☰55〕─1─日露戦争の勝利は日英同盟締結と大韓帝国の国際的地位確定でった。〜No.158No.159No.160 

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   ・   ・  {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博} ・  
 現代日本歴史教育は、現代の反戦平和、人道・人権、人命重視という常識から日露戦争はすべきでなかったと子供たちに教えている。
 一部の教養ある日本人は、戦争は日本人が仕掛けたのであり、ロシアは戦争を避けようとしていた、と教えている。
 事実、日本軍は宣戦布告する前からロシア軍の機先を制する形で軍事行動を行っていた。
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 日英同盟の大前提は、日本が大韓帝国を完全に制御する事であった。
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 日露戦争は、戦闘の勝利以上に外交の大勝利であった。
 日本の外交力は、現代日本の外交とは違って世界トップレベルであった。
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 北から侵略してくるロシアは、江戸時代後期からの日本の脅威であった。
 明治維新は、ロシアの侵略から母国日本を守る為には戦争か外交かという防衛論争で始まった。
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 日露戦争で日本軍が戦った敵は、前面のロシア軍だけではなく、後方では親露反日朝鮮人が暗躍し、側面では反日派敵日派清国(中国)が隙をうかがっていた。
 日本国内には、中国人や朝鮮人達が住み着き始めていた。
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 高宗は、日露戦争勃発するやロシア皇帝に密使を送ってロシアへの協力を約束した。
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 2019年10月11日号 週刊ポスト「逆説の日本史 井沢元彦
 近現代編 第7話 日露戦争への道
 ロシア帝国の横暴と満州 その8
 『栄光ある孤立』を捨て日本と対等のパートナーとして選んだ大英帝国
 ……
 そこでイギリスが、アジアにおけるパートナーとして注目したのが日本だった。明治維新のころはまったく列強に対抗できなかった軍事力も、日清戦争で清国を圧倒できるほどの成長を遂げたし、なによりも義和団事件で日本軍はロシアとは違う信義を各国に示してのも大きかった。つまり『日本は信頼できる』ということだ。
 ……
 伊藤が外遊を楽しんでいるあいだに、桂、小村はイギリス公使の林董(はやしただす)と緊密な連絡をとって日英同盟の交渉を進めていた。ひょっとしたら、なぜ日本側の代表は『公使』であって『大使』では無いのか、と思われる向きがあるかもしれないで説明しておこう。じつは日本は、イギリスにもアメリカにも『大使』を置けない。幕末以来の課題である不平等条約によってそれが認められていないのだ。つまり、欧米列強にくらべて一段『格下』ということである。外交官であった小村寿太郎がそのことを無念に思っていたことは容易に想像ができる。
 ……日本が乗り気になるように有利な条件で、日英同盟を結ぶことがイギリスにとって最大の利益になることになる。皮肉なことに伊藤の行動は日英同盟を促進させる結果となった。結果的に交渉は半年近くにおよんだが、1902年(明治35)1月30日、ロンドンにおいてイギリスのヘンリー・ペティ・フィッツモーリス(第5代ランズダウン侯爵)外相と日本の林董公使との間に同盟条約が調印された。まず冒頭に『日本とイギリスはひとえに極東における現状および平和の維持を希望し、清帝国、韓帝国の独立と領土保全を維持すること。両国において各国の機会均等を保全する』という趣旨の前文があり、全部で6条の条文がそれに続いている。第6条は、とりあえずこの協定は5年間有効である、という期間を定めたもので、第1条から第5条はわかりやすく述べれば次のような内容になっている。

