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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
差別しない良い日本人は2割、差別する悪い日本人は3割、無関心で何もしない傍観者の日本人は5割。
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日本人は、悪い事をしたが良い事もした。
100%の完全な悪人の日本人はいないが、100%の完全な日本人もいない。
自分は良い人間で、差別もしないし、偏見もない、友人として付き合えると善人面した日本人の大半は心が汚れた悪い日本人である。
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日本の好意・善意は、東アジアでは恩義として評価されず、その逆に憎悪・敵意として反日感情を増幅させるだけであった。
つまり、苦労して助けても、助けがいのない虚しい疲労感しか残らなかった。
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大正3(1914)年8月 第一次世界大戦勃発。~大正11(1918)年。
8月3日 日本は参戦し、中国大陸に派兵した。
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大正7(1918)年4月 日本にスペイン風邪が上陸し、感染者から死亡者が出始めた。
朝鮮にもスペイン風邪が蔓延した。
8月12日 日本のシベリア出兵。~大正11(1922)年。
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大正8(1919)年3月1日 朝鮮の3・1独立暴動。万歳事件。
李承晩ら反日派は上海でテロ組織・大韓臨時政府を組織し、多数の朝鮮人テロリストを朝鮮や日本に潜入させた。
大韓臨時政府首脳部は、キリスト教会の支援を受ける為に改宗した。
キリスト教系朝鮮人テロリストと日本人共産主義テロリストは、裕仁皇太子(後の昭和天皇)や皇族を惨殺する為に付け狙っていた。
5月4日 中国の排日運動。5・4運動。
アメリカ・キリスト教会は、朝鮮や中国で布教活動をする為に反天皇反日を利用していた。
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大正9(1920)年 アメリカで、日本人移民に対する人種差別運動が盛り上がり第二次排日土地法が成立した。
アメリカでは、日本との友好を求めるのは少数派であった。
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『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ――人類とウィルスの第一次世界戦争』
速水 融 20060226 藤原書店,474p.
■速水 融 20060226 『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ――人類とウィルスの第一次世界戦争』,藤原書店,474p. ISBN-10: 4894345021 ISBN-13: 978-4894345027 \4410 [amazon]/[kinokuniya] ※
■内容
(「MARC」データベースより)
関東大震災の5倍近くの死者をもたらしながら、「スペイン風邪」と称され、被害の実態も十分把握されないまま忘却された、90年前の史上最悪の「新型インフルエンザ」について、各種資料を駆使し、その詳細を明かす。
著者からのコメント
【「スペイン・インフルエンザ」から何を学ぶか】
……
《関東大震災の五倍の死者》
「スペイン・インフルエンザ」に際して、日本では直後の調査報告書で38万人、筆者が行った新しい推計では45万人の死者を出した。この数は、記録のある限り最大の病死者数である。罹患者数ははっきりしないが、おそらく当時の人口5500万人のうち、半分はかかっただろう。インフルエンザは恐ろしい病気であり、決して「風邪」ではない。人々は、これを「スペイン風邪」と呼んだこともあり、インフルエンザが通り過ぎると忘れてしまった。直後の関東大震災(死亡者は最近の研究で10万人くらい、と下方修正されている)は大正時代の出来事として皆知っているが、「スペイン・インフルエンザ」はその五倍近い人的被害を出しながら近代史のどの本にも出てこない。
