🎌8〕─2─令和時代と皇室の危機。元号「明治」はクジで決まった。~No.68No.68No.69 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 天皇が詔で発する元号とは、宗教性の強い伝統的日本文化である。
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 元号とは、独立宣言であり国政方針である。
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 日本民族日本人の歴史的事象は、例外なく、全て、歴代天皇が定めた元号・年号で記載され、言葉として表現されている。
 天皇所縁の元号・年号のない日本史は、天皇を否定しない限り存在しない。
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 西暦とは、キリスト生誕紀元であり、キリスト教文明圏のみで採用されている宗教紀元である。
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 共産主義諸国は、反宗教無神論に基ずく建国記念日の人民革命暦を使用する。
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 元号・年号を例えるなら、船の帆柱に高々と掲げられた「旗」であった。
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 2019年6月号 Hanada「令和時代と皇室の危機
 第一人者が語る元号ヒストリア
 所功
 ……
 過去には元号消滅の危機が
 私が感無量だったのは、多くの国民が元号について好意的に受け止め、評価していることです。
 新元号発表当日、新宿アルタ前や渋谷スクランブル交差点などに大勢の若者が集い、発表の瞬間、歓声さえ上がっていました。読売新聞の世論調査によれば、新元号の『令和』に『好感を持っている』と答えた人は62%、また新元号が日本の古典から引用されたことを『評価する』は88%にものぼっています。
 しかし、私が元号の研究を始めた昭和30年代後半頃は、いまとはまったく状況が異なりました。敗戦直後から昭和の終わりにかけて、『元号など廃止すべきだ』という声が強かったのです。
 占領政策によって、旧皇室典範が廃止され、新憲法下の一法律として新皇室典範が定められましたが、そこには元号に関する規定がありません。しかもその頃、いわゆる天皇制への疑義や非難が巻き起こり、元号についても否定論が強かった。実際、消滅の危機が何度かありました。
 とくに昭和20年(1950)、参議院の有力議員が中心となり、『元号を廃止して西暦に一本化しよう』と画策、委員会をつくり多数の参考人を招致しましたが、ほとんどが元号廃止論者でした。
 その当時はまだ占領下ですから、参議院事務局の責任者がGHQ(連合国総司令部)にお伺いを立てたところ、こう言われています。
 『こちらとしてはそれで構わない。ただ、日本国憲法政教分離を厳しく定めている。西暦はキリスト生誕紀元だから、これを公式に採用すると、政教分離違反だという声が出てくる恐れがある』
 これは対日占領文書を研究している私の友人が最近論文に書いていますが、GHQのなかにも、なかなか本質を見抜く人がいたわけです。GHQにそう言われたせいか、元号廃止の動きは急にしぼんでしまいますが、元号廃止論はその後も根強くありました。そこで、心ある人々は懸命に努力して、昭和54年に『元号法』を制定し、元号を定める法的根拠ができたのです。
 説得力のない元号批判
 しかし今回の改元についても、批判的な報道をするメディアがないわけではありません。
 ある全国紙は4月2日の紙面で、安倍首相がツイッターやインスタグラムに談話を投稿したり、国書にこだわったこと、談話を発表したことなどを批判するため、わざわざ元政府関係者の言葉を引いています。
 こういう旧態依然とした反対論には、ほとんど説得力がありません。誰であれ、時の総理が公的に元号に関して強い責任感と使命感を持つのは、むしろ当然のことです。元号法には、はっきりこう書かれています。
 『元号は、政令で定める』
 つまり、時の政府が責任を持って新しい元号を決めるものと明記されています。したがって、政府のトップである総理大臣と実務にあたる官房長官のもとで、しっかり準備して、最善策を決定するのは重要な責務であり、誰が総理であっても、そうするべきものです。今回はそれが達成されたわけですから、素直に評価してもよいと思います。
