🌋7〕─1─弥生時代の特産品。日本国内は朝鮮半島から輸入された鉄を求めて交易が活発となる。~No.20No.21No.22 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 現代日本は鉄の時代である。
 鉄の時代は、弥生時代に始まり、現代においても続いている。
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 弥生時代に主に使われた鉄器は、戦う為の武器ではなく、生活用品を作る各種工具であった。
 職人達は、より良い生活を送る為に鉄製工具を使ってモノ作りを続けた。
 弥生人は、外洋船を作って鉄を求めて朝鮮半島に渡り、鉄とコメ・土器などとの物々交換の交易を行った。
 朝鮮半島は、地球の寒冷化によって稲が作れなくなった為に日本からコメを輸入していた。
 日本各地の豪族は、朝鮮半島産鉄を手に入れる為に、地元の物資を利用した特産品を作って交易していた。
 貧しい豪族は、特産品を作り交易で豊かになった集落を攻撃した。
 それが、弥生の大乱である。
 ヤマト王権は、輸入していた鉄器を工具や武器から祭祀と権威に使った。
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 NHKオンデマンド
 2月12日水曜
午後10時30分~ 午後11時20分
 歴史秘話ヒストリア「ニッポン鉄物語 “奇跡の金属”が列島を変えた」
 日本に「鉄」が伝わった弥生時代。中国や朝鮮半島で作られた鉄製品が、長崎・壱岐などを通じて列島にもたらされると、暮らしは劇的に変化した。鳥取の弥生遺跡からは、鉄の工具によってモノづくりが発展した様子が分かる。また、鉄を求めて列島各地の交易が盛んとなり、朝鮮半島との結びつきも深まっていった。古墳時代になると、鉄は権威の象徴となり、ヤマト王権の勢力拡大に力を発揮する。新時代を切り拓いた鉄の歴史をたどる。
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 NHK 高校講座
 第2回 第1章 古代国家の形成と貴族文化の誕生
 弥生文化小国家の形成
 監修講師:東京都立日野高等学校教諭 武藤正人
 
 弥生文化小国家の形成
 歴史を語り合う茶屋、歴カフェ。
 日本史が大好きな店員、小日向えりさんのもと、歴史好きの平野詩乃さん、市瀬悠也さんが集まってきました。
 今回は縄文時代の終わりから弥生時代にかけて。
 縄文時代の終わりに稲作が伝えられると、社会の仕組みが大きく変わっていきました。
 今回のテーマにせまる3つのポイントは「弥生文化」「小国の分立と大陸との関係」「邪馬台国」。
 稲作に始まる社会の変化が、日本列島に何をもたらしたのか、考えていきましょう。
 弥生文化
 弥生時代といえば、やはり「稲作」。
 えり 「実は、稲作が始まったのは『弥生(やよい)時代』っていうイメージがあると思うんだけど、日本で始まったのは縄文(じょうもん)時代の終わりごろからって言われているんです。稲作が最盛期を迎えて、“新しい文化”が栄えたのが弥生時代ということなんです。」
 悠也 「時代と時代は、突然ある日を境にして切り変わっていたわけじゃないってことだね。」
 えり 「そして、旧石器、縄文と使われ続けていた石器も、弥生時代の稲作に合わせて変化したんです。弥生時代の石器、『石包丁(いしぼうちょう)』です。」
 この石包丁は、稲刈りに使われていました。
 こうした稲作の技術はどこから伝わってきたか、みなさんは覚えていますか?
