🏹2〕─1─天皇・皇室と下層民との深く濃い絆。後白河法皇と遊女の『梁塵秘抄』。〜No.2No.3No.4 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本の最高神は、天皇家・皇室の祖先神である女性神天照大神伊勢神宮)である。
 天皇・皇室の正統性は、人為的な憲法や法律による正当性ではなく、女性神天照大神を起点とした男系一族の直系子孫だけである。
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 天皇・皇室を守ってきたのは、下級武士、貧しい庶民(百姓、町人)、卑しい芸能の民(歌舞伎役者、曲芸師、傀儡師など)、差別された賤民(非人、穢多、河原乞食など)、軽蔑された部落民(山の民・川の民・海の民)らであった。
 民草が歌う今様歌や踊る今様踊は、天照大神高天原神話に繋がり、『万葉集』に受け継がれ、天皇・皇室との絆を深めていた。
 民草は、一生に一度は「お伊勢参り」に出かけた。
 子供・丁稚だろうと、遊女・女中・下女だろうと、賤民・部落民だろうと、犬や牛や鶏までも、亭主や店主・雇い主など誰はばかる事なく、金がなくともお伊勢参り、御陰参り、抜け参りに出かけ、そして帰ってきても罰せられる事はなかった。
 庶民(百姓や町人)には、幕府・御上の約束事をきちんと守っていれば自由に近い旅ができた。
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 松平定信が、銭湯で男女混浴を禁止するまで、日本には混浴文化が当然の如く存在していた。
 キリスト教や中華儒教は、日本の風俗の乱れを最も嫌った。
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 神社の夜祭りは、知らない男女が神前で出会う祭りであり、男女が境内の奥の暗闇でフリーセックスを楽しむ神聖な祭りでもあった。
 日本は、中国や朝鮮に比べて性犯罪は少なかった。
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 2019年8月号 WiLL「性相夜話 第27夜 和歌と民謡と今様(5) 下川耿史
 『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』は、平安時代末期の1180年頃に、後白河法皇が当時流行していたさまざまな歌謡(これを『今様』という)集成・編さんしたものとされている。この作業には現役の白拍子({しらびょうし}遊女)が協力したという。それだけに農民や漁師・商人などのほか、山伏(やまぶし)、巫女(みこ)、博徒など幅広い庶民の歌が残されている。
 本来は20巻仕立てだったが、現存しているのは『歌詞集』の巻第一と巻第二、『口伝集』の巻第一と巻第10のみである。ただしその4巻に収録された歌だけで560首に達するから、散逸した部分には膨大な数の歌謡が記憶されていたことが想像される。
 どうして散逸したかという理由を詮索しても仕方がないかもしれないが、私は理由の一つとして意図的に廃棄されたということもあるのではないかと想像している。
 『梁塵秘抄』は、鎌倉時代中期に成立した『本朝書籍目録』に記載され、有名な『徒然草』などでも触れられていることから存在は早くから知られていたが、明治末期に歌人佐佐木信綱によって発見されるまで、実物を目にした人がほとんどいなかたという。編者の後白河法皇は30年以上も権力の座に君臨していたことでも知られている。歴代天皇の中でも傑出した人物の著書に一冊の写本もつくられなかったとすれば、その方が不自然ではないか。
 一方、『徒然草』はその存在に触れているのだから、著者の兼好法師が実物か、写本のどちらかを見たことは確かだろう。
 『梁塵秘抄』が成立したのは1180年頃、『徒然草』は1330年頃にできたと推測されているから、ざっと150年間は実物か、写本が流布されていたことになる。それが突如、消えてなくなるとはどういうことだろう?
