🗾55〕─1─自賛・人類最古の文化。100万年前の朝鮮半島古代史。~No.170No.171No.172No.173No.174No.175 ㉔ 

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 日本民族日本人は、アフリカで誕生したサルの子孫である事は科学的に証明されている。
 よって、日本人蔑称・日本人差別用語の「イエロー・モンキー」は正しい。
 日本人に対する「猿真似のサル」は間違いない。
 「猿真似のサル」は、日本人に対する否定の軽蔑用語ではなく、日本人に対する肯定の褒め言葉・賞賛用語である。
 日本人は、アフリカの子孫であると自慢すべきである。
 日本民族日本人は、乱婚を繰り返して生まれた不純にして混血の雑種民族である。
 日本民族日本人・アイヌ人・琉球人・台湾人の祖先は同じであるが、漢族系中国人・朝鮮人とは違う。
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 朝鮮半島古代史
 朝鮮の歴史 - Wikibooks -
 概観
 先史時代
 考古学的な実証ある事項はここに記す。
 考古学的事実は変わる事がある為、現在書かれている時点で解っているものである。
 旧石器時代
 新石器時代(櫛目文土器時代/侯目文土器) BC4000年(もしくは5000年) - BC1000年
 早期 BC5000-4000
 前期 BC4000-3000
 中期 BC3000-2000
 晩期 BC2000-1000
 BC1500年ごろ、中国より農耕が伝わる。
 無文土器時代(BC1000年頃 - BC100年)
 前期 BC1000-700
 中期 BC700-300
 BC700年ごろ、青銅器つたわる。
 後期 BC300-100(初期鉄器時代
 BC300年ごろ、鉄器つたわる。
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 人類の誕生  世界史をどこから始めるか
 世界史は、人類の歴史を世界的な規模で対象とする歴史学の一分野です。
歴史は、もともとは、過去の文献に基づいて過去の時代にあった事柄を研究する学問でした。そのことからすると、文字がない時代には歴史がないことになります。
 しかし、文献以外にも過去にあった事柄を知る方法はあります。そのなかでも重要なのが、化石や遺物、そして遺跡等の物的証拠です。またいくつもの科学的な年代測定の方法を用いることで、いつごろの物なのかを推定できます。これらを調べると、いつごろ、どんなことがあったのかをある程度推定することができます。このような研究は考古学という学問分野とも接しています。
 人類の歴史のうち、文献のない時代を先史時代といいます。 ここでは、世界史を、先史時代から始めることにしましょう。
 世界史は、人類の歴史です。 では、人類は、いつから存在したのでしょう。 生物学では、人類(現生人類)は、ヒトという生物種として他の種と区別されています。 人類と他の動物を区別するものは何でしょうか?

