☳7〕─1─韓国のハンセン病患者。小鹿島大量虐殺事件。小鹿島更生園園長刺殺事件。昭和20年8月21日〜No.17No.18No.19 

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   ・   ・  {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博 ・   
 中華儒教世界、中国や朝鮮は、日本に比べて人命軽視であり、道徳・倫理はないし、人権や人道もなかった。 
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 正統な中華儒教は、男性、身分高い者、聖人君子、五体満足な健康的な者など社会の強者を褒め称えるが、女性、身分低い者、小人、貧しい者、障害がある者など社会の弱者を差別し迫害し、時と場合によっては虐殺した。
 人間として認められ権利を与えられるのは、強者のみであった。
 弱者には、如何なる権利も求められず、人として認められず、人以下の動物として扱われていた
 韓国人を儒教の呪縛から解き放ち救ったのは、アメリカのキリスト教会であった。
 アメリカのキリスト教会の多くが強烈な反天皇反日意識が強く、アメリカ政府の対日強硬政策に協力し、アメリカ軍と共に行動して日本軍を攻撃した。
 そうしたアメリカのキリスト教会は、ヒロシマナガサキへの原爆投下実験や日本焦土の無差別絨毯爆撃を非難するどころか祝福した。
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 2019年5月3日10日号 週刊朝日皇后陛下のお導きで   笹川陽平
 平成27年1月、ハンセン病の差別撤廃を世界に訴える10回目の『グローバル・アピール』が東京で開催され、その直前、この病気の現状について両陛下にご進講申し上げました。
 吹上御所の小さなお部屋でした。当初15分の予定が、話が弾んで70分にもなりました。それも私が一方的にお話しするのではなく、両陛下から専門的な御下問もあり、ご見識に驚きました。
 その一つに、天皇陛下から『プロミンというのはいい薬だそうですね』とのお言葉がありました。ハンセン病の特効薬のことです。また皇后陛下からは『なぜブラジルではハンセン病が制圧できないのでしょう』というご下問もありました。両陛下とも専門的な事柄までほんとうによくご存知でした。
 考えてみれば、両陛下は国立、私立を合わせて日本に14あるハンセン病療養所をすべてお訪ねになり、回復者を励まされました。皇室とハンセン病の関わりは、奈良時代光明皇后が作られた悲田院、施薬院に遡ります。こうした伝統を引き継いでいらっしゃるのです。
 そしてこの時、私を深く感動させたのは、皇后陛下のある一言でした。『韓国の状況はどうでしょうか』とお尋ねになりました。私が韓国の患者はゼロとなり、移民や外国労働者の発病が数例あるだけです、と申し上げますと、皇后陛下は『それはよかったわ』と安堵され、さらに思わぬお話をなさったのです。
 皇太子妃時代に、韓国のシスターからハンセン病の深刻な状況を訴えるお手紙が届いたそうです。その内容に心を痛められた皇后陛下は、高松宮殿下と当時、駐韓国大使だった金山政英氏にご相談されたとお話しされたのです。
 突然、金山大使の名前が出てきましたが、私はたいへん驚きました。実は昭和45年に金山大使が私の父、笹川良一のところにお見えになって韓国でのハンセン病患者の窮状を訴えられ、そこに私も同席していたのでした。それがきっかけで父は韓国に病院を作り、私も現地に同行しました。そこで父が血の気を失った無表情な患者を抱擁(ほうよう)している姿を見て、ハンセン病対策を一生の仕事とする決意をしました。つまり、私は皇后陛下のお導きでハンセン病に関わることになったのです。
 ご進講の際、私はグローバル・アピールで来日したハンセン病回復者たちに励ましの言葉をお願いしたい旨、申し上げました。そして2週間後、8人の回復者とともに再び吹上御所にうかがいました。ここで両陛下は、お言葉を述べられた後、さっと8人に近寄られ、一人一人手を握ってお話をされました。人間扱いされてこなかった彼らに、同等の人間として親しく接せられたのです。
 両陛下は『人間愛』のお方です。恵まれない人、病気で苦労している人、被災された人など、苦境にある人たちを励ますことを自らの責務として、お務めをされてきたのではないかと拝察します。
