🎌4〕─1─母系女系・桓武天皇・文徳の平安京。父系男系・徳川家康・武威の江戸。~No.17No.18No.19 * 

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 天皇制度とは、世俗的男性を排除する閉鎖的性差別制度であり、女性差別や女性蔑視ではない。
 日本の最高神は、天皇家・皇室の祖先神である女性神である。
 日本の男性は、女性神を崇拝する。
 日本神道と日本仏教は、天皇家・皇室の女性神を最高位と崇めている。
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 2017年3月号 新潮45「女系図でたどる驚きの日本史  大塚ひかり
 10、[最終回]なぜ桓武天皇平安京に遷都したのか
 千年の都・京都のそもそもの始まりには、ある『渡来人の母』の存在があった。
 母や妻の出自が、天皇即位の理由、あるいは障壁ともなった古代日本のかたち。
 『渡来人の里』だった京都
 蓮舫議員が二重国籍を持っていたことが話題になったが、山城国京都府南部)に都を遷した桓武天皇の王朝は、今で言えば蓮舫議員のような人(もちろん厳密にいうと違うのですが)、渡来人であふれていた。
 渡来人とは、主に朝鮮半島や中国から日本に移住した人々で、7世紀の畿内の人口の『ほぼ30パーセントが渡来人』(井上満郎『古代の日本と渡来人』)という。ここでいう渡来人は日本に渡って来た人の子孫を含めた渡来系氏族を指す(以下同)。40人のクラスであれば12人がこうした渡来人だったわけである。
 朝鮮半島と日本の関係は古く、『日本書紀』によれば、神功皇后新羅を破った際、高麗と百済の二国も朝貢を始めたといい、とりわけ百済からは多くの技術者や物資が渡来したと記されている。それが3世紀半ばのことだ。
 さらに井上氏によると、5世紀後半、秦の始皇帝の末裔と称する秦氏が嵯峨野。太秦周辺に居住。7世紀後半、百済高句麗が滅亡すると、とりわけ日本と深い関係にあった百済からの亡命者が大挙して渡ってきた。
 そんな渡来人が多く住んでいたのが京都で、今でこそ日本古来の伝統の町というイメージのある京都だが、かつては、『山城国一帯が、渡来人の里だったといってもよい』(井上満郎『平安京の風景』)という。
 天皇の御所である大内裏自体、渡来人の秦河勝の邸宅だったという伝承もあり、中世の辞書『拾う芥抄(しゅうがいしょう)』は〝或記ニ云〟として、
 〝大内裏ハ秦ノ宅也〟(中 第19宮城部)
 とする。左近の桜や右近の橘(たちばな)も秦氏の邸宅にあったもので、桜はもとは梅だったという。
 秦河勝聖徳太子に仕え、物部守屋討伐にも従軍したといわれる。大内裏が彼の邸宅であったからどうかはともかく、広隆寺伏見稲荷松尾大社など、秦氏の関わる寺社は京都に多い。
 桓武はそんな京都に長岡京を造営、784年に遷都した。この造営も渡来人と関わりが深く、トップの藤原種継の母は秦氏であった。ところが翌年、彼が遷都反対派に殺され、関与したとされた早良親王が皇太子をおろされて絶食死。主としてその祟りを恐れ、794年の平安京遷都となったのである。
 天皇の母は百済王族の末裔
 長岡京といい平安京といい、桓武はなぜ渡来人の街に都を遷したのか。
 最大の理由は、桓武の母が渡来人だからだ。
 そしてそのことが、桓武が旧都・奈良から離れた山城国に遷都した理由につながっていく。
 そもそも桓武には『父光仁天皇が新王朝をつくりあげたという意識』があった(佐藤宗諄『長岡京廃都』中山修一編『よみがえる長岡京』所収)。
 つまりは王朝交替意識である。
 光仁は天武系の血を引く旧王朝には属さぬ上、皇位継承者の候補から外れていた。そんな父のもとに生まれた桓武も、父が即位するまで親王宣下も行われない諸王の一人で、母は和氏(やまとのうち)という百済の王族の末裔だ(彼女は光仁即位後〝郄野朝臣〟となり、諱(いみな)を〝にひかさ〟という)。
