☱13〕─2─尼港事件殉難者百回忌追悼法要と関東大震災朝鮮人犠牲者供養祭。〜No.27 ⑤ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 関東大震災時の朝鮮人惨殺事件は、起きるべくして起きた事件である。
 日本人は、猟奇的な行動に暴走しやすい朝鮮人を恐れていた。
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 朝鮮人共産主義者朝鮮人パルチザンの猟奇性は他に類例がないほど血も涙もい狂暴で残虐無比であった。
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 現代日本の高学歴出身知的エリート層のなかに、レーニンを信奉者が少なからず存在している。
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 現代の日本人は、昔の日本人と比べて情は薄く、ハッキリ言って薄情で、冷血で、非情で、冷酷である。
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 尼港事件(露: Николаевский инцидент Nikoláyevskiy Intsidyént, 英: Nikolayevsk Massacre)は、ロシア内戦中の1920年大正9年)3月から5月にかけてアムール川の河口にあるニコラエフスク(尼港、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)で発生した、赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件。首謀者はヤーコフ・イヴァノーヴィチ・トリピャーツィンである。

 朝鮮人パルチザン
 シベリアで朝鮮人への朝鮮共産革命を指導した李東輝
 詳細は「抗日パルチザン」を参照

 大量殺戮と焦土化
 グートマンによれば、トリャピーツィンはニコラエフスク住民の大量殺戮と街の破壊を、事件の大分前に計画していたという。彼は、「町の代わりに、血溜まりと灰の山を残すだろう」と宣言し、その通りに実行した。
 女性たちは強姦された。朝鮮人部隊の中隊長はある漁業経営者の娘を強姦すると翌日には音楽会で歌うことを強制した。その後、この少女と幼子も含めた家族全員はバージからアムール川に突き落とされた。また、女性教諭も強姦され、多くの少女達は恐怖の下でパルチザンと同棲することを強制された。