 被災地訪問が度々報じられますが、両陛下はその間にも四十数回も関係者を御所にお呼びになって現地の状況を尋ねておられます。被災地で跪かれるのは、形の問題ではありません。自然なお気持ちの発露として、そうなさっておられるのだと思っています」
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 イエス・キリストは、神の恩寵として、異教徒の間で皮膚病患者・ハンセン病患者などを癒やし治療する奇跡を数多く行い、布教活動を行い、信者を増やした。
 キリスト教は、貧しい者、虐げられた人、病人、障害者など社会の弱者の宗教として布教し、信者を増やして世界的な普遍宗教に成長した。
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 光明皇后は、悲田院や施薬院を造って貧しい者や病人の治療と保護を行い、皮膚が爛れ膿が流れ出ている貧しく老人の身体を自ら拭いて洗い清めた。
 皇道の、大本には天皇の慈愛が存在した。
 皇室の使命は、病に苦しむ人・災害にあった人・貧しい人・虐げられた人など社会の弱者に寄り添う事である。
 熱烈な天皇主義者・勤皇派・尊皇派は、賤民・部落民など社会の弱者であった。
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 日本国と日本民族日本人は、歴史上で、天皇・皇室に何度も助けられてきた。
 日本国と日本民族日本人には、数えきれない、返しきれない、数多くの恩義が天皇・皇室にある。
 そうした恩義を感じず否定する日本人は、日本民族日本人ではない。
 それ故に、反天皇反日的日本人は日本民族日本人ではない。
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 聖武天皇光明皇后は、国家の安寧、国民の幸福、社会の救済を外来宗教の仏教に求め、東大寺を造営し、仏教国家を広めた。
 国家仏教は、神道を吸収して神仏習合を完成させた。
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 皇室は、大陸や半島から逃げ出してきた避難民を差別せず・分け隔てなく温かく受け入れ、生活できるように土地を与えて定着させた。
 天皇と日本に感謝した避難民は、帰化した日本人として生きた。
 天皇と日本に感謝しない避難民は、帰化を拒否して渡来人として日本に住みついた。
 日本の同一性単一性には、帰化人の同化・同質と渡来人の異化・異質が争う事なく並存している。
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 天皇や皇族方は、自分の専門分野外の事でも知ろうとして、政治家・官僚・学者・メディア関係者ら以上に人一倍努力されている。
 言葉だけではなく行動する、それが天皇・皇族・皇室である。
 現代日本では、言葉だけで行動しない日本人が多く、特に特権意識の強い高学歴出身知的エリートにそれが顕著に多い。
 その証拠が、失言、嘘、言い訳、言い逃れ、詭弁などの数々で、それがバレたら本心からではなく表面的な謝罪で頭を下げて誤魔化す。
 それ故に、現代日本には、本当の、真実の、言霊は存在しない。
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 小鹿島更生園園長刺殺事件(しょうろくとうこうせいえんえんちょうしさつじけん)とは、1942年(昭和17年)6月20日に日本統治時代の朝鮮の全羅南道高興郡錦山面の癩療養所(現在のハンセン病療養所)「小鹿島更生園」で発生した殺人事件である。

 事件の背景と概要
 小鹿島更生園は、周防正季園長の主導の下、患者の収容作業を朝鮮全体で大々的に行っていたが、その際患者をボスの下で組織化し集団で入所の上でボスが収容患者をまとめるというシステムが行われた。こうしたことから、園長・スタッフ─患者ボス─一般患者による上下関係が出来上がり、園の意向を患者ボスが代弁する形で権力を持つ様になった。
 1940年にボス患者の一人・朴順周が中心となって周防園長の銅像を建立する動きが起こり、周防自身が反対する中半ば強制的に献金が集まり建立にこぎつけた。この時の所内の状況について、収容者の一人が述懐している。

