🏹3〕─1─末法の地獄から日本を地位と金による豊かさで救おうとした平清盛。〜No.5No.6No.7 

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 日宋交易で儲けて救おうとした平清盛
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 平清盛は武士による社会を築こうとしたが、その子供や一族は公家の社会に戻ろうとした。
 つまり、平清盛の改革は一代限りで失敗する運命にあった。
 源頼朝が築いた武士の世は、徳川慶喜大政奉還する慶応3年10月14日(1867年11月9日)まで続いた。
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 デジタル大辞泉の解説 「まっぽう‐しそう〔マツポフシサウ〕【末法思想
 仏教の歴史観の一。末法に入ると仏教が衰えるとする思想。日本では、平安後期から鎌倉時代にかけて流行。平安末期の説によれば、永承7年(1052)に末法の世を迎えるとした。」
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 三省堂 大辞林 第三版 索引トップ用語の索引ランキング凡例
 まっ ぽうしそう -ぽふ -さう 【末法思想
 〘仏〙 釈迦入滅後、五百年間は正しい仏法の行われる正法(しようぼう)の時代が続くが、次いで正しい修行が行われないため、悟りを開く者のない像法(ぞうぼう)の時代が一千年あり、さらに教えのみが残る末法の時代一万年を経て、教えも消滅した法滅の時代に至るとする考え。各時期の長さには諸説ある。「末法灯明記」などにより、日本では1052年を末法元年とする説が多く信じられた。平安末期から鎌倉時代にかけて広く浸透し、厭世(えんせい)観や危機感をかきたて、浄土教の興隆や鎌倉新仏教の成立にも大きな影響を与えた。
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 NHKテキスト View
 平安時代の終末思想、「末法」の恐怖とは
 2017.11.07
 平安の人々が危機感を募らせた末法(まっぽう)が永承7年(1052)に到来。死後への不安から、天皇や貴族も仏教に帰依し、極楽往生を願った。その翌年に建立されたのが、平等院鳳凰堂だった。この末法思想について、日本美術を主な領域とするライター、エディターの橋本麻里 (はしもと・まり)さんに聞いた。
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 桓武(かんむ)天皇が平らかに安らかにという願いを込めて平安京を造営してから、平氏が滅亡し、源頼朝(みなもとのよりとも)が守護・地頭を設置する(1185年)までの約400年。「泰平」の江戸時代ですら250年なのだから、後付けの時代区分とはいえ、天皇をいただく貴族たちの時代は長い分だけ、複雑な軌跡を描いた。そしてその道筋は必ずしも「平安」ではなかったのである。
 東北での大地震津波、富士山の噴火、京都を襲った群発地震天然痘など疫病の流行、そして干ばつや飢饉(ききん)、戦乱。逃れられない現世の災厄、そして死後への不安から、天皇から貴族までが深く仏教に帰依し、救いを願った、まさに「不安の時代」なのだ。
 この時代を席巻したある種の「終末思想」が、末法の到来だった。20世紀末に「ノストラダムスの予言」が信憑性をもってささやかれたように、釈迦(しゃか)の死から1000年を正法(しょうぼう)、続く1000年を像法(ぞうほう)と呼び、以後は仏の教えのみあって修行する者も悟りを得る者もいない、暗黒時代=末法に至るとする「末法思想」が広まっていた。天災ばかりでなく、奈良では興福寺の僧兵が東大寺を襲い、京都では延暦寺園城寺の争いが熾烈(しれつ)を極め──と、人々を導くはずの寺僧の横暴は、仏法の衰えをまざまざと感じさせたはずだ。