《現在でも防ぎようのない「天災」》
では、「新型インフルエンザ」に対してどうすればいいのか。個人レベルでは、どうすることもできない「天災」のようなものである。しかし、「スペイン・インフルエンザ」のときの教訓を学ぶことはできる。
あの時、政府は極端にいえば、「手を洗え、うがいをせよ、人ごみに出るな」といった呼吸器病流行に際しての注意を喚起しただけだった。しかし、これらのことは、今でもわれわれがなし得る唯一の「対策」であることに変わりはない。90年近く前の「スペイン・インフルエンザ」流行当時、確かに医学、公衆衛生の知識は現在よりはるかに低く、有効な予防ワクチンも「タミフル」もなかった。しかし、それだけで現在のわれわれの方が有利な状況にあると言えるだろうか。
いまやジェット機時代であり、昔は何日もかかって遠くからやってきたウイルスは、ほとんど同時的に世界中に広がる。国内でも、交通手段は、当時走っていた鉄道に比べれば何倍も速い新幹線や航空機がヒトもウイルスも一緒に運んでしまう。もはや距離は感染症にとって壁ではなくなった。さらにウイルスは、せきやくしゃみで吐き出された組織や飛沫の中で何分間か生き延び、それを吸った者が感染する。俗に言う「空気感染」である。満員の通勤電車やエレベーターで罹患者がせきやくしゃみをすれば、周りの者は全員感染してしまう。普通の風邪は、手で鼻をこすったりすることで感染する「接触感染」であって、この点でインフルエンザの伝染力は比較にならない。
《日本を襲った三つの波》
ところで「スペイン・インフルエンザ」は日本に三回やってきた。
第一波は大正7(1918)年5月から7月で、高熱で寝込む者は何人かいたが、死者を出すには至らなかった。これを「春の先触れ」と呼んでいる。
第二波は、大正7(1918)年10月から翌年5月ころまでで、26.6万人の死亡者を出した。これを「前流行」と呼んでいる。大正7年11月は最も猛威を振るい、学校の休校、交通・通信に障害が出た。死者は、翌年1月に集中し、火葬場が大混雑になるほどであった。
第三波は、大正8(1919)年12月から翌年5月ころまでで、死者は18.7万人である。
……
《人間同士が争っている暇はない》
十九世紀後半、人間は細菌を「発見」し、それが原因となる流行病をほぼ撲滅した。しかし、ウイルスが原因となる流行病はまだまだ解明されていない。人間同士の愚かな戦争はもう止めて、ウイルスのような「天敵」との戦いにもっと備えなければならない。
(速水融-はやみ・あきら/慶應義塾大学名誉教授)
■目次
序章 “忘れられた”史上最悪のインフルエンザ
第1章 スペイン・インフルエンザとウイルス
第2章 インフルエンザ発生――一九一八(大正七)年春―夏
三月 アメリカ
記録に残る最初の患者/第一次世界大戦の戦況とインフルエンザの発生/無視された「春の先触れ」
四月―七月 日本
台湾巡業中の力士の罹患/ウイルスはどこから来たか?/軍隊での罹患者の増大
……
第9章 外地における流行
樺太
漁期に流行/最も高い対人口死亡率/先住民にも多くの死者
朝鮮
内地と同時に流行/死亡率の高い後流行/行政は何をしたのか?/免疫現象の確認/統計資料の問題/朝鮮での前流行の犠牲者は約一三万人/朝鮮での死者の累計は約二三万人/三・一運動とスペイン・インフルエンザ
関東州
本地人により大きな被害/関東州でも死亡率の高かった後流行
台湾
台湾中に拡がり先住民も罹患/台湾でも軍隊を起点に流行/本地人と内地人(日本人)の間の被害の差/死者は多いが、短期間で過ぎ去った流行/先住民の被害
……
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YAHOO!JAPANニュース
日本はパンデミックをいかに乗り越えたか~100年前のパンデミック・スペイン風邪の教訓
古谷経衡 | 文筆家/著述家/評論家
2/28(金) 23:17
新型コロナウイルス禍がパンデミックの模様を呈している(2020年2月29日、WHO事実上のパンデミックを宣言)。パニックや流言飛語も相次いでいる。しかしこのようなパンデミックは、20世紀を含め過去に何度も起こり、そして人類はその都度パンデミックを乗り越えてきた。今次の新型コロナウイルス禍への対策と教訓として、私たちは人類が遭遇した過去のパンデミックから学び取れることは余りにも多いのではないか?
