🏹4〕─1─源平合戦は国家体制を賭けた戦いだった。〜No.8 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本は、武士によって中華(中国と朝鮮)と違う道を歩み出した。
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 平清盛は、中央集権制度。平家主導の日宋交易におよる貨幣=富。密教、聖道門。
 源頼朝は、地方封建制度。源氏主導の本領安堵・領地支配証文・土地領有権承認における御恩と奉公。顕教浄土門
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 司馬遼太郎『この国のかたち』「朱子学のさよう。……日本史が、中国や朝鮮の歴史と全く似ない歴史をたどりはじめるのは、鎌倉幕府という、素朴なリアリズムをよりどころにする〝百姓〟の政権が誕生したからである。私どもは、これを誇りにしたい」
 サムライ日本では、貪官汚吏を増産する儒教科挙の制度がなかったし、中央政権である幕府が租税を絞り取る為に守護大名を任期を決めて派遣する制度もなかった。
 百姓上がりのサムライが、自己責任で行動していた。
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 WEB歴史街道
 源頼朝平清盛源平合戦は国家体制をかけた戦いだった!
 2019年11月25日 公開
 大村大次郎(評論家・元国税調査官
 ※本稿は、大村大次郎著『「土地と財産」で読み解く日本史』より、一部を抜粋編集したものです。
 清盛と頼朝の国家プランには明確な違いがあった
 平安時代の末期、平清盛という軍事貴族が強大な勢力を持ち、朝廷を牛耳ることになる。
 そして、その対抗勢力として、これも軍事貴族源頼朝が現れた。
 両者は各地で激しい戦いを繰り広げる。
 いわゆる源平合戦である。
源平合戦というと、「武家の棟梁であった平氏と源氏が雌雄をかけて戦った」ということで、「戦い」そのものを論じられることが多い。
 しかし、この源平合戦は、単に有力な武家の棟梁同士の戦いというだけのものではない。
 「国家の変革」を賭けた戦いだったのである。
 平清盛源頼朝には、国家プランに明確な違いがあった。
清盛は朝廷のシステムの中での栄達と権力掌握を目指していた。一方、源頼朝はこれまでの朝廷システムではない、新しい国家システムの構築をもくろんでいた。具体的にいえば、国家が管理していた国土を、武家に解放し武家が全国の土地土地を管理運営するシステムに変更するということである。
 ざっくりいえば、平清盛は「中央集権制度」を維持しようとし、源頼朝は「中央集権制度を壊して封建制度にしよう」としていたのだ。
 この時期は、地方の豪族が急激に力をつけていた。
それまで、全国の土地の管理運営は、朝廷から派遣された「国司」と、その地域から選出された「郡司」で行なわれていた。
 国司は、赴任期限が決められており、だいたい4年か6年たてば京都に戻る。
 しかし、郡司はその土地の人間なので、引き続き土地の管理運営に携わる。郡司の業務は世襲化していき、当然のことながらその地方で大きな勢力を持つことになる。
その「郡司」が豪族となっていったのである。
 また国司が、赴任期間が終わっても中央(京都)に戻らずに、その地域の根を下ろし、豪族になるという例も頻発していた。
 また平安時代に急激に増えていた「荘園」に関しても似たような状況があった。
 当時、荘園は全国各地に広がっていたが、その名義上の領主はそのほとんどが京都の貴族だった(寺社などを除いて)。
 つまりは、日本全国の荘園の持ち主は京都に集中していたのである。当然のことながら、京都から地方の田を管理運営するのは非常に困難である。
 となると京都から有能な者を派遣して経営を任せたり、現地の豪族に管理を委ねるということになっていく。
 そして、荘園を任せられたものたちが、だんだん荘園内で実権を握っていく。そういうものたちのことを「在地領主」や「名主」という。
 「在地領主」や「名主」たちは、最初は、荘園領主の命令に従っているだけだったが、やがて荘園領主の支配に反発したり、支配から抜け出すようになってきた。
 そういう「在地領主」や「名主」も、平安時代の治安の悪化に伴い、各自が強固に武装するようになった。「在地領主」「名主」たちの間では、土地の所有権などを巡って、小競り合いをするようになり、必然的に武力が必要となったのだ。
 彼らは、馬や武器を揃え、家人たちに訓練を施した。
 こうして、地方に「武家」が誕生していったのである。
 平氏や源氏などの軍事貴族というのは、この地方の武家たちを統率し、内乱の鎮圧などにあたることで勢力を伸ばしていったのだ。
 平清盛は、この武家たちを朝廷のシステムの中で支配しようとしていた。土地の支配権はあくまで朝廷や中央貴族にあり、各地の武家は朝廷や中央貴族たちから土地の管理を委ねられているにすぎないという姿勢を崩さなかったのだ。
 しかし源頼朝は、武家たちに土地の所有権を認め、朝廷や中央貴族たちの支配から解放させようとした。
 源頼朝は、武家たちに対してその約束をすることで、武家たちの支持を得ることに成功し、平氏をしのぐ軍勢を率いることができたのである。
 あくまで貴族として朝廷を支配しようとした清盛
 平清盛の国家プランはどういうものだったのか?
