☲22〕─1─ロッテ財閥総帥辛格浩(シン・キョクホ=重光武雄)。~No.70No.71No.72 ⑯ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 
 辛格浩(シン・キョクホ=重光 武雄)は、貧しい農家の長男であった。
 強制徴用や強制連行ではなく自由意志で日本に出稼ぎとして渡り、アルバイトをしながら早稲田高等工業学校科学科に通学した。
 辛格浩は、日本で稼いでいた金を韓国に持ち出し、政治献金としてばら撒いてロッテ財閥をつくった。
 辛格浩は、戦後、日本人女性と結婚してから重光姓に代えた。
   ・   ・   ・   
 1940年頃
 当時の巡査の初任給は45円。
 掛け蕎麦は20銭。
   ・   ・   ・   
 日本人投資家は、アルバイトで働く学生時代の辛格浩に約6万円(現在の貨幣価値で約3億円)を事業資金として出資した。
 辛格浩は、GHQから与えられた第三国人の特権を利用して大金を荒稼ぎして、日本人投資家の借金を1年半で全額返済した。
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 重光武雄1921年11月3日 - 2020年1月19日)は、日本の実業家。日本統治時代の朝鮮慶尚南道蔚山郡(現・蔚山広域市)出身の在日韓国人一世で、本名は辛 格浩(読み: シン・キョクホ、またはシン・キョッコ、朝: 신격호、英語: Shin Kyuk-ho)。ロッテグループ会長、日本プロ野球千葉ロッテマリーンズ韓国プロ野球ロッテ・ジャイアンツのオーナーを務めた。韓国第5位のロッテグループ財閥の元総帥。
 経歴
 1921年、日本統治時代の朝鮮(現・大韓民国)の慶尚南道蔚山郡で5男5女の長男として誕生。戸籍上の生年月日は1922年10月4日。しかし老人が牛耳る故郷に未来はないと見切りをつけ、妻と娘を残したまま1941年に関釜連絡船に乗って所持金わずか83円で日本本土へ転居。文学徒を夢見ていたので文学を専攻するつもりだったが、徴兵を避けるには工学の専攻が必要ということになり、化学工学を専攻した。新聞・牛乳配達などをしながら、1944年に早稲田実業学校を卒業した。
 日本人の友人の勧めで切削油生産工場を設立し事業を開始。戦時中の連合国の爆撃で建設したばかりの工場は全焼したが、アルバイトで働く学生時代の辛の誠実な性格を信じて5~6万円という多額を出資した日本人投資家は、稼働前に工場が爆撃で灰になっても辛を最後まで信じた。辛は崩れた軍需工場で石鹸を作って再起し、日本人投資家に借金を1年半で全額返済。感謝の気持ちで住宅1軒を贈った。
 1945年、太平洋戦争が終結進駐軍が持ち込んだチューインガムが人気を博しているのを見て、1947年にガム製造に乗り出す。1948年6月に株式会社ロッテ設立、代表取締役社長に就任する。ゲーテの若きウェルテルの悩みを愛読していた辛が主人公シャルロッテより名前をとった。ロッテのガムは人気を博し、辛は実業家として成功を収めた。1954年、サッカーW杯予選出場のために来日する韓国代表チームの支援活動を始める。のちに1964年東京オリンピックの韓国選手団を支援した。
 祖国の観光業への参入
 1965年の日韓基本条約によって両国関係が正常化し、1967年4月、祖国に貢献するという信念を引っさげ韓国にロッテ製菓を設立。日本で稼いだ資金で一方的に韓国に投資し、その逆はなかった。辛は韓国に進出する際、食品会社ではなく重化学会社の設立を希望していたが、石油化学事業はLGグループが事業者になって断念した。製鉄業を朴正煕大統領に勧められたが、後にポスコという半官半民の会社がやることになって製鉄業も諦めた。
 やがて資源が乏しい韓国には観光立国づくりが必要になると考え、しかし韓国には一流ホテルがなかったため将来性があると判断し、観光業への参入を決めた。ホテル業の経験はなかったので世界各国にある一流ホテルを回って勉強し、国際観光公社(現在の韓国観光公社)が経営していた半島ホテルを買収した上で、日本の帝国ホテルをモデルにした38階建てのロッテホテルを建設することにした。ホテルは1979年に完成し成功を収め、1988年のソウルオリンピックの際には同ホテルに五輪組織委員会本部が置かれた。
 こうした功績が評価され、1995年には観光産業分野では初めて金塔産業勲章を受章した。
 1997年3月に釜山ロッテワールドがオープン。開館式のテープカットには日本の元首相4人が参加し、交遊の幅広さを示した。
  ・  ・  
 日本統治時代の朝鮮人徴用は、第二次世界大戦中の日本統治時代の朝鮮において日本が朝鮮人労務者を1944年9月から労務動員したこと。朝鮮人日本国籍を持っていた「朝鮮系日本人」だった当時、戦時中の朝鮮人に対する動員(労務動員)や徴用を「強制連行」と表現することについては議論がある。戦中の労務動員について朝鮮人労働者移入ともいわれる。
 戦後、戦時の朝鮮人徴用は歴史認識問題・歴史教科書問題、戦後補償問題として取り上げられてきた。
   ・   ・   ・