☳26〕─2─大須事件。日本共産党と在日朝鮮人は有罪。〜No.89 

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   ・   ・  {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博} ・   
 ソ連共産党は、中国、フランス、イタリア、日本などの各国の共産党に資金を提供していた。
 ソ連共産党の日本部長コワレンコは、戦後20年間、毎年50万ドル(5,000万円以上)と武器を日本共産党に送っていた。
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 日本共産党は、天皇制度廃絶・天皇・皇室を消滅させる為に暴力的人民革命を起こそうとしていた。
 在日朝鮮人は、日本を住みやすい国に造り変えるべく日本共産党に協力した。
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 日本共産党や反天皇反日在日朝鮮人の後ろに、ソ連中国共産党北朝鮮などの国際的共産主義勢力がいた。
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 ウィキペディア
 大須事件とは、1952年(昭和27年)7月に愛知県名古屋市中区大須で発生した公安事件。警察部隊とデモ隊が激しく衝突した。

 事件の発端
 ソビエト連邦及び中華人民共和国を視察し、北京で「日中民間貿易協定」(当時の日本国政府の方針に反するものであり、正式な国家間の協定ではない)を結んで帰還した日本社会党の帆足計と改進党の宮越喜助の両代議士が帰国し、1952年7月6日(日曜日)に名古屋駅に到着した。両代議士の歓迎のために約1000人の群集が駅前に集合、無届デモを敢行したが、名古屋市警察によって解散させられた。その際に12人が検挙されたが、その中の1人が所持していた文書から、翌日の歓迎集会に火炎瓶を多数持ち込んで、アメリカ軍施設や中警察署を襲撃する計画が発覚した。

 事件の概要
 1952年7月7日(月曜日)当日、名古屋市警察は警備体制を強化し、全警察官を待機させた。午後2時頃から、会場の中区大須球場(名古屋スポーツセンターの敷地にかつて存在した球場)に日本共産党員や在日朝鮮人を主体とする群衆が集まり始め、午後6時40分頃に歓迎集会が挙行された。
 午後9時50分に集会が終わると、名古屋大学の学生がアジ演説を始め、その煽動によって約1000人がスクラムを組みながら球場正門を出て無届デモを始めた。警察の放送車が解散するよう何度も警告したが、デモ隊は放送車に向かって火炎瓶を投げ込み炎上させた。警察は暴徒を鎮圧すべく直ちに現場に直行したが、デモ隊は四方に分散して波状的に警察部隊に対して火炎瓶・投石・竹槍・プラカードで攻撃を行い、路上の一般の乗用車に放火するなど、大須地区は大混乱に陥った。また、大須のデモ隊とは別に、アメリカ軍の駐車場に停めてあった乗用車を燃やしたり、中税務署に火炎瓶を投下する事件も発生している。
 この事件で、警察官70人、消防士2人、一般人4人が負傷し、デモ隊側は1人が死亡、19人が負傷した。
 名古屋市警察は捜査を開始、最終的に269人(その内、半数以上が在日朝鮮人)を検挙した。捜査の結果、この事件は共産党名古屋市委員会が計画し、朝鮮人の組織である祖国防衛隊とも連携しながら実行に移されたと認定した。

 裁判
 名古屋地方検察庁騒乱罪等を適用し、152人を起訴した。弁護団長は愛知大学事件の主任弁護士でもあった天野末治。
 1969年11月に名古屋地方裁判所日本共産党の非合法活動を行う軍事委員らが軍事行動計画を立てていたと断定し、1975年3月に名古屋高等裁判所日本共産党の事前計画と事件の結びつきを認め、デモ隊の共同意思により騒乱状態が始まったと認定した。
 26年に及ぶ史上まれな長期裁判となり、日本共産党は署名180万・支援カンパ3億円といった大衆闘争を展開したが、1978年9月4日、最高裁判所第二小法廷は上告を棄却し、有罪が確定した。
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