 第1条
 日本は清帝国および韓帝国に有する、イギリスは清帝国に有する権益が、他国の侵略的行動および内乱によって『侵迫』された場合は、日英両国はそれを擁護するため必要欠くべからざる措置(軍事行動)をとる。
 第2条
 もし日本あるいはイギリスが第1条にある権益を守るため他国と戦争におよんだときは、もう一方の国は厳正中立を守り合わせて他国がこの戦争に加わることを防止するように全力を注ぐ。
 第3条
 もし日本があるいはイギリスがこの目的で複数の国と交戦する場合は、もう一方の国は戦闘に参加する。
 第4条
 日本およびイギリスは、いずれも協議をせずに第1条にいう利権を害する協定を他国と結んではならない。
 第5条
 日本およびイギリスは、第1条にいう利権が侵され危険を感じたときは直ちにもう一方の国に通告しなければならない。

 文中、韓帝国とあるのは朝鮮国が日本の強い影響を受け、ついに1000年以上続いた中国の冊封(さくほう)体制から脱却し、国号を大韓帝国に改め朝鮮国王高宗が皇帝に即位したからである。もはや中国皇帝の家臣である朝鮮国王ではないぞ、ということだ。そして、それまで中国に遠慮して立てていなかった独自の元号も定めるようになった。もちろんこれも日本を見習ったものだ。『国王』と名乗っている間はそういうことはできない。つまり東アジアにおいて国家元首が『皇』の字を用いることは、中国からの独立を意味する。だから日本もこの時代、髙宗のことをきちんと皇帝と呼んで尊重した。また正式の場所では彼らの国のことを大韓帝国と呼んだ。ところが現代の韓国は、いまだに天皇のことを『日王』と呼ぶ。中華人民共和国ですら天皇と呼ぶのに、じつに失礼な態度である。なにがなんでも韓国を擁護する日本の一部のマスコミ、文化人、大学教授はこのことをどう考えるのか、是非見解を表明していただきたい。
 日英同盟前文にアメリカへの『配慮』
 さて話を日英同盟に戻そう。この日英同盟には公表されなかった密約もついていた。それは海軍同士の連携を定めたものだったが、その後日本とイギリス双方の海軍担当者が協議した結果、イギリス艦隊がアジアにおいて日本艦隊を支援するという形はとらないことが決まった。つまり、日本海軍はイギリスと同盟は結んだとは言え、独力でロシア艦隊を相手にしなければならなくなったのである。
 そもそも条文をもう一度読んでいただければわかるが、この同盟は日本がロシアに宣戦布告したところで、直ちにイギリスが参戦してくれるわけではない。ただフランスやドイツがロシアとともに日本と戦うという形にならないように、外交によるけん制など最大限の努力をする、というだけだ。もちろん、それでもフランスやドイツが参戦するならイギリスが相手になるということだから、この両国に対する『抑止力』にはなるし『三国干渉』の防止にもなるが、結局日本は単独でロシアと戦わなければならないのである。
 ……アメリカは南北戦争という内戦があったこともあり、中国への進出が遅かった。気がついたときはヨーロッパ列強が中国を『分割』していた。それに対して1899年(明治32)、アメリカは国務長官ジョン・ヘイが『清国における通商権などを平等とし、各国が機会均等で活動できるべきだ』という、『門戸開放(機会均等)宣言』を出した。早い話が『オレも仲間に入れてくれ』ということであった。このころ、アメリカは日本に少なからず好意を抱いており、半世紀後に双方が憎しみ合って戦う(太平洋戦争)ことなどまったく考えられない状況だった。だからこそ日英同盟の前文は、このアメリカの『門戸開放』に配慮した内容になっているのである。
 ……
 すでに述べたように、『20世紀になる怱々(そうそう)』に皇孫殿下(裕仁親王。のちの昭和天皇)の誕生もあった日本である。本当に『新しい世紀がきた』という感慨を多くの国民が抱いたということだ。しかし『アムール川の流血』という『暗雲』もある。これは一刻も早く取り除かなければいけない。なぜなら、シベリア鉄道が西から東につながってしあえばロシア帝国は大変な脅威になるからだ。では、日本は日英同盟締結に成功したことによって一気にロシアとの戦争の道に進んだのかと言うば、じつはそうではなかった。