 院長の銅像を建てにゃならないのだが、とにかく私たちも何もかも差し出さねばいけないのだが、一日三銭、余計に働く人は五銭。銅像を建てた。後は夜明けの3時に銅像を拝めと言われた。銅像参拝、神社参拝、「私はキリスト教徒だからそんなことはできない」と答えて監禁室に入れられて死んだ人々がたくさんいました。
— TBS『筑紫哲也 NEWS23』インタビュー(1997年12月、滝尾英二記)

 殺害
 周防の銅像を建立するにあたって主導的な役割を負っていた朴順周は1941年(昭和16年)に射殺され、収容所内の患者からの不満が徐々に表面化していった。
 1942年6月20日、小鹿島更生園で月例の「報恩感謝日」の行事が行われ、入所のハンセン病患者が多数集まっていた。周防園長が入場すると、患者・李春成が周防の前に立ち塞がり、「お前は患者に対してあまり無理なことをするからこれを貰え!」と日本語で叫びながら、周防の胸を食刀(朝鮮式包丁)で一突きした。周防は直ちに救急処置が執られたが、1時間後に出血多量で死亡。犯人・李春成はその場で現行犯逮捕された。

 銅像を崇拝しろと言われて、いつも一カ月に一度は大勢が全部集められていたのです。当時は6千人がこの島に住んでいました。集落ごとに列をつくります。「きをつけ」と声がかかる。ところが私の横にたっている人が、こうしてずっと手を服の中にいれているのですよ。車がきて院長がちょっと後ろにいました。いきなりその人は院長の首をむんずとつかんで、ナイフがこんな風に。指がないので包帯でぐるぐる巻きにして、グサッとこう刺したのです。私はこれでもう私たちは命がない(と思ったのです)。院長が死んだ。院長の息子がきた。日本から。私たちは殺されずに助かった。
— 『筑紫哲也 NEWS23』インタビュー(1997年12月)

 犯人
 犯人・李春成は小鹿島更生園の入所患者の朝鮮人(当時27歳)であった。李は慶尚北道星州郡の貧農出身で、幼くして父を亡くしたため、ほとんど学校に通っていなかった。14歳の時にハンセン病を患い、大邱癩病院に2年間収容された。退所後は行商をして各地を転々としていたが、1939年(昭和14年)に窃盗教唆贓物収受罪で懲役1年の実刑判決が下り、西大門刑務所に収監された。しかし、ハンセン病を再発したため、光州刑務所小鹿島支所に移送された。
 この当時(1942年)は既に戦時体制下にあり、小鹿島でも施設外の朝鮮人と同様に皇民化教育が施され、患者に対する締め付けが厳しくなっていた。李は、これらは全て周防園長が悪いからだと、周防に対する憎悪の念を強め、遂に殺害するに至った。
 李春成は一審の光州地方法院、二審の大邱覆審法院とも死刑判決が下った。そして三審の高等法院は上告を棄却し、李の死刑が確定した。
 1943年(昭和18年)2月19日、大邱刑務所で李春成の死刑が執行された。
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 小鹿島虐殺事件(しょうろくとうぎゃくさつじけん)とは、1945年8月21日に朝鮮全羅南道高興郡錦山面の癩療養所(現在のハンセン病療養所)「小鹿島更生園」で発生した朝鮮人職員による大量虐殺事件である。

 事件の発端
 1945年8月15日(光復節 (韓国))に、大日本帝国政府は降伏文書への調印を予告したが、隔離され通信手段が制限されていた小鹿島更生園ではこのことを知らず、今まで通りの生活を送っていた。
 8月18日、園長は患者の代表を集めて、日本降伏の事実を発表した。この報は瞬く間に全施設に広がり、各所で日本人職員などにリンチが加えられたが、幸いにも命を落とすことなく、安全地域へと撤退していった。
 これと並行して朝鮮人職員の間で療養所の主導権争いが激化した。医師系と看護系職員による争いで、医師系は「小鹿島更生園は病院であるから、医師が当然に管理者となるべき」と主張し、看護系は「過渡期であるから、必ずしも管理者は医師である必要はない」と反論した。最終的には看護系が勝利したが、医師系は反撃の機会を窺っていた。

 事件の概要
 8月19日、園内各地で「解放祝賀行事」が挙行された。朝鮮人は職員患者の区別なく「朝鮮解放」を祝った。その中で、ある朝鮮人職員は憤然とした態度で椅子に腰掛けていた。患者がそのことを咎めると「この生意気な奴、俺が立とうが立つまいが、万歳を叫ぼうが叫ぶまいが、お前の知ったことか。余計なおせっかいだ。」と言い返したので、「朝鮮人としての意識が足りない」ということで、他の患者がこの職員を取り囲みリンチした。気を失ったため、直ちに搬送されたが同日夜に死亡した。この事件は、後の虐殺事件に微妙な影を投げかけることとなった。
