🗻18〕─1─日本は仙人が住む不老不死の仙薬がある三神山の一つ瀛洲(えいしゅう)であった。〜No.59No.60No.61 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本は、仏教と道教では聖地であるが、儒教では化外の土地であった。
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 中国の日本観は、焚書坑儒儒学を弾圧した秦の始皇帝から始まる。
 つまり、『魏志倭人伝』ではなく『史記』にある。
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 日本は、儒教価値観である中華思想、中華世界、中華文明、華夷秩序の外に置かれていながら、一定の敬意を持って遇されていた特殊な存在で、朝鮮や琉球など周辺諸国よりも上位に置かれていた。
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 日本が大陸・中国から侵略されなかったのは、流れの速い海流と簡単には渡れない距離の海があったあったからではなく、日本を侵してはならない霊力が日本列島にあったからである。
 つまり、海が日本を守ってきたという海国防論・海安全保障論は真っ赤な嘘である。
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 真の国防論は、他国から信頼される信用される愛される好かれる嫌われない憎まれない事ではなく、唯一触れてはならない冒してはならないという神聖不可侵の「畏れられる」という事である。
 つまり、日本国憲法には国防論はない。
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 道教を信じていた中華世界・中国人が日本を恐れたのは、武士・日本軍の軍事力・武威ではなく、仙人・天皇の霊力・菊の御威光であった。
 中国の侵略から日本を守ったのは、仙人の霊力、天皇の御威光であった。
 共産主義の平和主義や反天皇論などは、有害なだけである。
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 2019年9月号 WiLL「石平が観た日本の風景と日本の美
 中国人が憧れた、『仙人の住む三神山・日本』
 日本には昔から、徐福伝説というものがある。中国史上の秦の始皇帝の時代。徐福という人は始皇帝の命を受け、総勢3,000人の集団を率いて、不老不死の仙薬を求めて日本にやってきた、という話である。
 徐福らが上陸した場所とされる『徐福伝説の地』は、青森県の小泊(こどまり)村から鹿児島県の種子島に至るまで日本全国で三十数カ所もあるが、本当はどこかよく分からない。もちろん、徐福たちが本当に日本に上陸したかどかも定かではないから、徐福伝説はあくまでも伝説の域を脱していない。
 徐福伝説の由来はいうまでもなく中国前漢時代に書かれた歴史書の『史記』にある。厳格な史書である『史記』は当然、徐福渡航の話を『伝説』としてではなく、史実として書いている。
 『史記』・『秦皇帝本紀』は、この話しを次のように記している。
 『すでに、斉人徐市(福)ら上書し、海中に三神山ありと言う。名を蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛洲(えいしゅう)といい、仙人ここに居る。身を清めて童男女と共にこれを求めんことを請う。そこで、徐市(福)と童男女数千人を海に出し、仙人を求めさせた』
 つまり、方術(不老不死の術や医術・易占などのこと)の士である徐福は、海の中にある『蓬莱・方丈・瀛洲』という『三神山』の話を持ち出し、そこには仙人が住んでいて不老不死の仙薬があると吹聴したところ、秦の始皇帝はそれを信じて彼に出航を命じ、財政的支援も行ったワケである。最高権力者の秦の始皇帝が徐福を簡単に信じた背景には、当時の中国人は、東の海には憧れの『三神山』があるという共通したイメージを抱いていたからだ。
 この仙人の住む『三神山』はどこにあるのかとなると、どうやら当時の中国人が意識しているのは、まさに東シナ海の向こうにある日本列島のことである。
 実はその時代から近代に至るまで、中国の知識人が日本のことを指すときに好んで使うのは、まさに『三神山』や『瀛洲』などの代名詞である。そして現代でも、中国では『東瀛』といえば、日本のことを指す。