 平清盛は、ざっくりいうと「武力を持った藤原道長」というようなものである。つまりは、藤原道長をもう一段パワーアップしたということだ。
 平清盛の父、平忠盛は、各地の国司を歴任していた。
 越前守(越前の国司の長官)を務めているとき、日宋貿易が大きな富を生むことを知ったといわれている。当時、越前の敦賀港は博多に次ぐ日宋貿易の拠点だったのだ。忠盛は、貿易に積極的に携わるようになり、巨万の富を築いたとされる。
 父の背中を見ていた平清盛は、当然、日宋貿易に精を出す。
 当時の日宋貿易の最大の拠点は、九州の博多だった。
 平安時代日宋貿易は、まず朝廷が買い上げる商品を選別し、残った品物が商人の手で各地に販売されることになっていた。だが、品物の受け渡しを朝廷が完全に管理できているわけではなく、国司になれば役人や貿易商人を通じて、朝廷よりも優先的に貴重な品物を手に入れることもできたようである。
 つまりは、「現場を仕切っているものが一番強い」ということである。
 平清盛は、保元3(1158)年に大宰府の「大宰大弐」という官職につくなど、貿易の現場に深く携われるポストを奪取していった。
 また清盛は、博多に日本初となる人口港(袖の湊)をつくったとされている。
 そして清盛は、博多よりもはるかに京都に近い兵庫に、貿易拠点となる大輪田泊(現在の神戸港)を整備した。大輪田泊には、宋や全国各地からの産品が集積され、畿内の一大交易拠点となった。現在も神戸は国際港として日本の流通拠点となっているが、それは清盛の事業に起源があるのだ。
 清盛は、この日宋貿易で巨額の富を築いた。
 この当時、宋から大量の銅銭が輸入され、それが日本に貨幣経済を根付かせることになったが、この銅銭の大量輸入も平清盛が手掛けたとみられている。
 清盛はこの財力を背景にして、後白河天皇の信任を得て太政大臣にまで上り詰めた。さらに娘を天皇に嫁がせることでさらに権力を強化した。
 各地の有力国司の地位も平氏の一族が占めた。平家一族に日本中の富、利権を集中させ「平家に非ずんば人に非ず」とさえ言われたのである。
 この辺の経緯を見ても、平清盛武家政権をつくったのではなく、有力貴族として朝廷政権を牛耳っていたにすぎないということが見て取れる。
 源頼朝の土地改革とは?
 一方の源頼朝の国家プランはどういうものだったのか?