 8月20日夜、医師系職員のSは、患者代表のRに「(看護系職員が)倉庫から物資を島外に持ち出そうとしている」とデマを流し、患者を煽って主導権を奪回しようと目論んだ。医師系職員に煽動された患者は、夜にもかかわらず倉庫に押しかけた。武装した看護系職員はついに発砲し、前にいた患者数人を死傷させた。看護系職員は「明朝10時に談判しよう」と呼びかけ、この日はとりあえず解散となった。
 8月21日、談判のために集まった患者代表らを取り囲み、一人残らず虐殺した。そして、たまたま居合わせなかった患者代表も一軒一軒回り、順次射殺していった。犠牲者は82名にも上った。なお、患者を煽った医師系職員のSは前日夜に島外に逃亡し、難を逃れている。
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 ハンギョレ
 ハンセン病回復者の涙を拭いた韓国最高裁…初めて断種・堕胎に国家責任認める
 登録:2017-02-16 00:32 修正:2017-02-16 09:15
「幸福追及権・人間としての尊厳を侵害」 
 堕胎手術に4千万ウォン 
 断種手術に3千万ウォンの賠償確定 
 2審で賠償額削減した4件の判断にも注目 
 弁護人「同じ状況に異なる賠償額は認められない」
ハンセン人権弁護団のパク・ヨンニプ団長(右から4人目)など弁護士と韓国ハンセン人総連合会のイ・キルヨン会長(右から5人目)が15日午前、ソウルの大法院前で記者会見を行い、ハンセン人断種・堕胎国家賠償請求訴訟の勝訴所感を話している=キム・ジョンヒョ記者//ハンギョレ新聞社
 Kさん(86)とYさん(81)夫婦は、ハンセン人(ハンセン氏病回復者)療養所だった慶尚北道漆谷(チルゴク)の国立愛生園(現、国立漆谷病院)で療養している間の1962年に子供ができた。しかし、愛生園は祝いの代わりに「子供を産んで一緒に暮らすことはできない。ここで暮らすなら流産させて断種(精管)手術をしなければならない」という話を伝えた。結局、Yさんは堕胎手術を受け、4カ月後にKさんも断種手術を受けなければならなかった。ハンセン氏病に対する誤った認識と偏見のせいで、日帝時期から続いた隔離収容、強制断種・堕胎などの人権侵害が解放後にも永く続いた。
 Yさん夫婦のようなハンセン人に対して強制的に堕胎・断種手術を行った国家の責任を認める大法院(最高裁)判決が初めて下された。2011年から続けられてきたハンセン人539人の集団訴訟のうち、5年ぶりに出てきた初の確定判決だ。
 大法院3部(主審クォン・スンイル大法官)は15日、キム氏など19人が大韓民国を相手に提起した損害賠償訴訟で、堕胎手術をされたハンセン人10人には各4000万ウォン(約400万円)、断種手術をされたハンセン人9人には3000万ウォン(約300万円)とその利子を支払えと宣告した原審を確定した。大法院は「ハンセン人に対して行った精管切除手術と妊娠中絶手術は、幸福を追求する権利、人間としての尊厳と価値、人格権および自己決定権、内密な私生活の秘密などを侵害し、または制限する行為」とし、「法律上の根拠がなく、たとえハンセン人が同意したとしても社会的偏見、差別、劣悪な社会・教育・経済的条件などによりやむを得ず同意したと見られ、大韓民国国家賠償責任を負担することが正しい」と明らかにした。
 ハンセン人の代表的な人権侵害の一つである断種・堕胎強制手術は、1935年から1990年前後まで続いた。ハンセン氏病は1900年代初めにはすでに遺伝病でないことが明らかになり、1950年代からは完治可能な疾病と認識されたが、病気にかかれば容貌に変形が生じるせいで特に社会的差別と偏見が激しかった。社会的少数者の差別を防ぐべき国家さえもが「病気が遺伝する」という誤った偏見に捕われ続け、解放後にも日帝時期同様に断種・堕胎手術の慣行を継続した。ハンセン人は家庭を設け子供を育てる幸福追及権を強制的に剥奪され、羞恥と罪の意識を感じなければならなかったし、見守る子供も持てずに孤独で寂しい老後を送らなければならなかった。日本が2006年から日帝時期に小鹿島(ソロクド)などに強制収容されたハンセン人補償を始めると、韓国は一歩遅れて2007年に「ハンセン人被害事件の真相究明および被害者生活支援等に関する法律」を制定し、2012年から補償を始めたが基礎生活受給者など一部のハンセン人にのみ月額15万ウォン(約1万5千円)を支給するだけだった。これに対してハンセン人は、日本政府を相手に責任を問う訴訟に参加したハンセン人権弁護団と共に、2011年10月に韓国政府を相手に損害賠償訴訟を提起した。