 つまり、秦の始皇帝の時代から近代に至るまで、中国人はずっと、日本列島のことを『仙人の住む三神山』だと思っていたようだが、歴史上の中国人が抱くこのような日本イメージ、あるいは日本認識は、実は興味深いものである。
 というのも、古代から近代に至るまでの長きにわたって『中華思想』によって支配されている中国人、特に中国の知識人が、中国周辺の世界を未開化の野蛮の地だと思って上から目線で蔑(さげす)むのは普通のことだったからだ。
 例えば昔の中国人は、北部に住む諸民族を『北狄(ほくてき)』、南方に住む諸民族を『南蛮』と呼ぶが、『北狄』の『狄』には獣偏がついており、『南蛮』の『蛮』の下の部分は『虫』となっている。彼らの目には、周辺の諸民族や国々はしょせん、獣や虫と同様のものに映っているのである。
 しかし、その中で唯一、日本に対する中国人のイメージや認識は断然、異なっている。中国人は昔から、日本人のことを『倭人』と蔑称しているものの、『倭人』の『倭』は少なくとも獣偏ではなく、人偏がついている。
 そして前述のように、中国人は秦の始皇帝の時代から日本列島のことを、むしろ『仙人の住む三神山』として憧れており、拝むような態度をとっているのである。
 つまり、唯一日本に対して、中華思想中毒の中国人ですら、あまり蔑むことができないし、文明的優越性を感じることもできない。と言うのも、『仙人の住む三神山』というのは、そもそも地上の文明である中華文明を超えたところの、一段上の世界だからである。 
 中国人が抱く、このような特別な日本観はどこから生まれたのか。おそらく、古代から日本列島の文明度の高さや自然環境の良さなどが中国大陸に伝わってきて、こうした『仙人の住む三神山』のイメージを生んだのではないかと思われる。
 つまり、古代から日本はずっと、ずば抜けた素晴らしい国であるからこそ、中国人が日本を三神山だと憧れていた。そして、かつての渡来人や渡来僧がそうしたように、多くの中国人はこの日本という理想の地に住み着いた。
 私自身、ある意味では、まさにこのような中国の先人たちの後を継いだ一人であるが、思えば今や、この『三神山』の日本で充実した日々を送って子供を育てることができるのは、まさにわが人生の最大の幸いである」
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 儒学は、日本は文化ない未開の土地であり、日本人は徳・道徳のない野蛮人と見下し軽蔑し馬鹿にしていた。
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 道教は、日本を朝鮮や琉球より一段上と見做して敬意を払っていた。
 道教では、東の海の彼方にある日本は文明・文化・道徳なき未開の絶海の孤島ではなく、仙人が住み不老不死の仙薬がある瀛洲(えいしゅう)の霊島と見なされていた。
 日本民族日本人は、霊島・瀛洲に住む仙人に近い人々とされた。
 蓬莱は、台湾とされた。
 方丈は、どこか分からない。
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 中国の、名僧・高僧は日本に渡ったが、道教の道士は日本に渡らず霊山に籠もった、儒学者は日本には行かなかった。
 日本は、仏教国であって儒教国ではなかった。
 何故、名僧・高僧が命の危険を冒してまで海を越え日本に渡ってきたのか、聖徳太子・鑑真和上・恵果の後継者空海による仏教国であると共に、日本が不老不死伝説のある瀛洲だからでる。
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 中国人は、表では儒教であったが、裏では仏教と道教であった。
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 モンゴル族の元や満州族の清は、仏教を国教・儒教国学としたが道教は弾圧し、日本=瀛洲という認識がない為に日本を侵略した。
 明の永楽帝は、周辺諸国・諸地域への侵略戦争を繰り返し、大艦隊を東南アジアからインド洋まで派遣したが、日本には手を出さなかった。
 つまり、永楽帝は日本を侵略する軍事力があったのに日本を攻撃しなかったのは、蒙古軍を独力で撃退した軍事力を恐れたからではなく、「仙人が住む犯してはならない霊山・瀛洲の霊島である」という畏れからである。
 朝鮮は、儒教を国教とし、仏教と道教を弾圧した為に、何度も日本を侵略して虐殺を繰り返していた。
