🏹11〕─1─承久の屈辱。京都幽閉。武士は皇室・上皇家の私有荘園を没収した。承久3(1221)年~No.29No.30No.31 

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 承久3(1221)年 承久の乱の結果、天皇家・皇室は武士政権の囚われの身となった。
 慶応3(1867)年の大政奉還で、天皇家・皇室は軟禁状態から解放された。
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 天皇家・皇室は、荘園の多くを奪われ、政治力を削がれ、鎌倉幕府の監視下に置かれた。 後に、鎌倉幕府天皇治天の君上皇法皇)の選定権を掌握し、朝廷を完全ある支配下に置いた。
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 天領(てんりょう)は、江戸時代における江戸幕府の直轄地の俗称で、このほか幕府直轄領、徳川幕府領、徳川支配地、幕府領、幕領など様々な呼称があり、必ずしも絶対的な単一の歴史用語ではない[1]。幕府直轄領は元禄以降、全国で約400万石あった。その領地は日本全国に散らばっており、江戸時代を通じて何らかの形で幕府直轄地が存在した国は51ヶ国と1地域(蝦夷地)に及び、年貢収取の対象となる田畑以外に交通・商業の要衝と港湾、主要な鉱山、城郭や御殿の建築用材の産出地としての山林地帯が編入され江戸幕府の主要な財源であった。
 幕府直轄地が「天領」と呼ばれるようになったのは明治時代である。大政奉還後に幕府直轄地が明治政府に返還された際に、「天朝の御料(御領)」などの略語として「天領」と呼ばれたのがはじまり。その後、この呼称が江戸時代にもさかのぼって使われるようになった。

 大政奉還後の慶応4年(1868年、同年明治元年)には徳川支配地を天領と呼んだ布告があるが、同時期の別の布告では「これまで徳川支配地を天領と称し居候は言語道断の儀に候、総て天朝の御料に復し、真の天領に相成候間」とある。
 幕府の直轄地についての呼称については、従来は「天領」と表記していたが、この「天領」という呼称が明治以降の俗称であるという点から、近年では「幕領」と呼ぶ傾向になっており、全国の歴史教科書なども「幕領」への表記の変更が進められている。
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 遠回しに言えば、徳川宗家の直轄領石高約400万石は鎌倉幕府に奪われた皇室・上皇家の私有荘園と言える。
 近代的天皇家・皇室は、祖先が武家に奪われた私有財産を取り戻した。
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 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
 承久の乱
 後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が鎌倉幕府を討とうとして挙兵し、敗れた内乱。[上横手雅敬

 結果・意義
 乱に対する幕府の処置は峻厳(しゅんげん)を極め、後藤基清(ごとうもときよ)・佐々木広綱(ささきひろつな)ら上皇方に加わった御家人、一条信能(いちじょうのぶよし)・藤原光親(みつちか)ら乱を首謀した上皇の近臣を斬罪(ざんざい)に処した。また守貞親王(もりさだしんのう)(後高倉法皇(ごたかくらほうおう))に院政を行わせ、その皇子後堀河天皇(ごほりかわてんのう)を即位させ、仲恭天皇を廃位した。さらに後鳥羽・順徳・土御門上皇を、隠岐(おき)・佐渡(さど)・土佐(とさ)に流した。幕府軍を率いて上洛した北条泰時・時房は都にとどまり、六波羅探題(ろくはらたんだい)として、朝廷との交渉、西国御家人の統率、京都と近辺の治安維持、西国の裁判などにあたることになった。上皇方の所領3000余か所は没収され、その地には新たに地頭が置かれたが、没収地は西国に多く、恩賞地を与えられた多数の東国武士が西国に移住したため、幕府の勢力は、これまで弱体であった西国でも強化されることになった。乱の結果、幕府は、荘園領主(貴族・寺社)と在地領主(武士)との対立を調停する権力として安定し、僧兵の強訴(ごうそ)に対する収拾策などでは、従来院政が行っていた機能を吸収するに至った。上皇方の敗北が貴族に与えた衝撃は大きく、帝王にも徳が必要であり、無道の君は討つのもやむをえないという思想もおこった。この乱で、幕府は天皇院政を行う治天(ちてん)の君(きみ)を廃立したが、これはこの乱後に限っての臨時措置であり、幕府が治天の君天皇の選定権を掌握するようになるのは、後年の北条時頼(ときより)の時代からである。[上横手雅敬
京都市編『京都の歴史2』(1971・学芸書林) ▽上横手雅敬著「鎌倉幕府と公家政権」(『岩波講座 日本歴史5』所収・1975・岩波書店)』
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 承久の乱は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。武家政権という新興勢力を倒し、古代より続く朝廷の復権を目的とした争いである。北条義時は朝廷を武力で倒した唯一の武将として後世に名を残すこととなった。この乱は承久の変、承久合戦ともいう。
 日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いであり、朝廷側の敗北で後鳥羽上皇隠岐に配流され、以後、鎌倉幕府は、朝廷の権力を制限し、京都に朝廷を監視する六波羅探題を置き、皇位継承等にも影響力を持つようになるなど、幕府主導の政治体制を固めた。また、将軍の代理人である執権職の北条氏が実質的に鎌倉幕府を支配する執権政治が100年以上続くこととなった。
 平安時代末期の保元の乱平治の乱により、貴族階級の衰退と武士階級の飛躍的な台頭の後、1185年に初めての武家政権となる鎌倉幕府が成立したが、東日本を勢力下においた鎌倉幕府と、西日本の支配を保った朝廷による2頭政治となり、朝廷では新興の武家政権への反感が募っていった。その鎌倉では、幕府の初代将軍の源頼朝が落馬で死亡、2代将軍の頼家と3代将軍の実朝が次々と暗殺され、天皇家の血を引く源氏将軍が鎌倉から滅亡し、この1219年以降、北条氏が執権職にもかかわらず鎌倉幕府を実質的に手中に収めるに至り、朝廷は、武家政権打倒と日本全土の統治回復を目指すこととなり、この2年後に承久の乱が起きた。