 『意図的に廃棄されたのではないか』という私の印象はあくまでも素人の邪推だが、邪推の根拠はいくつかある。
 その第一は、古代から伝えられてきた宮中の儀式が平安時代になって整えられたことである。例えば、『歌垣(うたがき)』は奈良時代以前から日本社会の基本構造の一つとして機能してきたが、平安時代に『踏歌(とうか)』に改められた。歌垣は男女が歌の掛け合いに興(きょう)じながら性的な関係に至るもので、夜這いという風習とも深く関わっているが、踏歌に転じて以来、性的な雰囲気とは程遠い集団演舞となった。
 同様のことが神楽にも起こった。神楽は現代、『神の宿るところ』とか『招魂・鎮魂の場』などと説明されているが、その第一号の天の岩戸の前で天鈿女命(アマノウズメ)がストリップを演じ、まわりにいた人々が笑い興じたという故事に始まる。その事実を素直に受け止めれば『招魂・鎮魂の場』といった解釈が後付けの理屈であることは歴然である。女性のストリップに男たちが笑い興じたというのでは天皇家のエピソードとしてふさわしくないとして、それが学問的な定説として確定されるようになったのだろう。しかし『梁塵秘抄』には、朝廷の価値観にそぐわない下品な歌や話題があまりに多すぎたのだ。
 では当時は、どこまでが許容されたのか。
 神楽はその年の収穫を神に感謝する新嘗(にいなめ)祭でも演じられたが、その神楽歌の一つに 『梁塵秘抄』にも採られている『篠波(ささなみ)』という歌がある。以前にも紹介したが、もう一度取り上げる。
 『葦原田の 稲春蟹(いねつきがに)の や おのれさへ 嫁を得ずとて や 捧げては下ろし や 下ろして捧げ や 肱挙(かひあげ)をするや』
 稲刈りをしていた時、若い男から『セックスしようよ』と誘われた女性が、『あんたみたいな嫁の来てもないような男のくせによく言うと。あんたは(稲春蟹のように自分のペニスを)捧げ持っては下ろし、下ろしては捧げ持って(マスターベーションでもして)いなさい』と言い返されたという歌である。
 また、神楽歌の中に『早歌(そうか)』という歌がある。『本』と『末』という12通りの掛け合いから成っている歌だが、その9は次のような歌詞である。
 『ゆすり上げよ そそり上げよ
 そそり上げよ ゆする上げよ』
 国文学者の山路平四郎によると、これは男女の性的な関係を示しているのだという。とすれば、それに続く10の文句も同じ趣旨を表したものといえないだろうか。
 『谷から行かば 尾から行かむ
 尾から行かば 谷から行かむ』
 谷という言葉が女性器を表していることは、奈良時代の『常陸国風土記』から知られていたから、これも性的な関係の表現のように私には感じられる。
 これに対して、『消えた』もしくは『消された』と想像することが可能な歌が、催馬楽(さいばら)の中の『陰名(いんめい)』である。催馬楽とは民謡や戯れ歌のようなもので、やはり今様の一つとして流行したが、その中で女性器の隠語を連ねたのが『陰名』である。この歌が存在していたことは確認されているが、現存する『梁塵秘抄』には見当たらない。
 この意見が素人の極論であることは承知しているが、専門家には不可能な想像でも素人には許されるだろうと思って、私が言ってみる気になった」
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 ケネス・ルオフ『天皇と日本人』(朝日新書、2019年)
 「(平成の天皇皇后両陛下の5つの目標(アジェンダ)の2つめ)社会の弱者に配慮し、地理的なその他の要因により周辺でくらす人びとに手を差し伸べ、社会の周縁との距離を縮めるよう努力してきたこと」
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 平成29年2月21日 皇太子(令和の御代 今上陛下)の誕生日会見。
 問2 政府が設置した有識者会議で象徴天皇の在り方について議論が重ねられており,国民の関心も高まっています。次期皇位継承者である殿下ご自身は象徴天皇とはどのような存在で,その活動はどうあるべきとお考えでしょうか。殿下が即位されれば皇后となられる雅子さまの将来の務めについて,お二人でどのようなお話をされておられますか。
 皇太子殿下
 象徴天皇については,陛下が繰り返し述べられていますように,また,私自身もこれまで何度かお話ししたように,過去の天皇が歩んでこられた道と,そしてまた,天皇は日本国,そして日本国民統合の象徴であるという憲法の規定に思いを致して,国民と苦楽を共にしながら,国民の幸せを願い,象徴とはどうあるべきか,その望ましい在り方を求め続けるということが大切であると思います。
 陛下は,おことばの中で「天皇の務めとして,何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが,同時に事にあたっては,時として人々の傍らに立ち,その声に耳を傾け,思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました」と述べられました。私も,阪神淡路大震災東日本大震災が発生した折には,雅子と共に数度にわたり被災地を訪れ,被災された方々から直接,大切な人を失った悲しみや生活面での御苦労などについて伺いました。とても心の痛むことでしたが,少しでも被災された方々の痛みに思いを寄せることができたのであればと願っています。また,ふだんの公務などでも国民の皆さんとお話をする機会が折々にありますが,そうした機会を通じ,直接国民と接することの大切さを実感しております。
