄を与えた。14年(685年)9月15日には優れた歌と笛を子孫に伝えるよう命じ、15年(686年)1月18日には俳優と歌人に褒賞を与えた。
 天皇は、10年(681年)3月17日に親王、臣下多数に命じて「帝紀及上古諸事」編纂の詔勅を出した。後に完成した『日本書紀』編纂事業の開始と言われる。また、稗田阿礼に帝皇日継と先代旧辞帝紀旧辞)を詠み習わせた。後に筆録されて『古事記』となる。いずれも完成は天皇の没後になったが、これらが日本に現存する最古の史書である。二書を並行させた意図には定説がないが、内容は天皇家の支配を正当化する点で共通する。長大な漢文で、一貫性を犠牲にして多数の説を併記した『日本書紀』が合議・分担で編纂されたのに対し、短く首尾一貫した『古事記』のほうに天武個人の意志がかなり入った可能性が指摘される。
 天武天皇は、本人が天文に長じており、天武天皇4年(675年)1月5日に日本初の占星台(天文台)を建てさせた。

 動物保護
 天武4年4月17日(675年5月19日)に、狩猟・漁獲の方法を制限し、牛・馬・犬・猿・鶏の肉食を禁止した。しかし、これらの動物の肉食は、稲作期間に相当する4月から9月に限って禁じられただけであり、農閑期である10月から翌年3月までは禁止されていない。また、当時の都で牛馬の肉が食べられていたことは、骨に残った痕跡からも確認されている。加えて、当時の狩猟の主な対象であり、また、稲作の害獣と見なされた鹿と猪については、狩猟方法に規制をかけただけであり、肉食は禁じられていない。これは、肉食の全面的な禁止を目的としたものではなく、律令国家を運営していく上での税収の安定的な確保の為に稲作を促進する観点から、ウシやウマなど稲作に役に立つ動物の保護を目的とした法令と見なすべきである。しかし、律令国家体制の下で、貨幣になり得るものとしての米の神聖さが一層強調され、稲作の促進の為の動物の保護と肉食の制限・禁止を目的とした、類似した内容の法令は後の時代にも繰り返された。その結果として、日本人は、しだいに肉食そのものを稲作に害をもたらす穢れと見なし、表向きは遠ざかるようになっていった。

 宗教政策
 神道
 天武天皇は日本古来の神の祭りを重視し、地方的な祭祀の一部を国家の祭祀に引き上げた。神道の振興は、外来文化の浸透に対抗する日本の民族意識を高揚させるためであったと説かれる。だがその努力は各地の伝統的な祭祀をそのまま保存することではなく、天照大神を祖とする天皇家との関係に各地の神を位置づけ、体系化して取り込むことにあり、究極的には天皇権力の強化に向けられていた。それぞれの地元で祀られていた各地の神社・祭祀は保護と引き換えに国家の管理に服し、古代の国家神道が形成された。
 その際、天武天皇伊勢神宮を特別に重視し、この神社が日本の最高の神社とされる道筋をつけた。壬申の乱のとき、挙兵して伊勢に入った大海人皇子は、迹太川のほとりで天照大神を望拝した。具体的には伊勢神宮の方角を拝んだことを意味すると考えられている。即位後の天皇は、娘の大来皇女伊勢神宮に送り、斎王として仕えさせた。4年2月13日には娘の十市皇女天智天皇の娘阿閉皇女(元明天皇)が伊勢神宮に参詣した。伊勢神宮式年遷宮開始年については天武天皇14年(685年)と持統天皇2年(688年)の二通りの本があるが、いずれにせよ天武天皇の発意であろう。また、伊勢神宮五十鈴川沿いの現在地に建てたのは天武天皇で、それ以前は宮川上流の滝原宮にあったと推定されている。
 そもそも天照大神という神を造り出したのが天武天皇であるという説もある。無から創作したというのではなく、伊勢地方で祀られていた太陽神を、天皇家が祀っていた神と合体させて天照大神としたという説である。これについてはタカミムスヒが旧来の皇祖神で、天武天皇がアマテラスに取り替えたという説もある。斎王は、雄略天皇から推古天皇のときまであったと『日本書紀』『古事記』に記されているが、これについても実は大来皇女が最初なのだとする説がある。
 他に、天武天皇3年(674年)8月3日には石上神宮忍壁皇子を遣わして神宝を磨かせた。天武天皇4年(675年)4月10日には、竜田の風神を祀るために美濃王らを、広瀬の大忌神を祀るために、間人大蓋らを遣わした。後世まで両神を祀るために勅使が遣わされる初めとされる。この年1月23日に諸々の社を祭ったのを、祈年祭の始まりとみる説もある。