 この苦しみ多い六道輪廻(りくどうりんね)の世界を離れ、阿弥陀如来(あみだにょらい)のおわす浄土へ生まれ変わることができるようにという願いに応えたのが、阿弥陀の浄土を観想(かんそう/視覚的に思い描くこと)することで往生できるとする、浄土教だった。浄土の教えを説く経典自体は、6世紀の仏教伝来とともに日本へ伝わっているが、平安時代中期に比叡山横川(ひえいざんよかわ)の僧・源信(げんしん)が『往生要集(おうじょうようしゅう)』、いわば極楽浄土のガイドブックを著したことから、浄土教が大きな隆盛を見せるのである。
 ■『NHK趣味どきっ! 国宝に会いに行く 橋本麻里と旅する日本美術ガイド アンコール放送』より
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 PHP Online 衆知
 平清盛と日宗貿易〜宋国と対等な海の都を
 2012年02月24日 公開
 秋月達郎(作家)
 『歴史街道』2012年2月号より
 宋人たちの目を瞠らせた清盛の美
 嘉応元年、すなわち西暦にして1169年の頃、瀬戸内の波はどのような色をしていたのだろう。
 恐らく透き通るような瑠璃色に煌めいていたことだろうが、その光り輝く波の上を、見上げるような船が航ってくる。頑丈な竜骨をもった宋船である。
 積まれているのは数え切れないほどの宋銭を始めとして、揚州の金、荊州の珠、呉都の綾、蜀江の錦のほか、陶磁器、香料、薬品、筆、硯、書画、経巻といった正に七珍万宝と呼ばれた品々だった。陸揚げした後には、砂金、銅、硫黄、木材、扇、屏風、漆、蒔絵、日本刀などが積み込まれる。
 船楼を目が痛くなるほど鮮やかな赤や黄の原色に塗り籠められた宋船は、やがて真紅に包まれた壮麗な社の正面へと導かれた。安芸の厳島神社である。濠気に包まれたこの国を代表する建築物といっていい。
 ―― おお。
 と、声を上げるところからしても、宋船に乗り込んだ商人や水夫(かこ)は、海の彼方に浮かぶ小さな島国が、予想を遥かに超えた文化を持っていることに驚嘆したに違いない。
 こうした貿易相手の目を瞠らせるような仕掛けを創り出したのは、当時、静海入道前太政大臣朝臣清盛公と呼ばれた平清盛にほかならない。祖父正盛や父忠盛に倣って西海を拠り所とした清盛は、安芸守を拝命した頃に厳島神社主祭神である宗像三女神を信奉するようになり、太政大臣を辞して摂津の福原に別荘「雪見御所」を造営するのと時を一にして、老朽化していた厳島神社の大改修を行なった。
 海上楼閣という、これまでに誰一人夢にも思わなかった建築物を造り上げたのは、清盛が備えていた美意識によるものであろう。清盛の美に対する才能は当社に奉納された平家納経の芸術性の高さからも容易に察せられるが、同時に、清盛は土木技術においても抜きん出た才能を持っていたことも充分に想像できる。それは以下のごとく、伝承としても遺されている。清盛が位人臣(くらいじんしん)を極め、太政大臣の職に就いた折、
 「かえせぇ、もどせぇ」
 金の扇を振り上げながら、西海に沈みつつある夕陽に叫んだという。今の広島県呉市の「音戸の瀬戸」でのことで、岩上、立烏帽子直垂(たてえぼしひたたれ)姿の清盛は夕陽を招き返そうとした。宋船の航路を確保するため、瀬戸の開削工事をたった一日で成し遂げようとしたからだという。が、あくまでも伝説に過ぎない。瀬戸は元々船が通れるだけの深さを持ち、大船の往来に何の支障もなかった。ただ、伝説は何らかの真実を語っている。
 ―― わしは、航路を開かせられるだけの権勢を手に入れたのだ。
 という絶対的な自負と事実である。自負は、就任3カ月にして太政大臣を退いたことからも窺い知れる。名誉職的な地位など余計なものだといわんばかりに辞意を表明し、前大相国となって国政に参与する覚悟を固めた。そして、院政を執る後白河上皇摂関家の藤原基房との合議によって政事を推し進めていった。
