🗾31〕─1─素潜りの南方系海人。鵜飼と稲作の倭人。太平洋沿岸の根明な黒潮文化。日本海沿岸の根暗な対馬暖流文化。~No.140No.141No.142 * 

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   ・   ・  {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博} ・   
 太平洋沿岸の根明な黒潮文化。
 日本海沿岸の根暗な対馬暖流文化。
 縄文人は丸木舟で、多様な文化を広めていった。
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 日本の釣り針・素潜り・鵜飼いは、揚子江流域の長江文明の名残であって、中国や朝鮮などの黄河流域の黄河文明とは無関係である。
 つまり、「朝鮮が日本に文明や文化をもたらした」とはウソである。
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 2016年6月18日号 週刊現代「アースダイバー 中沢新一
 神社編
 古層Ⅱ 倭人
 アズミの神道(20)
 アースダイバーと旅して(1)
 熊野から伊勢湾にかけて、海岸や島々をたどっていくにつれて、太陽神の表情は変形につぐ変形をとべていき、かつてそこで、神話的思考の爆発的展開のおこったことを、如実に示している。ところがその爆発的展開も、伊勢湾と三河湾を過ぎたあたりで、急速に収束に向かう。
 あれほどに強烈だった海人たちの太陽神への信仰が鎮静していき、かわってオーソドックスな海神信仰が、ふたたび表にあらわれてくるようになる。駿河湾、房総半島、鹿島・香取、塩釜と、その後も倭人系海人たちは北上を続けていったが、紀州から伊勢湾にかけての地帯でおこったような、創造的爆発はもう二度と見られない。
 しかも、古層に属する倭人的な海神信仰は、その後しばらくして、『八幡信仰』の中に吸収・同化されていくようになるから(この過程はしばらくして始まる『アースダイバー 神社』の『新層』の部で、詳しく描かれる)、海神(わだつみ)の名も、豊玉姫(とよたまひめ)や磯良(いそら)の活躍も、表面からは見えにくくなる。
 そこで私たちは、倭人系海人が列島の各地を移動していった跡を、別の方法で追跡することにしよう。それは『島』に頼むやり方である。日本列島を北部九州から東北まで旅して、海岸部のいたるところにコロニーを形成していった海人たちには、すぐれた『旅の友』がいた。柴犬系の小型犬もその一員であるが、潜水(かずき)に巧みであった倭人にまさるとも劣らない旅の友である。倭人たちはこのアースダイバー鳥を携えて、日本列島にやって来たのだった。
 鵜(う)と倭人
 鵜はアビ(アビ目アビ科の鳥)と並んで、北米大陸や東北シベリアで伝えられているアースダイバー神話の中で大活躍をする、潜水鳥である。アースダイバー鳥は、水中に潜って、大地をつくる材料となる土を採ってきた。どうやらこれらの潜水鳥は、神に捧げる神饌(しんせん)を水中で採ってくる役目をになった、神聖な鳥でもあったらしい、インドネシアから中米のマヤ文明にいたるまで、環太平洋圏の広い範囲で、特別な鳥としての扱いを受けてきた。
 この鵜の首に紐を結んで漁をさせる『鵜飼』が、もっとも古くから発達していたのが、揚子江下流域であった。このあたりでは、苗(キャオ)族など非漢民族の手によって、数千年前から水田による稲作りが開発されていた。その地帯では、稲作と並行して、川での漁が盛んだった。その環境の中で、鵜飼が発達し、その風俗は今日に及んでいる。
 潜水鳥の鵜を捕獲して魚を採らせる鵜飼は、もともと稲を栽培する農民のもとで発達したと思われる。いちばん古風な鵜飼のやり方では、鵜の使い手は岸辺や浅瀬に立って、手にもった綱で鵜を操った。このやり方だと船を操る必要がないので、農民でも手軽に漁をすることができた。揚子江下流域のクリーク地帯では、岸から鵜を使うそういう鵜飼が発達していたが、おの鵜飼地帯のごく近いに、倭人の祖先の生活していたことが、推定されている。
 倭人の祖先はもともとが海洋性の生活をしていた人々であったが、揚子江下流の海岸部を生活場所としている間に、水田による稲作をおこなう非漢民族たちとの交流をつうじて、水田稲作の技術を取り入れた『半農半漁』の生活形態に、変わっていった。その頃、水田技術といっしょに、鵜飼の技術も習得されたはずである。