本稿は、20世紀最悪のパンデミックとされ、世界中で2000万人~4500万人が死亡し、日本国内でも約45万人が死亡した「スペイン風邪」を取り上げる。そして日本の流行状況と公的機関の対策を追い、現在のパンデミックに抗する教訓を歴史から得んとするものである。
また本稿の執筆にあたっては、日本に於けるスペイン風邪を詳細に分析した第一級の書『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ 人類とウイルスの第一次世界大戦』(藤原書店、速水融著・以下速水)と、スペイン風邪が去った後に当時の内務省が編纂した『流行性感冒 ”スペイン風邪”大流行の記録』(内務省衛生局編、平凡社から復刻・以下内務省)の2冊を参考とした。
・100年前のパンデミック「スペイン風邪」とはなにか
1918年から1920年までの約2年間、新型ウイルスによるパンデミックが起こり、当時の世界人口の3割に当たる5億人が感染。そのうち2000万人~4500万人が死亡したのがスペイン風邪である。現在の研究では、そのウイルスはH1N1型と特定されている。
スペイン風邪の発生は、今から遡ること約百年前。1918年春。アメリカ・カンザス州にあるファンストン陸軍基地の兵営からだとされる(速水,38)。当時は第一次世界大戦の真っ最中で、ドイツ帝国は無制限潜水艦作戦によって中立国だったアメリカの商船を撃沈するに至った。このドイツの粗暴な振る舞いがアメリカの参戦を促し、アメリカは欧州に大規模な派遣軍を送ることになる。
アメリカの軍隊から発生したとされるスペイン風邪は、こうしてアメリカ軍の欧州派遣によって世界中にばら撒かれることになった。当時のパンデミックは、航空機ではなく船舶による人の移動によって、軍隊が駐屯する都市や農村から、その地の民間人に広まっていった。
ちなみに、アメリカから発生したのになぜスペイン風邪という呼称なのか。それは第一次大戦当時、スペインが欧州の中で数少ない中立国であったため、戦時報道管制の外にあったからだ。そのためこの新型ウイルスの感染と惨状が、戦時報道管制から自由なスペイン電として世界に発信されたからである。
スペインでは800万人がスペイン風邪に感染。国王アルフォンソ13世や政府関係者も感染した。日本では当初「スペインで奇病流行」と報道された(速水,49)。
・「スペイン風邪」、日本に上陸
日本でスペイン風邪が確認されたのは、1918年、当時日本が統治中であった台湾に巡業した力士団のうち3人の力士が肺炎等によって死亡した事が契機である。そののち、同年5月になると、横須賀軍港に停泊中の軍艦に患者が発生し、横須賀市内、横浜市へと広がった(速水,328)。当時、日本の報道でのスペイン風邪の俗称は「流行性感冒」である。 速水によれば、日本に於けるスペイン風邪流行は「前流行」と「後流行」の二波に別れるという。「前流行」は1918年の感染拡大。「後流行」は1919年の感染拡大である。どちらも同じH1N1型のウイルスが原因であったが、現在の研究では「後流行」の方が致死率が高く、この二つの流行の間にウイルスに変異が生じた可能性もあるという。
ともあれ、このスペイン風邪によって、最終的に当時の日本内地の総人口約5600万人のうち、0.8%強に当たる45万人が死亡した。当時、日本は台湾と朝鮮等を統治していたので、日本統治下全体での死者は0.96%という(速水,426.以下、図表参照)。1945年、東京大空襲による犠牲者は10万人。日露戦争による戦死者約9万人を考えるとき、この数字が如何に巨大なものかが分かるだろう。単純にこの死亡率を現在の日本に当てはめると、120万人が死ぬ計算になる。これは大阪市の人口の約半分にあたる。
百年前のパンデミック
「スペイン風邪」による日本での死者
(速水、427より筆者制作)
人口 死者数 死亡率
日本内地 5,600万人 45万人 0.8%
朝鮮 1,730万人 23万人 1.4%
台湾 365万人 5万人 1.3%
合計 7,700万人 74万人 0.9%
*合計人口には南樺太・関東州を含む
・「スペイン風邪」の凄惨な被害~一村全滅事例も
「前流行」と「後流行」の二波による日本でのスペイン風邪の大流行は、各地で凄惨な被害をもたらした。以下速水より。*適宜筆者で追記や現代語訳にしている。
福井県九頭竜川上流の山間部では、「感冒の為一村全滅」という見出しで、面谷(おもだに)集落では人口約1000人中、970人までが罹患し、すでに70人の死亡者を出し、70人が瀕死の状態である旨報道されている。
出典:速水,146