 当時の日本人の考え方を一言で言えば、『イギリスが日本の味方についた。これでロシアもこれまでのような横暴な振る舞いはできまい』ということだった。つまり、『戦争の危険は回避された』というのが、意外なことに多くの国民の実感であった。一刻も早くロシアを叩くべきだという元老山県有朋、首相桂太郎、外相小村寿太郎の思いとはまるで反対の方向に世論は向かっていた。
 要するに、ロシア帝国が本来の清国の領土である満州を完全に支配してしまうこと、これが日本にとって最大の『暗雲』であった。そうなれば次は朝鮮いや大韓帝国、そして日本がロシアのえじきになる可能性が高まるからである。ところが、この日英同盟締結の2か月後、ロシアと清国は新しい条約を結んだ。なんと、それは『ロシアは段階的に満州から撤兵する』という内容のものであった。そうなれば日本の『暗雲』は血なまぐさい戦争におよばなくても打ち払われることになる。日本国民は『これも日英同盟のおかげだ。日本の外交的勝利』だと狂喜乱舞した。ところが──。」
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 明治30(1897)年
 8月 朝鮮は、中国からの独立に伴い年号を中華皇帝所縁の建陽から朝鮮独自の光武に改元した。
 10月 中華皇帝から従属国として賜った、国号を対等であると宣言するべく大韓帝国に改称した。
 そして、中華皇帝の僕として下賜された国王位を破棄し、中華皇帝と同等であるとして高宗は皇帝に即位した。
 大韓帝国と大韓皇帝は、歴史上初めて中華帝国・中華皇帝と同列・対等の立場に立つ事ができた。
 明治32(1899)年
 6月 大韓帝国は、日本に倣って大韓国国制を制定し、8月に発布し近代国家となった。
 が、清国(中国)はもちろん欧米列強は、表面的には大韓帝国を承認したが、1000年属国で生きてきた朝鮮を近代化した普通の国とは認めていなかった。
 つまり、独立戦争や武力抵抗闘争などの犠牲を出して自力で勝ち取った自主独立ではなく、日本の犠牲の上で何とか自主独立を得た半人前の未熟国と見下していた。
 信用されていない大韓帝国が国際社会で認められたのは、日本帝国が「一人前の国家である」と保証を与えたからである。
 だが、大韓帝国は、ロシアの軍事力で日本を国内から追放し、日本の侵略を食い止める為にロシア軍の駐留を認めた。
 朝鮮は、日本と戦争できる大国の軍隊に基地や軍港を提供して自国内に引き入れようと画策していた。
 大日本帝国軍に倣って大韓帝国軍を編制し、志願制を採用して兵力は約9,000人であった。
 明治35(1902)年1月30日 第1次日英同盟成立。 
 9月 大韓帝国軍は6個連隊2万人程度に増兵した。
 明治37(1904)年1月21日 日韓議定書。
 9月 高宗は、日露戦争勃発するやロシア皇帝に密使を送ってロシアへの協力を約束した。
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 如何なる国際法によって締結した正式な条約・協定・合意も破られる為に存在する以上、私的公的な口約束や密約などが守られるという保証はない。
 それは、ナチス・ドイツソ連中国共産党、そして韓国を見れば、一目瞭然である。
 それが理解できない日本人は、馬鹿であり、愚かであり、外交オンチ・外交下手という誹りは当たっている。
 歴史的事実として、国際法による法秩序は幻想である。
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 国際法による法秩序は存在し正しく機能すると信じていたのは、昭和天皇であった。
 昭和天皇は、「独ソ開戦を好機として日ソ中立条約を破棄してソ連を攻撃すべき」という松岡洋右の発言は国際信義に背く行為であるとして避け、利益の為には信用・信頼を踏みにじろうとする松岡洋右を信用しなくなった。
 歴史の事実として、性悪説的な松岡洋右は正しく、性善説的な昭和天皇は間違っていた。