 背景
 治承・寿永の乱の過程で、鎌倉を本拠に源頼朝を棟梁として東国武士を中心に樹立された鎌倉幕府では、東国を中心として諸国に守護、地頭を設置し警察権を掌握していた。一方西国への支配は充分ではなく、依然として朝廷の力は強く、幕府と朝廷の二元政治の状態にあった。

 戦後処理
 7月、首謀者である後鳥羽上皇隠岐島順徳上皇佐渡島にそれぞれ配流された。討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流された(後に阿波国へ移される)。後鳥羽上皇の皇子の雅成親王(六条宮)、頼仁親王(冷泉宮)もそれぞれ但馬国備前国へ配流された。仲恭天皇九条廃帝、仲恭の贈諡は明治以降)は廃され、行助法親王の子が即位した(後堀河天皇)。親幕派で後鳥羽上皇に拘束されていた西園寺公経内大臣に任じられ、幕府の意向を受けて朝廷を主導することになる。
 後鳥羽上皇の膨大な荘園は没収され、行助法親王後高倉院の称号が贈られる)に与えられた。ただし、その支配権は幕府が握っていた。
討幕計画に参加した上皇方の「合戦張本公卿」と名指しされた一条信能、葉室光親、源有雅、葉室宗行、高倉範茂ら公卿は鎌倉に送られる途上で処刑され、坊門忠信らその他の院近臣も各地に流罪になったり謹慎処分となった。また藤原秀康藤原秀澄、後藤基清、佐々木経高河野通信御家人を含む京方の武士が多数粛清、追放された。しかし大江親広は父広元の嘆願もあり赦免されている。
 乱後、幕府軍の総大将の泰時、時房らは京の六波羅に滞在し、朝廷の監視や西国武士の統率を行う。朝廷は京都守護に代り新たに設置された六波羅探題の監視を受けるようになり、皇位継承をも含む朝廷に対する鎌倉幕府の統制が強化された。
 京方の公家、武士の所領約3000箇所が没収され、幕府方の御家人に分け与えられ新補地頭が大量に補任された。

 事件の影響
 承久の乱ののち、朝廷は幕府に完全に従属した。幕府は朝廷を監視し、皇位継承も管理するようになり、朝廷は幕府をはばかって細大もらさず幕府に伺いを立てるようになった。院政の財政的基盤であった八条院領などの所領も一旦幕府に没収され、治天の管理下に戻されたあともその最終的な所有権は幕府に帰属した。承久の乱には、鎌倉と京都の二元政治を終わらせて武家政権を確立する意義があったとする学者もいる。
 鎌倉幕府御家人で源氏一門(御門葉)の重鎮であった大内惟信は、敵方である後鳥羽上皇に味方し敗死し、源頼朝が最も信頼を置いていた平賀氏・大内氏は没落することになる。山本七平の「日本史上最大の事件」という意見もある。
 処刑された院近臣の多くは後鳥羽上皇の支持を受けて家格の上昇を目指した家々であったが、これによって挫折を余儀なくされ、衰退もしくは没落することとなり、院近臣層の構成にも変化が見られるようになった。これは父親が初めて大臣となり、自身の昇進も類似した経歴をたどっていた坊門忠信(挙兵派)と西園寺公経(反対派)およびその子孫のその後が、この乱を機に大きく分かれていることが物語っている。
 また、西国で京方の公家、武家の多くの没収地を得、これを戦功があった御家人に大量に給付したため、執権北条氏と御家人との信頼関係が強固になり、鎌倉幕府の開府期に続いて多くの御家人が西国に移り住むこととなり、幕府の支配が畿内にも強く及ぶようになる。
 承久の乱の翌年に生まれた日蓮は、この事件を「先代未聞の下剋上」として捉えた。この時の朝廷には既に国家を統治する力がなかったとし、「王法すでに尽ぬ」と解釈した。日蓮は、自身の持つ東国人の京都への反発も含め、鎌倉幕府(=北条得宗家)こそが真の「日本の国主(国王)」であると考えており、数々の弾圧にもかかわらず国家諌暁の対象を鎌倉幕府にのみ行い、京都や朝廷に対する自己の教えの布教には消極的あるいは否定的であったとする見方がある。
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 怨霊としての後鳥羽院
 配流後の嘉禎3年(1237年)に後鳥羽院は「万一にもこの世の妄念にひかれて魔縁(魔物)となることがあれば、この世に災いをなすだろう。我が子孫が世を取ることがあれば、それは全て我が力によるものである。もし我が子孫が世を取ることあれば、我が菩提を弔うように」との置文を記した。また同時代の公家平経高の日記『平戸記』には三浦義村北条時房の死を後鳥羽院の怨霊が原因とする記述があり、怨霊と化したと見られていた。顕徳院から後鳥羽院への追号の変更はそうした怨霊説の払拭の意味もあったと考えられているが、別の角度からの見方として怨霊説は後鳥羽院が生前に志向していた順徳天皇系による皇位継承には有利な言説で、土御門天皇系である後嵯峨天皇の即位に対する批判の根拠に成り得たからとする説もある。
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