🗻97〕─1─チンギス・ハーン。第82代後鳥羽上皇。1200年~No.242No.243 

陽光の剣  高麗王若光物語

陽光の剣 高麗王若光物語

  • 作者:高麗文康
  • 発売日: 2013/03/23
  • メディア: 単行本
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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
*日本とモンゴルとの熾烈な外交戦
 1150年 日本の総人口、692万人。
 中国の総人口、戦乱による人口の激減
 1014年 ‥ 北宋   …   5,700万人
 1103年 ‥ 北宋   … 1億2,700万人
 1193年 ‥ 南宋と金 … 1億2,000万人
 1290年 ‥ 元     …    8,600万人
 中国文明とは、自己中心的に強い者、賢い者のみが生き残る実力主義能力主義の世界であり、征服者の奴隷となる事を拒否する者を大虐殺する不寛容な社会でもある。
 易姓革命による王朝の交代たびに、新たな絶対権力者唯一の皇帝は、敵と見なした相手を大虐殺した。よって、大陸の何処を掘っても夥しい人骨が出土する。
 高麗王は、1125年に宋が北方民族の侵略で江南に逃れるや、中国皇帝と同様に天命を受けた皇帝である事を僭称して海東天子と名乗った。
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 蒙古は「おろかで古い」と言う意味で、倭と同様に、中国人(漢族)が周辺蛮族を人間以下の獣と蔑む為に付けた蔑称である。
 自虐的を好む日本人は、中国人から「倭」と軽蔑されて見下されているのに、その意味が理解できずむしろ親しみを込めた呼んでくれていると勘違いして喜んでいる。
 倭奴やイエロー・モンキーやジャップなどと軽蔑されても、名誉を重んじた戦前の日本人とは違って
怒りもしなければ反論もしない。 
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 1206年 モンゴル族のテムジン(鉄木真)は、クリルタイ(部族会議)でチンギス・ハーンの称号を受けた。
 モンゴル帝国の誕生である。
 イスラム教徒商人達は、モンゴル帝国においてモンゴル人に次ぐ第二位の準支配階級として色目人と呼ばれた。
 中華世界では、イスラム教徒は「回族」と呼ばれた。
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 1219年 三代将軍源実朝が、甥の公暁によって殺されるや、清和源氏の直系は途絶えた。執権として権力を掌握した北条氏は、京都から皇族の子供を迎えて、名目だけの実権なき将軍に就任させた。態の良い、人質であった。
 1221年 承久の乱後鳥羽天皇は、退位して上皇となって院政を始めた。政治を武士から取り返す為に、北条義時追討の宣旨を諸国のサムライに発し、挙兵した。
 だが、上皇の呼びかけに応じて馳せ参じたサムライは少数であった。
 多くのサムライは、将軍への恩顧で鎌倉幕府に駆けつけた。
 北条政子は、朝敵とされた境遇に戸惑うサムライ達に涙声で団結を呼びかけた。
 北条義時は、短期決戦を仕掛けて、19万騎の大軍を西上させた。
 後鳥羽上皇は、幕府軍の猛攻に驚き、そして恐怖して戦意を消失し、味方の武将を裏切って恭順を示した。
 官軍は、「錦の御旗」を掲げる事に失敗した。
 官軍方の武将らは、最後まで徹底抗戦しない上皇を見捨てて四散した。
 戦う意思のない者を、腰抜け、負け犬と、軽蔑し、馬鹿にした。
 第85代仲恭天皇は退位させられ、後鳥羽上皇隠岐に流され、土御門上皇(第83代天皇)は土佐に流され、順徳上皇(第84代天皇)は佐渡に流された。
 北条氏は、中国や朝鮮にならって自ら皇帝=天皇になる意思はなかった為に、後鳥羽上皇の兄守貞親王の皇子を即位させた。第86代後堀河天皇である。
 自分の分を知る「まとも」な日本人は、神の裔・万世一系男系天皇制度(直系長子相続)をとことん理解し、貴い血筋を絶やさず、正しく皇統を残す事に腐心した。
 だが、この後。天皇は、その時々の権力者に良い様に利用される、自分の意志を持たない操り人形、自立出来ない単なる飾りとなった。
 天皇は、絶対的な存在でもなく、政治権力もなければ、宗教権威もなかった。
 男系天皇家の血筋を守り、その皇統を受け継ぐだけの、無力な人間にすぎなかった。
 そこには、現人神という神聖不可侵の宗教権威と、政治及び軍事における最終決定者にして最高命令権者といった政治権力はなかった。
 歴史を知る者はこの真実を知っていたが、架空の時代劇が好きな者はこの事実を理解しない。
 日本人、特に現代の社会及び政治に影響力のある知的エリートは、歪曲され、捏造された、耳障りの良い時代劇を正しい歴史だと盲信して疑わない。
 そして、日本を破壊しようとしている反天皇マルクス主義者は、天皇そのもの自体を地上から抹消しようとしている。
 左翼や左派の市民活動の結果、現代日本では、非科学的な神の血を受け継ぐ万世一系男系天皇家(直系長子相続)を信ずる日本人はあまりいない。
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 北条泰時は、鎌倉の俗世的武家法と京の神聖的公家法は原則的に相互不干渉・相互不介入としたが、武家と公家の間の揉め事は武家法を優先する事とした。
 日本は、この時から、俗世の法律が宗教の権威の上位に立つ事となった。
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 1493年 第103代後土御門天皇は、後鳥羽上皇の怨霊が皇族や幕府の要職に祟っているとして、水無瀬神宮に祟る神・鬼として祀った。
 後鳥羽上皇「この世の妄念にこだわって魔縁(魔物)とならん」
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 1254年 禅僧・覚心は、中国の元で禅宗を学んで帰国し禅僧を広めた。同時に、味噌の製法を持ち帰って各地で味噌造りを普及させた。
 紀州で味噌製法を教えている時、偶然に樽の底に溜まっていた汁が残っていた。
 これが、溜まり醤油の起源である。   ・   ・   ・   
 相澤 理「鎌倉幕府が成立したからといって、武家政権が一元的に全国を支配していたわけではありません。京都にはもちろん朝廷(公家政権)が健在で、公武二元支配が成立していました。……幕府と朝廷とは勢力を東西に二分していました。幕府が東国、朝廷が西国です。……発足当初の鎌倉幕府は、あくまでもローカルな政権で、朝廷との力関係も拮抗していました。それを崩したのが承久の乱だったのです」(『東大のディープな日本史2』P.81)
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 秩父宮「過去において天皇を神様あつかいしたのは、国民の意思ではなかったが、少なくも一部の人の意図に多数の国民が引きずられ、天皇もまた心ならずもそれに巻き込まれた結果だといえるのではあるまいか。国民がこの轍を踏まない事を望み、天皇を人間として身近な親しみ易いものとして置きたいなら、国民の声で、国民の力で、もっと形式張らずに天皇が自由に行動できる様にする事だ」(月刊誌『改造』1952年12月号)

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