👪25〕─1─日本は三元論と二項割合(二項比率)、欧米は二元論と二項対立。〜No.123No.124No.125No.126 * 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本は、多神教で、相対価値観で多様性である。
 三元論と二項割合(二項比率)で、曖昧で、好き・嫌い・何方でもない、正解・不正解・何方ともいえない、善悪・正邪・清濁併せのむ。
 棲み分け。
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 欧米は、一神教で、絶対価値観で一様性、画一、均一である。
 二元論と二項対立で、厳格で、イエスとノーで、善は善・悪は悪、正は正・邪は邪、清は清・濁は濁である。
 弱肉強食。
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 中華は、儒教で、日本ではなく欧米に近い。
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 2017年12月号 Hanada「一定不易  加地伸行
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 愚かな話である。なぜか。欧米の連中は、二項対立でものを考える。陰か陽か、善か悪か、生か死か・・・というふうに。そこから弁証法(二つの正反対の意見の対立や矛盾の論議から新しい考えを生みだしてゆく論法)という考えかたがうまれる。
 例えば二大政党という視点となる。その真似をしようというわけだ。明治以来の欧米猿真似である。
 しかし、われわれ東北アジア人の思考は、二項対立ではなくて二項割合(二項比率)なのである。例えば、陰と陽との二つが対立すると考えるのではなくて、全体を100としてパーセンテージで見るのだ。前回は陰が20%、陽が80%、今回は陰が10%、陽が90%というふうに、俗に言えば、あいつは悪い奴だが、いいところもある、というような見かた、それが日本人なのである。
 世には、時間と空間とという両物差しがあるが、その内の空間を軸に取って見てみると、われわれ日本人は二項割合で物を見る。その延長上からは、対立する二大政党といった観点は出てこない。一強多弱、あるいは二強(連合)多弱・・・となるのが自然なのである。
 もしも二大政党を理想とするならば、二項対立的に立憲民政党社民党共産党らが過半数近くにまで伸びなくてはならないが、そうなっていないではないか。つまり、日本人は、二項対立など望まない、いや思考の内にないのである。この心の深層を知るべきだ」
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 日本は、神・悪魔、男・女、善・悪、正・邪、美・醜、生と死、水と油、勝者・敗者、強者・弱者という断絶的に「分断させる」二元論ではなく、白と黒の間の灰色、完全と不完全の間の未完成、光と影の間の薄明かり、海と陸の間の渚といった橋渡し的に「つなげ」三元論であった。
 昔の日本人は、物事をハッキリさせる勇気がなく、何とか対立を避け、喧嘩しないようにする為に数多くの合間、中間、中性を設けて逃げ回った。
 日本人は、喧嘩が下手である。
 日本に世界のような息苦しさがないのは、イエスでもノーでもない、どっち付かずの曖昧な存在を数多く作り出したからである。
 気の小さい日本人は、物事をハッキリさせず中途半端に放置してきた。
 日本の特性は、我を張らない、欲張らない、執着しない、必要以上に欲しがらないという「まあまあ、なあなあ」の物事に拘らないという曖昧である。
 世界から「個性がない」と非難される、「適当」「ほどほど」「ちゃらんぽらん」「いい加減」である。
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 気の弱い日本民族は、人類が共有できる様な地球規模の普遍的絶対価値観としての、天地創造や人類誕生同様に、死後の世界としての「天国と地獄」を創る事ができなかった。
 ゆえに。日本文明の核である日本中心神話には、高天原に住む天つ神の天国と忌み嫌われたおどろおどろしい神々が住む黄泉の国はあっても、死んだ人間がゆく天国も地獄も存在しない。
 神道とは、常識を持った宗教の中で、非常識な異質の宗教である。
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