👪17〕─1─ポジティブ心理学。~No.91No.92 * 

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 人智・人力では乗り切る事ができない自然の脅威。
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 人の性格や寿命などを決めるのは、遺伝が25%で環境が75%である。
 人が人らしく生きるには、食事と運動と感情が重要である。
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 2016年2月号 Voice 「健康は生成する第11回 斉藤環
 『幸福の科学』とフロー体験
 『ポジティブ心理学』とは何か
 ……『意味と目的』『関係性と利他性』『平凡性と反快楽』『過程性』『いまここ・あるがままの肯定』『抹消性』の6項目であった。これ自体、それなりに納得のいく原則ばかりではあるが、しかし実証的な根拠という点からは十分とはいえない。
 幸福については、統計などの量的側面にも考慮した実証研究の分野として『ポジティブ心理学』という学問領域が存在する。これは言葉の正しい意味における『幸福の科学』であり、個人や社会の強みや長所を研究するための学問である。字面からはどうしても自己啓発系のにおいを感じるし、そういった要素が皆無というわけでもないのだが、少なくともさまざまな幸福の心理・社会的条件について、実証的に明らかにしてきたという実績はある。
 まずは、こうした実証研究が証(しょう)してきたに『幸福の条件』ついて見てみよう。いずれも統計的な裏付けがあるものばかりだ。もちろん研究によっては結論が分かれるものもあるが、おおむね合意がえられたものばかりである(イローナ・ボニウェル『ポジティブ心理学が一冊でわかる本』)。
 ……
 しかしポジティブ心理学では、さらに複雑精緻な『幸福の科学』理論を打ち立てようとしている。
 現代的なポジティブ心理学を作り上げたのは心理学者のマーティン・セリグマンだ。彼は1998年、アメリカ心理学会の会長に選出された際、ポジティブ心理学を創設した。セリグマンがこの学問にとって最大の貢献者であることは間違いない。
 多少なりとも心理学や精神医学を知る読者なら、『セリグマン』の名前に聞き覚えがあるだろう。そう、かつて彼の名は『学習性無力感』の研究者として広く知られていた。これはセリグマンが1960年代に提唱した理論である。
 抵抗や回避の困難なストレスを与えられた犬は、最初は逃げようとするものの、次第にその状況から『何をしても意味がない』ということを学習し、逃れようとする努力もしなくなる。これを学習性無力感と呼ぶ。その後セリグマンは人間に対しても同様の研究を行ない、うつ病家庭内暴力の被害者、学校のいじめ、職場でのモラルハラスメントなどが、こうした無力感をもたらしやすい。時には第三者がコントロール不可能な状況に陥っているを観察することによって、無力感を学習することもあるという。私自身は大学院生時代に、ひきこもり状態に伴う無気力のメカニズムとして、この学習性無力感が使えないか検討したことがある。もっとも、ひきこもり自体は無気力とはやや異なる状態なので、部分的にしか該当しないというのが当時の結論だった。
 セリグマンは1990年代以降、楽観主義について発言する機会が増えた。ほとんど180度の方針転換のようにも見えるが、セリグマンによれば学習性無力感と楽観主義は表裏一体の関係にあるらしい。人間心理のマイナス面は十分に極めたので、プラス面に転じた、ということなのだろうか。
 いずれにせよセリグマンは、心理学が問題や病気に注目しすぎている傾向にうんざりしていた。心理学は、むしろ幸福になるための方法を研究すべきだと考えたのだ。これはこの連載の冒頭でも紹介した、SOCをはじめとする『健康生成』の考えか方にきわめて近い。セリグマン自身はいわゆる『人間性心理学』の流れを汲んでおり、エイブラハム・マズロー(『ポジティブ心理学』の言葉を最初に用いた)やカール・ロジャース、エリッヒ・フロムらの考えを科学的に実証しようとしたのである。
 幸福からウェルビーイング
 セリグマンの著書(『ポジティブ心理学の挑戦』ディスカヴァー・トゥエンティワン)によれば、セリグマン自身も近年その理論的な枠組みを変化させてきたことがわかる。かれはもともと幸福についての理論を研究していた。その時点では、幸福は3つの要素に分かれていた。すなわち『ポジティブ感情』『エンゲージメント』『意味・意義』である。いずれもたんなる幸福感以上に正確に定義し測定することが可能である。
 しかし、そこには問題もあった。とりわけ重視されていた『人生の満足度』が、じつはその場限りの感情に左右されやすい、判断基準としては価値が低いことがわかったのだ。いわゆる自己啓発系のポジティブ万能主義は、この意味での満足度を一時的に上昇させることは可能なのだが、問題はそれが一元的で持続性に欠けていることだった。
