🎌13〕─3─日本教=天皇教の教義は、忖度、配慮、おもんばかる、空気、空気圧、同調圧力、甘えである。~No.100No.101No.102 * 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 その場を支配する同調圧力の重苦しい「空気」が、不寛容なキリスト教を排除し、厳格な儒教を骨抜きにし、仏教と道教を吸収した。
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 ジャン=バプティスト・アルフォンス・カー「変われば変わるほど変わらない」
 新しいモノ好きな好奇心が旺盛な日本人は、海の外から渡って来た外来文化・外来宗教・外来思想・外来観念などを、無節操なまでに積極的に取り込み、日本人向けに改善し工夫を懲らした。
 日本言語の発音に変換し、日本語の漢字・平仮名・片仮名に翻訳して、差別する事なく受け入れ、日本古来のモノと雑居させて消化し日本文化の一部とした。
 全てが、和製化した。
 絶えず襲来してくる外来化の刺激で表層・新層は変化を遂げようとも、日本古来の深層・古層は微動だにせず変化しない。
 見た目の形態が流動的に変わろうとも、本質の構造は同一性を以て不変である。
 中心に堅固な核を持つ日本文化は、内外の変化を受けて揺れ動くが、変化と不変をバランス良く保っている。
 芥川龍之介「我々の力と云うのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです」
 「事によると泥烏須(デウス)自身も、この国の土人に変わるでしょう。支那や印度も変わったのです。西洋も変わらなければなりません。我々は木々の中にもいます。浅い水の流れにもいます。薔薇の花を渡る風にもいます。寺の壁に残る夕明にもいます。どこにでも、またいつでもいます。御気をつけなさい。御気をつけなさい。」(『神々の微笑』)
 イザヤ・ベンダサン山本七平)「日本教という宗教は厳として存在する。これは世界でも強固な宗教である。というのは、その信徒自身すら自覚しえぬまでに完全に浸透しきっているからである」
 「日本教徒を他宗教に改宗させことが可能だとと考える人間がいたら、まさに正気の沙汰ではない」
 「宣教師はよく日本人は無宗教だというし、日本人もそういう。無宗教人などという人種は純粋培養でもしなければ出来ない相談だし、本当に無宗教なら、どの宗教にもすぐ染まるはずである」(『日本人とユダヤ人』)
 ラカン(フランス精神分析家)「彼ら(日本人)は何でも翻訳してしまう」
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 空気・空気圧・甘えは、現代日本では強いが、昔の日本では弱かった。
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 日本の空気・空気圧・甘えは、世界では通用しないし、日本人以外の外国人には理解されない。
 日本人が特殊であると言えても、優秀と言う事ではない。
 日本の常識は、世界では非常識である。
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 2017年12月21日号 週刊文春宮崎哲弥の時々砲弾
 空気の国の人だもの。
 日本の政治的言語空間は変わらない。最近、つくづくそう痛感する。この20年ほど日本政治は揺動し続けた。ベースに『失われた20年』という長期にわたる経済停滞があり、さらに幾つかの大きな危機に直面した。政治的人災というべき無謀な改革政策の強行や悲惨な政権交代も経験した。
 こうした危機の歴史も、日本人の政治感覚を変えることは遂にできなかった。
 評論家の山本七平は、日本社会の特質を解析するために『空気』という概念装置を案出した。代表的著作『「空気」の研究』(文春文庫)はいまも息長く読み継がれている。
 山本によれば『空気』とは、特定の組織(例えば政府、政党、メディア、企業など)や、あるいは日本社会全体が、何の合理的、合目的な根拠もない、その場限りの暗黙裡の合意に流されてしまう構造のことである。『空気』という無主体、無定型の影響力が醸成(じょうせい)され、『そこ』に居合わせた人々の意思を拘束する。
