🗾11〕─1─約6万1000年前からの針文化。日本の針供養。~No.50No.51No.52 

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 針(はり)は、先端の尖った円錐形の道具。人間にはかなり多くの用途で使用されているが、全て刺すという点で類似している。英語ではNeedleあるいはPinであり、日本語でもそのままピンと呼ぶ例もある。突き刺すことその物を目的とする場合、突き刺すことで何かをするのに使う場合があり、またその先が細いことから細かいところを探るような用途に使われることもある。
 歴史
 古代中国では武器のひとつ、暗器として針が使われた、袖の下などに隠し持ち、咄嗟の時に相手に投げつける。暗殺などに用いられることは少なく、あくまで自衛用の武器であった。
 南アフリカの遺跡で約6万1000年前とされる針が出土した。
 持ち運びしやすく安価に販売できることから、日本の中世において「針売り」は身体障害者や下層民が手軽にできる職業とされ、被差別対象だった。豊臣秀吉も武士になる以前は針売りをしていた。
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 針供養(はりくよう)とは、折れ、曲がり、錆びなどによって、使えなくなった縫い針を供養し、近くの神社に納める行事。各地の社寺で行われているが、主に淡島神社粟島神社)または淡島神を祀る堂(淡島堂・粟島堂)がある寺院で行われる。
 由来
 起源(中国に「社日(土地神の祭日)に針線(針と糸、針仕事)を止む」という古い慣わしがあったとされ、それが日本に伝わったとされる)は不明であるが、平安時代清和天皇によって針供養の堂が法輪寺に建立されたとされているので、9世紀後半には日本(のごく一部に)に針供養の風習があったことは確実と考えられる。
 鉄の針が大量生産されるようになったのは室町時代のことであり、和歌山の淡島信仰と結びついた針供養の風習が淡島願人を通じて日本全国に広まったのは江戸時代中期以降のことである。
 2月8日、または12月8日に行われる。2月8日は「事始め」の日であり、農作業や裁縫も休みそれから一年の作業が始まるからである。一方西日本では事始めと事納めの考え方が違っている。一般的には2月8日であるが、関西地方や九州地方では12月8日が一般的である。しかし大阪天満宮では2月8日、加太の淡嶋神社針祭でも2月8日、嵯峨の法輪寺では12月8日と2月8日の双方に行われるなど、必ずしも地域によって日時が固定されているというわけではない。関東地方や東北地方の一部では両方という地域もあるが、ほとんどはどちらか一方の日に行われる。
 内容
 かつて、12月8日と2月8日は事八日と呼ばれていた。12月8日を事納め、2月8日を事始めとよび、事納めには農耕を終え事始めには始めるとされていた。この両日はつつしみをもって過ごす日とされ、この日は針仕事を休むべきと考えられていた。そして使えなくなった針を神社に納める、あるいは豆腐や蒟蒻のように柔らかいものに刺したりすることで供養し、裁縫の上達を祈った。また、かつては土の中に埋めたり、針を刺した豆腐や蒟蒻を川や海に流して供養するという型式で執り行われる地域もあった。
 針に触れないようにするという風習が残る富山県や石川県では針歳暮とも呼ばれ、饅頭や大福を食べたり知人に贈ったりすることが行われている。富山県などでは針歳暮は12月8日に行われるが嵐になることが多い特異日で「針歳暮荒れ」と呼ばれている。
 長野県佐久地域では、2月8日に針を豆腐に差し込み、集落によっては神棚に上げて拝んだり、縁の下へ投げ入れたりする。
 現在では家庭で針仕事を行うことが少なくなり、家事作業における感謝や祈願の意で行われる事は少なくなったが、服飾に関わる分野においては未だ根付いており、和裁や洋裁の教育機関や企業では現在も行われている。
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 針(読み)はり
 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
