🏹8〕─1─末法の地獄から日本を慈悲仏教で救おうとした鎌倉新仏教。~No.20・ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本の仏教が異端仏教として、中国仏教や朝鮮仏教と違う仏教になったのは鎌倉新仏教からである。
 日本仏教は、中国仏教や朝鮮仏教とは違うのである。
 日本仏教は、御仏が罪業で苦しむ衆生を慈悲で救済と説いた。
 御仏の救済には、自力の聖道門と他力の浄土門があった。
 中国仏教は、弥勒菩薩が救いに来るという革命宗教であった。
 朝鮮仏教は、中国仏教に近かった。
 日本仏教は、政治色が強い中国仏教よりもインド・チベット中央アジアの諸仏教からより純粋な慈悲信仰の大乗仏教を求めた。
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 親鸞。「悪人正機説」。善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
 善人は助けられなくとも自力で極楽に行けるが、悪人は他力でしてしか極楽に行けない。
 悪人とは、道徳的や法律的な犯罪者ではなく、生まれ持った煩悩に苦しみ苛まれる衆生の事である。
 阿弥陀如来は、誓願として、そうした哀れな悪人を救って極楽往生に導くのである。
 その方法は、神懸かり的呪術や密教的加持祈祷ではなく、難行苦行の修業でもなく、ただ阿弥陀如来の名号を念仏を唱えるだけでよい。口に出さなくても、心の中で念仏を申し上げるだけでも、人は救われる。
 鎌倉仏教は日本独自の仏教であり、高麗仏教とは縁もゆかりもない異質な仏教である。
 当然。日本の仏教は、朝鮮仏教とは無関係である。
 そもそも、朝鮮時代は仏教は弾圧され、人里離れた山奥に追放されていた。
 仏教に関して、日本が朝鮮に感謝する所はあまりない。
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 釈迦「自灯明、法灯明」。
 上座部仏教小乗仏教は、人が死んだら49日間は徹底に死者を弔ったが、49日過ぎたら骨を山野に撒き、そして忘れた。
 大衆部仏教・大乗仏教は、日本に伝来し葬式仏教となり、49日過ぎても一周忌や三回忌と死者を忘れる事なく法要を続けた。
 日本の祈りとは、我を捨て無心となり、無力の自分を見つめ、相手の事を自分の事のように心で念ずる事であった。
 「祈り」と「願い」は、本質に於いて異なる。
 インド発祥の仏教は、日本の神道にであう事で、自然にあるがままの姿を自然のままに受け入れた。
 悲しい時は、悲しみに打ちひしがれて深く沈み込んでさめざめと泣いた。
 無常の世の中に生きるお互いの身の上を思い、相手の悲しみに共感し苦しみに同情し痛みを分け合い、相手の事を思いやった。
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 青少年のための仏教入門
 仏教へのざない
 再考仏教伝来仏教へのいざない
 朝日新聞社 OPENDOORS
 東京大学仏教青年
 第17回 日本仏教史―仏教伝来から鎌倉仏教まで―
 3. 平安時代
 平安時代には、仏教は密教が中心となりました。密教はインドのヒンドゥー教の影響を強く受けて成立した仏教で、現実肯定を背景に、 今生きている段階で成仏できるという即身成仏(そくしんんじょうぶつ)の思想を大きく主張します。日本では、この現実肯定の思想は、一般の人にも仏となれる性質があるという仏性論と一緒になってさらに強調され、 院政期には、すでに衆生は仏であるという本覚思想(ほんがくしそう)へと発展します。
 日本の密教は大きく分けて、天台宗系の台密(たいみつ)と真言宗系の東密(とうみつ)の2つに分かれます。天台宗真言宗は、平安時代になって開かれたものです。
 天台宗を開いたのは最澄(さいちょう)です。最澄は、天台を学ぶために唐に渡り、その地で天台の他に密教、禅、戒律を学びました。その後、日本に帰り比叡山(ひえいざん)に延暦寺(えんりゃくじ)を建て、天台宗を開きました。 最澄はまた、従来の厳しい制約の多い小乗戒に対して、より制約の少ない世俗向けの大乗戒を重視し、それを授ける戒壇比叡山に設けるよう朝廷に働きかけました。 この大乗戒による戒壇の設立が認められたのは、最澄の死後まもなくのことです。