 紀元前4世紀ごろ、大陸から北九州に渡って来た人々によって、稲作とその技術が伝えられました。
 佐賀県の菜畑(なばたけ)遺跡は、日本最古の「水稲(すいとう)耕作」が行われた水田跡です。
 板や杭(くい)で水路を作り、すみずみまで水が行き渡るように工夫されていました。
この遺跡で、焼けて炭になった米、「炭化米」が発見されました。
 米作りが盛んに行われていた様子がうかがえます。
 米作りの農具も伝わりました。
 木製のクワやスキを使って土を耕しました。
 また、大陸からは「鉄器」も伝わりました。
 鉄器によって、石器よりもはるかに効率よく農具が作れるようになりました。
 稲作が始まると、集落は、丘や台地から平野の方へと移っていきます。
集落では竪穴(たてあな)住居のほか、米をたくわえるために床を高くした「高床(たかゆか)倉庫」が作られました。
 大事な米をネズミから守るために、当時の人々が考え出したのが「ねずみ返し」です。
 青銅で作られた「銅鐸(どうたく)」。
 鉄器と同じころに伝わったのが「青銅器」です。
 神や先祖を祭る祭祀(さいし)の道具に使われたと考えられています。
 水稲耕作をおもな生業(なりわい)とし、青銅器や鉄器などを使う事を特色とする文化 を「弥生文化」とよび、紀元3世紀ごろまでを弥生時代といいます。
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 NHK NEWS WEB 2020年2月12日
 長崎 NEWS WEB
 古墳時代にかけての鍛冶工房跡か
 02月06日 15時47分
 大村市の帯取遺跡から、弥生時代末期から古墳時代初頭ごろにかけて鉄製品を作っていたとみられる建物が見つかりました。
 大村市の帯取遺跡では、去年12月中旬から宅地造成工事に伴って、埋蔵文化財の発掘調査が行われています。
 大村市教育委員会によりますと、この遺跡から合わせて4つの炉を備えた竪穴建物とともに、その中から棒状の小さな鉄器や鉄を削ったと見られる砥石などが見つかったということです。
 炉の形式としては、穴を掘らずに地面をそのまま使っていたと見られていて、固まった地面では金属探知機の反応が確認されているほか、ところどころ変色しているため、高温で作業していたことが伺えるとしています。
 こうしたことから、市教育委員会は、金属考古学の専門家による調査の結果もふまえ、弥生時代末期から古墳時代初頭にかけて鉄製品を作っていた鍛冶工房跡と見られるとしています。
 この時期の鍛冶工房跡が見つかるのは、壱岐市のカラカミ遺跡に次いで、県内では2例目だということです。
 市教育委員会文化振興課の柴田亮学芸員は「鉄器と石器では、生活のレベルが異なってくるが、工房が見つかったことにより、当時の人たちの生活に鉄が根付いたと思われる」と話していました。
 市教育委員会は、来週11日、午後1時半から市民向けの現地説明会を行うことにしています。
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 ウィキペディア
 弥生時代(やよいじだい)は、日本列島における時代区分の一つであり、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称。採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。縄文時代晩期にはすでに水稲農耕は行われているが、多様な生業の一つとして行われており弥生時代の定義からは外れる。
 2003年に国立歴史民俗博物館(歴博)が、放射性炭素年代測定により行った弥生土器付着の炭化米の測定結果を発表し、弥生時代は紀元前10世紀に始まることを明らかにした[2]。当時、弥生時代は紀元前5世紀に始まるとされており、歴博の新見解はこの認識を約500年もさかのぼるものであった。当初歴博の新見解について研究者の間でも賛否両論があった。しかし、その後研究がすすめられた結果、この見解はおおむね妥当とされ、多くの研究者が弥生時代の開始年代をさかのぼらせるようになってきている。一方放射性炭素年代測定や年輪年代学の技術は充分に確立されたとはいえないことから、開始期の繰り上げに根強い反対も存在する。