 かつて元号廃止論者が声高(こわだか)に主張したのは、それが『天皇制の残滓(ざんし)』であり、『人民支配の道具』だという考えです。
 逆に言えば、日本に1300年以上も元号制度が続いていり、とくに明治以降、一世一元であるのは、日本独自の天皇という君主のもとで、立憲君主制が維持されているからです。
 元号の本家である中国、また同様に元号を使っていた朝鮮半島も安南({あんなん}ベトナム)も、王政が亡くなった途端、元号まで消えてしまいました。いま元号制度が健在なのは、象徴世襲天皇制度をもつ日本だけです。
 少し歴史を振り返れば、いまから2200年ほど前、漢の武帝時代に始まった元号は、徐々に周辺国へ広まっていきました。
 ただし、中国は自身を世界の一等国、周辺国は劣等国と考えていました。したがって、周辺の諸国が中国の元号を使うのは認めるけれど、独自の元号を建て、使うことはけしからんという態度をとっています。
 たとえば朝鮮の新羅で、7世紀前半に独自の元号を作り、使っていたところ、新羅使節に対して、時の皇帝太宗がこう言っています。
 『新羅は、わが大唐帝国の臣下ではないか。その分際で、勝手に元号をつくるとは何事か!』
 そう言われると、新羅は抵抗できず、その直後から独自元号をやめ、中国の元号をそのまま使っています。
 一方、ベトナムは朝鮮と同じく中国と地続きですが、かなり結束が強く、10世紀から20世紀半ばにいたるまで、独自の元号を使い続けてきました。
 元号は国家独立のシンボル
 この点、日本はどうかといえば、645年に『大化(たいか)』という独自の元号を建てましたが、まだ国内外で公然と使うことはできなかったらしく、ほとんど用例が残っていません。
 しかし、半世紀ほど経って、701年に『大宝(たいほう)』という年号を建てた頃は堂々たる中央集権国家ができつつありましたから、最高法規大宝律令に次のごとく定めています。
 『およそ公文に年を記すべくんば、皆年号を用ゐよ』
 すると、それまで主に干支(えと)で年を表していた人々が、大宝元年から元号を使っています。遣唐使が持参した外交文書にも、日本の元号を堂々と書いていたから、唐の歴史書にきちんと記されています。その頃までに日本が中央集権的律令体制を整え、国家として自立していましたから、中国もそれを認めるほかなかったのでしょう。
 元号というのは、そういう意味でまさに国家独立のシンボルでもあるわけです。
 ただ、現在のような『一世一元』になったのは明治からです。それまでは、天皇の即位に際して改元することを原則としながら、天変地異などが起きた際も、特定の厄年(やくどし)にも改元を繰り返しています。
 これは、天帝が人君を見ていて、良いことをすれば褒め、悪いことをすれば懲らしめる、という天人相関思想が根底にあります。ところが、明朝の時代に入るとほぼ『一帝一号』となり、それに続く清朝も完全に『一世一元』となっていました。
 そこで江戸後期に入りますと、中国がお手本だったことに加え、近代的な社会を目指すにあたり、天人相関思想にもとづく再三の改元は無意味なものと考え、日本も『一世一元』にすべきではないかという意見が、大坂の町人学者や水戸の歴史学者などから出てくるようになります。それから数十年後、幕末維新のリーダー岩倉具視が、明治改元の際、『一世一元』を提唱しています。
 『明治』はくじで決まった
 岩倉はお公家さんですが、合理主義者でしたから、これまで時々の最高の学者と政治家が協力して元号を選ぶ際に行った『改元定の儀式』は無用な論議のくりかえしだ、と批判します。その代わりに、漢学者の考案する多数の元号を優れた識者に三つくらいに絞り込んでもらい、それを天皇に奏上(そうじょう)して『くじ』で決めてもらうというユニークな方法を提案し、実践しています。
 維新を象徴する『明治』元号はくじ引きで決まったのです。そのいきさつは『岩倉公実記』中巻や松平慶永(春嶽)の『逸事史補(いつじしほ)』および『明治天皇紀』巻一に詳しく書かれています。
 最近、私の友人が宮内庁の書陵(しょりょう)部で、四つ折りにされた『明治』と書かれた紙を発見したと知らせてくれましたが、これはひょっとしたら、あのくじ引きに用いられた一枚かもしれません。
 明治天皇は当時満15歳ですから、どの元号を採用するか判断できたとは思いますが、大事なことは臣下の意見をよく聞き、慎重に神意をうかがうことにより、天皇というお立場にある至尊(しそん)が自らお決めになったという形を整えることです。
