🏹53〕─1─東山文化。足利義政が現代日本人の原型。外交権は天皇。軍事権は幕府。~No.168No.169 * 

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 ドナルド・キーン足利義政現代日本人の原型」
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 内藤湖南応仁の乱からでいい」
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 東山文化は、日本独自の文化であり、中国や朝鮮とは無関係である。
 奈良時代頃までは朝鮮との関係はあったが、それ以降は没交渉だり、国交はなく、当然友好もなかった。
 中国に対しては、個人が私的に交易していたが、国としての交流は菅原道真が894年に遣唐使を中止して途絶えた。
 日本の公式外交権は、徳川幕府までは天皇・朝廷にあった。
 日本における唯一の統治者は、天皇であった。
 平清盛の日宋交易、鎌倉幕府時代の日元交易、足利義満の日明交易・勘合貿易なども、個人交易であって国家交易ではなかった。
 日本国としは、中国や朝鮮との国交は断絶していた。
 中国や朝鮮と国交を断絶し、私的交易として金と物の取引をしていても、公的な人との往来を断絶した時が、日本は豊かであり、日本は平和であり、日本人は幸せであった。
 日本は日本であり、中国や朝鮮とは関係ない。
 敬意を払い尊重する相手ではあるが、感謝する相手でもなく、尊敬する相手でもなく、ましてや自分を卑下してまでへりくだらなければならない偉大な相手でもない。
 日本は日本である。
 その始まりが東山文化である。
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 孝明天皇日米和親条約に猛反対し徳川幕府に勅許を与えなかったのは、国の外交権が幕府ではなく朝廷にあったからである。
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 日本の統治では外交権と軍事権は別で、天皇は外交権を独占し軍事権は幕府が委託した。 
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 ウィキペディア
 東山文化とは、室町時代中期の文化を指す用語。八代将軍足利義政(1436年-1490年)が築いた京都の東山山荘を中心に、武家、公家、禅僧らの文化が融合して生まれたとされる。慈照寺銀閣は東山文化を代表する建築である。
 概要
 応仁の乱(1467年)以降、戦乱に明け暮れる世の中になったが、一方では能、茶道、華道、庭園、建築、連歌など多様な芸術が花開いた時代で、それらは次第に庶民にも浸透し、今日まで続く日本的な文化を数多く生み出した。また、京都が戦火に見舞われたことで多くの文化人・知識人が地方の守護大名のもとへ身を寄せたため、文化の地方伝播が進行した。貴族的・華麗な足利義満北山文化に対して、幽玄、わび・さびに通じる美意識に支えられていると評される。

 建築
 慈照寺銀閣:正式には慈照寺観音殿。一層は住宅風の書院造、二層は禅宗様(唐様)の仏殿という構成になっている。
慈照寺東求堂:持仏堂。四畳半の部屋(同仁斎)は義政の書斎で初期の書院造建築として知られる。茶室の起源とも、近代和風建築の原型ともなった。
 大笹原神社本殿

 庭園
 竜安寺方丈庭園
 長方形の庭に白砂を敷き、15個の石を配する。一木一草も用いず、きわめて象徴的な表現で自然をそこに写し出す手法を採っている。渓流を虎が児をともなって渡るようにみえるため「虎の子渡し」の俗称をもつ。相阿弥の作といい、細川勝元の作ともいうが、ともに確かでない[1]。庭石に「徳次良」「小太良」の2名の名が刻まれているが、実際に石を組んだ河原者の名であろうと考えられている。
 大徳寺大仙院庭園
 枯山水の代表的な庭園のひとつ。深山幽谷を発した水が、落瀑となり、大河となって流れていく全景を石と白砂をもって象徴的に表現している。16世紀初めの作庭といわれる。 
 絵画
 狩野正信(1434年-1530年):狩野派の祖。小栗宗湛のあと幕府の御用絵師になる。
 土佐光信(生没年不詳):土佐派の祖。宮廷絵所預になる。水墨画大和絵を融合。
 雪舟(1420年-1506年):日本風の水墨画を大成。大内氏の庇護を受ける。

