🎍36〕─1─王土王民思想は、独立国家の統治理論であり国防思想である。〜No.114No.115No.116 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 王土王民思想は、天皇制度、天皇の日本統治を正当化する思想である。
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 当時の危機的状況では正当でも、現代の愚昧的安穏では犯罪である。
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 日本国憲法では、戦争論地政学そして日本中心の国防思想、国防論は違憲である。
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 王土王民思想(おうどおうみんしそう)とは、地上にある全ての土地は天命を受けた帝王のものであり、そこに住む全ての人民は帝王の支配物であるという思想のこと。
 概要
 『詩経』小雅・北山之什にある「溥天之下 莫非王土 率土之濱 莫非王臣(“溥天の下、王土に非ざるは莫く、率土の濱、王臣に非ざるは莫し”。この空の下に王のものでない土地はなく、地の果て(浜辺)まで王の臣でない人間はいない)」という詩句に代表されるように、中国では早くから中央集権が進むとともに四海・天下の概念が発達して、帝王の一元的・排他的な世界支配を象徴する考え方として説かれ、儒教律令などにも反映されてきた。
 日本の古代国家もこうした中国の思想を受容して、公地公民制とともに王土王民理念が説かれてきたが、天の概念が希薄でかつ天皇家が唯一の王権として確立されていた日本では、天照大神の末裔による万世一系思想とこれを支える君臣共治思想を理念とする朝廷が存在していたため、帝王の一元的・排他的支配を前提としたこうした考え方は表面的にしか受容されなかった。また、仏教の興隆とともに王法と仏法の関係について問題となったが、王法仏法両輪・王法仏法相依と呼ばれた相互依存関係理念や神仏習合理念の確立によって問題を回避することに成功した。
 ところが、院政期から鎌倉時代にかけて治天の君や公家など朝廷運営の主体を担う勢力が、寺社や幕府などの他の権門に対して自己の優位性を唱えるために王土王民思想が唱えられるようになった。それはこれら新興の権門が国政において重要な役割を与えるだけの勢力を持ったことに対して、伝統的な権威を背景として国政の主導的地位を引き続き確保しようとする意図の反映でもあった。こうした考え方は『平家物語』(巻二・教訓状)や『徒然草』(207段)などの当時の文学作品にも登場している。やがて、王土王民思想の日本化として、神国思想が登場するようになる。
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 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
 王土思想
 国土全体を天皇の領土とみなす古代・中世の政治思想。その起源は『詩経小雅』の「溥天(ふてん)の下(もと)、王土に非(あら)ざるは莫(な)し」や、『孟子(もうし)萬章』の「普天(ふてん)の下、王土に非ざるは莫く、率土(そっと)の浜、王臣に非ざるは莫し」などの古代中国思想にあり、日本古代国家の成立とともにその国家的理念として導入され、律令(りつりょう)体制の基盤である公地公民制を支えるイデオロギーとなった。
 律令制が解体して中世社会への転換が進むなかで、王朝貴族政権は国家の危機にあたって、それに対処するために王土思想を宣揚した。承平(じょうへい)・天慶(てんぎょう)の乱(936~941)に際し、東海・東山両道の国司平将門(まさかど)の追討を促した940年(天慶3)の太政官符(だいじょうかんぷ)(『本朝文粋(もんずい)』)において、「抑(そもそ)も一天の下、寧(いずくん)ぞ王土に非ざらん。九州の内、誰(たれ)か公民に非ざらん」と、王土王民の理念を強調して軍功を募ったことは、その顕著な例である。
 また王土の思想は、公田を蚕食する荘園(しょうえん)の乱立に対して、その抑制に努める公家(くげ)政権の「新制」(荘園整理令)の基本理念であった。1156年(保元1)、保元(ほうげん)の乱に勝利した後白河(ごしらかわ)天皇は、その発布した「保元新制」の太政官符(『書陵部所蔵壬生(みぶ)家古文書』)の第1条において、神社仏寺院宮諸家の新立荘園の停止を命じたが、その冒頭に「九州の地は一人の有なり。王命の外、何ぞ私威を施さん」と王土思想を宣言し、それが中世王権としての天皇権力の基本理念であることを内外に表明したのである。[戸田芳実]
 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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 何故、日本が朝鮮をケガレた地として嫌悪し、日本人が朝鮮人を見下したのか、それにはそれなりの正当な理由があった。
 が、現代日本人の歴史力では理解できない。
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 日本にとって、朝鮮は敵国であり、中国はいつ侵略してくるか油断できない軍事大国であった。
 日本の周辺諸国は、反日派敵日派国家で、親日派知日派国家は存在しなかった。
 強いて親日派知日派国家と言えるのは、古朝鮮百済高句麗、古新羅渤海である。
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 古代、日本は朝鮮の避難地として、戦乱や災害で被災した朝鮮難民を無条件で受け入れ、生活できるように土地を与え土着させ、彼らの祖先を神として祀る事を許した。
 帰化人は、天皇に感謝し、日本国に忠誠を誓い、天皇と日本国の為に自己犠牲的に働いた。
 渡来人は、天皇や日本国を見下し、天皇や日本国に弓を引いて暴動を起こしていた。
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 現代日本人は、事実の歴史を嫌い、自分に都合の良い時代小説を作りそれを正しい歴史と信じている。
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 新羅の入寇は、新羅から流民や帰化人による犯罪及び新羅王の勅命による国家規模の海賊行為等の総称。かつては「新羅の賊」と呼ばれた。新羅寇とも言う。
 新羅の国内の混乱により、811年から新羅が滅亡する935年までの間に、度々、新羅の賊が日本各地を侵した。本項では新羅滅亡以後の賊徒侵攻についても概説する。
 概要
 新羅南部の沿海の流民あるいは海賊とみられる者たちが、8世紀以降かなり頻繁に対馬や北九州を襲った。しかしその中には組織的な大集団も多く、国家または強大な豪族の関与が疑われるものも多い。
 なお平安中期まで日本では「高麗」といえば渤海国東丹国)を指したため、朝鮮半島の高麗成立以後も11世紀半ば過ぎまでこれを区分するために「新羅(の賊)」という称も用いられた。
 新羅の賊が発生した理由としては、『三国史記新羅本紀の記述から、745年頃から750年代後半にかけて新羅で飢饉や疫病が発生し、社会が疲弊していたことが指摘されている。755年には新羅王のもとへ、飢えのため、自分の股の肉を切り取って父親に食べさせた男の話が伝わるほどだった。このときに、九州北部をはじめ、日本へ亡命し、帰化した新羅の民が多数いた。
 しかし、その移民の数が多いため、天平宝字3年(759年)9月、天皇太宰府に、新羅からの帰化人に対して、帰国したい者があれば食料等を与えたうえで帰国させよとする勅を出した。翌年には、帰国を希望しなかった新羅人131人を武蔵国に送還した。
 また当時新羅新羅下代から後三国時代につながる混乱期であって、慶州を中心とする王権は地方まで十分に及ばず、民衆は重なる政治混乱にも苦しんでいた。唐とは友好関係であったが、それ以外の周辺国である日本や渤海などとは断交していた。一方日本は、渤海とは友好的であったが新羅との仲は険悪であった。
 日本では、白村江以来、唐・新羅合従連衡による日本侵略を恐れていたため、新羅の行動はきわめて挑発的にみなされた。ただし、これらの海寇は全面戦争に波及せず、唐は中立を守ったものの、日本側は大きな自制を強いられていた。