 真言宗を開いた空海(くうかい)もまた、最澄と同じく唐に渡り密教を学び、戻ってきてから高野山金剛峯寺(こんごうぶじ)を、京都に東寺(とうじ)を建てました。 空海の学んだ密教は、日本の仏教界に大きなインパクトを与え、貴族や僧侶らが密教を学びに来ます。先に天台宗を開いた最澄もまた、その中の一人でした。 こうして、空海の伝えた密教が、それ以後の平安時代の仏教の中心となっていきました。
 天台宗では、最澄の後に円仁(えんにん)、円珍(えんちん)が唐に密教を学びに行きます。円仁はまた念仏も伝えました。 その他の思想を包括する天台の思想を受けて、比叡山では天台の他に、密教浄土教、禅なども学べる総合大学として活躍します。 鎌倉時代に浄土宗や日蓮宗が誕生しますが、その開祖らも初めは比叡山で学び、後に独立した人たちです。
 密教では加持祈祷(かじきとう)が行われます。その呪術的な力を利用して、現世利益を成就するのが祈祷ですが、貴族を中心に受け入れられました。 奈良時代の仏教が朝廷による鎮護国家と学問を中心とする仏教であったのに対し、平安時代の仏教は、現世利益を主とした貴族の仏教でした。その後、一般民衆を対象に救いを説く鎌倉仏教の時代へと移行します。
 平安時代中頃から鎌倉時代初めにかけて、災害が多発しました。また、貴族社会から武家社会へと移行し度重なる戦乱も起きるようになり、社会不安が大きくなりました。 仏教には、お釈迦様の死後にどんどん仏教が廃れていく末法思想(まっぽうしそう)というものがあります。このような社会不安が高まるにつれて、即身成仏のような現世での成仏や救いを諦め、 来世に極楽に往生して成仏する浄土思想が普及していきました。 その代表的な人物に、『往生要集(おうじょうようしゅう)』を書いた源信(げんしん)がいます。 今の浄土宗や浄土真宗では、念仏は「南無阿弥陀仏」と唱えるものだけを指しますが、源信の時代には、阿弥陀仏を心に思い描く念仏も説かれます。

 第18回 日本仏教史―鎌倉仏教から昭和の仏教まで―
 4.鎌倉時代
 鎌倉時代に入ると、中心が京都から鎌倉に移り、地方が発展していきます。また、武家階級が誕生し新しい勢力が交流しました。このような社会の変動に応じて、仏教界でも新しい動きが生じます。 そこには二つの方向性が見られます。一つは、原点に回帰し戒律の復興と禅の実践を求める方向です。二つは、旧来の仏教と袂を分かち新しい仏教を模索する方法です。 一つめの方向は、宋の影響を受け南都での戒律復興運動や臨済宗曹洞宗禅宗の興隆につながりました。二つめの方向は、法然の浄土宗、親鸞浄土真宗日蓮日蓮宗の開宗へとつながりました。
 浄土教については、最初に法然(ほうねん)が『選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)』を著し、万民の行える唱える念仏のみを主張し、京都で布教活動を行います。 その弟子の親鸞(しんらん)が法然の教えを受けて浄土真宗を起こし、『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を著しました。法然親鸞の浄土宗は鎌倉幕府によって弾圧されましたが、信者の数は増え続けます。 また後になって一遍(いっぺん)が時宗(じしゅう)を開いて、踊りながら念仏を唱える「踊り念仏」を広めました。
 禅宗については、栄西(えいさい)に先立って、能忍(のうにん)が達磨宗(だるましゅう)を開いて布教活動をしていました。 栄西密教の影響を強く受けながらも宋に渡り臨済禅(りんざいぜん)を伝えます。当初は法然と同様に政府から弾圧を受けましたが、その後幕府に接近し、その加護を受けるようになります。 栄西の後に宋に渡り曹洞禅(そうとうぜん)を伝えたのが、道元(どうげん)です。彼は『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の著者として知られていますが、そこには道元の深い哲学的思想が表れています。 道元曹洞宗が修行そのものを悟りと見なしひたすら坐禅する「只管打坐(しかんたざ)」を説くのに対し、栄西臨済宗では公案(こうあん)という禅の問題集を用いた看話禅(かんなぜん)であるという特色があります。