 工芸
 後藤祐乗(1440年-1512年):金工。義政に仕え、刀剣金具の製作を行う。
 幸阿弥家:漆工
 五十嵐家:漆工
 相阿弥:盆庭
 
 文化
 茶道
 村田珠光(1422年-1502年):一休宗純に師事、義政に仕えたとされる。禅を茶の湯に加味し、茶道の祖と言われる。

 華道
 池坊専慶

 香道

 連歌

 仏教
 臨済宗
 一休宗純
 浄土真宗
 日蓮宗

 室町文化
 歴史学で昭和初期から「東山時代」という用語が使われるようになり(笹川種郎「東山時代の文化」1928年、など)、東山時代の文化の意味で「東山文化」という用語が生まれた。のちにこれと対比して北山文化という用語も生まれた。当時は南朝が正統とされていたことから、室町時代のことが中々正面切って論じられなかったという背景もあったようである。
 しかし、東山文化がいつ始まりいつまで続いたか区分が明確でないことや、義持・義教の時代が無視されてしまうことへの批判、禅宗の影響や公家文化と武家文化の融合など共通性が多いことから、今日の歴史学では両者を合わせて「室町文化」として論じるのが一般的であるという。
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 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
 東山文化
 室町幕府8代将軍足利義政の営んだ東山山荘 (慈照寺銀閣) に象徴される室町時代中期 (東山時代) の文化。北山文化に対する称。応仁の乱前後,幕府の権威が失墜し不安定な世相を呈したが,義政とその周辺に,公家,僧侶,武家,町人など,従前にみられないほど広範な階層が参加できる場がつくられ,伝統的な公家文化と武家文化,禅宗思想を基調とした宋文化,庶民文化などが融合した文化が形成された。書院造の建築が行われ,また庭園造りや生け花,茶の湯,聞香 (ぶんこう) なども盛んとなり,能楽や曲舞 (くせまい) ,幸若 (こうわか) 舞なども発展していった。水墨画では雪舟や相阿弥,大和絵では土佐光信,漢画では狩野正信,蒔絵に幸阿弥,金工として後藤祐乗,連歌では宗祇や心敬,学問では一条兼良らが出て活躍し,その後の日本文化の源流となった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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 百科事典マイペディアの解説
 東山文化【ひがしやまぶんか】
室町幕府8代将軍足利義政時代の文化。広義には15世紀後半の文化をさす。政治的に無力であった義政は東山に山荘(銀閣)を造ってここに逃避し,風流の生活を送って美術工芸に著しい発展の機を与えた。東山文化を形成したのは公家・武家的要素と禅宗的要素で,〈わび〉〈さび〉と呼ばれる幽玄性を特徴とする。学問・文学では有職(ゆうそく)故実や古典研究,五山文学の発達をみ,連歌(れんが)には飯尾宗祇が出た。水墨画が禅僧の間に行われ,雪舟によって完成の域に達し,また大和絵に漢画の技法をとり入れ狩野派が生まれた。金工では後藤祐乗(ゆうじょう),蒔絵(まきえ)では幸阿弥(こうあみ)が有名。建築には唐(から)様と和様をあわせた新和様も発達,住宅に書院造が行われ,庭園には禅宗風の幽寂(ゆうじゃく)な趣を主とするものが好まれた。枯山水は当時の独特なもの。また,茶の湯・華道も発達,芸能でも猿楽(さるがく)の芸道化が進められた。東山文化は,地方武将や地方に疎開した公家たちによって地方に波及し,近世文化の源流をなした。→北山文化慈照寺
 →関連項目禅宗|日本|東山山荘
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 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
 東山文化
 室町幕府3代将軍足利義満の時代の文化が、義満の北山山荘(鹿苑寺金閣)を中心にして栄えたので北山文化とよぶのに対して、室町時代の中期、8代将軍足利義政(在位1443〜73)の時代に義政が営んだ東山山荘(慈照寺銀閣(じしょうじぎんかく))を中心にして生み出された文化を、このように呼び習わしている。
 東山文化の時代は下剋上の時代にあたっており、新興勢力がもたらす新しい風潮と、旧来の伝統的な文化とが渾然と融合して独特の文化を生み出すとともに、現代の日本人の生活様式にまでも深い刻印を残した。東山文化の創造の中心をなしたのは義政という個性的な武家貴族ではあったが、彼の周辺に集まっていた五山派の禅僧や、公家、武家守護大名とその家臣たち)・同朋衆(どうぼうしゅう)(阿弥号をもち、多くは出身地や家柄などが不明でありながらも、特定の技芸に際だった才能を認められて抜擢され、義政のそば近くに奉仕していた人たち)の活躍が目だった。さらには世阿弥によって大成された能((猿楽能)をいっそう発展させた能芸者たちや、当時の社会で身分的には卑賤とされながらも作庭の技芸において優れ、それによって高い評価を得た山水河原者(せんずいかわらもの)など、さまざまな人々が関与していた。そのうえ、商工業の発達につれて台頭してきた酒屋・土倉(どそう)などの高利貸業者をはじめとする町衆(ちょうしゅう)の経済力が大きく働いた。したがって東山文化は、平安朝以来の伝統的な公家文化、鎌倉時代以来の武家文化や禅宗文化、そしてこの時代に顕著に現れてきた庶民文化が互いに交流しあい、さらには日明貿易で輸入された唐物(からもの)とよばれる美術工芸品の数々が珍重されることで成り立っていた。義政は、きわめて個性的な感覚・美意識によって、いろいろな階級・身分の人々の好みのなかから優れた要素を選び抜き、それを統合しようとした。晩年に京都の東山の山麓に造営した東山山荘(東山殿)は未完成のままに終わったが、彼の理想を建築、庭園その他万般にわたって集中的に表現したものとみられている。
 東山文化の特徴となると多岐にわたるが、その特質については、一つには禅宗思想の影響が広く見受けられる点、二つには生活文化としての要素が強くうかがわれる点が重視されており、これらは水墨画、書院造、庭園、能、茶(茶の湯)、立花(りっか)(いけ花)などの諸分野において確かめられる。また、東山文化は、幅広い階層の人々を文化的・経済的基盤としていたことが大きく働いて、しだいに守護大名戦国大名を通じて全国各地に広まり、やがては地域社会の生活文化のなかに深く根づいて、日本人に独特な生活様式や文化的な好みを定型化してきた。[横井 清]
 『芳賀幸四郎著『東山文化』(1962・塙書房) ▽林屋辰三郎著「東山文化」(『岩波講座 日本歴史 中世3』所収・1963・岩波書店)』
[参照項目] | 北山文化
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