 大法院の初めての判決が下されたが、まだ約520人のハンセン人が大法院の判断を待っている。彼らの下級審はすべて国家責任を認めたが、損害賠償額で判断が交錯した。今回の大法院判決の原審である光州(クァンジュ)高裁は、堕胎手術をされたハンセン人には4000万ウォン、断種手術をされたハンセン人には3000万ウォンとその利子を賠償するよう判断した。しかし、昨年9月ソウル高裁民事30部(裁判長カン・ヨンス)は、「男女平等」の原則と国家の努力を前面に掲げ賠償額を2000万ウォンに削減し、以後のソウル高裁判決3件もこれに倣った。ハンセン人権弁護団長のパク・ヨンニプ弁護士(法務法人ファウ)は「司法府が遅くなったとはいえ日帝強制占領期間と解放後に苦痛にあったハンセン人の涙をふいてくれて良かった」としつつも「3~4000万ウォンという金額も、その苦痛に比較すれば多額とは言えないだけに、大法院が同じ状況の残る4件についても今回の賠償基準に合わせて判決しなければならない」と話した。
キム・ミンギョン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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 [ルポ]小鹿島の涙を拭いてくれた“13年間の同行”は日本の町の弁護士から始まった
 登録:2017-01-24 02:26 修正:2017-01-28 06:32
 植民地時代に隔離されて強制断種・堕胎 
 日本の弁護士、人権侵害を知ってから 
 2004年、韓国の弁護士らと共に訴訟 
 500人超える原告の陳述書を直接取り 
 日本政府を相手に被害賠償を牽引 
 
 解放後も人権侵害は続いたが 
 韓国政府は、月1万5千円の支援金“すずめの涙” 
 結局、政府相手取り損害賠償訴訟を提起 
 弁護人団の国境を越えた人権意識も高まる 
 「ベトナム戦争での虐殺」公益訴訟も検討
 今月14日「ハンセン人権活動白書」の出版に合わせて行われた「ハンセン病患者の人権と課題」討論会に、徳田靖之弁護士(前列右から4番目)など日本の弁護士と、パク・ヨンリプ弁護士(前列左から2番目)など韓国の弁護士が一堂に集まった=ハンセン人人権弁護団提供//ハンギョレ新聞社
 徳田靖之弁護士(73)が小鹿島(ソロクト)を初めて訪れたのは2003年の夏だった。1916年、日本が朝鮮のハンセン病患者を強制隔離するために病院(慈恵病院、現国立小鹿島病院)をつくり、彼らを収容した場所が小鹿島だった。徳田弁護士は、日本政府に対する小鹿島住民たちの補償金請求を手伝うため、小鹿島の地を踏んだ。それから14年が経った今月14日、徳田弁護士は再び小鹿島に足を運んだ。ハンセン病患者のための韓日弁護士による連帯活動が記録された「ハンセン人権活動白書」の出版を記念するイベントに参加するためだった。徳田弁護士はハンセン人人権弁護団を率いるパク・ヨンリプ弁護士と抱き合いながら、目を潤ませた。
 同日の行事には徳田弁護士の他にも大槻倫子、近藤剛、清水善朗、鮎京眞知子、水口真寿美からなる6人の日本の弁護士が同行した。パク・ヨンリプ団長とチャン・チョルウ副団長、チョ・ヨンソン、イ・ヨンギ、ヤン・ジョンスク、イ・ジョンイル、ソ・ジュンヒ、キム・ジュンウ弁護士など、ハンセン人人権弁護団所属の弁護士たちが彼らを暖かく迎えた。彼らは刷り上がったばかりの白書を持って小鹿島ハンセン病患者たちの納骨堂である「萬霊堂」へその足で向かった。幼くして強制的に故郷と家族から離され、小鹿島に移されたハンセン病患者らは断種・堕胎手術で子孫をほとんど残せなかった。帰るところも面倒を見てくれる人もいない彼らの最後の居場所が萬霊堂だった。「英霊の皆さん。13年にわたる日本のハンセン病患者補償請求に決着がつきました。断種・堕胎訴訟は大詰めを迎えております。これからは差別と偏見のない平等な世界で安らかにお眠りください」。ソ・ジュンヒ弁護士の告諭文の朗読が終わると、韓国と日本の弁護士たちは白書の隣に菊の花をささげた。