 鎌倉幕府をつくった源頼朝というのは、よく知られているように、少年時代に島流しにあってしまう。
 平治元(1159)年、頼朝の父、義朝が平治の乱平清盛に敗れ、戦いに参加した一族はことごとく殺された。頼朝だけは年少だったため命は助けられたが、伊豆に流されてしまうのだ。
 頼朝の伊豆での生活は20年にも及んだ。
 だが治承4(1180)年、二条天皇の弟の以仁王が、朝廷を牛耳る平清盛を倒すために、全国の源氏一族に秘密の挙兵命令を出す。
 頼朝は、それに応じて伊豆で挙兵するのである。
 頼朝は20年も伊豆に流されており、武家の統率力も薄れていた。
 にもかかわらず、どうやって東国の武家勢力を結集させたのかというと、武家の権利を朝廷に認めさせたのである。
 頼朝は、寿永3(1184)年2月25日、朝廷に対して4箇条の奏聞(提案)をしている。
 そのうちの第2条で、「平家討伐の命令を下してほしい」と述べている。
 朝廷の討伐令があれば、全国の武士団を動員することができるからだ。
 そしてこの中で、頼朝は「戦においての武家への勲功は自分が行なう」としている。つまり、「戦に参加した武家に、朝廷が勝手に恩賞を与えてはならない」としたのだ。
 これは実は、旧来の国家システムからは大きく逸脱したものだった。
 旧来の国家システムでは、軍を動員したり、戦争を指揮するのは朝廷であり、勲功も当然、朝廷が行なうものだった。
 頼朝は、このルールを変えて、自分が武士団を管理統括し、朝廷は武士団のことには口出しできないようにしようとしたのである。武家を朝廷から切り離すことで、朝廷の影響力を排除し、自分が武家の長となって、新しい体制をつくろうということである。
 頼朝は他にも様々な権限を朝廷の後白河上皇に迫った。
 全国に守護・地頭を置く権利や、全国の武士を指揮したり褒賞や処罰を与える権利なども獲得していった。頼朝は、朝廷の持っていた徴税権、軍事権、警察権などを次々に獲得していき、実質的な「政権担当者」となっていったのである。
 それは各武家の土地の所有権や自治権を事実上、認めさせるものでもあった。頼朝が徴税権、軍事権、警察権などを握っているのだから、頼朝が各武家の権利を認めさえすればそうなるわけだ。
 それにしても、後白河上皇はなぜこれほど気前よく、源頼朝に朝廷の権限を与えたのか?
おそらく平氏のあまりの権勢を恐れ、とにかく平氏を倒したいという思いが強かったのだろう。後白河上皇平清盛に対して警戒感を抱き、平家の力を削ごうとしたが逆に清盛に攻められ幽閉されてしまったという経緯がある。
 これ以上、平氏をのさばらせておくわけにはいかないという気持ちが、源頼朝に対する譲歩になったというわけだ。頼朝の方は、後白河上皇から譲渡された権限を最大限に解釈し、まんまと鎌倉政権をつくってしまったのだ。」
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 2016年4月20日 読売新聞「『吾妻鏡』現代語訳版が完結 鎌倉時代の歴史書
 五味文彦・東大名誉教授『武家政権に必要なもの詰まる』
 鎌倉幕府はどのように誕生し、政治を行ったのか。鎌倉時代の歴史書吾妻鏡』の現代語訳版(五味文彦・東大名誉教授ら編集、16巻と別巻 吉川弘文館)が3月、2007年の刊行スタートから約10年がかりで完結した。
 吾妻鏡は、源頼朝が1180年に平家を討つため挙兵してから、6代将軍だった宗尊(むねたか)親王(1242〜74年)が謀反の疑いで京に追われるまでを編年体で描いている。編まれたとされるのは1297年以降で、幕政を担う御家人が所領争いを繰り広げていた時代だった。幕府の中枢の御家人らが、各家の由緒を示す狙いで編纂したとみられている。
 和風漢文で書かれ、干支(えと)と天気、時刻を記した後、何が起きたかを記録している。命令文書などが載せられている場合が多い。
 朝廷、貴族に取り入りながら台頭した平安末期の平氏政権とは異なり、鎌倉幕府は東国の武士が自力で打ち立てた本格的な武家政権吾妻鏡は、その成立の過程や、所領を与えながら家臣を束ねていく様子を記録している。訳の中心を担った五味さんは『幕府の作り方や朝廷との対し方、家臣との関係など武家政権にとって必要なものが詰まっている』と評価する。
