☯20〕21〕─1─中国の妓女制度が朝鮮で特殊な伝統的妓生(キーセン)文化を生んだ。〜No.51No.52No.53No.54No.55No.56 ⑧ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 朝鮮は、中国同様に男尊女卑の中華儒教朱子学)に支配され、女性には人権はなく家畜の様に扱われていた。
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 日本は、最高神である女性神天照大神天皇・皇族の祖先神)が鎮座し、天皇霊天皇の霊に基ずく霊験で諸々の穢れを払い浄め、大御心・天皇の御稜威という慈しみで包み込んでいる、神聖な地・神の国であった。
 日本民族帰化人は、女性神天照大神を崇拝し、天皇と日本国への忠誠を誓っていた。
 朝鮮系中国系渡来人は、女性神天照大神の崇拝を拒み、天皇と日本国への忠誠を拒否した。
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 2019年6月号 WiLL「芸能界性接待でわかった韓国は売春天国 藤井実彦
 若い韓国人女性の25人に1人の割合で売春婦という統計が!
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 歴史を振り返ると、現在の状況が韓国独特の文化に根ざしていることがわかる。
 伝統的な妓生文化
 高麗時代(918~1392年)には、中国の妓女制度が伝来して朝鮮特有の妓生制度が誕生した。その仕事は官僚や辺境の軍人への性的奉仕だったとされる。
 その後、高麗は政府直属の妓生学校を設立し、国家が管理する官妓(かんぎ)らはそこに登録された。
 李氏朝鮮時代(1392~1897年)に引き継がれた妓生は、国境兵士のための慰安婦としても活用されるが、それだけではなく、なんと山寺の僧坊で売春が定期的に行われた歴史もあったという。
 第二次大戦後、朝鮮戦争が勃発、駐留米軍のための公娼制度がつくられ、外貨獲得の重要な資金源となった。こお公娼は羊公主(ヤンゴンジュ)と呼ばれ、1966年の韓国紙によれば『当時全国190ヵ所の国連軍専用ホールから出てくる外貨が1年に1,000万ドルに達すると推定した。
 1966年当時、我が国の貿易で稼ぐ外貨は2億5,000万ドルだった』というから、当時の貿易の4%を稼ぎ出していたことになる」
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 朝鮮には、高麗時代から国家管理の官妓・妓生と言われる宮中慰安婦従軍慰安婦が存在していた。
 官妓・妓生は、国家が認める正当な公娼で私的な娼婦・売春婦ではない。
 歴代の中華帝国は、朝鮮に対して妓生の献上を命じていた。
 朝鮮は、命じられた人数の妓生を宮中慰安婦として中華皇帝に献上していた。
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 ウィキペディア
 妓生 (きしょう、기생、キーセン) とは、元来は李氏朝鮮時代以前の朝鮮半島に於いて、諸外国からの使者や高官の歓待や宮中内の宴会などで楽技を披露したり、性的奉仕などをするために準備された奴婢の身分の女性(「婢」)のことを意味する。
 甲午改革で法的には廃止されたが、後に民間の私娼宿(「キーセンハウス」など)の呼称として残存し、現在に至る。

 概要
 妓生(1910)
 高麗から李氏朝鮮末期まで約1000年間、常に2万 - 3万名の妓生がおり、李朝時代には官婢として各県ごとに10 - 20名、郡に30 - 40名、府に70 - 80名ほどが常時置かれていた。

 起源
 その起源には諸説あり定かでない。
 巫女の遊女化説と百済の揚水尺説
 妓生は歌や踊りで遊興を盛り上げるのを生業とし、売春する二牌、三牌は妓生とは呼ばれていなかった[5]。発生には諸説あり、新羅の巫女の遊女化から始まったとか高麗時代の百済の揚水尺に歌舞を習わせたものとも言われている[6]。
 
 中国の妓女と妓生
 詳細は「妓女」を参照
 朝鮮の妓生制度は、中国の妓女制度が伝わったものといわれる。妓女制度はもとは宮中の医療や歌舞を担当する女卑として妓生 (官妓) を雇用する制度であったが、のちに官吏や辺境の軍人の性的奉仕を兼ねるようになった>。

 新羅の源花・天官女
 宗教民俗学者の李能和『朝鮮解語花史』(1927年) によると、新羅の真興王37年に「源花を奉る」とあり、源花は花郎 (ファラン) と対になっており、源花は女性、花郎は美少年がつとめ、これが妓生のはじまりであるとする。また、新羅時代の天官女が妓生制に相当するといわれている。

 百済遺民説
 李能和も『高麗史』にもとづき、百済遺民の女性を飾り立て高麗女楽を習わせたことも起源の一つとしている。また、李氏朝鮮後期の学者丁茶山 (1762-1836) の説では妓生は百済遺民柳器匠末裔の楊水尺 (賤民) らが流浪しているのを高麗人李義民が男を奴婢に女は妓籍に登録管理したことに由来するともいう。