 彼らの出会いは2004年までさかのぼる。九州大分県別府市の“町の弁護士”である徳田氏は1995年、ハンセン病療養所にいた作家の島比呂志氏から手紙をもらった。「(ハンセン病患者を強制隔離する)『らい予防法』のような悪法を存続させてきたことについて、人権と最も深い関係にある弁護士会の責任はないのか」。徳田弁護士に警策に振り下ろすような手紙だった。“何もしなかった罪”を滅ぼすため、徳田弁護士は1998年のらい予防法違憲確認及び国家賠償請求訴訟を起こした。2001年、熊本地方裁判所はこれを認めた。日本政府は訴訟の結果を尊重し、国会は翌年「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律」を作って強制収容されたハンセン病患者たちに補償を始めた。
 勝利の喜びもつかの間、徳田弁護士はまた、別の“警策”と向き合わなければならなかった。『朝鮮ハンセン病史』の著者、滝尾英二氏が「日本帝国主義者たちは、日本だけでなく、韓国と台湾でも同じようにハンセン病患者の強制収容政策を実施したのに、なぜ自民族中心主義に閉じ込められて日本の被害だけ注目するのか」と叱咤したのだ。すぐに小鹿島を訪れた徳田弁護士は、しかし、日本の訴訟にはない悩みを抱えることになった。「父が太平洋戦争に参戦し亡くなったため、長い間、私は被害者だと思っていた。しかし父親は、中国やインドネシアで多くの人を殺した加害者でもあった。小鹿島で日本が犯した残酷さを前にして、胸が痛み、日本人であることが恥ずかしかった。このように加害者である私が加害者である日本を相手取り訴訟を起こそうと提案したら、それを受け入れてもらえるだろうか、不安だった」。徳田弁護士がそれから14年後に打ち明けた告白だ。
 日本政府に対する小鹿島住民たちの訴訟で代理人を務めることを決心した徳田弁護士など、日本の弁護士たちは2004年、韓国の弁護士たちの助けを求めるために民主社会のための弁護士会(民弁)光州(クァンジュ)・全羅南道支部と大韓弁護士協会(大韓弁協)のドアを叩いた。「日本人が韓国の国内問題に介入してもいいだろうか」という心配は杞憂だった。当時、大韓弁護士協会の人権委員長だったパク・ヨンリプ弁護士は「大韓弁協は社会的弱者のための法律活動をしていると自負していたが、これまで知らなかったハンセン病患者らの人権侵害を日本の弁護士たちから聞いたことが恥ずかしかった」と話した。“らい病者”という偏見がもたらしたハンセン病患者に対する心の壁を崩してくれたのも、日本の弁護士たちだった。当時、民弁光州・全羅南道支部長を務めていたミン・ギョンハン弁護士は「若い日本の弁護士がハンセン病患者たちにご飯を食べさせ、残りのご飯を食べる姿を見て、深い感銘を受けた」と回想した。韓国の弁護士たちの反省は行動につながった。パク弁護士は同年7月、志を共にする弁護士たちと一緒に「小鹿島のハンセン病患者に対する補償請求訴訟韓国弁護団」を作り、韓国のハンセン病患者らの補償要求を受け入れなかった日本の厚生労働省に対し、日本の弁護士たちと共に取り消し訴訟を提起した。東京地方裁判所は2005年10月25日、取り消し訴訟を却下したが、韓日の弁護士とハンセン病患者らの努力の末に、日本は法を改正して日帝強制占領期(日本の植民地時代)に強制隔離された韓国と台湾のハンセン病患者まで補償対象を拡大した。裁判所の判決に挫折せず、韓日の弁護士と市民たちが国会を動かしたのだ。
 しかし、法改正ですべてが終わったわけではなかった。日本で補償を受けるためには、日帝強制占領期の小鹿島などに強制隔離されたという“証拠”を示さなければならなかった。植民地と戦争を経験し、まともな資料が残っておらず、韓日の弁護士らは、全国に散らばっていたハンセン病患者に会って陳述書を取り始めた。この陳述書を基に、日本厚生労働省は2006年3月27日から昨年5月12日まで韓国のハンセン病患者590人に1人当たり800万円の補償を行った。厚生労働省との交渉を務めてきた鮎京眞知子弁護士は「強制収容所を作った日本から来た弁護士だけだったら、信じてくれなかったかもしれないが、韓国の弁護士たちのおかげでハンセン病患者らが安心して任せてくれた。感謝している」と韓国の弁護士たちに花を持たせた。