 猿人
 200万年前になると、ホモ・ハビリスが現れました。これは、初めてヒト属(ホモ属)に属する生物種だといわれています。

 原人
 猿人の次の段階に来るのが原人です。
 原人はホモ・エレクトスとも言い、アウストラロピテクスが身長140~150cmくらいだったのに対して、160~180cmくらいあったそうです。大体180万年前くらいからアウストラロピテクスから進化したようです。脳の大きさは900~1100ccくらいで、猿人の2倍以上になっています。
 はじめてのホモ・エレクトスの化石は、ジャワ島で発見されました。これがジャワ原人ホモ・エレクトス・エレクトス)です。アフリカを越えてアジアにまで広がったのは、原人が最初です。
 60万年くらい前から、地球は氷河期に入りました。氷河は北から南に広がり、多くの生物の適応を刺激しました。 原人は、毛皮を身につけ、天幕を張ったシェルターに住んだり、洞穴に暮らしたりしたようです。
 50万年くらい前には、原人による火の使用の痕跡が中国の北京で見つかっています。これが北京原人ホモ・エレクトス・ペキネンシス)です。聞いた事のある人もいるでしょう。 火を使えるようになると、暖を取れるばかりでなく、夜には明かりとなり、猛獣を遠ざけたり、食べ物を加熱調理したりすることもできます。
 なお、日本でも明石原人と呼ばれる原人の骨(寛骨)が発見されたことがありますが、この明石原人は本当に原人なのか疑問が出ています。

 旧人
原人の次が旧人類です。ネアンデルタール人が有名ですね。旧人類が登場したのが、大体50万~30万年前くらいです。脳の大きさは1300~1600ccくらいでむしろ現在の人間より大きいんですね。

 新人類
 そしていよいよ我々現代人と同じグループの新人類に入ります。現生人類とも言います。新人類が登場したのが、20万年前くらいと考えられています。旧人類もこの時代にまだ生き残っていたのですが、次第に新人類に取って代わられたようです。
 代表としてクロマニョン人と上洞人を挙げておきます。スペインのアルタミラ、フランスのラスコーにこのクロマニョン人によって描かれた洞窟絵画があります。

 石器時代
 道具についてですが、猿人のころから石で石を叩いて、割れて尖った石を道具として使っていたようです。
 このような石で出来た道具を石器と言って、石器を使っていた時代のことを石器時代と言います。猿人が石器を使い始めたのが大体200万年前と考えられています。
 石器時代は石器の発達に応じて旧石器時代新石器時代に分けられています。旧石器時代の200万年前から紀元前8千~紀元前6千年くらいまで、新石器時代がそれ以降です。
 旧石器時代は先ほども言いました、石を叩いて作る打製石器を使っていました。これだと思う通りの形には中々できないので不便な事もあったようです。ですので、割れた石を磨くことで思い通りの形に仕上げて使う事が始まりました。この製法で作られた石器を磨製石器と言い、これが使われていることが新石器時代の特徴です。
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 歴史は、人間が自由に書く事ができる。
 特に、中華世界ではそれが言え、東アジアでは科学的事実は一つしかないが歴史的真実は複数にある。
 現代日本人は、歴史力がない為に歴史の現実が理解できない。
 歴史は一つではない以上、どの歴史を信じようと自由ではある。
 複数ある歴史を一つにまとめようとする事は、不可能であり、知恵のない分別なき無能者・低能者のやる事である。
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 韓国政府は、日本では理解不能な歴史を、正しい国史であるとして子供たちに正規の歴史授業で教えている。
 日本には、意味不明な韓国の歴史教育に付き合う義理はない。
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 ERINA 公益財団法人環日本海経済研究所