 弥生時代後期後半の紀元1世紀頃、東海、北陸を含む西日本各地で広域地域勢力が形成され、2世紀末畿内倭国が成立。3世紀中頃古墳時代に移行した。

 鉄器
 弥生時代中期前半までには北部九州で工具を中心に一般化がおこると、後期以降に西日本全域に拡散するとともに、武器や農具としても採用されるようになった。鉄器は耐久性や刃の鋭さから主に利器、特に工具や農具(収穫具)として用いられた。出現当初は鍛造鉄斧の断片を研ぎ出して小型の工具などとして使っていたが、中期前半までには北部九州で袋状鉄斧と呼ばれる列島製の鉄斧が出現すると、徐々に西日本一帯へと波及していった。このほかに小刀(刀子)や鉄鏃、ノミ状工具などの存在が知られる。この時期の鉄器は鉄素材を半島から輸入して製作されており、列島で製鉄が見られるのは古墳時代後期以降と考えられる。
 弥生時代における鉄器の生産には、材料となる鉄を切り・折り取り、刃を磨き出すことによって作られる鏨切り技法と、鍛造により形を作り出す鍛造技法があることがわかっている(ごく一部の例について、鋳造により作られた可能性が示唆されているが、鉄を溶かすためにはきわめて高温の操業に耐えうる炉が必要であり、弥生時代にこのような技術が存在したかどうかは疑問視されている)。
 北部九州、特に福岡市周辺地域では弥生時代中期前半までに鍛造技法による鉄器の生産が開始された。一方、同じ北部九州でも八女市などの周辺地域では弥生時代後期になっても鏨切りによる鉄器生産が一般的であった。瀬戸内地方でも、弥生時代後期までには鍛造による鉄器生産が伝播していたが、技術的には北部九州のそれよりも明らかに低い水準にあり、同時に鏨切りによる鉄器製作も普遍的に行われていた。
 弥生時代後期には、玄界灘沿岸地域の遺跡から鉄器が大量に出てくるが、瀬戸内海沿岸各地方や近畿地方の遺跡からはごくわずかしか出てこない。つまり玄界灘沿岸地域が鉄資源入手ルートを独占していたと推定されている。それゆえに、鉄資源の入手ルートの支配権を巡って戦争が起こったのではないかと考えられているが、今はまだ考古学的に立証することができない。戦争が起こったと仮定すれば、近畿地方の大和勢力を中心に、広域の政治連合、例えば邪馬台国連合のような同盟ができあがっていたことが想定されている。

 朝鮮半島との関係
 現代の日本人の起源についてはさまざまな仮説があったが、今の遺伝子学の研究結果によると現代の日本人は朝鮮半島から渡ってきた弥生人縄文人と混血して形成されたという。

 弥生時代の終焉と古墳時代への移行
 弥生中期にそれぞれの地域内に複数存在した政治的まとまりが、弥生後期にはより広域の政治的まとまりに発展し、2世紀末には畿内を中心とする西日本広域の国連合に発展していった。中国鏡の分配主体は北部九州から畿内に移り、環濠集落は消滅し首長居館が出現した。2世紀第2四半期には纒向に巨大集落の建設が始まった。
 3世紀、西日本の大半と東日本の一部によって倭国が建国された。大和の政治勢力が主導したとされる。
 変化は首長層だけにとどまらず、農民層の生活でも起こった。弥生時代の住居は西日本では円形、多筒形、隅円方形などさまざまであったのが終末期には方形区画の住居が急速に普及し、古墳時代前期には東日本にも広まった。縄文時代から使われてきた石器は消滅し、弥生後期後半には北部九州から畿内で食器が木製から土器に転換した。
 古墳時代の開始期にはすでに九州から東北南部の間で広域の地域間交流が成立していたとされる。都出比呂志は古墳時代の開始、前方後円墳体制の成立は、弥生時代から始まった民族形成において決定的な役割を果たしたとしている。
 ただしこれらは主として西日本で起こった変化であることを注意しなければならない。青山博樹によれば古墳文化は西日本の弥生文化から継承された要素は多いが、東日本の弥生文化から古墳文化に継承された要素は皆無だと指摘し、東日本の古墳文化は、西日本の弥生文化を継承した古墳文化に転換することによって成立したとしている。
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