 日本の傀儡子との関連
 柳田國男は妓生と日本の傀儡子は同祖と考えたが、のちに撤回した。その後、滝川政次郎なども同系説を提唱し、川村湊も性器信仰が妓生と傀儡子に共通することなどから、渡来説は有力とみている。

 高麗の妓生制
 高麗時代 (918年-1392年) に、中国の妓女制度が伝わり朝鮮の妓生制度になった。
 官妓 (女官)・官婢の中で容姿の優れた者を選別し、歌舞を習わせ女楽 (高麗女楽) とした。高麗は政府直属の掌学院を設立し、官妓らはそこに登録され、歌舞や医療などの技芸を担当した。

 辺境軍人の慰安婦として
 掌学院に登録された妓生は次第に官僚や辺境の軍人への性的奉仕も兼ねるようになった。
 李朝時代にも妓生は国境守備将兵慰安婦としても活用され、国境の六ヶ所の「鎮」や、女真族の出没する白頭山付近の四ヶ所の邑に派遣され、将兵の裁縫や酒食の相手や夜伽をし、士気を鼓舞した。

 李氏朝鮮の妓生
 1904年の妓生の少女たち
 李氏朝鮮時代の妓生は女楽のほかに宮中での医療を行い、衣服の縫製もしたので、薬房妓生、尚房妓生という名称も生まれている。妓生は、官に属する官妓 (妓女・ソウルに仕える宮妓と地方の郷妓に分かれる) と、私有物である妓生が存在したが、大半は官妓だったようである。妓生になる女性のほとんどは奴婢であるが、実家の没落・一家離散または孤児となったり、身を持ち崩すなどした両班の娘などが妓生になる場合も多かった。李氏朝鮮の妓生は高麗女楽をルーツにしており、宮中での宴会に用いる為の官妓を置き、それを管理するための役所妓生庁が存在した。一般的に、妓生は両班を相手とするため、歌舞音曲・学問・詩歌・鍼灸などに通じている必要があった。また、華麗な衣服や豪華な装飾品の着用が許され、他国の高級娼婦と同様に服飾の流行を先導する役目もした。

 妓生制存廃論争
 1392年に李氏朝鮮が成立し、1410年には妓生廃止論がおこるが、反対論のなかには妓生制度を廃止すると官吏が一般家庭の女子を犯すことになるとの危惧が出された。山下英愛はこの妓生制度存廃論争をみても、「その性的役割がうかがえる」とのべている。4代国王世宗のときにも妓生廃止論がおこるが、臣下が妓生を廃止すると奉使 (官吏) が人妻を奪取し犯罪に走ると反論し、世宗はこれを認め「奉使は妓をもって楽となす」として妓生制度を公認した。

 妓生庁
 平壌にあった妓生学校
 李氏朝鮮政府は妓生庁を設置し、またソウルと平壌に妓生学校を設立し、15歳〜20歳の女子に妓生の育成を行った。

 燕山君と妓生
 李能和によれば、李王朝の歴代王君のなかでは9代国王成宗とその長子である10代国王燕山君が妓娼をこよなく愛した。
 とりわけ燕山君は暴君、もしくは暗君で知られ、後宮に妓娼をたくさん引き入れ、王妃が邪魔な場合は処刑した]。化粧をしていなかったり、衣服が汚れていた場合は妓生に杖叩きの罰を与え、妊娠した妓生は宮中から追放し、また妓生の夫を調べ上げて皆斬殺した。
 燕山君は名寺刹円覚寺を潰し、妓生院を建て、全国から女子を集め大量の妓生を育成した。燕山君の淫蕩の相手となった女性は万にいたったともいわれ、晩年には慶会楼付近に万歳山を作り、山上に月宮をつくり、妓生3000余人が囲われた。燕山君の時代は妓生の全盛 (絶頂) 期ともいわれる一方でこれらは燕山君の淫蕩な性格に起因するといわれており、妓生の風紀も乱れた。

 運平・青女
 燕山君は、妓生を「泰平を運んでくる」という意味で「運平 (うんぴょん)」と改称させ、全国から美女であれば人妻であれ妾であれ強奪し、「運上」させるよう命じた。全国から未婚の処女を「青女」と呼んで選上させたり、各郡の8歳から12歳の美少女を集め、淫したとも記録され、『李朝実録』では「王色を漁す区別なし」と記している。

 妓生と外交
 燕山君の時代などでは王が女淫に耽ったため、臣下も風俗紊乱であった。川村湊はこの時代を「畜妾、畜妓は当たり前のことであり、妓生の、妓生による、妓生のための政治というべきもの」で、朝鮮は「妓生政治・妓生外交」を行っていたと評した。