 朝鮮の歴史遺跡
 2008年10月01日|朝鮮半島
 朝鮮社会科学者協会 室長、博士 崔英哲(チェ・ヨンチョル)
 五千年の悠久な歴史と文化を持っている朝鮮にはすぐれた歴史遺跡が多い。
 朝鮮の歴史遺跡は、朝鮮人民のきらびやかな歴史と文化、独特な心理的特性と固有な民族的感情、優秀な民族的形式をよく表現している。
 民族伝統を貴重に思い、民族性を生かすことを重要視する金正日同志が細心の注意を払うことにより、朝鮮の歴史遺跡は大切に保存・管理されている。また一度消滅した歴史遺跡を原状そのまま復旧したところも少なくない。
 城跡や寺院の遺跡をはじめとする朝鮮の歴史遺跡のうち代表的なものとして、コムンモル(黒牛里)遺跡、檀君陵と江西三墓を挙げることができる。
 コムンモル(黒牛里)遺跡
 100万年前(旧石器時代前期)の洞窟遺跡。平壌を中心にする大同江流域が朝鮮人の発源地であり、人類文化の発祥地の一つであることを見せてくれる重要な遺跡である。
 コムンモル遺跡は、平壌市祥原郡祥原邑から西方面に3キロメートル余の距離にある黒牛里の東側の山嶺であるウムルボン(井戸峰)の南側の丘に位置する自然洞窟にある。
 コムンモル洞窟は、長さ約30m、一番広い所の幅は2.5mでここには100万年前の人々が使った石器と獣を捕って食べて捨てた骨の化石が堆積している。
 この遺跡から出た29種類の動物化石の中で、10種余はすでに絶滅した種である。この絶滅した種の大部分は、100万年前に住んだ典型的な獣であり、特に湿野ねずみは100万年前から40万年前まで生存し、その後絶滅した動物の中で典型的な種である。したがって、コムンモル遺跡の動物化石は今から100万年前に形成されたことがわかり、この遺跡から出土した石器はその時に動物を捕って食べて暮らした人々が残したことだということを分かる。
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 朝鮮の先史時代は、人類が朝鮮半島に現れた時代のうち文字が存在しない時期を言う。朝鮮半島の先史時代は、ヨーロッパの地中海地域とは別にクリスチャン・トムセンが定義した「三時代体系」に区分するのが難しく、考古学的、地質学的、古生物学的研究に依存する。一般的に歴史及び考古学の時代区分によると、石器時代に該当し、石器時代は発掘される遺跡の性格により旧石器時代、中石器時代新石器時代に分かれる。その領域は朝鮮半島を中心にして、その起源及び伝播と関連があるロシア、シベリア、満州遼寧省、中国東部の文化も一緒に研究されている。
 朝鮮半島人類の先史時代
 旧石器時代
 この時期の起源を比べてみると、原始人類が朝鮮半島に現れ始めていて、紀元前50万年前に遡る。最も早い出現が、旧石器の最初期まで遡る点については、懐疑的である。旧石器時代は土器の生産が始められる紀元前8000年頃に終了する。放射性炭素測定によると朝鮮半島で古代人の出現は、紀元前4万年あたりから3万年あたりを示している。古代人が紀元前50万年頃まで広がるとなると、ホモ・エレクトス朝鮮半島に存在したことを意味している。
 しかしながら、我々「新人類」のアフリカ大陸での出現は20万年前で、その一部が「出アフリカ(Out of Africa)」を果たし世界中に広がったのが、6万年前というのが、現在定説であるので、新人類が朝鮮半島に到着した時点は、せいぜい6万年よりかなり後とすべきである。これは上記の「放射性炭素測定」の結果が適切であることを示唆する。
 忠清南道光州市近辺の石壮里遺跡から旧石器時代初期の特徴を特徴を持つ遺跡が、最も低い層から発掘された。両面を削った石器と削る道具も、発見された。後期の時代に該当する遺物と思われる手斧とクリーバーも発掘された。
 旧石器中期には古代人たちは洞窟での居住を始め、堤川市のチョンマル洞窟と清州市のトゥルボン洞窟などが、その遺跡である。この2つの遺跡で犀の化石とハイエナと様々な種類の鹿など、絶滅した種の化石が発掘されている。
