🏹25〕26〕─1─安東氏。アイヌ人は、樺太から沿海州沿岸の村を襲撃し、蒙古軍の樺太侵略を撃退した。~No.79No.80No.81No.82No.83No.84 

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 アイヌ人は、殺し合いを嫌う平和な民ではなく勇敢に戦う戦士の民であった。
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 安東氏(あんどううじ、あんどうし)は、日本の鎌倉時代から戦国時代の末まで、陸奥国出羽国の北部に勢力を張った武士の一族である。本姓は安倍を称した。
 なお諸史料に現れるアンドウの表記について、主として鎌倉時代から南北朝時代にかけての津軽時代には「安藤氏」、室町時代中期以降の秋田時代には「安東氏」とされている例が多いことから[2]、個人名表記は概ね15世紀半ばまでを「安藤」、以降を「安東」とするが、本稿では便宜上、他氏族との混同を避けるため、氏族名を「安東」で統一して叙述する。なお、安藤氏と表記する場合、他の家系と区別するため津軽安藤氏と呼ぶ例がある。
 概要
 鎌倉時代の歴史書によると安藤五郎が鎌倉時代初期に津軽地方に置かれ蝦夷対応に当たったのが初めとされているが、正確なところは不明である。鎌倉時代末期には御内人として蝦夷沙汰代官職を務め、津軽地方を本拠地に西は出羽国秋田郡から東は下北半島まで一族の所領が広がった。のち二家に分裂し檜山郡秋田郡にそれぞれ割拠し、室町時代には秋田郡の一族が京都御扶持衆に組み入れられている。二家は後に統合し戦国大名となった。本家は16世紀後半以降秋田氏を名乗り江戸時代を通じて大名として存続し、明治維新後は子爵となった。
 歴史
 安東氏の歴史は長期にわたるため、ここでは黒嶋敏の分類 に従い、惣領家がエソカ島(夷島)に没落する15世紀前半までを第1期、檜山安東氏成立期の15世紀後半を第2期、夷島が安東氏の統制から離れ蠣崎氏が台頭する一方で、湊安東氏の幕府との通交が増加する16世紀半ば過ぎまでを第3期、元亀元年(1570年)の両家統合以降の第4期に区分する。
 第1期(津軽期)[編集]
 蝦夷管領[編集]
 「蝦夷管領」も参照
 『保暦間記』によると北条義時の頃、安藤五郎が東夷地の支配として置かれたとされ、『諏方大明神画詞』では安倍氏の後胤である安藤太が蝦夷管領となったとされている。これらの史料から安東氏は、鎌倉中期頃から陸奥に広範囲の所領を有した北条氏惣領家(得宗)の被官(御内人)として蝦夷の統括者(蝦夷沙汰代官職)に任ぜられ[2]、北条氏を通じて鎌倉幕府支配下に組み込まれていったものと考えられている。なお、得宗被官としての「階層」は得宗家より送り込まれた津軽曾我氏らより下位であるとする見解がある。
 また、『日蓮聖人遺文』の「種種御振舞御書」には建治元年(1275年)のこととして「安藤五郎は因果の道理を弁へて堂塔多く造りし善人也。いかにとして頸をばゑぞにとられぬるぞ。」との記載がある。これを、真言宗に改宗したためアイヌに殺害されたとする意見 もあるが、この頃元が樺太アイヌを攻撃したことが元史に記録されていることから、ここでいう「ゑぞ」をアイヌではなく広く北方の異民族と解し、永仁5年(1297年)5月には安藤氏がアイヌを率いて黒龍江流域に侵攻しキジ湖付近で交戦となり元に討たれたのではないかと推察する説もある。しかし、安藤氏のアイヌに対する支配関係には疑問も出されている。
 安藤五郎と安藤太の史料から、元来の惣領家であった五郎家と太郎家が並立していたと想定する見解がある[21]。また、西浜安藤氏と外の浜安藤氏の並立を前提に、安藤氏の乱の前に「蝦夷管領」の座が外の浜安藤氏から西浜安藤氏に一時移っていたとする説もある。
 安藤氏の乱[編集]
 「安藤氏の乱」も参照
 鎌倉末期の元応2年(1320年)から元亨2年(1322年)にかけ出羽の蝦夷が蜂起したことをきっかけとして一族で争いが起こり、正中2年(1325年)に北条高時蝦夷沙汰代官を又太郎季長から従兄弟である五郎三郎季久に代えると、争乱は幕府への反乱に発展する。この争いを、上述したモンゴルの樺太侵攻後の講和を巡る方針争いによるとする見解と、前述の五郎家及び太郎家の並立を前提に蝦夷の蜂起を機に「蝦夷の沙汰」が安藤太の子孫から安藤五郎の子孫へ移行したための抗争とする説がある。『鎌倉年代記』によると嘉暦元年(1326年)季長が捕らえられ、翌嘉暦2年(1327年)には季長郎従の季兼が誅殺され、更に翌嘉暦3年(1328年)に和談が成立している。和談の内容は、季長の本領であった津軽西浜のうち関(現・青森県深浦町関)及び阿曽米を季長の一族に安堵し、それ以外の所領は季久領とするというものであったと推定されているが、津軽西浜を季久の本拠地とする説もある。季長のその後の消息については諸説ある。
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