 日蓮宗は鎌倉新仏教の中では遅く鎌倉時代後期に成立しました。鎌倉時代後期には、飢饉や疫病の流行が相次いで起こるようになります。 また元寇(げんこう)といった対外的な危機も生じ、社会不安が再び高まりました。そのような時代背景を受けて、日蓮(にちれん)は末法の時代にふさわしい教えを『法華経』に求め、『法華経』の題目を唱えることを説きます。
 従来の仏教側の活動としては、最初に貞慶(じょうけい)があげられます。貞慶は興福寺の僧侶で、法然の専修(せんじゅ)念仏を批判しながらも、禅や念仏の影響を受けて観心などの実践を説いて、南都の仏教に大きな影響を与えました。 また、天台では慈円(じえん)が比叡山の復興に尽力します。慈円末法思想の観点から武家社会の興隆をまとめた歴史書愚管抄(ぐかんしょう)』を書いたことで知られています。 その後、叡尊(えいそん)とその弟子の忍性(にんしょう)による戒律復興運動が起こりました。 叡尊は、受戒の儀式を伴わない自誓受戒(じせいじゅかい)をし、忍性と共に各地で戒律復興と社会奉仕活動に従事しました。
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 浄土教(じょうどきょう)とは、阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏することを説く教え。浄土門、浄土思想ともいう。阿弥陀仏の本願に基づいて、観仏や念仏によってその浄土に往生しようと願う教え。
 概要
 浄土について
 「浄土(Kṣetra)」は、阿弥陀や西方などの形容がない限り本来は仏地・仏土(仏国土)を意味する。浄土教では浄土といえば一般に阿弥陀仏の「西方極楽浄土」をさす。
 阿弥陀信仰
 「阿弥陀信仰」とは、阿弥陀仏を対象とする信仰のことで、「浄土信仰」とも言われる。 日本では浄土教の流行にともない、それぞれの宗旨・宗派の教義を超越、包括した民間信仰的思想も「阿弥陀信仰」に含めることもある。また阿弥陀仏は多くの仏教宗派で信仰され、「阿弥陀信仰」はひとつの経典に制限されない懐の広さを持つ。
 西方信仰
 阿弥陀仏の浄土は西方に在するとされるが、日の沈む(休む)西方に極楽(出典まま)があるとする信仰の起源はシュメール文明にあり、ほかの古代文明にもみられるとされる。極楽にたどりつくまでに"夜見の国"などを通過しなければならないという一定の共通性もみられるとされる。
 他力
 仏教経典を集大成した大正新脩大蔵経では、他力本願の語は日本撰述の経解・論書にしか見られないものである[6][信頼性要検証]。また、他力門・自力門の語は中国撰述の経解・論書で極めてまれに用いられるが、漢訳経典には表れない[7][信頼性要検証]。
 詳細は「他力」を参照
 関連経典
 日本の浄土教では、『仏説無量寿経』(康僧鎧訳)、『仏説観無量寿経』(畺良耶舎訳)、『仏説阿弥陀経』(鳩摩羅什訳)を、「浄土三部経」と総称する。
また、その他の経典では、法華経第二十三の『薬王菩薩本事品』に、この経典をよく理解し修行したならば阿弥陀如来のもとに生まれることができるだろう、とも書かれている。
 日本
 平安時代末期
 「末法」の到来
 「末法」とは、釈尊入滅から二千年を経過した次の一万年を「末法」の時代とし、「教えだけが残り、修行をどのように実践しようとも、悟りを得ることは不可能になる時代」としている。この「末法」に基づく思想は、インドには無く中国南北朝時代に成立し、日本に伝播した。釈尊の入滅は五十数説あるが、法琳の『破邪論』上巻に引く『周書異記』に基づく紀元前943年とする説を元に、末法第一年を平安末期の永承7年(1052年)とする。