 身分の低い、いわゆる『卑母』腹の桓武は、鎌倉初期の『水鏡』によれば、
 〝御母賤しくおはす〟
 という理由で立太子を反対されたのを、藤原百川のごり押しで皇太子になったといういきさつがあった。
 そんな桓武は、父の作った新王朝を、血の力でなく、天命によって引き継いだという意識があった(水谷千秋『謎の渡来人 秦氏』など)。その意識が、旧勢力の及ばない新天地に新しい都を作ろうという気持ちにつながったのだ。
 しかも彼は母方の渡来人の血へのこだわりがあり、母の死から2ヶ月後の790年2月、わざわざ、
 〝百済王等(くだらのこにきしたち)は朕(ちん)が外戚(ぐわいせき)なり〟(『続日本紀延暦9年2月27日条)
 と詔して、百済王氏数人に加階している。百済王氏とは、百済滅亡後、日本に亡命、持統天皇の時、その氏名を賜った人々だ。
 桓武によって征夷代将軍に任ぜられた坂上田村麻呂も、その父苅田麻呂によれば、
 〝後漢霊帝(ごかんれいてい)の曾孫阿智王(あちおう)の後(すえ)〟(同延暦4年6月2日条)
 という。こちらの真実性には疑問もなるが、渡来人であるのは確かだろう。
 このように渡来人を重用した桓武は、渡来人を妻に迎えてもいる。
 桓武の妻は系図には書き切れないほど多く、『本朝皇胤紹運録』で数えると子を生んだ妻だけでも21人もいて、……。妻の多さという点では、あとで触れる継体天皇に通じるものがあり(同9人)、自分の代で新たな血筋を増やそうという新王朝の自覚がここからもうかがえる。
 ……母親と同じ百済系や、漢氏系の坂上氏の娘など、渡来人の妻が6人もいることだ(森浩一・上田正昭編『継体大王と渡来人』によれば百済王氏の出身の妻だけでも9人もいるという)。
 百済永継もその一人で、彼女はもともと藤原内麻呂の妻として、真夏や冬嗣を生んでいる。それが女官として仕えるうちに桓武に愛されて皇子(良岑安世)を生む。歌人僧正遍昭はその息子だ。内麻呂との子の冬嗣は藤原道長の祖先に当たる。冬嗣も僧正遍昭百済系の血が流れているわけで、紫式部の主人筋で愛人でもあった道長にもその血は受け継がれている。
 唐に滅ぼされて日本に亡命してきた百済王氏は、それまでも日本の朝廷で尊重されていたものの、桓武が、百済継縄の妻である百済王明信を重用して以来、急に天皇個人との関係が深まったらしい(井上満郎『古代の日本と渡来人』)。
 百済王明信内侍司の長官である尚侍(ないしのかみ)になっている。尚侍は、810年に藤原薬子の変(平城上皇復位の陰謀)が起きるまで、天皇のことばを一手に伝え、男の大臣にまさるとも劣らなぬ権勢を持っていた。そんな女の最高ポストに〝百済〟という 外国名を冠する渡来人が就任していたのだから、蓮舫顔負けではないか。
 権力の中枢にあった藤原氏も、渡来人を妻にしている。
 先にも触れた長岡京造営トップの藤原種継藤原薬子はその娘だ)、『尊卑分脈』によれば平安京造営使だった藤原小黒麻呂は、それぞれ秦氏の母や妻を持つ。
 『長岡京平安京造営の領導は秦氏とコネクションのある人物でなければ務まらなかった』(水谷千秋『謎の渡来人 秦氏』)
 という意見に賛成だ。秦氏にしてみれば、平安京誘致に成功したことで、権力の中枢により近づくことができたわけである。
 妻子のおかげで即位できたミカド
平安遷都の理由は多々あれど、女系図的には、桓武の母が渡来人だったため、その本拠地を選んだ、と言える。
 そもそも桓武の父の光仁天皇が62歳の高齢で皇位についても、女系図的な理由からだ。
 白壁王(光仁)は、有力な外戚もない諸王に過ぎなかった。系図からしてもそれまでの皇統から外れている。それがなぜ即位できたかというと、孝謙(称徳)天皇の在位中に、道祖王塩焼王不破内親王といっためぼしい皇太子や皇太子候補が殺されたり配流されたりしてしまい、天皇のなり手がいなかったということもあるが、決め手は妻の井上内親王聖武天皇の皇女であり、他戸親王という皇子を生んでいたからだ。つまりは旧王朝につながる妻子がいたためだ。