 これまで日本政府に対する訴訟はハンセン病患者のほかにも慰安婦・強制動員・原爆被害者の例があるが、少しでも補償を得たのはハンセン病患者と原爆被害者だけだ。チャン・ワンイク弁護士は「日本人被害者が認められれば、韓国人被害者も認められるが、そうでなければ認めようとしない日本政府の立場は今も変わっていない」としながらも、「それでもハンセン病患者の訴訟では勝利したということに非常に重要な意味がある」と話した。
 国籍を基準にみると、彼らは韓国人、日本人に分けられるが、ハンセン病患者の人権の観点からすると、彼らは一つだった。良心的な韓日市民たちの連帯は、韓日間の過去の問題の解決策でもある。清水善朗弁護士は「日本政府が加害者であるにもかかわらず、釜山少女像を問題視して、韓国を苦しめていることに憤りを覚える」として、「ハンセン病患者の戦いは、国を越えて市民と市民が力を合わせて韓日問題を解決していく先例を作った」と評価した。
 徳田弁護士は「韓国ハンセン病患者の日本訴訟」の目的として4つを挙げた。日本の謝罪と賠償日帝強占期におけるハンセン病患者の人権侵害の真相究明、韓国におけるハンセン病患者の人権回復、韓国・日本・台湾のハンセン病患者らの連帯。日本政府の補償が始まってから、3つは実現された。しかし、日帝支配期以後も続いたハンセン病患者らの人権侵害を回復するのは、韓国に残された課題だった。2006年10月、韓国の弁護士たちは既存の集いを「ハンセン人人権弁護団」に再整備して、後続作業を開始した。真相究明と補償案を議論するうちに、2007年に韓国の国会で「ハンセン病患者被害事件の真相究明及び被害者生活支援等に関する法律」が可決され、2009~2013年には「ハンセン病被害事件真相究明委員会」が活動した。しかし、韓国の補償法には、日本や台湾とは異なり、国家の謝罪と責任が抜け落ちていた。2012年から支給された補償も基礎生活保護受給者や次上位階層のハンセン病患者に月額15万ウォン(約1万5千円)を支給するに止まった。昨年3月になってようやく全ての被害者に補償金が支給されるようする改正法が施行された。しかし、高齢であるハンセン病患者らに月15万ウォンという補償金は実質的な被害補償になりえず、日本の補償金1億ウォンよりはるかに少ない。結局、韓国の不十分な補償のため、ハンセン人人権弁護団は2011年から6回にわたり、ハンセン病患者539人の強制断種・堕胎に対する損害賠償請求訴訟を提起した。
 今や韓国の弁護士たちは、日本の弁護士らから受け継いだものをより多くの人たちと分かち合おうとしている。初期のハンセン病患者訴訟の過程で韓国の弁護士たちの交通費や食費、宿泊費など実費を出したのは日本の公益基金だった。韓国の弁護士たちもハンセン病患者訴訟の過程で集めた基金をもとに、公益訴訟を支援する社団法人を構成する計画だ。人権問題において、日本の弁護士たちが日本を飛び越えたように、韓国の弁護士たちも韓国を飛び越えようとしている。ベトナム戦争に参戦した韓国軍の民間人虐殺問題について検討しているチョ・ヨンソン弁護士は「日本の弁護士たちの省察が韓国に伝わり、私たちの省察が今度は韓国軍により被害を受けたベトナムに向かっている。ハンセン病患者活動で学んだ人権に対する省察がここで止まることなく、進んでいかなければならない」と話した。
 13年が過ぎても徳田弁護士の心には小鹿島があった。同日、イベントを終えた夜10時17分、徳田弁護士は大槻弁護士とともに明かりが消えた国立小鹿島病院を訪れた。2人に気付いたのか、眠りから覚めたおばあさんが聞き取れないような話を始めた。大槻弁護士が耳の遠いおばあさんの手を握って「お元気で」と挨拶する間、徳田弁護士はおばあさんを力強く抱きしめた。ソン・オクナムさんは2人が忘れられない日本に対する韓国人ハンセン病患者補償請求訴訟の“最初の”原告だった。
小鹿島/キム・ミンギョン記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr)
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 韓国のハンセン病訴訟手伝った日本の弁護士たち、加害国の良心的勢力の役割が重要
 登録:2016-10-26 22:48 修正:2017-01-17 21:43
 法の前に立った「ベトナム戦争における民間人虐殺」
