🗾4〕─1─歴史には『強い歴史』と『弱い歴史』がある。~No.11No.12No.13 

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   ・   ・  {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博} ・   
 クロマニョン人の平均寿命は15年であった。
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 2019年12月5日号 週刊新潮「新相対性理論 百田尚樹
 『寿命15年』の古代人が辿り着いた『長生き』のヒント
 前回、私は、古代人は時間が伸びたり縮んだりすることを知っていたと書きました。そしてそれを利用することによって、彼らは栄養学や医学とは別のアプローチで『長生き』を目指したのだと。さて、それはどんな方法だったのかを説明する前に、皆さんに『長生き』の定義を説明したいと思います。
 『長く生きることに決まっているじゃないか』と答えた皆さん、たしかにその通りなのですが、仮に植物人間状態で100年生きても長生きと言えるのでしょうか。物理的には長生きですが、それは私たちが望む長生きではありません。
 私たちが長生きしたというとき、そこには無意識にある条件を付けています。その条件とは、『健康である』のは当然として、『充実した時間』『わくわくした時間』『喜びにあふれた時間』をもっての長生きです。肉体的あるいは精神的な苦痛を背負っての長生きなど誰も望みません。
 ……
 実はここにあるヒントがあります。『充実した時間が少なければ寿命が短い(時間が減る)』ということは、『充実した時間が多ければ寿命が長い(時間が増える)』という考え方が可能です。つまり物理的な時間は同じでも、『長生き』できるというものです。私はこのこときに気付いたとき、自分たちの持つ『時間』の不思議さに愕然としました。私はこれを『新・相対性理論』と名付けたのは前回に書いた通りです。
 ところが、実はこれは私の発見ではなかったのです。人類ははるか昔からそのことに気付いていました。ホモサピエンスが地球上に誕生したとき、彼らははっきりとそれを知っていました。それは彼らが行ってきた様々な行為を見れば明らかです。
 かつて私たちの遠い祖先は常に『死』の恐怖と戦っていたと前に書きました。平均寿命が15歳という時代に生きていた彼らは『人生は有限の時間』ということを現代人以上に切実に知っていました。平均寿命が短かったのは乳幼児の死亡率が高かったからですが、それを考慮しても、男は狩りができる年齢になったころには、もう残された時間は多くはなかったはずです。病気だけでなく、狩りによる事故もあれば、他の部族との戦いによる死もあったでしょう。女の場合そうな危険は男よりも少ないとはいえ、出産という難事業が待っています。これはある意味で狩りよりもずっと危険度が高く、そのため死は男よりも身近なものでした。
 前置きが長くなりましたが、現代人の祖先でもあるクロマニョン人は、日々の生活の中で、自らの有限の時間というものを切実に感じ、一日一日が現代の私たちよりもはるかに濃い時間を生きていたのです。彼らは時間を有効に使うことを心掛けていました。無駄は許されません。
 …… 
 しかし死が常に身近にあった原始時代の人々はそうではありません。愛する家族や仲間と少しでも一緒にいたい、この世界に少しでもとどまっていたいという欲求は、現代人よりもはるかに強いものがあったはずです。彼らはそのために栄養価の高い食物を求めて、様々な試行錯誤を繰り返したことでしょう。しかし物理的に寿命を延ばすことは難しいことです。
 ところが彼らは、長生きをしなくても、長生きできることに気付いたのです。それは前回述べた、充実した時間を持つことです。獲物となる動物を求めて険しい山道を長い時間かけて歩く苦しい時間を減らしたり、あるいは洞窟を拡張する作業を切り上げ、その時間に家族や仲間たちと楽しい時間を過ごすことができれば、長生きと同じことではないかというものです。
 つまり、生きるために行なう作業や苦行に要する時間を短縮して、その短縮した時間を楽しみの時間に換えれば、その分、長く生きたことになるのではないかというものです。」
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 人類は、当然・必然ではなく、偶然と幸運そして勢い・活力によって生きてきた。
 血縁・血筋としての家族・身内と地縁の地域集団・社会つまり仲間を持つ人類だけが、絶滅を免れた。
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 「自然に生きる」に対する考え方・生き方は、現代人と原始人とでは根本的に違う。
 原始人は命を生ききっていた。
 現代人は生きる意味を見失って何となくダラダラと生きている。
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 生物や人は、祖先・先人があってこそ産まれ生きそして子孫を残す。
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 2019年11月30日 朝日新聞生老病死 山折哲雄
 人間の『死』という『強い歴史』