 光仁は妻子のおかげで天皇になれたわけで、他戸親王が即位するまでのいわゆば中継ぎとして即位したのである。
 天皇家では、こんなふうに『女系ゆえに即位する』あるいは『即位してから女系によって王権を強化する』ということがそれまでも行われていた。
 有名なのが継体天皇(大王)だ(天皇の称号は天武のころ始まり、それまでは大王。皇后は大后。天智、天武といった呼び名も死後の漢風諡で、8世紀後半に決められたが、煩雑になるので諡で呼ぶ)。
 応神の5代の末という天皇(大王)の血の薄い継体は、越前から迎えられたものの、すぐには大和に入れず、20年近くも河内にとどまったことで有名だ。
 そんな彼と安閑・宣化といった息子の二人は、旧王朝の仁賢の皇女たちを、三代にわたって皇后にした。
 これによってやっと彼らは豪族たちに天皇(大王)と認められたわけだ。
 雄略も似たケースである。
 『古事記』によると彼は、当時の最高権力者だった葛城氏のツブラノ大臣(『日本書紀』など他書と漢字が異なる人物名は片仮名にする。以下同)、二人の兄やいとこのイチヘノオシハノ王といった天皇(大王)候補たちを殺して即位した。
 とりわけイチヘノオシハノ王は『播磨国風土記』には〝市辺天皇命〟と記されており(美?郡条)、歴代天皇の確定以前には天皇(大王)と見なされていた。そんな王を殺して即位した雄略の王位が危ういものであったろうことは『古事記』『日本書紀』に見える葛城の神のやり取りからも浮き彫りになる。
 彼は葛城山天皇行幸とまるで同じ、共の人々の服装も人数もそっくりな人に遭遇。激怒するものの、相手が〝葛城之一言主之大神〟(『日本書紀』では〝一事主神〟)と分かると一転、大刀を外し、共の人々の服を脱がせ、排んで献上した。『日本書紀』の同様の逸話では、共に狩りを楽しみ、それを見た人は〝徳有る天皇也〟と雄略を褒めた、という。
 〝葛城之一事主之大神〟とは葛城氏信奉する神で、当時、天皇家にまさるとも劣らぬ家柄であった葛城氏そのものを指すとみていい(前回、藤原光明子立后で先例に挙げられた仁徳の皇后のイハノヒメは葛城氏である)。
 この逸話の意味するところは要するに、雄略が葛城の神=葛城氏にも認められた正統な大王であると言いたいのだと私は考える。
 流動的だった天皇の地位 
 そのように旧勢力に認められる逸話が必要なほど、雄略の地位は危うかったのだ。彼が仁徳の皇女や、葛城氏の娘を妻にしたのは、敵方の女を戦利品として得るという意味もさることながら、旧権力の血をフォローすることで、豪族たちを納得させる意味が強かったと思う。
 天皇という現代人は絶対的なものと考えがちだが、〝大王〟と呼ばれていた天武以前の彼らの地位は流動的だ。『古事記』『日本書紀』(以下、記紀)では天皇とされない人物も古くからの伝承を伝える『風土記』では天皇とされていたりする。先のイチヘノオシハノ王のほか、神功皇后ヤマトタケル命、仁徳天皇皇位を譲り合って自殺したと『日本書紀』には記されるウヂノワキイラッコも、『風土記』では〝天皇〟だ。平安時代の『扶桑略記』ではイチヘノオシハノ王の姉妹(『日本書紀』顕宗即位前紀では娘)のイヒドヨノ王も〝天皇〟と記されている。逆にいうと記紀では天皇とされていても、彼らの生存当時、王権が認められていたとは限らない。記紀は当時の天皇家に都合良く書かれた歴史書に過ぎず、そこに記された過去の天皇(大王)は、必ずしものちの天皇のように揺るぎない王権を持っていたわけではないのだ。