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 日本における針の起源は、石器時代に骨、角でつくったくくり針があるが、石器時代末には、めどをつけた針が出現する。一般には竹や木の針も使われたと思われるが遺物はない。中国では3000年前から養蚕の技術がおこり、漢代には繊細な織物によるりっぱな衣服がつくられていた。この衣服の縫製には鉄製の細い針、現在の絹針の四の一、四の二ぐらいの短針が用いられていたと思われる。文献に初見されるのは『古事記崇神(すじん)天皇の条で、「衣の襴(すそ)に針を刺し通した」とある。活玉依毘売(いけたまよりひめ)に通う男を知るために、衣の裾(すそ)に麻糸をつけた針を通して、その行き先を尋ねたという。このことから縫い針の存在を知ることができる。古墳時代になると、北方系の衣服が大陸や朝鮮半島から伝えられ、その裁縫技術とともに縫い針も、また製法も導入されたと思われる。飛鳥(あすか)・奈良時代には、隋(ずい)・唐の服制を取り入れ、正倉院に数多く残る薄地の絹織物や麻布の衣服の仕立てには、漢代の衣服にみた精緻(せいち)な技術が伝わっているのがうかがわれる。これらは当時の朝廷を中心とする貴族、官吏や、地方の豪族の間で行われたものである。
 正倉院には聖徳太子所用の撥鏤針筒(ばちるはりづつ)が伝えられ、針も現存する。鉄、銅、銀製の大針が1本ずつと、鉄製と銀製の小針が2本ずつ、計7本ある。
 平安時代には市(いち)で針が商われており、庶民はこれを求めて衣服を縫製した。当時の庶民衣服は麻、藤布など、太い糸でつくられた厚地であったから、針もいまの木綿針程度の太さで、つかみ針に便利な長針であったと思われる。『うつほ物語』の俊蔭(としかげ)の段には、「いとうつくしげに、つややかに、なめらかなるくけ針」「いと使いよきてづくりの針の耳いと明らかなる」とあって、裁縫する立場から、良質の針を求めていたことが知られる。室町時代のものとしては熊野速玉(くまのはやたま)大社(和歌山県)に7本の銀針が残されている。比較的長いものが多いことから、当時は公家(くげ)装束が強(こわ)装束になっていたため、縫い目は粗く、したがって縫い針も長針を用いるようになったと考えられる。
 針の産地としては、11世紀後半の『新猿楽(さるがく)記』に播磨(はりま)針の名がみえ、14世紀の『庭訓(ていきん)往来』には京都の姉小路(あねこうじ)の針とあり、江戸時代中期になると『雍州(ようしゅう)府志』(1684年刊)には同じ京都の池川針、翠簾屋(みすや)の名があがっている。これら京都のほかに但馬(たじま)国(兵庫県)、大坂、越中(えっちゅう)国(富山県)などが知られていた。『七十一番職人歌合(うたあわせ)』に筑紫(つくし)針の名が出ているのをみると、筑紫(九州)がそのころ産地であったことがわかる。なお、現在は広島県が第一の生産地となっている。[岡野和子]
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 針(読み)はり
 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
 縫い針の歴史は古く旧石器時代の骨角製のものから始って,時代とともに黄金針,青銅針,鉄針,鋼針へと進展してきた。鉄針は中国が起源で,各国へ普及した。鉤針は先端に鉤があり,使用する糸の太さによって大きさが異なる。材質も鋼とプラスチックがある。編物針は,棒針ともいい,まっすぐの棒状で,2~4本を一組とし,材質もさまざまである。
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 百科事典マイペディアの解説
 針【はり】
 布や皮革を縫い,留めるための器具。旧石器時代後期,マドレーヌ文化に骨角器のめどのある針が見られるほか,古くから各地に骨製,象牙製,青銅製などの針が見られる。現在使われている針は鋼製で,裁縫用には和針,洋針,ミシン針,特殊針がある。和針は針穴が丸く,絹針,紬(つむぎ)針,木綿針などの別があり,それぞれに縫針,くけ針,しつけ針や穴のない待針などがある。洋針は俗にメリケン針ともいい,明治以後輸入されたもので針穴が細長い。留針には安全ピン,虫ピンなどのほかアクセサリーとしてのピンも各種ある。
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 世界大百科事典 第2版の解説
 はり【針】
 皮や布を糸(ひも)で縫い合わせて衣服などを作るための道具。また,物を留めるための留針(ピンpin)もいうが,ここではおもに縫針needleを中心に述べる。
 [沿革]
 縫針は,旧石器時代後期には出現しており,洪積世最後のウルム氷期の寒冷な環境のもと,北部ユーラシア各地で狩猟生活を営んでいたホモ・サピエンスたちが,防寒具としての皮製の衣服を改良するなかでくふうされていったものと思われる。最初は剝片石器の一部を尖らせた錐で毛皮に孔を開け,そこに動物の腱や皮を細長くさいて作ったひもなどを通してとじ合わせていたのであろうが,やがて後期旧石器時代前葉のオーリニャック文化にいたって骨や角を細かく自由に加工できるようになると,硬く丈夫なばかりでなく弾性に富みしかも滑らかな骨角製の針様の尖頭器(穿孔具)が作られるようになった。
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