🗾5〕─1─境界の日本史。日本列島とは、地の果て、大地のへり、生と死の狭間。〜No.14 

  ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本列島とは、地の果て、大地のへり、土地が尽きて波が打ち寄せる渚、生と死の狭間である。
   ・   ・   ・   
 日本列島は、世界の常識では異常な日本独自の常識が働いている。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人は、乱婚を繰り返して生まれた混血の雑種民族である。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人の祖先は、琉球人やアイヌ人同様に縄文人である。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人は、中国人や朝鮮人とは別系統のアジア人である。
 日本と中華(中国・朝鮮)の関係は、一衣帯水の関係や唇と歯の関係は嘘である。
 日本民族日本人は、血筋から言えば、中国人や朝鮮人よりも台湾人や東南アジア人、南北アメリカ大陸のネイティヴ・アメリカンの方が近い。 
  ・   ・   ・   
 日本文明は、黄河文明の亜流文明ではなく、長江文明の後継文明である。
   ・  ・   ・    
 2019年6月15日 朝日新聞「読書
 『境界の日本史 地域性の違いはどこから生まれたか』 森先一貴、近江俊秀〈著〉 朝日選書
 各地の個性強まり、交流盛んに
 『日本文化』はどのようにして形成されたのか。明治以来、主流派は伝播(でんぱ)論だった。大陸から移住してきた集団がもたらした外来の進んだ文化が既存の文化に接ぎ木されたことが起源だというのである。いわく、縄文文化は日本列島内で生まれたのではなく、大陸由来である。縄文人弥生人は別の民族であり、海を渡ってきた弥生人が、先住民である縄文人を追い払い弥生文化を生み出した。中でも有名なのが、大陸の騎馬民族大和朝廷を建てたと説いた江上波夫騎馬民族征服王朝説であろう。
 だが、1970年代以降、大規模開発にともなう発掘調査が急増し、考古資料が膨大に蓄積された結果、伝播論は覆された。外来文化のインパクトを重視する見方では、石器・土器などの著しい地域的特色を説明できないからだ。
 本書は、先史考古学者と古代考古学者による共著で、主に旧石器時代奈良時代の日本列島における地域性・発展過程を考古学の観点から論じる。
 日本列島では、約3万年前の姶良(あいら)火山の噴火後の環境変化によってマンモスなどの大型動物が減少したため、地域ごとに異なる環境に応じた生業戦略が生まれた。旧石器時代の末期には、一部の地域ではあたかも現在の都道府県レベルと見まごうほどに生活文化が多様化し、その地域性は縄文時代にも引き継がれた。
 弥生時代になると、稲作を積極的に導入した西日本と拒んだ東日本など、地域性がより顕著になる。古墳時代には前方後円墳が全国的に造られるものの、掘立柱(ほったてばしら)建物の西日本と竪穴(たてあな)建物の東日本など、生活文化の違いは健在だった。旧石器時代から形作られてきた文化的な境界は今日まで影響を与えている。
 だが本書が強調するように、境界の形成は断絶を意味しない。日本で地域の個性が強まったことで、別の個性を持つ他地域との交流が活発化した。現代を考える上でも示唆的だ。
 評・呉座勇一」
   ・   ・   ・   
 縄文人は、海の民・南方系海洋民(釣り鉤文化)、川の民・揚子江流域民(長江文明)、山の民・北方系山野民(縫い針文化)が乱婚して生まれた。
 縄文人は、日本列島を中心に、南は沖縄、北は北方領土4島・千島列島・カムチャツカ半島樺太、西は朝鮮半島南部に住み着き、小舟で日本海を主要航路として行き来していた。
 日本海は、日本民族日本人の海であって朝鮮人の東海ではない。
   ・   ・   ・   
 弥生人は、揚子江流域民が黄河文明の漢族(中国人の祖先)に侵略で母なる土地を追われ、海岸沿い北上した一派で、山東半島から朝鮮半島南西部に逃げ、そこに住んでいた縄文人黄河流域民と雑婚していた現地人とさらに雑婚して生まれた倭族である。
 弥生人は、黄河流域民・大陸系草原民からなる黄河文明の民(朝鮮人の祖先)の侵食から逃げるように日本列島に渡ってきた。
   ・   ・   ・   
 後に、半島南西部に百済王国が誕生する。
 儒教や仏教などの多くの大陸文化は、揚子江流域から百済を経て日本に伝来した。
 百済人は、現代の朝鮮人・韓国人とは直接的に関係ない。
 百済は、親日派知日派であった。
   ・   ・   ・   
 縄文人達は、弥生人達を差別せず排除せず受け入れた。
 何故か、生物学的な理由からであった。
 同じ種族で近親相姦を繰り返すと、遺伝子・DNAが劣化・退化・衰退して死滅するからである。
 死滅を避けるには、新しい遺伝子・DNAを取り入れる必要があった。
 縄文人弥生人を受け入れ乱婚で混血したのは、生物学的に当然、生き残る上で正しい選択であった。
 日本文明・日本文化の舶来・渡来・新しいモノを貪欲に取り入れるという、融通無碍的な柔軟性と雑多な多種多様性が富んだ性質は、ここから来ている。
   ・   ・   ・   
 弥生人縄文人が乱婚して生まれたのが、倭人であり、日本民族日本人である。
 日本民族日本人は、大陸や半島での生存競争に敗れた敗者・弱者の子孫である。
   ・   ・   ・   
 琉球人とアイヌ人は、弥生人との混血度が薄く、ここから日本民族日本人と別系統として分かれた。
 琉球人とアイヌ人は、黄河文明の漢族(中国人・朝鮮人)とは血の繋がりのない縁も所縁もない別人種別民族である。
 日本国が、琉球人とアイヌ人を日本民族日本人の中に取り込むには道理がある。
   ・   ・   ・   
 渡来系弥生人縄文人と乱婚した弥生時代は大乱が発生し、日本全国で殺し合いが起きていた。
   ・   ・   ・   
 弥生人は、人数が少なく少数派であった。
 縄文人は、人数が多く多数派であった
   ・   ・   ・   
 弥生の大乱の中で、生まれて消えたのが邪馬台国である。
 弥生の大乱は、ヤマト王権が誕生する事で終息した。
   ・   ・   ・   
 日本列島と中国大陸・朝鮮半島の交流は少なかった。
 倭人朝鮮半島と活発に交流したのは、半島南部に住んでおいた同族の倭族と半島南西部の百済王国だけである。
 倭族も百済も、大陸民である唐と新羅によって滅ぼされ、半島から追放された。
 倭族や百済人は、難民として日本に逃げてきた。
   ・   ・   ・  
境界の日本史 (朝日選書)