 ともすると揺らぎがちな王権を少しでも強化するための手段の一つが旧王朝・旧勢力の女との結婚で、これとはややニュアンスが違うものの、敏達の皇后だった炊屋姫(かしきやひめ:のちの推古)を、皇位を狙う穴穂部皇子(あなほべみこ)が犯そうとしたのも(『日本書紀用明天皇元年5月条)、それが皇位への早道だったからである。
 古代天皇(大王)家は、女系図で皇統をつないでいた。
 奈良朝最後の天皇である光仁は、そんな古代天皇家の伝統にのっとり、女系図的に即位できたわけだが。772年、光仁天皇に押し上げたほかならぬ井上内親王が、夫を呪詛したという罪で皇后の地位を廃され、他戸親王もその息子ということで皇太子を廃されてしまう。二人は3年後、ほぼ同時期に死ぬ。おそらく殺されたのだろう。一連の事件は、桓武の即位を目論む藤原百川の陰謀というのが定説だ。
 古代天皇・豪族を支えた母方の力
 古代の天皇(大王)は、桓武に限らず、母方を強く意識していることが多い。
 推古天皇が、叔父の蘇我馬子に朝廷領である葛城県(かづらぎのあがた)を請われた時、
 〝朕(われ)蘇何(そが)より出でたり〟(『日本書紀推古天皇32年10月条)
 と言ったのもその例だ。
 葛城県はもともとは葛城氏の土地で、雄略に攻められたツブラノ大臣が、娘と共に献上して以来、朝廷領となっていた。推古は結局、叔父である馬子の申し出を断るとはいえ、彼女には蘇我の一族という強い意識があった。
 蘇我馬子が葛城県を請うたのも、馬子によれば彼の〝本居(うぶすな)〟(生まれた故郷)ゆえで、遠山美觥男は、馬子の母は葛城氏であるという。
 ぽっと出る蘇我氏が、馬子の父稲目の代で、娘2人を欽明天皇に入内させることができたのは、由緒ある葛城氏の娘と結婚したからというのだ(『蘇我氏四代』)。
 古代人が母方を意識し重視するのは、基本的には子は母方や乳母のもとで育っていた当時、財力・政治力・知力など、あらゆる面で母方の影響力が、父方のそれより大きいことが多いが多いからだ。
 古代の王族にとっては『父方の親族は王位を争ういわばライバル同士』であるのに対し、『母方の親族こそが我がミウチ』(水谷千秋『謎の大王 継体天皇』)という意識だったという指摘もある。
 『王位を狙う皇子たちの多くは、母方の豪族の支援を受けて、ライバルたちと争った』(水谷千秋『継体天皇朝鮮半島の謎』)わけだ。
 母方の支援を受けるのは豪族たちも同様である。……
 蘇我稲目天皇家に劣らぬ名族葛城氏と結婚し、生まれた馬子が〝大臣〟となって権勢を振るう。 
 その馬子は天皇家より先に地上を支配していた物部氏と結婚、生まれた蝦夷は、〝母が財(たから)に因りて、威(いきほひ)を世に取れり〟
 と言われ、孫の入鹿の弟は祖母にちなんで〝物部大臣〟と呼ばれた(『日本書紀皇極天皇2年10月6日条)。
 物部氏の祖先のニギハヤヒノ命は、天皇家の祖先であるニニギノ命より一歩先に降臨し、大和を統治していた(同神武天皇即位前紀)。
 物部氏天皇家より古い統治者であることは、天皇側の歴史書に書かざるを得ぬほど自明のことだったのだ。……孝元の妃だったイカガシコメが孝元の子の開化の皇后になっている、つまりは父子2代の妻になっていることで、天皇(大王)家側からすれば、物部氏の娘と結婚しなければ王位を保てない、あるいは王位を得られぬ理由があったのではないか。称徳天皇孝謙重祚)が即位させようとした弓削道鏡はそんな物部氏の子孫で、藤原仲麻呂によれば『祖先の地位と名を継ごうとたくらんでいる』といい、それを称徳は『人として自分の祖先の名を興し、継ぎ広めようと願わぬ者はいない』とかばっている(『続日本紀天平宝字8年9月20日条)。称徳は、物部氏の血を引く道鏡に、天皇の資格があると考えたのかもしれない。ちなみに物部守屋が物部弓削道鏡と呼ばれたのも、母が弓削氏だからである(『先代旧事本紀』巻第5)。
 早くから大和で力を持っていた物部氏には巨万の富と土地があり、蘇我馬子はそんな物部弓削守屋の妹と結婚することで、地位を固めた。