 1988(昭和63)年3月のことだった。京都の国際日本文化研究センターで、創立を祝うためフランスから招いた人類学者レヴィ゠ストロースさんの記念講演があった。テーマは『世界の中の日本文化』。通訳の口を通してであったが、その明晰(めいせき)な語り口が忘れられない。とくに印象にのこったのが、つぎのような言葉だった。
 『日本においては、神話から歴史への移行がごく自然に滑らかに意識されているが、西洋においてはそのあいだが深い淵で隔てられている』
 氏は、九州の高千穂一帯の神話的景観とイスラエルの景観、すなわち天孫降臨の聖地とダビデやイエスにゆかりのあるエルサレムの聖地を、比較しながら論じている。
 そのとき私は、哲学者のサルトルが50年代末にレヴィ゠ストロースに挑んだ論争を思い出している。2人の応酬はレヴィ゠ストロースの『野生の思考』の最終章『歴史と弁証法』に収められている。私の目を惹(ひ)いたのは、歴史には『強い歴史』と『弱い歴史』があるという人類学者の主張だった。かいつまんでいうと、弱い歴史は1000年、100年、10年単位でたえず、転変をくり返すけれども、強い歴史は何万年、何十万年、何百万年つづくなかで、一切の個別性や個人性を消却して構造的な持続性を示す。このような意味において、弱い歴史と強い歴史はその価値尺度を根本的に異にするのだといい切っているのである。
 具体的には、1789年はフランス革命が勃発した年であるが、この歴史的な日付も、何万年や何千年の歴史的尺度であらわされる事件にたいしては何の意味ももっていないし、何の連続性も有していない。その逆もまた真である、と。
 重ねていうと、民族とか宗教の要因は、いわゆる『近代化』の過程で克服されていくという議論を、われわれはしばしばきかされてきた。たしかにそのような面が認められないではないけれども、21世紀に入ってからの世界の情勢をみているかぎり、民族と宗教の要因がもたらす衝撃的な脅威はいぜんとしてなくなってはいないことに気づく。それは、人間の『死』のテーマとともに『強い歴史』にあらわれる構造的な特質であるかもしれないのである。」
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 日本民族日本人の祖先は、琉球人・アイヌ人と同じ縄文人で、その祖先を辿ればアフリカで誕生したホモ・サピエンスである。
 ホモ・サピエンスの祖先は、類人猿そして猿である。
 ホモ・サピエンスは、南の海から、西の大陸から、北の半島から、三方向から日本列島に上陸して縄文人となった。
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 日本民族日本人の蔑称である「サル」は、人類史から見て正しい事である。
 故に「サル」と馬鹿にされても気にする事はない。
 日本民族日本人の大本の祖先は「猿」である。
 日本神道の祖先神・氏神の人神崇拝を辿れば「猿」に行き着く。
 「サル」と呼ばれたら、誇りに思うべきであって、決して怒ってはいけない。
 何故なら、そこには人類が誕生した700万年以上昔からの偉大な歴史があるからである。
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 日本人とは、日本列島に住む人間の事である。
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 日本列島の歴史は、約3000年前から始まった。
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 キリスト教の歴史は、2019年である。
 マルクス主義共産主義の歴史は、約100年である。
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 健康宗教・長寿信仰に囚われた現代日本人よりも、一秒後に死ぬかもしれない残酷な状況で生きていた太古の人間の方が生きる意味を知っていた。
 そして、自由と平等と公平の意味を知っていた。
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 太古の人間社会は、宗教が支配する原始的共産主義社会であった。
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 現生人類・人間が、現実から最初に思考と感情で手に入れ社会システムは、政治的暴力ではなく宗教的共助であった。
 ホモ・サピエンスは、宗教的共助で地縁集団をつくり、運命共同体としの地域組織を拡大し、大移動をくり返して地縁を切断し、血縁を薄めながらも子孫を残し繁栄した。
 ネアンデルタール人は、血族の家族的共助を持っていたが土地の宗教的共助を持たなかった為に、血縁集団にとどまり地縁地域に発展できずに絶滅した。
 宗教的共助の宗教とは、単純素朴な自然崇拝・精霊崇拝・大地母神崇拝・生命崇拝で、有りもしない起きもしないバカバカしい神の奇跡や救世主(メシア)の救済などではない。
 宗教的共助によって、血の繋がりがなくてき、集団の中の怪我人・病人・障害者・老人など「働けない弱者」を皆で面倒を見た。
 宗教的共助は「助け合い」として、安心の源であった。
 「1人は万民の為に、万民は1人の為に」における「為に」の意味は、現代人類と太古の人類とでは違う。
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