 海人としての倭人は、水田稲作をおこなう『百姓』となってからも、漁師の習性を忘れることがなかった。そこで水を張った水田にフナやコイやドジョウなどを放って、『水田養魚』に励んだ。この習性は、倭人が日本列島に移住したのちも変わらなかった。倭人の百姓は、急流の多いこの列島の河川を利用して、さまざまな形態の漁に打ち込んだものだが、その中でも鵜飼は『聖なる鳥』とともにおこなう格別な漁として尊重された。
 川のあるところ、内陸部でも、鵜飼は盛んにおこなわていた。
 稲と鵜飼のセット
 今では限られた地帯にしか見られない鵜飼も、かつては日本列島のいたるところでおこなわれていた。『鵜飼』とか『鵜川とか『鵜沢』とか『鵜島』とか、『鵜』のつく地名を拾ってみるだけでも、かつてこの漁が広くおこなわれていたかが、推察される。いったいそれを誰がおこなっていたのか。中世には専門の職人的鵜匠による鵜飼が主流になっていたが、それよりも古い時代になればなるほど、普通の倭人の百姓が農作業の暇を見つけては、鵜を使った漁をおこなっていた。鵜飼は倭人系海人によって、日本列島に持ち込まれた技術の重要な目録の一つであり、百姓の暮らしをするようになっても、鵜飼は彼らにとって重要な生活の技術だった。稲作と鵜飼はセットなのです。
 鵜飼は列島の全域に、その痕跡が見出される。北部九州では筑後川のクリーク地帯(いまの柳川あたり)、四国の四万十川、岡山近辺、若狭から琵琶湖にかけての諸河川、伊勢湾奥の長良川流域、同じく犬山、天竜川を遡行して諏訪湖にいたる谷筋、静岡、相模川多摩川(ここではごく最近まで古い『立ち鵜飼』のやり方が伝承されていた)、東北では角館近辺など、全国で150ヶ所以上の場所で、かつて鵜飼のおこなわれていたことが、報告されている。
 鵜がもっとも得意としたのは、鮎の漁である。鮎は傷みやすい魚で、ちょっとでも傷がつくと、すぐに悪くなってしまう。そのため、鮎を食するのを好んだ貴族たちは、鮎の体をきれいなまま捕獲できる、鵜飼による鮎を求めた。そこで神饌のかたちで、長良川などで鵜のとった鮎を、天皇への献上品とした。
 食品衛生学的な理由だけで、鵜飼による鮎を尊ばれたのではない。そこには、倭人弥生人以来の、神話的思考が大きな働きをして居る。アースダイバー神話の主人公である鵜やアビは、環太平洋圏の最古の神話層に属する鳥であり、その鵜が捕獲して吐き出した、繊細きわまりない魚にたいして、倭人の末裔たちが敏感に反応しないわけがない」
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 日本の権力者・支配者は、黄河沿岸や朝鮮半島から渡来した新層の北方系であった。
 日本の反逆者・抵抗者は、揚子江沿岸や沖縄から帰化した古層の南方系であった。
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 司馬遼太郎「山河を惜しむ心こそ、人間が地上に生棲する基本的な文化というるのではないか」
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 山折哲郎「司馬さんの晩年の大きな仕事は、『街道をゆく』と『この国のかたち』です。『この国のかたち』の最初の文章が非常に印象的です。『日本人は、いつも思想はそとからくるものだとおもっている』。これは重大なメッセージです。日本列島には自生的な思想は育たなかった。この国のかたちを考えるとき、どうしても外からの思想に頼ってきた。それが仏教であったり儒教であったり、キリスト教などであった。にもかかわず、これだけの文化文明を発達させたのはなぜか。
 『この国のかたち』で神仏習合の問題が出てくる。その起点をどこに置くか。奈良東大寺です。仏教の華厳経という経典を論じ、儀礼を調べられたり、文明論を発展されたりしている。仏教は外からやってきた外来宗教です。それを受け止めた土着の神道が重要な役割を果たしている。この問題が最晩年の司馬さんの考えのなかで重要な位置を占めていた。
 外からやってくる思想のかわりに、日本列島固有の文化があるにちがいない。それはなにか。これを探すために司馬さんは、街道を歩きはじめたのではないのか。その起点となったのが1000年の歴史がある近江王朝だったかもしれない。それで『近江』に着目された。
 晩年の『街道をゆく』と『この国のかたち』はそこで合致する。近江王朝は2代でついえます。奈良ではじめて国のかたちがつくられる。そのときに神仏習合というテーマにとりかかれたという気がします。
 ……
 司馬文学の代表的な主人公は、南方系、黒潮文化で運ばれてきた文化の基盤で活躍した人間が多い。西郷隆盛坂本龍馬、それから高田屋嘉兵衛空海もそうだと思います。