 前史
 大化の新羅の賊
 ……
 遣新羅使新羅による日本への朝貢
 ……
 帰化
 日本からは高句麗に学問僧など留学生が派遣された。持統天皇元年(687年)、日本の朝廷は帰化した新羅人14人を下野国に、新羅の僧侶及び百姓の男女22人を武蔵国に土地と食料を給付し、生活が出来るようにする。帰化人の総数には日本から新羅帰化していた倭人も含まれる。また天皇により新羅人の帰国が奨励され、半島に帰還するものに対しては食料が配布された。
 「東国#開発」を参照
 持統天皇3年(689年)にも投化した新羅人を下毛野に移し、翌持統天皇4年(690年)には帰化した新羅の韓奈末許満等12人を武蔵国や、下毛野国に居住させる。霊亀元年(715年)には尾張国人の席田君邇近及び新羅人74人が美濃国を本貫地とし、席田郡に移される、天平5年(733年)。
 「王城国」改称問題
 ……
 阿倍継麻呂と疫病
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 金泰廉による日本への朝貢
 ……
 長安での席次争い
 ……
 藤原仲麻呂新羅征討計画
 ……
 御調朝貢
 ……
 遣新羅使停止
 しかし、翌780年に正規の遣新羅使は停止され、以後は遣唐使の安否を問い合わせる使者が数度送られたのみとなった。しかし民間レベル(主に交易)での交流は続けられており、唐・日本・新羅商人により、日本の文物を唐・新羅へ、唐・新羅の文物を日本へ、と運んで交易に励んだ。そのため、三国の情報は比較的詳細に交換されていた。有名な新羅商人に張宝高がいる。

