☲16〕─2─昭和12年2月26日 京城。カルト教団白白教事件。〜No.40No.41No.42 ⑩ 

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 日本天皇と日本国は、カルト系宗教教団と過激派共産主義組織に狙われていた。
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 白白教事件(はくはくきょうじけん)は、日本統治時代の朝鮮に存在したカルト教団「白白教」によって314人が大量殺人された事件。
 概要
 白白教の一斉検挙
 1937年(昭和12年)2月16日夜、朝鮮京畿道京城府下往十里町(現大韓民国ソウル特別市城東区下往十里洞)で、宗教絡みの乱闘騒ぎが起き、所轄の京畿道警察部東大門警察署が関係者を取り調べたところ、以前に殺人事件を起こして自滅したカルト教団白道教」が、新たに「白白教」として復活し、京城に根を下ろしている事が発覚した。2月26日、日本政府によって白白教幹部約150人が検挙された。
 東大門警察署は、翌2月17日に京城のアジトを急襲し、信者ら約80人を検挙したが、肝心の「第二世大元任」こと教祖の全龍海を取り逃がしてしまった。その後も、信者の検挙が相次いだが、全龍海は依然行方をくらませていた。
 大量殺人の発覚
 続々と検挙された信者は教祖の居所について、何一つ話そうとせず黙秘を貫いた。教祖の秘書に至っては、検挙時に自殺を図り、京城帝国大学医学部附属病院に担ぎ込まれる始末であった。
 3月6日、信者のR兄弟が観念し、教団が起こした殺人事件について語り始めた。
R兄弟の供述によると、「一斉検挙後の2月21日、京畿道楊平郡の自宅に全龍海が現れ、酒食の供応が命じられた。その際、全龍海は自分たち兄弟に預けられていた全龍海の妾3人を別室に呼び出して全員殺害した。その後、穴を掘らされて3人の遺体を埋めた。」という。
 そしてR兄弟の供述通りに3人の遺体が発見され検死が行われた。その結果、「殺しの手際の良さ」などから、追い詰められた挙句の刹那的犯行ではなく、常日頃から常習的に殺人を繰り返していた疑いが強くなった。他の信者を追及したところ、次々と教祖の殺人を供述し始め、捜査官を慄然とさせた。
 警察は山狩りを実施して、教祖の検挙に全力を尽くすとともに、被害者の遺体発掘が並行して行われた。判明している者だけでも309人(314人)が殺害された。
 4月7日、全龍海の自殺死体が発見され、白白教は事実上壊滅した。4月13日に当局によって差し止められていた記事掲載が解禁となり、世間を震撼させた。
 その後の裁判
 1940年(昭和15年)4月5日、京城地方法院は幹部ら12人に死刑、3人に無期懲役、9人に有期懲役を言い渡した。
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 白白教(はくはくきょう)とは、日本統治時代の朝鮮に存在したカルト教団である。信者を600人余り殺害し[1]、朝鮮のみならず内地を含む大日本帝国全土を震撼させた。
 沿革
 「白道教」の創始と瓦解
 1902年(光武6年)、東学の信徒だった全庭云が金剛山で修行を行い、悟りを開いたと称し「白道教」の名で布教活動したのが起源である。
 全庭云は「一定の呪文を口誦し礼拝すれば、無病息災、不老長寿、神仙となり得べし」と説き、一時は一万人の信者を獲得した。全庭云はこれらの信者から金銭を寄附させて自らの生活資金に充てる一方、若い女性信者(約60人)を篭絡して妾にし、酒池肉林の贅沢三昧の生活を送った。
 しかし、このような教祖(白道教では「天父任」と称した)の姿勢に疑問を感じる信者や、全庭云の下から逃げ出そうとする妾が出始めた。全庭云は官憲への発覚を恐れて、これらの殺害を命じ、1916年(大正5年)に妾4人と信者2人を相次いで殺した。
 全庭云は1919年(大正8年)に脳梅毒で死亡した。しかし、これらの殺人事件は1930年(昭和5年)と1932年(昭和7年)に相次いで発覚し、実行犯には懲役10〜15年の実刑判決が下り、西大門刑務所等に収監された。これにより白道教は壊滅したかに思われた。
 しかし全庭云の次男で二代目教祖(「第二世大元任」と称した)の全龍海は事件発覚前に逃走し、捜査の目を逃れることに成功した。この全龍海によって教団は「白白教」として復活することになった。
 白白教として復活
 全龍海は官憲への追及をかわすために、教団を完全な秘密結社の形態をとることにした。情報漏洩を防ぐために、信者は一般人との交際が禁じられた。それを更に徹底させるために、人里離れた山間部で火田民として生活することを強制した。
 全龍海は、父親の全庭云同様の酒池肉林生活を送り、大胆にも京城府桜井町(現ソウル特別市中区乙支路4街)に居を構えた。そして自分に異議を唱える信者や性的興味を失った妾を山中に連れ出して殺害、死体を埋めていった。
 白白教事件で教団が日本政府によって壊滅されるまでの間に信者を600人余り殺害するにいたる。
 白白教事件
 詳細は「白白教事件」を参照
 1937年(昭和12年)2月17日、京畿道警察部東大門警察署は京城府内のアジトを急襲し、幹部ら80人を検挙した。しかし、肝心の全龍海を取り逃がしてしまった。2月26日、幹部約150人を検挙。信者を314人殺害した白白教事件が発覚した。
 全龍海は火田民化した信者の家をアジトにし、各地を転々としたが、関係者が続々検挙されるに及び次第に追い詰められていった。そして3月下旬頃に京畿道楊平郡の山中で自殺し、4月7日に死体が発見された。これにより白白教は事実上壊滅した。
 人頭標本
 全龍海の頭部は犯罪型頭脳標本として保存された。
 信者獲得と活動
 教団は「朝鮮は近い将来、大元任(全龍海)の統率の下で独立する。独立の暁には、各々の信者の貢献度に応じて知事や警察署長などの高官に任命する。金のある者は献金し、年頃の娘を持つ者は大元任に差し出せ。」と巧みな言説で布教活動を行った。
 入信した信者は、土地家屋などの全財産を教団に寄進し、若くて美貌の娘は全龍海の妾にされた。そしてしばらくすると、「まだ独立の時機ではないので、暫くは地方で身を隠して待機してほしい」と称して、山間部に追いやって火田民とし、焼畑農業で得た収入をも献金させるなど徹底的な搾取を行った。
 そして「背教者は死をもって罰せられる」と喧伝し、実際に教団の意に背いた信者は、老若男女を問わず殺害していった。
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