 だが、信義・信頼・信用の為に命を捨てるのが日本民族日本人の生き方でった。
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 日本とロシアが戦争すれば「ロシアの大勝利・日本の大惨敗」というのが、軍人・軍事史家・軍事専門家らの一致した見解であった。
 日本の勝利は100分1どころか1,000分の1であり、事実日本軍や日本艦隊は短期的な戦闘で勝利したが長期的には戦争では勝ってはいなかった。
 それ故に、朝鮮は安心して中立の立場から、日本が夥しい死傷者を出しながら苦戦する姿を高みから見物し、日本が敗北する事を確信して乱痴気の宴会を繰り広げていた。
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 朝鮮の「恨」と「怨」とは、表向きには日本と日本人への憎悪・嫌悪を爆発させているが、本当のところは、偉大であったはずの祖先が、日本の侵出に対して戦争を仕掛けて撃退し勝利しなかった事への「癒やされる」事のない傷付けられた自尊心である。
 故に、韓国・北朝鮮反日敵日がなくなり、日本との友好・善隣は絶対にあり得ない。
 そして、幾ら謝罪し賠償金を払い続けても、韓国・北朝鮮が許す事などありえない。
 その事が理解できない日本人が現代には余りにも多いし、そうした理解力のない日本人は高学歴出身知的エリートに多い。
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 もし、日露戦争大韓帝国がロシアに味方して日本軍を背後から攻めれば、日本軍はロシア軍に大敗北した。
 イギリスが「日英同盟に従って日本軍に味方して援軍を送ったか」といえば、それはあり得なかった。
 もし、イギリスが援軍を送れば、ロシアに協力的なフランスやドイツは黙ってはいなかったし、心情的にロシア寄りのアメリカも漁夫の利を得る為にロシアを支援したであろう。
 大韓帝国が裏切れば日本軍は大敗北し、日本は欧米列国によって解体され地球上から消滅した。
 欧米列強の領地もしくは植民地となった日本人は、「御上ご尤も」の卑しさから、独立の為の反乱や闘争もする事なく、白人領主に従順な下僕・僕・奴隷として平伏して従った、であろう事は歴史から想像が付く。
 福沢諭吉が「独立心」を説いたのは、日本人の精神・心に「御上」の申される事ご無理ご尤もと従う卑屈な根性があるからであった。
 敗戦後の、GHQと日本人の支配者・被支配者関係を見れば一目瞭然である。
 日本がロシアに勝利するには、大韓帝国親日派知日派政権を作り強権で親露反日派を抑え込む事が不可欠であった。
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 親露反日朝鮮人は、日露戦争時にロシア側のスパイ・ゲリラ・破壊工作員・情報提供者として、ロシアを勝利させる為に日本軍の軍事情報をロシア軍に通報していた。
 親露反日朝鮮人は、日本軍の後方で暗躍していた。
 朝鮮国内では、ロシア軍を勝利させる為に義兵闘争が繰り返されていた。
 日本軍は、親日派知日派朝鮮人の協力を得て義兵を討伐した。
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 日本の周辺国と植民地所有国で、軍隊を動かして日本に侵略してくる危険性のある国が4か国存在していた。
 4か国とは、西の清国(中国)、北のロシア、南のイギリス、東のアメリカであった。
 オランダ、フランス、ドイツは、ハゲタカとなって、日本が清国のように戦争に敗北し分割処分される際に、割り込んで日本の一部を領土もしくは植民地にするべく狙っていた。
 キリスト教会も、日本を神の福音でキリスト教国に生まれ変わらせる機会をまっていた。
 朝鮮は、日本を衰退させる為に、日本と戦争する大国に擦り寄っていた。
 それが、当時の、勝者生存・敗者消滅という弱肉強食の国際状勢であった。
 日本は、自主独力を守るべく国力(軍事力・経済力)で、1か国のみという孤独で世界情勢に抗っていた。
 朝鮮は、強者に媚び諂うという伝統的外交術を駆使し、大国と日本を戦争させその影に隠れて生き残る道を模索していた。