 セリグマンは『幸福理論』のこうした問題に気付き、ポジティブ心理学のテーマをたんなる『幸福度』から、『ウェルビーイング』であると考えるようになった。これは『持続的幸福度』という形で判断することができる。ウェルビーイングはそれ自体は実態をもたない構造概念であり、測定可能な5つの要素から成り立っている。5つの要素は頭文字を取って『PBRMA』とまとめられている。
 それぞれについて簡単に説明しておこう。
 P=Positive Emotion(ポジティブ感情):これは、幸福や喜び、感情といった肯定的な主観的感情を意味する。
 E=Engagement(エンゲージメント):何らかの行動や作業に夢中で没頭している状態で、いわゆる『フロー体験』を指す。これについては後述する。
 R=Relationship(関係性):他者との関係性なしには幸福感は持続できない。少なくともポジティブ心理学ではそのように考える。
 M=Meaniug(意味、意義):自分よりも大きいと信じる存在に属して仕えること。
 A=Achievement(達成):何かを成し遂げることだが、ここでは『達成のための達成』が含まれており、必ずしも社会的成功に結び付けられる必要はない。
 PERMAのそれぞれの要素は、前回抽出された6つの要素と、かなりの部分が重なり合っている。これらの要素は、セリグマンの表現を用いるならば、『そのものの良さのために』追求される傾向がある。別の言い方をするならば、どの要素もほかの要素をえるための『手段』というより、その要素自体が自己目的化する傾向がある、ということになる。
 ここで再度、『幸福理論』と『ウェルビーイング理論』を比較してみよう。
 ウェルビーイング理論の5つの構成要素には、主観的側面と客観的側面の両面が存在する。主観的側面に比重のかかった幸福理論とはここが異なる。前回検討したように、幸福感そのものはきわめて主観的に決定づけられる。しかし、持続可能性という点を重視するなら、客観的側面、言い換えるなら実現的な基盤を無視するわけにはいかない。この意味で一元的な幸福理論に対し、ウェルビーイング理論は多元的であるといいうるのだ。セリグマンは『人生の選択は、これら5つの要素(PERMAのこと)すべてを最大化することで決まる』と述べている。
 この多元性がきわめて重要な意味をもつのは、ここにこそ倫理性の要素が含まれる可能性があるからだ。
 この連載で折に触れ指摘してきたように、個人的な健康度や幸福度の追求は、しばしば他者を排除し、時に社会にとって有害なものとなりうる(〝健康な独裁者〟の例)。セリグマンによるウェルビーイング理論の優れたところは、幸福度に客観的指摘を導入することで、そこに他者への配慮が含まれるように設定を変更したところだ。
 セリグマンが指摘するように、人類の目的が個人の幸福を最大化することであったならば、人類はとうに滅亡していただろう。たとえばウェルビーイングに意味と関係性が含まれることで、『子育て』や『親の介護』が(つねにではないにしても)時に幸福度を上げることが説明可能となる。倫理性という点に関連していえば、ウェルビーイングを支える要素の客観性こそが、多様性の倫理を担保してくれている点も重要である。どういうことだろうか。セリグマンも例示するように、もし人生の目的が主観的な幸福度の一元的な追求であったとしれば、幸福度を高めるような精神作用物質を合成してそれを全人類が服用することで人類の究極目標が達成できることになる。そう、ちょうどオルダス・ハクスリーの小説『すばらしい新世界』において、全体主義的な政府が『ソーマ』と呼ばれれる薬品で人びとの幸福を増進させようとしたように。
 しかし人類の目的、ないし公共政策の目標を『ウェルビーイング』に設定すれば、主観的のみならず客観的な指標のもとで、多様で持続的な幸福の追求が可能となるだろう。また、ウェルビーイングの達成度に基づいて、各国の政策を比較検討することも容易になる。
 セリグマンはPERMAの根底にあるのが『強み(徳性)』と想定し、促進力としては『レジリエンス』に注目する。これについては次回解説するとして、今回は『エンゲージメント』についてややくわしく解説を試みたい。前回述べた6項目のなかでは、『過程性』と部分的には『いまここ・あるがままの肯定』に関連する要素だが、もう少し独立した内容に含んでいるためだ。
 『フロー体験』とは何か
 エンゲージメントは『フロー体験』を指している。フロー体験とは、目前の行動や作業に完全に没頭し、精力的に集中している状態を指す言葉で、アメリカの心理学者、ミハイ・チクセントミハイによって90年代に提唱された(『フロー体験 喜びの現象学世界思想社)。同じ状態をZOMEとかピークエクスペリエンスと呼ぶこともある。