 このような考えは,都を離れることがかなわなかった過去の天皇も同様に強くお持ちでいらっしゃったようです。昨年の8月,私は,愛知県西尾市岩瀬文庫を訪れた折に,戦国時代の16世紀中頃のことですが,洪水など天候不順による飢饉きんや疫病の流行に心を痛められた後奈良天皇が,苦しむ人々のために,諸国の神社や寺に奉納するために自ら写経された宸翰しんかん般はん若にや心しん経ぎようのうちの一巻を拝見する機会に恵まれました。紺色の紙に金泥で書かれた後奈良天皇の般はん若にや心しん経ぎようは岩瀬文庫以外にも幾つか残っていますが,そのうちの一つの奥書には「私は民の父母として,徳を行き渡らせることができず,心を痛めている」旨の天皇の思いが記されておりました。災害や疫病の流行に対して,般若心経を写経して奉納された例は,平安時代に疫病の大流行があった折の嵯峨天皇を始め,鎌倉時代後嵯峨天皇伏見天皇南北朝時代北朝後光厳天皇室町時代後花園天皇後土御門天皇後柏原天皇,そして,今お話しした後奈良天皇などが挙げられます。私自身,こうした先人のなさりようを心にとどめ,国民を思い,国民のために祈るとともに,両陛下がまさになさっておられるように,国民に常に寄り添い,人々と共に喜び,共に悲しむ,ということを続けていきたいと思います。私が,この後奈良天皇の宸翰しんかんを拝見したのは,8月8日に天皇陛下のおことばを伺う前日でした。時代は異なりますが,図らずも,2日続けて,天皇陛下のお気持ちに触れることができたことに深い感慨を覚えます。
 私がここ10年ほど関わっている「水」問題については,水は人々の生活にとって不可欠なものであると同時に洪水などの災害をもたらすものです。このように,「水」を切り口として,国民生活の安定,発展,豊かさや防災などに考えを巡らせていくこともできると思います。私としては,今後とも,国民の幸せや,世界各地の人々の生活向上を願っていく上での,一つの軸として,「水」問題への取組を大切にしていければと思っております。  また,私のこうした思いについては,日頃から雅子とも話をしてきており,将来の務めについても話し合っていきたいと考えております。」
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 日本には、俗世の欲得・強慾に塗れた政治権力・宗教権威と俗世から切り離された天皇の菊の御威光の3つが存在していた。
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 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
 梁塵秘抄 りょうじんひしょう
 平安時代後期の歌謡集。後白河法皇撰。『本朝書籍目録』によるともと 20巻。現在伝わるのは「歌詞集」巻一の断簡と巻二,「口伝集」巻一の断簡と巻十のみ。治承3 (1179) 年までに成立か。一条天皇の頃から約 150年に及ぶ広義の今様 (いまよう) の歌詞とその伝承についての口伝を集めたもの。「歌詞集」の残っている中心の巻二は,法文歌 (ほうもんか) 220首,四句神歌 204首,二句神歌 122首,巻一は長歌 10首,古柳1首,今様 (狭義) 10首。法文歌は仏法僧の賛歌で,長句短句の組合せを4回繰返す形式が多い。四句神歌は大部分世俗の歌謡で,当時の民衆の生活を反映し,形式は不整形が多い。二句神歌も不整形で,2句ないし3句から成るものが多い。本書は現存するのがごく一部分にすぎないが,今様の主たる資料であるばかりでなく,当時の風俗,社会などを知るためにも貴重。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
 梁塵秘抄 りょうじんひしょう
 広義の今様(いまよう)歌謡の集成。もと10巻、現存本は巻1/巻2の2巻のみ。書名は「梁塵殆(ほと)んど動く可(べ)し」(『吾妻鏡(あづまかがみ)』文治(ぶんじ)2年4月8日条)のごとく、歌声がきわめて微妙なることの形容に基づく。『本朝書籍(しょじゃく)目録』(鎌倉末期の成立)に「梁塵秘抄。廿巻(にじっかん)。後白河(ごしらかわ)院勅撰(ちょくせん)」とあるのは、本書が本来『梁塵秘抄口伝(くでん)集』10巻と一括されたものであることを示すものと考えられる。巻1~巻9は嘉応(かおう)元年(1169)までに成った。本書の成立もほぼ同時代か。現存本巻1は抄出本(しょうしゅつぼん)と考えられ、長歌(ながうた)10首、古柳(こやなぎ)1首、今様10首の計21首。長歌は短歌体の謡い物、古柳は囃子詞(はやしことば)を伴う不整形式のものが多く、今様は狭義の今様歌謡(七五調または八五調四句)。巻2は法文歌(ほうもんうた)220首、四句神歌(しくのかみうた)204首、二句神歌121首の545首をそれぞれ収める。ほかに『夫木(ふぼく)和歌抄』が2首引用している。法文歌は仏・法・僧・雑の順、四句神歌は神分(じんぶん)・仏歌・経歌・僧歌・霊験所歌・雑歌の順で構成され、二句神歌は短歌体のもので、神社歌61首を含む。半数の謡い物は仏法をたたえたもので、法文歌中の法華経二十八品歌百十数首の群作は本書の白眉(はくび)、四句神歌中の雑86首は、四句の定型から外れた、庶民の哀歓をあからさまに訴える謡い物が多く、二句神歌のなかには生気あふれる民謡風の短章が少なくない。また、本書の旋律面にかかわった白拍子(しらびょうし)・くぐつ・遊女を詠み込んだものもある。
 本書は、久しく埋もれていたが、近代になってその転写本が発見された。ともに天理図書館蔵。『梁塵秘抄口伝集』(巻1の断簡と巻10のみ現存)からは、今様の唱法・伝承など、後白河法皇の今様に対する熱烈な傾倒が如実にうかがわれる。[徳江元正]
『志田延義校注『梁塵秘抄』(『日本古典文学大系73』所収・1965・岩波書店) ▽新間進一校注・訳『梁塵秘抄』(『日本古典文学全集25』所収・1976・小学館)』
[参照項目] | 歌謡
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