 朝鮮国内における反日派敵日派と親日派知日派の主導権闘争は、弱者の生き残り戦略であった。
 その意味で、日本と朝鮮の和解・友好・善隣は絶望的にあり得ない事である。
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 アメリカは、ワスプによる宗教的差別主義から日本よりロシアに共感・共鳴し、ロシア勝利の後にアジア進出を本格化させる計画を立てていた。
 アメリカの基本方針は、国益から、親中国反日派であった。
 キリスト教徒が成すべき神聖な使命は、キリスト教国の勝利、キリスト教による世界の浄化、世界をキリスト教にする事であった。
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 朝鮮は、儒教原理主義による「事大主義」と「夜郎自大意識」に支配され、未来永劫癒やされる事のない「恨」と「怨」を胸の内に秘め、瞬間湯沸かし器的に感情を爆発させ冷静さを失い暴走する。
 朝鮮は、反日派敵日派として日本に対する怨念は何をしても絶対に消える事はない。
 日本と朝鮮の友好・善隣は、過去も、現代も、未来もありえない。
 故に、朝鮮は日本との国家と国家の公式な約束である条約・協定・合意を守る気は一切無かった。
 現実として、国際外交において国家間の如何なる条約・協定・協約・合意が国際法に基ずく正式なものであっても破られる事が、歴史の常識である。
 この点において、日本は歴史に対する理解力がない。
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 日本は近代国家としての信義・信用から、如何なる不利益をもたらす条約・協定・合意でも国際法に則って締結した限りは、正式な改定交渉が成立するまでは守った。
 国際法を遵守し、戦時国際法で許される範囲での軍事行動に徹していた。
 日本軍は、敵軍兵士捕虜を収容し、病気や怪我をしていれば治療し、戦後は相手国に帰還させた。
 それは、明治天皇や昭憲皇后が望んだからである。
 その精神は後世にも受け継がれ、昭和天皇は人道貢献を行った。
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 日本軍が、日清戦争日露戦争史を戦い甚大なる被害を出して勝利したのは、清国の為ではなく、天皇と母国の為であった。
 その二次的結果として、朝鮮は中国から独立できたし、朝鮮はロシア領もしくは植民地にならずに済んだ。
 日本人は、天皇と母国の為に戦争をしたのであって、アジアや中国、ましてや朝鮮の為に戦死や後遺症が残るような戦傷したわけではない。
 全ては、日本の国益の為であった。
 日本は「朝鮮を独立させ守る為に中国やロシアと戦争をした」とはウソである。
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 日本は世界で信頼され、日本人は世界で愛されている、それはあり得ないバカバカしい愚かな話である。
 戦前の日本人は、それを知っていたが故に自己犠牲的に歴史に残る人道貢献をしていた。
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 日本は、1000年の属国として自主独立を持っていなかった朝鮮を宗主国の清国(中国)から独立させ、日本帝国・中華帝国に並ぶ地位に上げる為に大韓帝国の成立を後押しした。
 日本の戦略は、日本を侵略しようとしているロシアに対して、日本帝国・清帝国(中国)・大韓帝国(朝鮮)の3帝国が攻守同盟を結んで対抗する事であった。
 山県有朋桂太郎小村寿太郎らは、ロシアとの戦争に備えて、戦争回避の為にロシアとの協調を目指す明治天皇伊藤博文を無視して、極秘に日英同盟締結を急いだ。
 だが、清国や朝鮮は日本を滅ぼす為にロシアと手を組んだ。
 日本は、周辺を親日派知日派国家で固める為に、孫文らの革命派を陰で支援して清国を崩壊させ、反日派敵日派で陰謀を巡らす朝鮮を日韓併合で消し去った。
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