 鎌倉幕府では、正式な評定ではなく内密な寄り合いで取り決めがなされることも多く、五味さんは『現代の国会と閣議と似ており、「政治とは何か」を考える上で見逃せない内容だ』と吾妻鏡の今日的な意義を強調する。
 訳を進める中で新たな発見もあった。例えば、歌人で随筆家の鴨長明(1155頃〜1216年)は、1211年に鎌倉幕府に任官しようとして失敗し、京に戻って隠居生活を送りながら『方丈記』を書いたというのが定説で、吾妻鏡にも11年10月に長明が3代将軍・源実朝と会ったと書かれている。だが、長明の歌論集『無名抄』などと照らし合わせた結果、五味さんは『吾妻鏡の記述は誤りで、実際には長明は12年3月に方丈記を書き終えた後、東国に修行に赴く意志を持って10月に鎌倉に来たと考えられる』と判断し、失意の中で方丈記が書かれたという見方に疑問符を付ける。
 五味さんは、『幕府が御家人に所領を保証することを、安心を意味する「安堵」と呼んだように、鎌倉時代は日本人の身体感覚にふさわしいもので制度が作り上げられた時代。その後何百年も武家政権が続く基礎となった。その歴史である吾妻鏡は、日本の中近世史を考える上で欠かせんない史料で、古典を読み解く上でも重要な指標となる』と話している。(文化部 武田裕芸)」
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 公家の相続は、女性相続であった。
 武士の相続は、男子相続であった。
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 娘の政略結婚では、
 平清盛の場合は情があって、家族・親族・一族・家門に加え、困った時は助けた。
 源頼朝の場合は情がなく、価値ある相手を身内・家臣に加え、利用価値がなくなれば強制的に離縁させ、敵に回りそうだと判断すれば娘諸共に相手を無慈悲に殺した。
 源頼朝は武士であり、平清盛は武士になりきれなかった。
 武士における政略結婚は人質である以上、約束を違えれば報復として娘が殺されても文句は言わなかった。
 それが、武士の家に生まれた女性の運命であった。
 故あって敵対して嫁いだ娘が殺されても、後日、和解すれば娘が殺された事を忘れて友人として付き合った。
 或いは、娘が嫁ぎ先の一員として攻めてくれば容赦なく殺した。
 それが武士の作法であった。
 それが武士の娘の覚悟で、裏切った実の親を恨まず、自分を処刑する夫とその家族を恨まなかった。
 一言、「世の習い」であった。
 人質として送られた男子も、同じ運命を辿った。
 武士にとって、命は意味があっても価値は鴻毛よりも軽かった。
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 御恩と奉公(ごおんとほうこう)とは、中世の日本において、主に武士の主従関係を構成した要素・概念。中世の武士間の主従関係は、決して片務的なものではなく、主人・従者が相互に利益を与え合う互恵的な関係で成り立っていた。ここで、主人が従者へ与えた利益を御恩といい、従者が主人へ与えた利益を奉公といった。平安時代中期~後期から武士層に「御恩と奉公」の関係が徐々に形成されていたが、本格的に「御恩と奉公」が成立したのは、源頼朝が関東武士の盟主=鎌倉殿となってからである。以降、御恩と奉公の関係性は、鎌倉幕府の成立基盤として機能し続け、その後の室町幕府江戸幕府にも引き継がれた。
 御恩
 御恩の具体的な内容は、主人が従者の所領支配を保障すること、または新たな土地給与を行うことである。前者は本領安堵(ほんりょうあんど)と呼ばれ、後者は新恩給与(しんおんきゅうよ)と呼ばれた。鎌倉幕府が成立すると、鎌倉殿が御家人を地頭に任命するという形で本領安堵新恩給与、すなわち御恩がほどこされるようになった。
 奉公
 奉公の具体的な内容は、従者が主人に対して負担した軍役・経済負担などである。鎌倉幕府が成立すると、御家人は鎌倉殿に対して、緊急時の軍役、内裏や幕府を警護する大番役、その他異国警固番役長門警固番役などの軍役奉仕のほか、関東御公事と言われる武家役を果たした。
 沿革