 そう考えた岩倉は、周囲の識者がきちんとお膳立てをし、人事を尽くしながら、最後は天命を待つというか、神の計らいに委(ゆだ)ねることにしたのです。
 『くじ引きで決めるなんて・・・』と思われるかもしれませんが、これは古代から日本でも外国でも行われてきたことです。たとえば、室町時代に第6代将軍・足利義教はくじ引きで決められたことが知られています。
 しかし、その後、これでは近代的な公議政体としていかがなものかという意見が出て、明治の皇室典範と当極令(とうきょくれい)で法的ルールが定められます。それが大正と昭和の改元に適用され、枢密院で議論をして、その決議を奏上すると天皇がお決めになる勅諚(ちょくじょう)形がとられたのです。
 あの大誤報の真相 
 余談です、昭和と改元された際、いまのM新聞が勇み足の大誤報をしました。大正15年12月25日、新元号を『光文』だとスクープしたのです。巷(ちまた)では、実際『光文』に決まっていたが、政府がスクープを見てから慌てて『昭和』に差し替えた。とまことしやかに言われています。しかし、これはまったく事実ではありません。」
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 天皇号は、国統治として中華帝国・中華皇帝からの独立宣言である。
 元号は、文明・文化として中華世界・中華文明圏からの自立宣言である。
 こうして、日本民族は、国及び文明・文化として中国からの独立を勝ち取り、世界と付きつ離れずの按配路線で生きてきた。
 だが、元号の出典が国書(日本の古典)ではなく漢籍(中国の古典)から選ばれ、中華文明の影響・支配が色濃く残され、文明・文化の独立は未完のまま終わった。
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 日本文明は、好戦的漢族の黄河文明ではなく、黄河文明に滅ぼされた少数民族長江文明の後継文明である。
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 日本の元号は、天皇が暦として時代と時間を支配する宣言であり、天皇が自分の治世における統治理念である。
 天皇一代一元号とは、天皇崩御後に贈られる尊号・諱・諡号である。
 一代一元号時代における日本の歴史は、天皇の御名を尊号・諱・諡号で呼び、歴史書には諱・諡号で記して後世に残す。
 元号を否定する事は、崩御された天皇に贈られる尊号・諱・諡号を否定する事であり、歴史書から天皇の個人名を削除する事を意味する。
 つまり、民族宗教・日本国・日本国民の歴史を否定し抹消する事である。
 裕仁天皇昭和天皇明仁天皇は平成天皇徳仁天皇は令和天皇
 元号を廃止するという事は、崩御された天皇に尊号・諱・諡号を贈らないという不遜行為である。
 それ故に、日本民族日本人は天皇の尊号・諱・諡号となる元号を辱めないように生きている。
 元号とは、そうした尊きものである。
 現代生きている日本人は死亡すれば名前は消え去り歴史に残らないが、天皇の名は、良きにつけ悪しきにつけ、日本国と日本国民が存在する限り日本の歴史さらには世界の歴史に残される。
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 天皇・皇族・皇室に対して、日本民族日本人の一般庶民は愛着を抱き、日本国民日本人の高学歴出身知的エリートは愛着を抱かない。
 反天皇反日的高学歴出身知的エリートは、天皇・皇族・皇室に関わる如何なる事に対して、元号にも否定的である。
 少子高齢化で人口激減する日本では、日本民族日本人は減少し、日本国民日本人が増加する。
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 アメリカ、GHQ、連合国=国連は、日本を大改造する為に昭和天皇天皇制度を利用すべく残したが、将来的に天皇制度を廃絶し天皇・皇族・皇室を消滅させる方策を日本に押しつけた。
 それを実行したのは、ユダヤアメリカ人のマルクス主義者(隠れ共産主義者)と日本人共産主義者達であった。
 血筋・血統に基ずく現皇室の皇統は、反天皇反日勢力から、日本固有の在来種(血筋)である日本産トキ同様に滅びる道を歩かされている。
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