 入鹿がのちに中臣鎌足中大兄皇子に殺され、蘇我氏が『滅亡』することになるのは、こうした母方の物部守屋を、蘇我馬子らが殺し、滅ぼしてしまったからかもしれない。
 今も行き続ける『滅亡』の一族
 と、書いたものの、女系図から見れば、物部氏蘇我氏も滅びてはいない。
 ……
 物部氏の歴史書先代旧事本紀』によれば、守屋の子の雄君(をきみ)は2人の子をもうけているし、守屋の弟の御狩(みかり)曾孫の公麻呂(きみまろ)は〝石上朝臣〟の姓を賜って、その後も命脈を保っている(巻第5)。
 蘇我氏はさらにはっきり栄華を極めた。
 藤原不比等の妻となり、武智麻呂、房前、宇合(うまかい)を生んだ蘇我娼子は、滅びた入鹿のいとこの子だ。その血は摂関家はもちろん、鎌倉将軍家にも天皇家にも、『源氏物語』の紫式部にさえつながっている。
 大伴家持の時代には落ちぶれたといわれる古代の名族大伴氏も、中臣鎌足の母方であることによって、藤原氏に血を注ぎ込んだ。
 唐に滅ぼされた百済王家も、桓武天皇の母方となることで、葛城氏や蘇我氏や大伴氏、藤原氏と混ざり合い、今も行き続けているのだ」
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 2017年3月12日 朝日新聞「読書・書評欄。
 評・原武史
 『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 笠谷和比古〈著〉
 死後の体制転覆を恐れた理由
 中華帝国や朝鮮王朝のように、儒教が体制を正当化するイデオロギーとして定着していれば、皇帝や国王は『天』から支配の正統性を与えられる。そこでは武力ではなく、儒教的な徳をもつことが『民』を統治するための重要な条件となる。たとえ武力がなくても、支配者が『民』から徳をもっていると思われている限り、王朝の交代は起こらないものとされた。
 だが、日本では中国や朝鮮ほど儒教が政治思想として定着しなかった。このため天下統一しても、支配者は武力を解くことができず、自らが死んだ途端に体制が覆されるのではないかという幻想におびえ続けなければならなかった。
 本書を読むと、徳川家康こそはこうした幻想にとらわれた最大の人物ではなかったかという思いに襲われる。
 家康は決して、関ヶ原合戦に勝って江戸に幕府を開いた時点で幕藩体制と呼ばれる全国的な支配を築き上げたわけではなかった。大坂(現・大阪)には依然として豊臣秀吉の側室、淀殿とその息子の秀頼がおり、幕府成立後も権威を保っていた。家康が西日本に全く徳川系大名を配置しなかったのも、東日本は徳川家と将軍が支配するのに対し、西日本は豊臣家と秀頼が支配する『二重公儀体制』を構想していたからだ。
 しかし家康は同時に、自らの死をきっかけとして、この体制のバランスが崩れ、関ヶ原合戦の負け組であった大名が秀頼を戴(いただ)いて徳川討伐の軍を起こすのではないかと考えていた。家康が大阪の陣で豊臣家を滅ぼしたのは、それを未然に防ぐためであったのだ。
 見事な考察である。長年にわたり近世史を研究してきた筆者ならではの魅力的な説と言ってよい。家康は江戸に幕府を開いてから将軍職を息子の秀忠に譲ったが、なお大御所として実権を握っていた。一方、大坂城では秀頼の生母に当たる淀殿が後見として権力をもっていた。つまり二重公儀体制とは、東日本を『父』が、西日本を『母』が支配する体制と言い換えることもできるのではないか。
 家康は源頼朝を尊崇し、鎌倉時代の歴史書吾妻鏡』を愛読していた。そこには頼朝の死後に頼朝の正室源頼家や実朝の生母だった北条政子が支配者となり、承久の乱に際して北条の軍勢を鼓舞する勇姿(ゆうし)が描かれている。本書の説が正しいとすれば、家康が最も恐れたのは自らの死後、淀殿北条政子のような存在になることではなかったか。大坂の陣とは、豊臣家を武力で滅ぼすとともに、『母』の権力を封じることで『父』の支配権を確立させるための戦いだったように思われてならない」