 貢女
 妓生は外交的にも使われることがあり、中国に貢女 (コンニョ) つまり貢ぎ物として「輸出」された。高麗時代には宋の使いやまた明や清の外交官に対しても供与された。
 李朝時代でも成宗が辺境の娼妓は国境守備の将兵の裁縫のために置いたものだが都の娼妓は風俗紊乱をもたらしているために妓生制度を廃止したらどうかと提案したところ、臣下は「中国の使臣のために女楽を用いるため妓生は必要です」と妓生の外交的有用性をもって答えたため、成宗は満足して妓生制度を公認している。これらは日本人 (倭人) に対しても行われ、1507年の『権発日記』には倭の「野人」にも美しい妓生を供進したと記録されている。
 川村湊は、朝鮮の中国外交は常に事大主義を貫き、使臣への女色の供応は友好外交のための「安価な代価 (生け贄) にほかならなかった」とし、また韓国併合以後の総督府政治もこのような「妓生なくして成り立たない国家体制」を引き継いだものであるとした。

 大韓民国の妓生・キーセン
 韓国軍慰安婦
 「韓国軍慰安婦」および「在韓米軍慰安婦問題」を参照
 大韓民国の成立後に朝鮮戦争が勃発し、戦火で焼き尽くされた国土の復興には莫大な費用が必要になった。朴正煕大統領は、1965年の日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約で獲得した資金を元に復興を進め、在韓米軍を新たな復興への資金源として見出した。当時、駐留米軍に対する風俗店は、朝鮮語でヤクザと呼ばれる非合法の犯罪組織が関与しており、莫大な金額が地下に流出していた。これを一斉に摘発し、新たな国営の娼館制度を代わりに据え、外貨獲得を行った。これが便宜的に国営妓生と呼ばれる制度であり、更なる外貨獲得を目指して、一時はベトナム戦争時など海外にも派遣された。

 「キーセン観光」
 日本が復興し、海外旅行が再開されると、日本からの観光客に対しても、国営妓生が使われた。1990年代まで、キーセン旅行と呼ばれるほど韓国旅行が風俗旅行と同等の意味を持っていたのはこのためである。 交通公社や近畿日本ツーリストの旅行では、羽田発二泊三日で35,000円位、「妓生」と見合いの後、夕食が終わるとホテルに「妓生」が来た。夜の街に出たり、部屋で駄弁ったりして、翌朝まで一緒にいて、30,000円を要求された。
 夜の町に一人で出ると、屈強な男性(人は警察官という)が尾行してきた。おかげで、安心して横町の屋台などで、ソウルの夜が楽しめた。生きたまま刻んだタコを食べたり、直ぐにできるオーダーメイドのシャツを買ったりして、ホテルに戻ってベッドに入るとボーイがドアをノックして来た。「お一人ですか?お寂しくないですか?」ドアーの上の回転窓には、当時日本ではやったジーンズのジャンパーなど羽織った2人位の女性がボーイの後ろで、壁に体を寄せて控えている。
 深夜2時過ぎまで、何度もボーイのノックがあった。ボーイにも歩合が入るようであった。業者は、「妓生」とは言わず、「姫様」と呼んでいた。
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 大韓民国における売買春
 出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
 大韓民国における売買春は違法であるが、韓国女性政策研究院によれば、韓国における性売買の規模は2007年には合計14兆大韓民国ウォン(130億米ドル)と推計され、これは韓国の国内総生産 (GDP) のおよそ1.6%に当たる。
 2007年の売買春における取引回数は9千4百万回と、2002年の1億7千万回から減少した。売買春での取引総額は14兆ウォンで、2002年の24兆ウォンよりもかなり低かった。売春婦の数は同じ時期に26万9千人へと18%減少した。法的制裁と警察による取締にもかかわらず、売買春産業は韓国で栄え続けており、売買春産業に従事するものは国の活動に対して活発に抵抗し続けている。
 1989年のYMCAの調査では、売春女性の数は、15~29歳の女性620万人の約1/5に当る120万~150万人にもなり、売春業の年間総売上高は国民総生産(GNP)の5%に当る4兆ウォンを超えるという報告が出ている。
 韓国の男性の相当数は「買春は社会生活の一部」と考えており、女性家族部がソウル大学女性研究所に依頼して実施した2010年性売買実態調査によると、買春経験者は49%で、買春回数は8.2回だった。
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 世界大百科事典 第2版の解説
 キーセン【妓生 Kisaeng】
 朝鮮の伝統的な芸妓。キーサンとも表記する。もと奢侈奴隷として発生し,のちには歌舞を売るものとして身分的には官婢であった。妓生は新羅時代にも存在したが,正式に官婢としての妓生が登場するのは高麗時代の初期である。高麗の官僚制度が確立し,地方官衙の歌舞のために制度的に設置された妓生は,以後李朝末期までの約1000年間全国につねに2万~3万名が存在したことになる。李朝時代には官婢として県に10~20名,郡に30~40名,府に70~80名ほどが常時置かれていた。
 出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
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