 平安期の10世紀頃、大きな社会変化を背景として、朝廷は、徴税・軍事をもはや官司機構で担うのではなく、国司や富豪などへ請け負わせる官司請負制への転換を進めていた。特に争乱の多かった関東では、在地の富豪や豪族が公的な軍事力を担うようになっていた。こうした状況下で、関東を中心に武士団が形成されていったが、武士団では主人がトップに立ち、家子・郎党と呼ばれる従者たちを率いていた。こうした主従関係を結びつける契機となったのが、御恩と奉公の関係性である。主人・従者の両者は、御恩と奉公という互恵関係を結ぶことで、一定の共同体(武士団)を作っていったのである。ただし、当時の主従関係は割とルーズなもので、複数の主人に仕える、一時的にだけ主従関係を結ぶ、といったことも多く見られた。
 平安最末期に関東武士全体を代表する鎌倉殿という地位が登場すると、御恩と奉公に基づく主従関係は、次第に排他的(鎌倉殿以外の主人を持たない)かつ永続的なものとなり、一層強固になっていった。その後、御恩と奉公は明治維新まで続く武家社会の基本的な成立要素として機能した。
 なお、御恩と奉公による主従関係について、中世ヨーロッパに見られた封建制(feudalism)との共通点に着目して、封建的主従関係と理解する見解がある。その一方、ヨーロッパ封建制と本質的に異なる、日本独自の主従関係であるとする見解も出されている。
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 平氏は、家を大事にし、家族・親族・一族の団結が強く、失敗しても助け合い、庇い合った為に滅びる時は家族郎等共に滅んだ。
 それが、壇ノ浦の戦いである。
 源氏は、家を大事にせず、家族・一族よりも家臣団を優先した為に親兄弟・親戚・親族・血縁者による殺し合いを繰り返し、滅びる源氏があれば残る源氏もあった。
 それが、一族の木曽義仲、兄弟の源義経源範頼、子供の源頼家源実朝、孫の公暁らの非業な最後である。
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 平清盛平氏とは、伊勢平氏一門の事であった。
 源頼朝の源氏とは、河内源氏一門ではなく自分の血の繋がった子供の事であった。
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 平清盛の家族とは、男系父系と女系母系の両系であった。
 源頼朝の家族とは、男系父系のみであった。
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 武士とは、奈良・平安時代の名門・源平藤橘を男系父系の家祖とする家系をさし、天皇家・皇室を武力で守護する暴力集団の事である。
 源平藤橘は、男系父系家系天皇家・皇室と深い絆で繋がっていた。
 この男系父系家系と深い絆を持たない者は、武士ではなく夜盗・盗賊の殺人鬼の類である。
 天皇家・皇室を否定する事は、武士を否定する事である。
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 武士が日本を支配した結果、日本では、中国の様な他国への侵略と虐殺や朝鮮の様な領民への搾取と虐殺は起きなかった。
 つまり、日本では中国・朝鮮のような支配者・権力者・勝者・領主・強者による理不尽な人災は少なかった。
 何故なら、武士とは「一所懸命」に、祖先が開墾した土地だけを後生に大事に守り子孫に残す土着民で、武力で領地を拡大して豊かになろうという欲望を持っていなかった。
 武士や百姓から土地を借金の担保で奪って手に入れて金を稼いで巨万の富を築こうとしたのは、利に聡い強欲な高利貸=商人である。
 それ故に、武士や百姓は商人を軽蔑・差別し、貨幣・金は先祖代々の土地を無慈悲に奪っていく不浄と嫌った。
 日本民族日本人は、自然・大地・土地と共に働いて生きる事を最上の美徳とし、金の為に自然を破壊し大地を穢し土地を潰す事を罪悪と嫌悪した。
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 日本の変革・改革・改造の活力は、中央・都市のグローバルではなく地方・農村のローカルにあった。
 つまり、いつの時代でも日本を再生・再建、復興・復活、新生させるのは「地方土着」である。
 地方土着が存在する限り日本に立ち上がる事ができるが、地方土着がなくなったとき日本は滅びる。
 地方土着の象徴が、農業の主宰者である万世一系男系天皇の皇室である。
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