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 2017年4月号 Voice「皇位継承は男系に限る 小林節 / 聞き手、吉木誉絵
 ……
 他家のの男を排除する知恵
 ──女系天皇を認めるか否かについてはどうですか。
 小林 男系男子の継承という『万世一系』がこれまで続いてきたことが、日本を天皇制のユニークなところです。なぜこの伝統が長年続いてきたのか。それは争いが少ない制度だったからではないでしょうか。
 ヨーロッパの王家の例のように、男系だけでなく、女子とよその男性のあいだにできた子供にまで王位継承権を求めると、いくつもの王朝が乱立して覇権争いが激しくなる。日本を天皇家女系天皇を認めていれば、源王朝や豊臣王朝、徳川王朝などができていたかもしれません。そうなると、どちらの系統が正統かという争いが起きて、結果的に天皇の権威は弱くなってしまっていたでしょう。
 その点、天皇家の男性以外は天皇になれないとなれば、誰も皇位を簒奪して新しい王朝を立てようとしないから、争いも起こらない。要するに、この世の権力闘争とは離れたところに神的な存在として天皇が存続してきたことに価値があるのです。伝統は伝統なるがゆえに尊いのです。そうした伝統に対して、われわれは敬意をもって向かい合うべきです。
 ──皇位を男系に限定してきたことこそ、天皇制がこれまで続いてきた理由だというのですね。では、どのようにしてこれから男系を維持するのでしょうか。
 小林 旧皇族の男系男子を皇室に復活させるという方法があります。そもそも戦後に皇族から外された宮家というのは、マッカーサー率いるGHQによって恣意(しい)的に排除されたものです。これを元に戻すことも、戦後日本のある種の自主独立の回復です。
 繰り返しますが、天皇制の存続を維持するために、われわれがいま工夫をするならば、旧皇族の皇室復帰という選択肢をまず考えるべきではないでしょうか。国民がそれを納得しないというのであれば、皇室典範を改正して、男系の旧皇族のなかの男子を女性しかいない現宮家の養子にするという方法もあるでしょう。
 ──もし女系天皇が誕生しても、旧宮家に男系の方が残っている。そうすると『天皇は男系であるべきであり、女系天皇は認めない』という人たちが出てきて、日本国民統合の象徴としての天皇の権威が損なわれると危惧しています。
 小林 まさにそのとおりです。こういう歴史的制度に触れるときは、決して無理をしてはいけないのです。女系天皇を認めるというのは、ある意味で革命なんですよ、万世一系の伝統が崩れたものをはたして天皇制といえるのでしょうか。天皇陛下が出てくると、一瞬で国民は静粛な気持ちになる。熾烈(しれつ)な選挙戦を戦ってきた政治家たちも、国会の開会式で天皇陛下のお言葉をうかがってから、あらためて仕事を始める。一種のお清めなんですよね。
 ──『男系だけを認める天皇制は男女平等の現代にそぐわない』ということもよくいわれます。
 小林 むしろ皇室には、一般の女性が入ることはできても、男性が入ることはできません。歴史的に天皇制は女性よりも男性を排除してきた制度ともいえるでしょう。
 しかも、よその男性が皇位継承に関係する制度にすると、必ず争いが起きます。そう考えると、男系による皇位継承は、じつは他家の男を排除することによって秩序を保つ知恵だったのではないかと思います。そういう日本人の叡知の結晶が天皇制であり、その天皇制こそが日本の伝統と平和を長年にわたり守ってきたのではないでしゅか」
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 古代日本に逃げ込んだ戦争難民である帰化人や渡来人は、現代日本に仕事を求めて合法・不法で移住してくる移民・難民とは全く異なる。