 本来「末法」は、上記のごとく仏教における時代区分であったが、平安時代末期に災害・戦乱が頻発した事にともない終末論的な思想として捉えられるようになる。よって「末法」は、世界の滅亡と考えられ、貴族も庶民もその「末法」の到来に怯えた。さらに「末法」では現世における救済の可能性が否定されるので、死後の極楽浄土への往生を求める風潮が高まり、浄土教が急速に広まることとなる。ただし、異説として、浄土教の広まりをもたらした終末論的な思想は本来は儒教道教などの古代中国思想に端を発する「末代」観と呼ぶべきもので、仏教の衰微についてはともかく当時の社会で問題視された人身機根の変化には触れることのない「末法」思想では思想的背景の説明がつかず、その影響力は限定的であったとする説もある。
 末法が到来する永承7年に、関白である藤原頼通が京都宇治の平等院に、平安時代の浄土信仰の象徴のひとつである阿弥陀堂鳳凰堂)を建立した。阿弥陀堂は、「浄土三部経」の『仏説観無量寿経』や『仏説阿弥陀経』に説かれている荘厳華麗な極楽浄土を表現し、外観は極楽の阿弥陀如来の宮殿を模している。
 この頃には阿弥陀信仰は貴族社会に深く浸透し、定印を結ぶ阿弥陀如来阿弥陀堂建築が盛んになる。阿弥陀堂からは阿弥陀来迎図も誕生した。
 平等院鳳凰堂の他にも数多くの現存する堂宇が知られ、主なものに中尊寺金色堂、法界寺阿弥陀堂白水阿弥陀堂などがある。
 鎌倉時代
 平安末期から鎌倉時代に、それまでの貴族を対象とした仏教から、武士階級・一般庶民を対象とした信仰思想の変革がおこる。(詳細は、鎌倉仏教を参照。)
 また鎌倉時代になると、それまでの貴族による統治から武家による統治へと政権が移り、政治・経済・社会の劇的な構造変化と発展を遂げる。
 末法思想・仏教の変革・社会構造の変化などの気運に連動して、浄土教は飛躍的な成長を遂げる。この浄土思想の展開を「日本仏教の精華」と評価する意見もある一方で、末世的な世情から生まれた、新しい宗教にすぎないと否定的にとらえる意見もある。
 室町時代以降
 蓮如
 本願寺は、親鸞の曾孫である覚如(1270年-1351年)が親鸞の廟堂を寺格化し、本願寺教団が成立する。その後衰退し天台宗の青蓮院の末寺になるものの、室町時代本願寺第八世 蓮如(1415年-1499年)によって再興する。
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 鎌倉仏教(かまくらぶっきょう)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて興起した日本仏教の変革の動きを指す。特に浄土思想の普及や禅宗の伝来の影響によって新しく成立した仏教宗派のことを鎌倉新仏教(かまくらしんぶっきょう)と呼称する場合がある。しかし、「鎌倉新仏教」の語をめぐっては後述のように研究者によって様々な見解が存在する(→ 「鎌倉仏教論」 節)。
 概要
 鎌倉時代にあっては、国家的事業として東大寺をはじめ南都(奈良)の諸寺の再建がなされる一方、12世紀中ごろから13世紀にかけて、新興の武士や農民たちの求めに応じて、日本仏教の新しい宗派である浄土宗、浄土真宗時宗日蓮宗臨済宗曹洞宗の宗祖が活躍した(このうち、浄土宗の開宗は厳密に言えば、平安時代末期のことであるが「鎌倉新仏教」に含めて考えられる)。この6宗はいずれも、開祖は比叡山延暦寺など天台宗に学んだ経験をもち、前4者はいわゆる「旧仏教」のなかから生まれ、後2者は中国から新たに輸入された仏教である。「鎌倉新仏教」6宗は教説も成立の事情も異なるが、「旧仏教」の要求するようなきびしい戒律や学問、寄進を必要とせず(ただし、禅宗は戒律を重視)、ただ、信仰によって在家(在俗生活)のままで救いにあずかることができると説く点で一致していた。
 これに対し、「旧仏教」(南都六宗天台宗および真言宗)側も奈良時代に唐僧鑑真が日本に伝えた戒律の護持と普及に尽力する一方、社会事業に貢献するなど多方面での刷新運動を展開した。そして、「新仏教」のみならず「旧仏教」においても重要な役割を担ったのが、官僧(天皇から得度を許され、国立戒壇において授戒をうけた仏僧)の制約から解き放たれた遁世僧(官僧の世界から離脱して仏道修行に努める仏僧)の存在であった。
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