 こうした経験は、スポーツ選手やロッククライマー、外科医や作曲家、俳優や歌手などがしばしば経験するとされている。もちろんこれに限らず、多くのプロフェッショナルが同様の体験をしているであろうことは想像に難くない。またチクセントミハイ、フロー体験の講義スライドに井深大による『ソニーの設立趣意書』の第一条『真面目なる技術者の技能を、最高度に発揮せしむべき自由闊達にして愉快する理想工場の建設』をしばしば引用する。『自由闊達にして愉快なる』の箇所こそは『フローに入るコツ』であるからだ。
 このほかにもいくるか、彼が述べている例を見てみよう(『TED』講演録より)。
 70年代にアメリカで活躍した著名な作曲家の例。作曲がうまくいっているとき、彼は『忘我の状態』に至るという。作曲家は、楽譜を書き込むための紙がありさえすれば、それまで存在したことのない音の組み合わせを想像できる。そのとき彼は、別の現実に入り込んでいる。それは非常に強烈な経験で、あたかも自分は存在しないかのように感じるという。体の感覚や家庭での問題を気にする注意力は残っていないので、空腹や疲れも感じない。彼は、まるで自分の手が勝手に動いているようだという。
 ここで僭越ながら私自身の経験を述べさせてもらうなら、私がときおり『フロー』に入る状況が2種類ある。1つは診察中、つまり患者と面接している場合である。患者の心情が手に取るようにわかり、こちらのいいたいことが的確に伝わる感覚である。何よりも特徴的なのは、患者のどんな問いかけに対しても、ぴったりの(と私自身には感じられる)言葉がどこからともなく自然に浮かんでくるのだ。この瞬間、心理学や精神医学の知識や理論などはいっさい意識に浮かんでこない。
 もう1つの場面は執筆作業である。原稿を書いていてZONEに入ると、脳内で活性化されて『自由な混沌』状態となる。さらに原稿の核となるアイディアがどこからともなく『降りて』くる。ここから一気呵成である。お筆先とまではいわないが、自分が書いているというよりもアイディアが勝手に文章化されていくような感覚に陥るほどだ。残念なのは、そういう『ゾーン』はそうそう滅多に訪れないということで、意図的にやろうとしてもなかなかうまくいかないことが多い。
 『フロー』の条件
 チクセントミハイはこうした体験の事例を数多く蒐集し、そこにいくつかの共通する項目があることに気付いた。
 ……
 『フロー』の問題点
 フロー体験で興味深いのは、どんな行動がフローに結び付くかについて、文化的な違いが大きいという点だ。
 ほとんどの文化圏において、家事やテレビの視聴はフローにつながらない。しかしロマの人びとは、子育てでしばしばフローを体験するという。また伝統的、あるいは前近代的な生活を送る人びとは、家事にフローを感じるが、先進諸国ではそれはまれである。レジャーはフロー体験をもたらしやすいが、イランではそれは起こりにくい。このあたりは宗教的な儀式や儀礼などにも該当しそうなところではある。
 私にとって位置付けが難しいのはネットの視聴だ。動画サイトなるものが紹介されたばかりのころ、ご多分に漏れず私も熱中してしまい、気が付いたら休日のほとんどをPCの前で過ごしていたことがある。時間の感覚は歪んでいたようだが、これはフローだったのか。しかし動画サイト視聴はこちらがコントロールする余地はほとんどないし、そこに高い価値を見出しているわけでもない。もちろん視聴を終えたあとの空虚感もハンパない。自分を高めるどころか幸福度を下げるという意味では、フローの名に値しない。
 チクセントミハイもフローの問題については指摘している。ギャンブルがそれに近い感覚をもたらすことはありうるとしても、それは依存症と紙一重だ。そうなると視野狭窄に陥ってしまい、適切なコントロールも利かなくなる。ギャンブルに限った話ではない。家庭を顧みない仕事中毒ちった問題もある。
 ただ私個人は、フロー体験と依存症はやはり区別すべきではないかと考えている。依存症や中毒は、はまっている本にはそこ行為に『価値』や『目的』を見出していないし、コントロールもできていない。また、はまることの帰結を考えないのは、問題の否定にすぎない。何よりもそうした体験は、直接には空虚感と後悔を、また長期的には不幸をもたらす。
 その意味では私はフロー体験にも倫理的側面はあると考えているのだが、これを含めた幸福と倫理の関係について……」
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 自然災害多発地帯日本列島は、究極のキラーストレス充満社会であった。
 日本文化は、精神論とは無縁・無関係ではない。
 自然災害多発地帯を生きる為めに、コーピングとマインド・フルネスで意識改革をもたらしていた。
 日本文化とは、静かに行う意識改革であった。


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