 昔の帰化人・渡来人と現代の移民・難民を同列に見るのは間違っているし、危険な事である。
 古代日本に亡命してきたのは、王侯貴族や高官・将軍とその家族郎等が大半で、高度な教養を持ち最先端の技術に精通し、国家を運営し社会を豊かにする知識・能力が高かった。
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 親日派百済国王は、ヤマト大王に臣下を誓い、王子を人質として差し出していた。
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 母系女系からすれば、天皇家や藤原家など有力貴族も親日派百済帰化人の血が流れている。
 父系男系は血筋が途絶えて滅びるが、母系女系は血筋が途絶える事なく滅びない。
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 日本天皇は、天命を失った中華皇帝が滅亡し、巨大な軍事力を持った覇者(漢族や異民族に関係なく)が天命を受けて中華皇帝として誕生する際の大流血の大惨事を食い止める為に存在していた。
 天皇制度とは、何らかの原因で秩序が崩壊し混乱が広がり戦争が発生した際、速やかに戦争を終結させ混乱を鎮め秩序を回復する為の平和な安全装置であった。
 日本民族日本人は、気弱な為に「場の空気という船の論理」で社会を安定させ、死滅に至る争いを避けるべく天皇制度を作り、自己を犠牲にしても天皇制度=国體を守ってきた。
 それ故に、天皇家・皇室を消滅から守る為に一般人が持っている「氏姓」を捨てさせた。
 氏姓を持たないという事は、そこに存在するのに煙のような陽炎のような消し去ることができない不可思議な存在ということである。
 氏姓を持つという事は実体化する事であり、私欲で栄耀栄華を勝ち取って皇帝にも国王にも成れるが同時に滅びる事を意味する。
 日本の「同調圧力・場の空気という船の論理」は、世界の非常識として世界では通用しない。
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 中華儒教は、「雌鳥歌えば家滅ぶ」として、父系男系社会を理想社かであるとして社会規範を「男尊女卑」と定め、女性から全ての権利を剥奪して社会の表から追い出し家の奥に閉じ込めた。
 正統派儒教である朱子学は異常なほどに「男尊女卑」を徹底させ、妻・女性は夫・男性の所有物であり、男児は大事にされたが、女児は人以下家畜以上の生き物として取り扱われた。
 中国や朝鮮の夫婦別姓は、男尊女卑の儒教価値観に基づき妻の権利と女性の尊厳を守るものではなく、性差別として妻を家族一員とは認めず内輪から排除する事である。
 だが、儒教理想社会は、人々を幸せにし平穏な生活をもたらすどころか、人々を恐怖の不寛容社会に追いやり戦乱の地獄世界に突き落としていた。
 儒教とは、「徳」を持った皇帝・天子・統治者を君子とし、智恵なき愚かな小人が平伏して従う、という超えてはならない上下関係の身分を徹底して教える教えであった。
 それは、虐殺と略奪という戦乱の中国史が証明している。
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 中国史において、戦乱のない平和な時代は極わずかで、大半が殺し合いの戦乱の時代である。
 その原因は、徳を持って皇帝に即位した天帝の子・天子が、易姓革命でコロコロ変わった為である。
 中国の「徳」は表看板に過ぎず、実体は「武」で、修めるべきは「仁・義・礼」ではなく「謀」であった。
 中国には、徳はおろか仁・義・礼などあらゆる徳目が元々存在しなかった。




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