(1919年)2月3日の東京朝日新聞は、東京の状況を「感冒猛烈 最近二週間に府下(当時は東京府)で1300の死亡」という見出しのもと、警視庁の担当者談として「今度の感冒は至って質が悪く発病後直肺炎を併発するので死亡者は著しく増加し(中略)先月11日から20日までに流行性感冒で死んだ人は289名、肺炎を併発して死んだ人は417名に達し(後略)」と報道している。各病院は満杯となり、新たな「入院は皆お断り」の始末であった。
出典:速水,161
(岩手県)盛岡市を襲った流行性感冒は、市内の各商店、工業を休業に追いやり、多数の児童の欠席を見たため、学校の休校を招いた。(1919年11月)5日には厨川(くりかわ)小学校で2名の死者を出し、さらに6日の(岩手日報)紙面は「罹患者2万を超ゆ 各方面の打撃激甚なり 全市困惑の極みに達す」との見出し
出典:速水,168
神戸には、夢野と春日野の二箇所に火葬場があったが、それぞれ100体以上の死体が運ばれ、処理能力を超えてしまい、棺桶が放置されるありさまとなった。
出典:速水,128
など、日本を襲ったスペイン風邪の猛威は、列島を均等に席巻し、各地にむごたらしい被害をもたらした。とりわけ重工業地帯で人口稠密であった京都・大阪・神戸の近畿三都の被害(死亡率)は東京のそれを超えていたという。だが、上記引用を読む限り、大都市部であろうが農村部であろうが、スペイン風邪の被害は「平等」に降りかかっているように思える。
・「スペイン風邪」に当時の政府や自治体はどう対処したのか
さて、肝心なのは当時のパンデミックに日本政府や自治体がどう対応したかである。結論から言えば、様々な対処を行ったが、根本的には無策だった。なぜならスペイン風邪の病原体であるH1N1型ウイルスは、当時の光学顕微鏡で見ることが出来なかったからだ。人類がウイルスを観測できる電子顕微鏡を開発したのは1930年代。実際にこのスペイン風邪のウイルスを分離することに成功したのは、流行が終わって十五年が過ぎた1935年の出来事であった。
つまり当時の人類や日本政府は、スペイン風邪の原因を特定する技術を持たなかった。当時の研究者や医師らは、このパンデミックの原因を「細菌」だと考えていたが、実際にはウイルスであった。当時の人類は、まだウイルスに対し全くの無力だったのである。
それでも、政府や自治体が手をこまねいたわけではない。今度は内務省を中心に当時のパンデミックに対し、公的機関がどう対処していくのかを見てみよう。
大正8年(1919年)1月、内務省衛生局は一般向けに「流行性感冒予防心得」を出し、一般民衆にスペイン風邪への対処を大々的に呼びかけている。驚くべきことに、スペイン風邪の原因がウイルスであることすら掴めなかった当時の人々の、未知なる伝染病への対処は、現代の新型コロナ禍における一般的な対処・予防法と驚くほど酷似している。以下、内務省から抜粋したものをまとめた。*適宜筆者で追記や現代語訳にしている。
・はやりかぜはどうして伝染するか
はやりかぜは主に人から人に伝染する病気である。かぜ引いた人が咳やくしゃみをすると眼にも見えないほど細かな泡沫が3、4尺(約1メートル)周囲に吹き飛ばされ、それを吸い込んだものはこの病にかかる。
・(はやりかぜに)かからぬには
1.病人または病人らしい者、咳する者に近寄ってはならぬ
2.たくさん人の集まっているところに立ち入るな
3.人の集まっている場所、電車、汽車などの内では必ず呼吸保護器(*マスクの事)をかけ、それでなくば鼻、口を「ハンカチ」手ぬぐいなどで軽く覆いなさい
・(はやりかぜに)かかったなら
1.かぜをひいたなと思ったらすぐに寝床に潜り込み医師を呼べ
2.病人の部屋はなるべく別にし、看護人の他はその部屋に入れてはならぬ
3.治ったと思っても医師の許しがあるまで外に出るな
(内務省,143-144)
部分的に認識違いはあるが、基本的には「マスク着用」「患者の隔離」など現在の新型コロナ禍に対する対処法と同様の認識を当時の政府が持っていたことが分かる。そして内務省は警察を通じて、全国でこの手の「衛生講話会」を劇場、寄席、理髪店、銭湯などで上演し、大衆に予防の徹底を呼び掛けている。またマスク励行のポスターを刷り、全国に配布した。マスクの無料配布も一部行われたというが、現在の新型コロナ禍と全く似ていて、マスクの生産が需要に追い付かなかったという。
ただ失敗だったのは、内務省が推進した予防接種である。病原体がウイルスであることすら知らない当時の医学は、スペイン風邪の予防に苦肉の策として北里研究所などが開発した予防薬を注射させる方針を採り、接種群と未接種群との間で死亡率の乖離を指摘しているが、これは現代の医学から考えれば全くの無意味な政策であった。だが、当時の技術ではそれが限界だった。
・100年前も全面休校