 チョンマル洞窟で狩りに使用した道具に見られる石器は、古代人の骨で作ったもので、動物の骨の骨角器と共に狩りをする際に飲食をした道具と見られる。栄養補給のための動物の皮も発掘されている。
 忠清南道公州付近の石壮里遺跡と他のカンアンの遺跡に旧石器の伝統を持つ石器時代の遺物が発見されて、付近に珪岩が、例を挙げれば、珪岩、斑岩、黒曜石などが旧石器前期のアシュリアン(Acheulean)やルバルアン(Levallois)の特性を持つ。このような石器は、模様が単純で、石英花崗岩(ペグマタイト)から取った物である。石壮里の中期層には投擲用のボーラ (武器)と投擲用の石が発掘されている。
 朝鮮の旧石器時代は、初期、中期、後期に分けられる。この内ヒトが残した遺跡は、主に旧石器後期以後の遺跡に現れている。
 旧石器時代の代表的な遺跡地には咸鏡北道先鋒郡屈浦里や平壌の祥原郡コムンモル、京畿道漣川郡全谷里、忠清南道公州市石壮里、忠清北道清原郡マンスリを指折ることができる。こうした遺跡地の発生年代は、今日の考古学会では約50余万年頃に遡ると推定されている。
 旧石器時代人は洞窟ではなく岩陰または川縁に家を作るのに僅かな群衆生活をしたものと見られる。その生活は大体獣の狩りと果実などの植物採集に依存したものとみられ、集団生活できる動機は、世界の異なる地域の全ての石器時代の人々のように効率的な狩りをするためのものと見ている。
 旧石器時代の遺跡地
 初・中期の旧石器遺跡
 コムンモル遺跡
 全谷里遺跡
 後期旧石器遺跡
 屈浦里遺跡
 公州石壮里遺跡
 チョンチヨン岩陰遺跡
 ソロ里遺跡
 タニャンスヤンゲ遺跡
 中石器時代
 中石器時代は1万年余り前に氷河期が終わり気候が暖かくなり、自然環境が入れ替わり旧石器時代の主要な狩りの対象物のマンモスや水牛などの大きな獣がいなくなり小さい獣が現れた。このような獣を殺すための武器である弓や鏃などが登場した。
 中石器時代の遺跡地
 ピルレモッ洞窟
 櫛目文土器時代
 詳細は「櫛目文土器時代」を参照
 朝鮮の新石器時代は約1万(中石器を含む場合)-8000年前から始まり、新石器時代の主要な指標となるものは、磨製石器と櫛目文土器に代表される土器である。こうしたものは主に海や川の岸辺にこの時代の家を造り暮らしながら漁労や狩りをし、新石器時代後期になると初期の農耕段階に転換するところもあった。また石鍬と石犁で畑を耕し、石鎌で穀物ばかりか穂を刈り挽き石で挽き皮を剥ぎ粉にして食べた。
 朝鮮半島において、櫛目文土器は6000年前から現れるようになる。最古の櫛目文土器は遼河文明から発見されており、当時の朝鮮半島はウラル系民族(ハプログループN (Y染色体))が担う遼河文明圏にあったことが示唆される。
 無文土器時代
 詳細は「無文土器時代」を参照
 朝鮮の青銅器時代は銅と錫または亜鉛を少しずつ混ぜて作った青銅器を使用した時代である。この時代には一般的に無文土器と孔列文土器が主に用いられた。新石器時代のように石鍬を使用して田畑を開墾して穀物を植え、半月状の石刀で収穫した。
 水稲栽培をもたらしたハプログループO1b2 (Y染色体)が江南より到達したと考えられる。
 晋州大坪遺跡
 泗川市梨琴洞遺蹟
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 朝鮮の歴史では、朝鮮および朝鮮半島における歴史を述べる。
 概説
 朝鮮半島では、石器などの発見から、数万年前から人が住んでいたと思われるが、現在の朝鮮民族との繋がりは明らかでない。約10万年前の最終氷期から紀元前8000年頃まで現在より海面が130mほども低かったため、東シナ海の大部分は陸地であったが、紀元前4000年ころにかけての海面上昇により当時の沿岸部は海中に没している。最終氷期に日本列島とは対馬海峡で短期間漂砂によって陸橋が形成され繋がっていた可能性を指摘する研究がある。伊藤俊幸によると、紀元前1万年以前の旧石器時代の遺跡は50か所程度しか発見されておらず、紀元前1万年から前5000年までの5千年間は韓国国立中央博物館の年表では空白となっており、ほとんど遺跡が発見されていない。