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 何故、唐軍が白村江の戦いで大勝した勢いで日本を侵略しなかったのか、その理由もここにある。
 そして、朝鮮に対して内政干渉を繰り返したが、日本には干渉しなかったのも、その為である。
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 中華皇帝が、日本天皇を同等の存在として認めたのは、天皇が執り行う祭祀が「仙人の住む瀛洲」での祭祀であるからである。
 つまり、中華皇帝の権威が天帝から徳を根拠に与えられた地上の偽りであるに対してだが、日本天皇の権威は天上と地上の間に広がる神秘で血筋・血統を正統として存在する真である、と言う事である。
 中華皇帝は暴力の「偽り」であるのに対し日本天皇は非暴力の「真」であった。
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 中国共産党が支配する現代中国には、伝統的歴史的な日本を聖地・霊場のある霊島とする思いは存在しない。
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 ウィキペディア
 瀛州(えいしゅう)は、
 1、古代中国において、仙人の住むという東方の三神山(蓬莱・方丈)の一つ。瀛洲とも。
 2、転じて、日本を指す[2]。「東瀛(とうえい)」ともいう。日本の雅称である。
 3、魏晋南北朝時代の487年から隋の時代にかけての、行政区分のひとつ(後述)。
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 東瀛(とうえい)とは、古代中国において、仙人の住むという東方の三神山(蓬莱・方丈)の一つを意味し、転じて日本を指す雅称。または中国大陸から見て東方の大海(東海)。現在でも漢民族は日本のことを東瀛とも言う。
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 蓬莱(ほうらい)とは、古代中国で東の海上(海中)にある仙人が住むといわれていた仙境の1つ。道教の流れを汲む神仙思想のなかで説かれるものである。
 『山海経』における記述
 中国最古の地理書「山海経」の「海内北経」に、「蓬莱山は海中にあり、大人の市は海中にあり」と記されている。「市」とは蜃気楼のことで、実際、山東省の蓬莱市(旧蓬莱県)は、蜃気楼の名所で古来より有名である。
 五神山の一山として
 仙人が住むといわれていた五神山の一つ。五神山には蓬莱の他に、「方丈」(ほうじょう)・「瀛州」(えいしゅう)・「岱輿」(たいよ)・「員嶠」(いんきょう)があり、そのうちの「岱輿」及び「員嶠」は流れて消えてしまったとされている。
 東方三神山の一山として
 また蓬莱は、方丈・瀛州とともに東方の三神山の1つであり、渤海湾に面した山東半島のはるか東方の海(渤海とも言われる)にあり、不老不死の仙人が住むと伝えられている。徐福伝説を記した司馬遷史記』巻百十八『淮南衡山列伝』で記されている。
 なお、他の二山の、「方丈」とは神仙が住む東方絶海の中央にあるとされる島で、「方壷(ほうこ)」とも呼ばれる。
 瀛州はのちに日本を指す名前となった。「東瀛(とうえい)」ともいう。魏晋南北朝時代の487年、「瀛州」は、行政区分として制定される。
 または台湾を指すとされる。台湾は、蓬莱仙島と中国語で呼ばれる自称がある。
 日本における蓬莱
 日本では浦島伝説の一つ『丹後国風土記逸文では「蓬山」と書いて「とこよのくに」と読み、文脈にも神仙などの用語が出てくること、田道間守の話や他の常世国伝承にも不老不死など神仙思想の影響が窺えることから理想郷の伝承として海神宮などと習合したとも思われる。
 平安時代に、僧侶の寛輔が、「蓬莱山」とは富士山を指すと述べた。
 『竹取物語』にも、「東の海に蓬莱という山あるなり」と記される。ほか、「蓬莱の玉の枝」が登場するが富士山の縁起を語るところではやはり不老不死の語が出ており神仙思想との繋がりが窺える。
 ほか、熊野、熱田などの霊山や仙境を蓬莱と呼ぶ[7]。
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 方丈(ほうじょう)は、
 古代中国において、仙人が住む島とされた東方三神山(蓬莱・瀛州)の一つで、神仙が住む東方絶海の中央にあるとされる。方壷(ほうこ)とも呼ばれる。
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