🏹52〕─1─日本の海賊は海上大名(武士)であってパイレーツ、バイキング、後期倭寇とは違う。〜No.165No.166No.167 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
 海上大名は、世界の非常識として日本にしかいなかった。
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 日本海軍は、海賊の伝統的戦法を研究し、世界の海戦史を参考にして、独自の新たな海戦戦術を編み出し、日露戦争ロシア海軍バルチック艦隊を殲滅して世界に衝撃を与えた。
 日本海軍は、諸外国の海軍に発想の転換を促し世界の海戦を変えた。
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 2019年10月7日 朝日新聞「文化の扉 歴史編
 海賊 略奪者では無い?
 海賊というと、どんなイメージを思い浮かべるだろう。酒と財宝を愛し、商船を襲って略奪行為を繰り返す『パイレーツ・オブ・カリビアン』(カリブの海賊)の世界が一般的だろうか。『日本の海賊』はちょっと違っていたようだ。
 村上氏が代表格 海域の安全確保し通行料
 文献上、最初に『海賊』という言葉が現れるのは、9世紀に編纂(へんさん)された『続日本後記』。承和5(838)年2月10日の条に『山陽・南海道等の諸国司をして海賊を捕糺(ほきゅう)せしむ』とあり、瀬戸内海で活動していた海賊をときの政権が取り締まろうとしていたことがわかる。
 海賊の歴史に詳しい山内譲・元松山大学教授(日本中世史)によれば、記録に残された海賊はいくつかの種類に分けられる。積み荷を奪う略奪者としての面はもちろんだが、海に暮らす人々が国家権力や荘園領主などに逆らった場合もそう呼ばれた。10世紀前半、東国の平将門と前後して瀬戸内海で海上勢力を率いて反乱を起こした元伊予国府の役人・藤原純友も『海賊』と記されている。
 しかし、日本の海賊の主流は実はこれら以外にあった。一定海域を支配して域内の安全を確保し、行き来する船から通行料(警固料)を徴収する『海の領主』としての顔である。
 山内さんによると、海賊のこのような側面が記されるようになるのは戦国時代以降。『だがそのルーツは、おそらく古代までさかのぼるのではないか』
 よく知られているのが、村上氏だ。
 村上水軍博物館(愛媛県今治市)の田中謙学芸員(考古学)によると、戦国時代、記録に出てくるだけで全国に20近くあった『海上勢力』の中でも最大を誇り、広島県愛媛県の間の芸予諸島周辺を根拠地に、小早(こはや)船、関(せき)船、安宅(あたか)船など、数多くの軍船を動員できた。
 本拠地とした島から、『因島(いんのしま)村上氏』『能島(のしま)村上氏』『来島(くるしま)村上氏』などに分かれ、瀬戸内海の本州側、芸予諸島の中央、瀬戸内海の四国側をそれぞれ『領海』としていたという。
 中でも能島村上氏村上武吉(1536~1604 生年は村上水軍博物館による)は、戦国大名・毛利氏に協力して勢力を拡大。毛利が織田信長と対した第一次木津川口の戦い(1576年)では織田方の海賊衆を破った。居城として能島城は、海流が渦巻く中に築かれた、島を丸ごと利用した海城である。
 田中さんによると、主に収入源は『関役』と呼ばれる商船の通行料で、支払った船は『過所(かしょ)船旗』と呼ばれる村上海賊の旗を掲げたり、海賊がその船に乗り組んだりすることで、他の海賊の襲撃から守られた。
 また、村上氏の城跡や集落からは、大名の居館(きょかん)に匹敵する質と量の中国陶磁器や、網につけた土製のおもりなども出土しており、貿易や漁労なども行っていた可能性があるという。
 宣教師ルイス・フロイスは、村上海賊を『maior cossario de Japao』(日本最大の海賊)と記し、領主の保護下にある海上勢力を意味する『cossario』の語をあてて、一般に海賊を示す『Piratas』を使っていない。『彼も村上海賊とヨーロッパのパイレーツとの違いを認識していたのでは』
 『私たちが抱く一般的な海賊のイメージは、パイレーツが出てくる物語を明治期に翻訳する際、「海賊」の語をあてたせいで誤ってすり込まれたもの』と山内さんは指摘する。『本来、日本の海賊は「SAMURAI」や「NINJA」のように、「KAIZOKU」とでも表記すべき独自の存在だ』