 大阪市立東洋陶磁美術館名誉館長の伊藤郁太郎の見解として、「1969年から1971年にかけて、東三洞貝塚での櫛目文土器の下層から、尖底・円低無文土器や平低流線文土器が発見され、先櫛目文土器と名付けられた。これらの土器は、東三洞の他、慶尚南道真岩里や咸鏡北道西浦項貝塚などからも発見されており、最古の土器文化が広い地域にまたがっていたことが推測される。それらの中に含まれていた豆粒文土器が、日本の長崎県泉福寺洞窟遺跡や福井洞穴などから発見される豆粒文土器と類似している」と長浜浩明は紹介している。また長浜は、東三洞の対岸にある対馬の腰高遺跡からは7000年前の隆起文土器が発掘されており、そこを経由して半島へ移り住んでいったことが想像され、縄文人が7000年前から無人朝鮮半島へ渡り、半島北部まで進出していたと述べている。さらに長浜は、朝鮮半島南部の煙台島貝塚から発見された古人骨(紀元前4000年)は縄文人の特徴と多くの点で一致しており、韓国人とは似ても似つかぬ形態であり、最初に半島に住み始めた人々は日本からやって来た縄文人だったという考古学からの推論が、形態人類学によって裏付けられた、と述べており、また、朝鮮半島南部の勒島から弥生時代中期(紀元前100年)と推定される73基に及ぶ墓が見つかり、甕棺墓や北部九州の弥生土器の出土、骨格の特徴や抜歯風習などから西北九州と密接な関係を示唆しているので、北部九州からやってきた人々か、その子孫が住んでいた遺跡であると述べている。同様に、金両基監修、姜徳相、鄭早苗、中山清隆編集の『韓国の歴史』によると、旧石器時代人は現在の韓(朝鮮)民族の直接の先祖ではなく、直接の先祖は紀元前約2000年前の新石器時代人からと推定されている。
 紀元前4000年頃に櫛目文土器が出現する。櫛目文土器の最古のものは遼河地域の興隆窪文化(紀元前6200年-紀元前5400年)の遺跡で発見されていることから、遼河文明の担い手であるウラル系民族(ハプログループN (Y染色体))が朝鮮に櫛目文土器をもたらしたことが考えられる。朝鮮民族にはハプログループN (Y染色体)が一定数見られることから、朝鮮民族の基層にウラル系民族がある可能性が考えられる。(紀元前4000年頃から南部・西部で陸での稲作が始まったとする主張もあるが、証拠となる物は見つかっていない。)一方で、長浜は、櫛目文土器は九州の曽畑式土器(縄文前期)そのものであると述べている。
 東三洞貝塚は3つの文化層からなり、最下層の1期層からは、隆起文・押引文・無文土器や磨製石器が、2期層からは櫛目文土器や黒曜石が、3期層からは無文平底土器が発掘されており、櫛目文土器にまじって九州の縄文土器片や、西北九州型の釣針・黒曜石が出している。東三洞貝塚で大量の縄文土器と九州産黒曜石が出土しており、縄文人がやってきた確かな証拠といえる。朝鮮半島では銛や鏃に最適な黒曜石が産出されない 。
 紀元前1500年頃から無文土器が出現し同時に支石墓が多数建造されるようになる。これに先駆けて紀元前2000年から紀元前1500年頃、朝鮮半島より北方の遼河流域から北朝鮮にかけての夏家店下層文化で、支石墓、無文土器や大規模な住居が出現しており、これらが北方から流入した可能性を示唆している。
 山海経には、紀元前1000年から前300年の朝鮮半島の様子が「蓋国は鉅燕の南にあり、それは倭の北であり、また倭は燕に属している」とあり、燕は遼東半島から南満洲辺りを指し、その南の蓋国とは北朝鮮辺りと考えられ、今の韓国辺りは縄文人の子孫である倭人が住んでいた。
 紀元前500年頃から水稲栽培が開始される。水稲の栽培は中国から北方周りの陸伝いではなく、海を越えて半島南西部にもたらされたというのが定説となっている。この水稲文化をもたらしたのはハプログループO1b2 (Y染色体)の集団と考える学者がいる。
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