 ソウル高等裁判所民事30部の裁判官と弁護人などが、今年6月20日全羅南道高興にある国立小鹿島の病院でハンセン病患者に対する強制的な人工中絶と精管手術をめぐる特別裁判の後、ハンセン病患者の遺体を解剖していた検死室で現場検証を行っている=高興/共同取材写真//ハンギョレ新聞社
 今年6月20日全羅南道高興(コフン)郡にある国立小鹿島(ソロクト)病院で特別法廷が開かれた。ハンセン病患者139人が国家に対して起こした損害賠償請求訴訟の2審裁判所が、ハンセン病患者の強制精管切除手術と人工中絶手術被害の実態を直接聴くために設けた法廷だった。病院の設立(1916年)以来100年間で、裁判官が訪れるのは初めてだったため、ハンセン病患者たちの長年の人権闘争における象徴的な事件として受け止められた。この訴訟をはじめ、6件のハンセン病患者集団訴訟が政府の度重なる上訴により遅れているが、2000年代以前には訴訟すらも考えられなかった。ハンセン病患者に加えられた国家暴力は、真っ暗な法の死角地帯に置かれており、法曹人もこの問題に対する認識が全くなかった。
 2001年、一筋の光が差し込んだ。同年5月、熊本地方裁判所では「(日本)国のハンセン病患者隔離政策は違憲」という判決が下された。これによって「らい予防法」が廃止され、日本政府は「ハンセン病補償法」(「ハンセン病療養所入所者等 に対する補償金の支給等に関する法律」)を制定した。この訴訟を主導した徳田靖之弁護士は、韓国のハンセン病患者たちも日帝強制占領期(日本の植民地時代)に強制的に隔離・収容されたことを知り、韓国の弁護士と接触して被害者を捜した。国家暴力の被害者を自国民と非自国民に分けてはならないだけでなく、特に非自国民に対しては自分も加害者の位置に立つしかないと思ったからだ。彼に刺激を受けて韓国でも50人を超える弁護人団が構成された。
 小鹿島ハンセン病患者訴訟助けた徳田弁護士ら 
 自国民・非自国民に分けられないと判断 
 韓日政府に対する訴訟を積極的に支援
 2003年、ついに小鹿島の病院の患者117人が日本政府に補償を申請したが、拒否されると、再び東京地方裁判所に訴訟を起こした。訴訟の費用はすべて日本の弁護士たちが負担した。2005年10月に判決が言い渡された1審訴訟では敗訴したが、2006年2月、日本の国会で補償法の改正案が可決され、日帝強制占領期韓国のハンセン病患者の被害者たちも、結局、補償を受けられるようになった。現在韓国で行われている訴訟は、解放以後の韓国政府に責任を問うものだ。ところが、徳田弁護士が韓国を訪れてから、日本政府に補償を申請するまでに、2年という時間がかかった事情は何だろうか。
 「初めて徳田弁護士が小鹿島を訪れた時、そこのハンセン病患者はみんな(彼を)あざ笑いました。一度も法の保護を受けたことがない一方、日帝強制占領期に日本人から受けた苦痛をはっきりと憶えていたからです。心を開き、心を尽くして話し合い、連帯感を育んで、一人またひとりと原告を集めて行きました」。ハンセン病患者の訴訟に主導的に参加しているチョ・ヨンソン弁護士は「加害国の法曹人が先に頭を下げて、粘り強く待ち続けたからこそ、韓国のハンセン病患者たちが法と向き合うことができた」と振り返った。
 今年5月、三菱重工業に動員され、強制労働を強いられた勤労挺身隊ハルモニ(おばあさん)たちの日本の法廷闘争を記録した『法廷に刻んだ真実』が出版された。この本には1999年から10年にわたる裁判の間、原告らの航空券代と滞在費用の一切を支援してきた「名古屋三菱・朝鮮女子勤労挺身隊訴訟を支援する会」と、無料で弁護を引き受けた共同弁護人団の活動内容が紹介されている。三菱に賠償を求める同訴訟は2008年11月、日本の最高裁判所で最終的に敗訴したが、原爆被害の部分について日本政府を相手にした別途の訴訟はまだ続いている。韓国の法廷でも三菱を相手に数件の損害賠償請求訴訟が進められている。韓国での訴訟代理人を務めているチャン・ワンイク弁護士は、刑事事件で訴えられたク・スジョン氏の弁護人団も率いている。チャン弁護士は「良心的な日本の法曹人たちが見せてくれた姿が、私たちがベトナムの民間人被害者に近づく上で多くのことを示唆している」と話した。
アン・ヨンチュン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
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