 『そこ』には平素(へいそ)とは異なる、強固な同調圧力が掛かる。つまり異論の差し挟みを許さず、全員が暗黙の合意の威力に靡(なび)かなければならないとする極端な排他性が漲(みなぎ)っている。『空気』に『水を差す』行いは禁忌なのだ。
 従って、後で大勢に雷同したことを咎め立てられたとき、人は『あの場の「空気」には逆らえなかった』と弁解するしかない。理屈では説明できないのだ。まして『日本教徒』ならざる外国人には理解不能である。
 同書には『空気』の発生例として、先大戦末期における戦艦大和の無謀、無意味な出撃決定が挙げてある。
 『大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確な根拠がある。だふぁ一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら「空気」なのである』
 いまも政治的意思決定からメディア論調まで、安全保障問題から医療問題まで、あらゆる場面で『空気』の発生が確認できる。『空気』は、社会学的にみれば集合現象の一パターンだが、宗教学的にみれば『日本教』という日本人の大多数が自覚なしに信仰しているみえざる宗教の、絶対的な教義でもあるという。
 『日本教』解明は、社会科学者の小室直樹氏との共著『日本教社会学』(ビジネス社)でさらなる展開を遂げる。日本人の特殊な政治感覚が『天秤』の喩えで表現されている。この『天秤』の支点は『人間』あるいは『自然』である。だが、両者とも価値基準としてしっかり定義されているわけではない。『何が人間的行為か』『自然とは何を指すのか』を問い、おそらく『水を差す』振舞であり『日本教』の教義に抵触するのだ。
 『天秤』の片方の皿には『実体語』が乗せられる。歴史的事象でいえば『開国は必要だ』とか『ポツダム宣言を受諾するしかない』といった言説だ。片方の皿には『攘夷断行』や『一億玉砕』の主張、『空体語』が積まれる。山本はいう。
 『この空体語がないともう何も機能しない。ところが、一億玉砕というのは極限ですね。どうもできませんね、これ以上は。これ以上もう空体語を積めなくなる。そうすると天秤の支点を移動させてバランスをとろうとする。ところが支点を限度まで動かして、なおバランスがくずれれば、天秤はくるりと一回転して空体語も実体語もふり落とす、これが終戦です。両者の言葉が落ちてしまう』(前掲書)
 このモデルで重要なのは『実体語』と『空体語』の平衡にこそ日本社会は安定をみるということだ。決して『空体語』が理念主義を基礎として言辞というわけではないし、『実体語』が現実主義に根ざした主張というわけでもない。双方バランスを取るための錘(おもり)に過ぎない。そもそも基軸が『人間』『自然』という曖昧で可変的な価値なのだから当然といえば当然だ。
 私達はいまも『空気』と『天秤』の国の住人だ」
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 日本には、世にも奇妙な夜這い文化があった。
 神社の夜祭りは、知らない男女が出会う性の祭りでもあった。
 キリスト教倫理から見れば、悪魔教のクロミサ的な背徳行為である。
 儒教道徳から見れば、教養なき野蛮行為であった。
 神道的な庶民文化は、儒教的な武士社会とは事なり「若気の至り」に寛容な文化であった。
 ムラの伝統は、同じ男女を相手にした事があるだろうという意識の横軸と血のつながった実母ではなく他人の子かも知れないという縦軸で織りなされている。
 ムラの夜這い文化と性の夜祭り文化は、不道徳なほど悪趣味であるが、同じ村に住む仲間や家族を大切する団結力をもたらしていた。
 日本の垣根の低い性意識は、性生活では神より人間に従うという日本の古層に根を下ろしている。
 ムラを支配してるのは、信仰心ではなく、理性でもなく、理屈でもなく、同調・共鳴・共振し合う「その場の空気」であった。
 ムラ人は、神社寺院の祭りや行事、百姓一揆には徒党を組んだ。
 参加しない者で、病気や怪我あいは身内の不幸など皆が納得する理由がなければ近所付き合いが断たれた。
 空気に逆らう者は、村八分にされた。



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