 弘仁新羅の賊
 弘仁2年(811年)12月6日、新羅船三艘が対馬島の西海に現れ、その内の一艘が下県郡の佐須浦に着岸した。船に十人ほど乗っており、他の二艘は闇夜に流れ、行方が分からなくなった。……

 弘仁新羅の乱
 弘仁11年(820年)2月13日、遠江駿河両国に移配した新羅人在留民700人が党をなして反乱を起こし、人民を殺害して奥舎を焼いた。………

 山春永らの対馬侵攻計画
 貞観8年(866年)には、肥前基肄郡擬大領(郡司候補)山春永(やまのはるなが)・藤津郡領葛津貞津・高来郡擬大領大刀主・彼杵郡住人永岡藤津らが新羅人と共謀し、日本国の律令制式の弩の製法を漏らし、対馬を攻撃しようとした計画が発覚している。

 貞観の入寇
 貞観11年(869年)6月から、新羅の海賊、艦二艘に乗り筑前那珂郡(博多)の荒津に上陸し、豊前の貢調船を襲撃し、年貢の絹綿を掠奪し逃げた。追跡したが、見失ったと『日本三代実録』に記録があり、また「鄰國の兵革」、隣国である新羅の戦争(内戦)のことが背景にあるのではないかと卜(うらない)が伝えたとある。……

 藤原元利万侶の反乱計画
 また現地の史生が「新羅国の牒」を入手し、大宰少弐藤原元利万侶(ふじわらのげんりまろ)が新羅国王と内応して反乱を企ていたことが発覚する。
 国防体制
 870年2月15日、朝廷は弩師や防人の選士50人を対馬に配備[28]する。また、在地から徴発した兵が役に立たないとみた政府は、俘囚すなわち律令国家に服属した蝦夷を配備した[34]。これらの国防法令は『延喜格(えんぎきゃく)』に収められ、以後の外交の先例となった。……

 寛平の韓寇
 『日本紀略』『扶桑略記』寛平5年(893年)および六年(894年)の条にみえる熊本、長崎、壱岐対馬にかけての入寇とその征伐の記録。……

 延喜の新羅の賊
 天健金草神社の社伝には、延喜六年(906年)七月十三日、隠岐国の坤方から猛風が吹き、天健金草神の託宣があった。……

 長徳の入寇
長徳三年(997年)、高麗人が、対馬肥前壱岐、肥後、薩摩、大隅など九州全域を襲う。民家が焼かれ、財産を収奪し、男女300名がさらわれた。これは南蛮の入寇ともいわれ、奄美島人も賊に参加していたといわれる。……

 その他
 貞観五年(863年)に丹後国にやってきた54人は「新羅東方の細羅国人」と主張した。また1093年には「海賊船」を拿捕し真珠、水銀、硫黄、法螺などの貨物を接収し宋人と日本人の乗員を奴隷にした、と記録している。これらはすべて日宋交易における日本産の有力な交易物なので「海賊船」として拿捕したというのは単なる口実だとも考えられる。

 影響
 すでに貞観の韓寇にたいする奉幣祈願の文に「我が日本の朝は所謂 神明之国なり」という思想がみえ、神風による非戦の解決が唱えられているのが注目される。延喜3年7月には隠岐国に託宣があり、神風が賊船を漂没させたという風聞が行われている。また「?爾(サイジ)たる新羅、凶毒狼戻なり」「新羅人、奸を挟(いだ)くこと年久しく、凶毒未だ悛(やま)ず」など、韓寇を非難するさまざまな言辞がみられる。
 被害地では新羅人への反感も高まり、承和元年(834年)には「百姓、之を悪(にく)み彎弓で射て傷つく」などと在留者への暴力まで発生した。これに対し朝廷では「新羅人の来航を全面的に禁止すべき(藤原衛)」などの少数意見もあったが、徳を慕って来日する者に「仁恕」を示すべきとの意見が多数を占め、賊虜を放還するなど中途半端な対応を重ねた。
 大宰府の府官による討伐は、封建武士の成長が遅れた九州において、健児クラスの武人を極端に成長させることはなかったが、後世少弐氏など府官の名目を持ち外交権の一部を管掌する特異な武士の成長を促した。
 朝鮮側の諸史料は後世に再編されたものではあるが、新羅寇の記録はまったくなく、逆に新羅倭寇に苦しんだとか日本に人質をもとめられた等の被害記事が多い。しかしいずれにせよ、朝鮮半島で後三国時代の混乱が高麗国の成立によって一旦治まると新羅寇の記録は日本側の史書で見えなくなる。
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