各自治体の動きはどうだったか。とりわけ被害が激甚だった神戸市では、市内の幼稚園、小学校、中学校等の全面休校を決めた(速水,198)。1919年には愛媛県が県として「予防心得」を出した。人ごみに出ない、マスクを着用する、うがいの励行、身体弱者はとりわけ注意することなど、おおむね内務省の「流行性感冒予防心得」を踏襲した内容である。学校の休校や人ごみの禁忌など、これまた現在の状態と重複する部分が多い。そしてこれもまた現在と同じように、各地での集会、興行、力士の巡業、活劇などは続々中止か、または閉鎖されていった。
このようにして、日本各地で猛威を振るったスペイン風邪は、1920年が過ぎると自然に鎮静化した。なぜか?それは内務省や自治体の方針が有効だったから、というよりも、スペイン風邪を引き起こしたH1N1型ウイルスが、日本の隅々にまで拡大し、もはやそれ以上感染が拡大する限界を迎えたからだ。そしてスペイン風邪にかかり、生き残った人々が免疫抗体を獲得したからである。
つまり、スペイン風邪は突然の嵐のように世界と日本を襲い、そして自然に去っていったというのが実際のところなのである。
残念ながらヒト・モノが航空機という、船舶よりも何十倍も速い速度で移動できるようになった現在、新型ウイルスの伝播の速度はスペイン風邪当時とは比較にならないだろう。だが100年前のパンデミックと違うところは、私たちの医学は驚くべきほど進化し、そして当時、その原因すらわからなかったウイルスを、私たちは直接観察することが出来、なんであれば人工的にウイルスすら制作できる技術力を保有しているという点だ。
このような状況を鑑みると、100年前のパンデミックと現在。採るべき方針はあまり変わらないように思える。すなわちウイルスの猛威に対しては防衛的な姿勢を貫き、じっと私たちの免疫がウイルスに打ち勝つのを待つ。実際にスペイン風邪はそのようにして終息し、日本は内地45万人の死者を出しながら、パンデミックを乗り越えている。
ウイルスの存在すら知らなかった当時と違って、現在の私達の社会におけるパンデミックは、伝播速度の違いはあれど集落が全滅したり、火葬場が満杯になったりするという地獄絵図には向かいにくいのではないか、というのが正直な感想である。
・100年前もデマや流言飛語
最後に、スペイン風邪当時の日本で起こったデマや流言飛語の事例を紹介する。現在ですらも、「57度から60度近いお湯を飲めば予防になる」などの根拠なき民間信仰が闊歩しているが、人間の恐怖の心理は時代を超えて共通しており、当時も様々な混乱が起こった。
曰く、「厄除けの札を貼ったり」、「ネズミを焼いて粉末にした”薬”を飲んだり」したという(速水,178)。
とりわけ医学的には無意味な神頼みは尋常ではなく、例えば現在の兵庫県神戸市須磨区にある多井畑(たいはた)厄除八幡宮では、神戸新聞の報道として、「善男善女で…非常な賑わいを呈し兵庫電鉄は朝のほどから鮓(すし)詰めの客を乗せて月見山停車場に美しい女も職工さんも爺さんも婆さんも十把ひとからげに吐き出す」(速水,198)で、駅から神社まではさらに二キロ程度の山道で、社務所が用意した護符は飛ぶように売れた(速水,同)という。
人ごみを避けろ、と言っておきながら満員電車はOKというダブルスタンダードまで、現在の日本の状況と何ら変わらない。
日本に於けるスペイン風邪の大流行から、私たちは時代を超えた共通項を見出すことが出来る。そして人間の心理は、100年を経てもあまり進歩がない、という側面をもさらけ出しているように思える。どうあれ、私たちはスペイン風邪を乗り越えていま生きている。デマや流言飛語に惑わされず、私たちは常に過去から学び、「スペイン風邪から100年」という節目に現出したパンデミックに泰然自若として対応すべきではないか。(了)
*WHO事実上のパンデミック認定に際して、2/29,AM1:30追記
古谷経衡
文筆家/著述家/評論家
1982年北海道札幌市生まれ。文筆家。日本ペンクラブ正会員。立命館大学文学部史学科卒。テレビ・ラジオ出演など多数。主な著書に『愛国商売』(小学館)、『日本型リア充の研究』(自由国民社)、『女政治家の通信簿』(小学館)、『日本を蝕む極論の正体』(新潮社)、『意識高い系の研究』(文藝春秋)、『ヒトラーはなぜ猫が嫌いだったのか』(コアマガジン)、『左翼も右翼もウソばかり』(新潮社)、『戦後イデオロギーは日本人を幸せにしたか』(イースト・プレス)、『ネット右翼の終わり』(晶文社)、『欲望のすすめ』(ベスト新書)、『若者は本当に右傾化しているのか』(アスペクト)等多数。
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