 仏教
 天皇の仏教保護も手厚いものがあった。即位前には出家して吉野に退いた経歴を持つ。即位後、2年(673年)3月に川原寺で一切経書写の事業を起こした。5年(676年)には使者を全国に派遣して『金光明経』と『仁王経』を説かせ、8年(679年)には倭京の24寺と宮中で『金光明経』を説かせた。『金光明経』は、国王が天の子であり、生まれたときから守護され、人民を統治する資格を得ていると記すもので、天照大神の裔による現人神思想と軌を一にするものであった。本人・家族の救済ではなく、護国を目的とした事業である。
 天武天皇2年(673年)12月17日に、美濃王と紀訶多麻呂を造高市大寺司に任命し、百済大寺を高市に移して高市大寺とした。9年(680年)11月12日に皇后の病気に際して薬師寺建立を祈願し、自らの病に際しても様々に仏教に頼って快癒を願った。
 天武天皇14年(685年)3月27日には、家ごとに仏舎を作って礼拝供養せよという詔を下した。「家」がどの程度の人数の単位なのかは不明で、有力豪族ごとに一つと解する説のほかに、「諸国の家」を国衙と解して国ごとに一つと解したりする説があるが、仏教を広めようとしたのは間違いない。この時期まで畿内を除く地方に寺院は少なかったが、天武・持統朝には全国で氏寺が盛んに造営された。遺跡から出る瓦からは、中央の少数の寺院が地域を分担して建設を指導したことがうかがわれ、政策的な後押しが想定できる。
 天武天皇の仏教保護は、反面、僧尼に寺院にこもって天皇や国家のための祈祷に専念することを求め、仏教を国家に従属させようとするものでもあった。国家神道に対応する国家仏教である。天武天皇4年(675年)に諸寺に与えられていた山林・池を取り上げ、8年(679年)には食封を見直して寺院の収入を国家が決定することにした。中央統制機関としては、推古朝に設けられ十師によって廃止された僧正・僧都を復活して僧綱制を整えた。加えて天武朝では僧尼の威儀・服装まで規制し、すべての寺院と僧侶を国家の統制下に置こうとするころまで国家統制が強まった。
 天皇の仏教理解、姿勢については、現世利益を求めた皮相的なものと説かれることがある。天皇が命じて読ませたのは護国の経典で、個人の救済が重視されたようには見えない。天皇個人が仏教に求めたのは、皇后と自身の病気治癒で、仏教の自我否定や利他の思想を実践しようとするものではなかった。

 道教
 天皇の宗教観には道教の要素が色濃く出ている。「天皇は神にしませば」と詠まれるときの神は、神仙思想の神、つまり仙人の上位にいる存在であったとの説がある。八色の姓の最上位は真人であり、天皇自身の和風諡号は天渟中原瀛真人という。瀛州は東海に浮かぶ神山の一つ、真人は仙人の上位階級で、天皇道教最高神である。天皇が得意だった天文遁甲は、道教的な技能である。葬られた八角墳は、東西南北に北東・北西・南東・南西を加えた八紘を指すもので、これも道教的な方角観である。
 道教への関心は天武天皇だけのものではなく、母の斉明天皇に顕著であり、天武没後も続く。天武天皇の、そして日本の道教は、神道と分かちがたく融合しており、独立には存在していない。影響をどこまで大きく評価するかは見方が分かれる。

 年譜
 天智天皇7年(668年) 天智天皇の皇太弟に立てられたとされる(否定する説もある)。
 天智天皇10年(671年) 重病の天智天皇に後事を託されるも固辞し、出家して吉野に移る。
 弘文天皇元年(672年) 壬申の乱天智天皇の息子である大友皇子弘文天皇)を破る。
 弘文天皇2年(673年) 飛鳥浄御原宮にて即位する。
 天武天皇4年(675年) 部曲を廃止する。占星台を設置する。
 天武天皇5年(676年) 陰陽寮を設置する。
 天武天皇7年(678年) 官人の勤務評定や官位の昇進に関して考選法を定める。
 天武天皇8年(679年) 吉野に行幸する。皇后、草壁皇子らに皇位継承争いを起こさないよう誓わせる(吉野の盟約)。
 天武天皇9年(680年) 皇后(後の持統天皇)の病気平癒のため薬師寺の建立を命じる。
 天武天皇10年(681年) 飛鳥浄御原宮律令の制定を命じる。草壁皇子を皇太子に立てる。
 天武天皇11年(682年) 匍匐礼を廃し、立礼にすることを命じる。
 天武天皇12年(683年) 富本銭の発行。
 天武天皇13年(684年) 八色の姓を定める。
 天武天皇14年(685年) 冠位四十八階を制定する。
 朱鳥元年(686年) 崩御

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