🎌8〕─5─徳川家康は政治権力を天皇の権威より上位に置く為に元号制定権力を利用した。~No.76No.77No.78 * 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 神と神話を信じていた昔の日本は、俗世が神聖を支配する社会で、俗世は神聖の暴走を抑え込んでいた。
 例えれば、原子力発電所の核燃料が神聖であり、核燃料の熱エネルギーを制御している混じりけのない真水が俗世である。
 俗世に生きていた日本は、神聖の暴走を怖れ、その怖れを荒魂・和魂、御霊・怨霊と表現していた。
 神聖の暴走を言霊・音と和歌・文字で見える化したのが、元号の詔であった。
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 現代日本では、言霊・音と和歌・文字の力が弱まり、暴走は神聖ではなく俗世で起き始めている。
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 天皇は、儒学者が中国漢籍から考案した元号江戸幕府に提出し、徳川将軍の許可を得てから公布した。
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 2019年5月2・9日号 週刊新潮「夏裘(かきゅう)冬扇(とせん) 片山杜秀
 将軍様と『万葉集
 令和から、元和(げんわ)という元号を思い出した。字面(じづら)が似ているせいもある。だが、二文字目が和なら、天和(てんわ)や昭和など、他にもたくさんある。字面よりも決め方なのだ。そこに連想されるものがある。
 元和は慶長の次。慶長5年が天下分け目の関ヶ原。勝利した徳川家康が江戸に幕府を開くのは8年。大坂城豊臣氏は20年5月に滅ぼされた。
 その頃の元号は、明治以降のように一世一元ではない。天変地異や政治的重大事があれば変わった。改元を決め新元号を選定するのは、武家の時代になっても、相変わらず朝廷だった。
 ところが家康は、徳川の威光が日本のすべてに及ぶべきだと考えた。徳川の力が、応仁の乱以来の戦国乱世をついに終わらせた。日本を平和は『徳川の平和』。天皇元号、何するものぞ。
 家康は豊臣を滅ぼしたのち、ただちに禁中並(ならび)公家諸法度を作った。その第8条は改元について。元号は、原則として中国で既に使用された元号から選ぶべしと定めた。ただし、もしも条件が揃えば、将来は日本独自の元号であっても可とするとも記してある。
 とにかく家康は慶長20年に、『徳川の平和』をこの国に強く印象づけるため、すぐ改元したかった。中国で使用済みの元号を優先せよと定めたのは、意中の元号がそこにあったからと思われる。元和だ。中国では唐代に使われている。徳川を大元(おおもと)に平和が定まるとの含みだろう。新元号禁中並公家諸法度の制定作業は、並行して行われた。慶長20年7月、元号は元和に。天皇を律する法度も効力を持った。
 こうして家康は、言わば『元号制定権力』を朝廷から取り上げることで、天皇よりも将軍が偉いというイメージを、この国に作り上げた。
 以来、『元号制定権力』は、江戸幕府から明治維新後の新政府に受け継がれ、現在に至っているのだろう。大正や昭和も平成も、そして令和も、政府の責任で考案され、制定された。その意味では同じである。だが、今回の令和は、新元号の見せ方が明らかに違っていた。
 大正と昭和と平成は崩御とリンクした改元。国全体が喪に服していた。お祭り騒ぎには決してならない。為政者が嬉々として新元号の意味を語り、『私が決めました』と言わんばかりに露出するということは、ありえなかった。
 でも、今年の4月1日は祭りだった。
 『元号制定権力』の派手なパフォーマンスがあった。『天皇元号』というよりも、『政府の元号』であるかのように感じられた。
 この国に『第二の江戸幕府』や『第二の徳川家康』が現れた。令和は強力な幕府的政治の時代になるのではないか。私のひとつの妄想です。
 ……」
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 徳川家康は、日本や中国の歴史に詳しく、西洋の国際情勢や世界の経済事情にも関心があり、自分が知り得た知識を政治に応用した。
 後の、歴代将軍は、徳川家康の実績を祖法として護り治世にあたった。
 徳川幕府は、オランダから海外情報を得て、世界の事情をある程度は知っていた。
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 江戸時代の日本を重苦しく支配したのは、仏教でも神道でもなく儒教であった。
 儒学者達は、幕府に朱子学を正学・官学と認めさせ、陽明学など諸派儒教を私学・邪学として表舞台から追放した。
 儒学者山鹿素行は、朱子学を批判してた事を幕府に咎められ、江戸から追放された。
 儒学者達が目指す理想的聖人君主国家とは、中華世界・中華文明圏に組み込み、中華帝国・中華皇帝に臣下の礼をとる道徳国であった。
 故に、儒学者達は中国への憧れが強かった。
 つまり、日本を朝鮮国や琉球国のような国家にするする事であった。
 儒学者は、中華皇帝と対等を主張する日本天皇を認めてはいなかった。
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 日本では、政治権力者や宗教権威者が代わっても、時の支配者万世一系男系天皇家・皇室だけであった。
 日本に於ける時の支配者とは、農耕漁労の生業を司る生命の守護者でもある。
 ゆえに、日本では、政治権力者や宗教権威者による敵対者への虐殺は起きず、金を使った裕福者による貧者の奴隷化もなかった。
 時の支配者・生命の守護者である天皇・皇室を守ったのは、身分低き庶民(百姓や町人)、蔑まれた民(芸能の民や職人)、虐げられた賤民(非人や穢多)、差別された部落民(山の民・川の民・海の民)達であった。
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 世界における時の支配者・生命の守護者とは、宗教的な天地創造の唯一絶対神だけであり、人でもなければ、法律・憲法でもなかった。
 時の支配者・生命の守護者の正統性は、唯一絶対神にだけ存在する。
 何故なら、人は永遠の命を持たながゆえに必ず死ぬからでり、憲法や法律などいとも簡単に書き替えられるからである。
 つまり、私欲・個人欲の強い傲慢な人間など信用できないからである。
 人を殺しモノを奪うのは、神ではなく人であるからである。
 それは、共産主義者マルクス主義者)が行った歴史的な残虐行為を見れば明らかである。
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 共産主義革命暦=人民暦は、宗教を否定する事で正統性としている為に、命溢れ満ち足りた幸せな神の天国暦・仏の極楽暦ではなく、死と暴力が支配する恐怖の地獄暦であった。
 共産主義マルクス主義)は、各地で大虐殺を行い、死体の山と血の池を作ってきた。
 共産主義マルクス主義)は、宗教的な死後の世界を否定する、虚無の思想である。
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 戦前までの日本は、天皇制度廃絶、天皇家・皇室消滅を暴力的人民革命で実行しようとした共産主義マルクス主義)勢力と、一人孤独に戦っていた。
 つまり、日本の戦いは共産主義者マルクス主義者)との冷戦ではなく熱戦であった。
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