 清盛が起こした経済革命
 とはいえ、地位や立場だけでは絶対的な権力たりえない。金が要る。清盛はそれを日宋貿易に求めた。
 父忠盛が西海の海賊を鎮定して得た貿易権を継承したのだが、清盛はさらに本格的にしようとした。海に向かって開かれた玄関口のような厳島神社から音戸の瀬戸を通り、瀬戸内の奥座敷ともいうべき茅渟の海へと宋船を導き入れたことが、それである。
 大小の和船が先導し、かつ護衛してゆく先には摂津国八部荘福原の港がある。宋船はそこへ入港した。港は、大輪田泊という。清盛が惜しみなく私財を投じ、阿波国の豪族田口成良に修築させたものである。
 清盛が土木工事に抜きん出た才能を持っていたのは、この修築からも実感できる。この港は地理も水深も充分なものがありながら、風浪の激しいことが難点だった。
 そこで、中納言の頃の清盛は発案した。
 ―― 島を造って風浪を弱めれば良いではないか。
 海を埋め立てて島を造る。だが、それにあたって公家たちが人柱を立てるべきだと言い出した。清盛はこれを一蹴し、一切経の経文を書いた石を沈めて基礎とした。そのため、島は「経が島」と名付けられたのだが、なぜ、これほどの大工事をして宋船を摂津まで導き入れる必要があったのか。
 当時、日宋貿易の拠点となっていたのは、九州の博多だった。博多には栄の商人が屋敷を構え、貿易を独占する勢いで商いを展開していた。清盛はそんな状況に苛立った。
 ―― 博多を通り越して福原まで宋船を招き寄せれば、膨大な利を得られよう。
 そう信じ、私財を傾けて大輪田泊の大修築に跨み切ったのである。かくして、宋船はこの完成間近な経が島を回り込んで投錨し、摂津の地に荷を揚げた。荷は様々にあったが、代表はやはり宋銭であろう。この宋国の貨幣は、これまで僅かながら流通していた国産の貨幣を圧倒した。当時、お多福風邪が諸国に蔓延しており、たまさか宋銭が溢れ返り出した時期と重なったために、「銭の病」などと呼ばれたりもした。
 それくらい宋銭は猛威を振るったが、貨幣経済を驚くほど進歩発展させもした。言い換えれば、清盛は日宋貿易によって経済革命を引き起こしたのである。革命は、清盛をして朝廷を凌ぐほどの富者にまで押し上げた。だが、限られた国内において、ある勢力が伸し上がれば、それとは別な勢力は凋落する。前者は平家、後者は朝廷と寺社だった。清盛が肥大すればするほど、そのせいで貧相になる者が出る。当然、膨張してゆく側は、没落してゆく側から妬かれ、疎まれ、憎まれる。このとき、
 ―― 清盛ごときに媚び諂うものか。
 鬱勃と敵愾心を滾らせたのが、後白河上皇であった。
 なるほど、後白河は天皇在位の境より清盛と蜜月関係にあった。たが互いに利用し利用されることを好しとして邪魔な存在を次々に攻め滅ぼし、遂にはこの国の頂点に君臨した。しかし、清盛が千僧供養を催した境から、蜜月にひびが入り始めた。
 千僧供養は千人の僧を招いて読経させることで、以後、清盛は春と秋の彼岸には必ず催した。後白河も出家して法皇となってからは、千僧の一人となって参加している。
 いや、参加させられた。また、福原を訪れた宋の使者との引見まで求められた。これについて公家の九条兼実は、「天魔の所為なり」と日記に綴っている。天皇法皇が外国人にまみえることなど未曾有のことだと騒ぎ、公卿たちは陰口を叩いた。だが、清盛は他者が己をどのように思おうがそんなことはどうでもよかった。
 清盛には、為さねばならないことがある。平たく言ってしまえば、国を富ませることだった。貿易を臍とした、より一層の経済発展を成し遂げねばならない。それによって平家一門も繁栄する。
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