 黒潮の流れにのって日本にやってきた文化のなかから日本の中央権力というものを批判する勢力が生まれます。反権力的なキャラクターは、司馬文学に効果的でした。
 ところが依然として日本列島の権力を握って中国文明律令文化を植えつけたのは、中国大陸、北方系の文化です。その対立のなかで日本の歴史が発展していくという考え方があったと思います」
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 日本人の祖先は、黄河流域で中華文明を生みだした漢族ではなく、揚子江流域に住んでいた土着民で、現代の中国南部の山岳地帯で生活している少数民族に近い。
 揚子江流域に住んでいた土着民は、台湾に移住し、黒潮に乗って琉球(沖縄)に渡り、そして日本列島に流れ着き、倭人となった。
 倭人は居住空間を広げながら、日本列島に移り住み、一部が朝鮮半島に渡って倭族となった。
 黄河流域の果てし無い戦乱で負けた漢族は、逃げるように南下して揚子江流域に住みつき、戦闘になれていない揚子江人を征服して奴隷とした。
 自由を守ろうとした揚子江人は、凶暴な漢族の暴力・横暴から逃れるように南の山岳地帯に逃げ込んだ。
 台湾は、中華帝国流刑地にされた。
 犯罪を起こした凶悪な漢族は、台湾に移り住み台湾人から土地を奪い山岳地帯へと追いやった。
 台湾の山岳地帯に生きるパイワン族などの先住民族は、漢族から逃げた子孫である。
 中華帝国は、大陸国家として海には興味がなく、沿岸線を南下しても海上に乗り出して琉球(沖縄)に向かう事はなかった。
 琉球(沖縄)と日本は、大陸から切り離され造船技術と航海技術を駆使して行き来していた。
 新しい人の流れとして、黄河流域や山東半島に住んでいた漢族の一部が朝鮮半島に移り住み、半島南部に住んでいた倭族と雑婚して混血化し、その混血倭族が日本列島に渡った。
 もう一つ別の流れが北から、樺太カムチャッカ半島・千島列島から南下して日本列島に移り住んだ。
 日本は、揚子江人と混血倭族と北方人が雑居し、雑婚し、そして混血濃度を濃くしながら、平和的に大和民族日本民族を生み出していった。
 日本の日本国語や文化・風習そして宗教・信仰も混血によって大きく変わったが、その原初的なモノは琉球(沖縄)に残った。
 日本民族琉球人(沖縄県民)とは同根であり、日本民族の祖先が琉球人である。
 ゆえに、日本民族琉球人は同じ日本人であり、琉球民族などは存在しなかった。
 一時期、琉球王国は独立国として日本とは切り離されていたが、同じ日本である事に変わりはない。
 漢族と日本民族琉球人(沖縄県民)は、同じではない。
 日本民族琉球人に近い存在が、中国の南部山岳地帯にすむ少数民族少数民族の血をひく台湾人達である。
 当然、日本民族琉球人(沖縄県民)・先住台湾人は、朝鮮人・韓国人とも違う。
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 漢族が支配する地域では、戦乱による虐殺と略奪が絶えなかった。
 日本民族琉球人が住む地域では、隣近所の些細な諍いによる死傷事件はあっても、中華世界のような陰惨にして悲惨な惨事は皆無に近かった。
 日本民族琉球人は、中型船の船乗りである。
 中型船で、船乗り同士がいがみ合い対立し殺し合ったら、船は先に進めないどころか難破して全員が溺れ死ぬ。
 運良く流れ着いた島で水や食料を手に入れなければならないが、島民と殺し合い犠牲者を手に入れても乗組員を減らしては航海が続けられなくなる。
 中華世界の漢族は、砂漠を行く大キャラバン隊である。
 大キャラバン隊は、秩序を保つ為に反抗する者は見せしめに殺し、人手が足りなければ途中で立ち寄ったオアシスを襲い、捕らえた者を奴隷とすれば事は足りる。
 船は、船員達の情緒的な何となくという曖昧な「空気」で支配される。
 大キャラバン隊は、隊商長の命令一下で行動する。
 船長と隊商長の役割は自ずから異なり、リーダーの性格も異なる。
 船乗りは、匠の技を持つ純朴なモノ作りの職人集団である。
 大キャラバン隊は、抜け目のない狡賢い商人である。
 日本民族琉球人の日本人は職人であり、漢族の中国人は商人である。
 朝鮮は中華帝国の属国であり、朝鮮人は漢族の流れを汲む大陸人である。
 朝鮮人が日本人とは違って、漢族同様に煩わしいほどにうるさく騒々しいのは当然である。


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