 そんな海賊衆も1588年、豊臣秀吉が海賊禁止令を出したことで解散に向かう。一部は大名やその家臣になったが、海賊の血は絶えることにことはなかった。『造船術や航海術、海を恐れない気質は日本の海運史に大きな役割を果たした』と山内さん。末裔(まつえい)の代表格が塩飽(しわく)諸島(香川県など)の船乗りたちで、幕末の咸臨丸の太平洋横断でも活躍した。日本の近代海運は海賊が切り開いた、ともいえそうだ。(編集委員・宮代栄一)
 『パイレーツ』は別もの
 海賊とひとくくりにことが多い。『パイレーツ』『バイキング』『倭寇』は別ものだ。いわゆる『パイレーツ・オブ・カリビアン』は16~19世紀にカリブ海、バイキングは9~11世紀に西ヨーロッパ沿岸、倭寇は13~16世紀に東シナ海などで活躍した。
 対抗国の船なら略奪を許可するという国王の許可書を持つ公認の海賊もおり、『Privateer』(私掠船{しりゃくせん})と呼ばれた。ウィリアム・キッドフランシス・ドレークらはこれにあたる」
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 日本民族日本人の祖先は、琉球人同様に丸木舟で海(日本海)を行き来していた南方系海洋民である。
 つまり、西方系草原民の子孫である漢族系中国人や朝鮮人・韓国人とは別系統のアジア人である。
 「日本民族日本人・琉球人・アイヌ人と中国人・朝鮮人・韓国人は同種同根の同じアジア人である」は、真っ赤な嘘である。
 海上知識や造船術・航海術などは、中国や西洋の知識を参考にしたがその多くは日本独自のものであり、中国の属国であった朝鮮から得た所は何もない。
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 日本の町は、水上交通に便利がいいように海や川に面して造られた。
 江戸時代の交通網は世界レベルで優れ、大名行列や庶民の巡礼旅行・行楽旅行で賑わっていた。
 山賊や海賊がいなかった為に、女性や子供でも安心して一人旅行ができた。
 日本民族日本人は、遊び目的の旅が好きであった。
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 日本と中国は、海を意識して遠洋交易を行っていた。
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 朝鮮は、海を意識せず近海移動はしたが遠洋移動は山東半島まででその先はなく、交易相手が中国の黄河流域諸都市であった為に陸上交易が主で海上交易はなかった。
 朝鮮半島の歴史で、侵略してくる敵は北の陸地からであって南の海からではなかった。
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 歴史に名が残る有名な海賊は、西のイギリス海軍とバイキング、東の倭寇(特に後期倭寇)である。
 イギリス海軍、バイキング、倭寇は、積極的な冒険心や開拓心そして並外れた闘争心で時代を先に進め、人類の進歩・発展に多大なる貢献をおこなった。
 倭寇は、世界史的に論じるべきである。
 が、日本国内の海賊は世界史的な海賊とは違う。
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 イギリス海軍の前身は海賊であった。
 イギリス王家は、イギリス海賊に対して公認の許可書を与え略奪品の一部を徴収する事で富を築いた。
 イギリスは島国であったが、体質的には大陸国であって海洋国ではなかった。
 ヨーロッパにおける海洋民は、北欧のバイキングのみであった。
 ヨーロッパ諸国とは、海軍を持った大陸国であった。
 つまり、世界の中で純然たる海洋民国家は日本のみである。
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 日本の歴史で、虐殺と略奪そして女性や子供を強制連行したのは、日本人の海賊と言うより朝鮮半島から襲ってくる海賊や水軍であった。
 それ故に、朝廷は朝鮮半島との国交を断絶し、朝鮮からの渡来人を拒絶した。
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 日本と中国・朝鮮とでは、価値観・見方が違い共通認識が存在しない為にネガティブな「悪」や「海賊」の意味も違う。
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