 南京事件
 1927年の南京事件の際にも日本領事館は襲撃され、領事一家以下、在留邦人、日本軍将兵等が殺傷された。この事件の際には、海軍陸戦隊の荒木亀男大尉は「反抗は徒らに避難民全部を尼港事件同様の虐殺に陥らしむるだけだから、一切手向いせず、暴徒のなすがままにせよ」と命令し、陸戦隊員は中国人の暴行に反抗しなかった。
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 現代日本反戦平和派は、武器放棄・非暴力・無抵抗を主張している。
 つまり、強姦され暴行され強奪されて方が殺されるよりまし。
 人を殺しより、強姦され暴行され強奪されて方がいい。
 全滅覚悟で死中に活を求めて、武器を持って抵抗し、戦い、敵を殺すかである。
 中国人・朝鮮人・ロシア人による日本人虐殺は、日本人が抵抗したからである。
 敗戦後の州や北朝鮮で作られた日本人収容所で、日本人達は売春婦をロシア人や朝鮮人に人身御供として提供したから生きて帰国できた。
 同じような事は、日本国内で連合軍将兵に行われていた。
 現代日本人は、女性を犠牲にして生き延びた日本人の子孫である。
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 2020年6月号 正論「忘れられた日本人虐殺 『尼港事件』から100年
 長勢了治
 令和元年と元号が改まった昨年5月24日に小樽市で行われた『尼港(にこう)事件殉難者百回忌追悼法要』に初めて参列した。道民として恥ずかしながら、小樽市でずっと尼港事件の慰霊祭が行われてきたことを最近まで知らなかったので、節目の百回忌でもあり、ぜひとも参列しようと決めていたのである。
 尼港事件とはシベリア出兵中の大正9(1920)年の3月初めから6月初めまでの3カ月間にわたって北樺太の対岸にあるニコラエフスク(尼港)で起きた日本人大量虐殺事件である。
 小樽市で尼港事件の慰霊祭が開催されることに不思議な思いをされる方もいると思うが、ここは尼港事件の救援隊、多門支隊が出航した港町で、しかも事件の犠牲者の遺骨(遺灰)が北樺太アレクサンドロスクに仮安置されていたのを大正13(1924)年、当時の『小樽市民の総意に基づき』軍部に請願して小樽市に移したという由縁があった。遺骨は市内の浄応寺に保管され、小樽市の素封家、藤山要吉が私財を投げうつなどして慰霊碑を建立した。それ以来、毎年追悼法要が営まれてきたのだという。
 尼港事件ということでは全滅した尼港守備隊の出身地である水戸市と『北のからゆきさん』など多くの民間人犠牲者の出身地である天草市にも慰霊碑がある。前者は戦後、慰霊祭が途絶えていたが、昨年、有志による慰霊祭が復活した。後者は毎年3月12日に慰霊祭が行われたが、参列者の減少で平成19年に途絶えたままだという。
 こうした中で、小樽市で慰霊祭が毎年、途切れることなく続いている事実は特筆に値するといえよう。通常は市内の手宮公園にある慰霊祭の前で法要が営まれるが、昨年は百回忌ということで、それに加えて当初遺骨を保管した浄応寺でも法要が営まれた。僧侶50人ほどが読経するお寺での大法要は厳粛で荘厳なものだった。小樽市民は尼港事件を忘れていない。
 ちなみに3月12日は尼港が横暴無法なパルチザンに対して出撃して日本軍人の大多数が殺された日であり、5月24日は捕虜になった日本人軍民が全員虐殺された日である。監獄の壁には悲痛な叫び『大正九年五月24日午后12時 忘ルナ』が刻まれていた。
 日本人731人が犠牲
 尼港事件は通州事件(1937年)と同じく、戦後はほとんど忘れ去られた日本人虐殺事件である。どちらも事件当時は新聞で大きく取り上げられ、国民的な義憤を引き起こしたものだが、戦後の歴史学では日本人は常に〝加害者〟に描かれていることからか、ことさら軽視ないし無視されてきた。近年、通州事件は数冊の著書が刊行されて広く一般に知られるようになった。しかし尼港事件の方はこれに匹敵する著作はまだ出ていない。
 尼港事件を忘れてはならない、と思う。
 同事件では確認されただけでも日本人の犠牲者は731人(軍人・領事一家384人、民間人347人)で、ロシア人の犠牲者は6,000人以上とされる。通州事件の日本人犠牲者は約250人だから、およそ3倍の日本人が虐殺されたのだ。しかも生存者13人(中国人やロシア人の妾)とごくわずかで、ほぼ皆殺しという残虐さだった。そのうえ通州事件では中国人の犠牲者はいなかったが、尼港事件では現地のロシア人がはるかに多く犠牲になっている。当時のニコラエフスクの人口は1万2,000人といわれているから、住民の半数以上に及ぶまさしく大虐殺だ。尼港には中国人も朝鮮人も多数いたが、多くは赤色パルチザンに加担し、日本人とロシア人の虐殺に手を貸した。停泊していた中国海軍の砲艦は助けを求めた日本人を射殺したほどだ。
 ロシア革命そのものが暴力革命だったし、革命後の内戦期には赤軍派(革命派、過激派)と白軍派(反革命派、反過激派)との激しい内戦があり、権力を握ったソビエト政府側からの『赤色テロル』が横行していた。赤色テロルは一部の跳ね上がり分子による行き過ぎなどでは決してなく、まさしく革命の指導者レーニンが主導してやったことなのだ。尼港事件は最も残虐な赤色テロルだった。
 生き残りの証言
 日本では尼港事件はシベリア出兵のエピソードとして少し触れられるだけで本格的な研究はほとんどされていない。一方、あまり知られていないが、アナトーリー・グートマンというユダヤ人で白系ロシア人のジャーナリストが尼港事件を包括的かつ詳細に描いた『ニコラエフスクの日本人虐殺──1920年、尼港事件の真実』(原題『ニコラエフスク・ナ・アムーレの非業の死』)という重要な著作を事件の4年後、1924年にベルリンで出版している。これは尼港事件を解明するうえで第一級の『歴史ドキュメンタリー』といっても過言ではない」
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 キリスト教朝鮮人テロリストは日本人共産主義テロリストと同様に、昭和天皇や皇族を惨殺する為に付け狙っていた。
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 朝鮮人の本質は、大国、強者、勝者、実力者、権力者に下僕のように従う事大主義である。
 事大主義とは、儒教的上下関係・主従関係の事であり対等関係ではなく、平等や公平、友好や善隣などは否定されていた。
 目上の者・格上の者には弱く、目下の者・格下の者には強い。
 朝鮮人にとって、ロシアや中国は大国・強者であり、日本は小国・弱者であった。
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 軍国日本・軍部は、天皇を殺し天皇制度を廃絶しようとした共産主義と一人、援軍のない孤独な死闘を繰り広げていた。
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 戦前の帝国大学ではマルクス主義が蔓延し、優秀な学生ほど社会主義統制経済と人民平等の社会構造改造を真剣に議論し、大学を好成績で卒業して革新官僚となった。
 帝国大学に派遣されていた陸海軍の優秀な将校と達も、マルクス主義に感化され統制派を形成し、大陸戦争を指導した。
 彼らの一部は、敗戦後日本共産党日本社会党に入党し、ソ連中国共産党よりの政治活動を続けた。
 その風潮が、大正から昭和前期、さらには敗戦後はGHQに協力して各大学を支配した。
 現代の反米派、親中派媚中派、反天皇反日的日本人達はこうして増殖した。
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 日本人は、日本人であれば全ては言わないがある態度は理解できるが、ロシア人や中国人ましてや朝鮮人は理解できない。
 日本人は、相手が理解できない為に相手の事を思い気遣いをし配慮し忖度するが、その多くは裏切られ被害を被るが、それでも相手が憎めず嫌う事ができる、むしろ自分が悪かったと自責の念に駆られてクヨクヨと思い悩む。
 そのくだらなさは、現代日本人に特に強い。
 昔の日本人であれば、理解できない相手はあれこれ理由を並べ敬し遠ざけ、相手の側から早々と退散して親しくなる事を嫌がり、なるべく近寄ろうとはしなかった。
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 東條英機が発表した『戦陣訓』の「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」という意味は、尼港事件や通州事件などの日本人虐殺を見ればその真意が分かる。
 が、歴史力のない現代日本人はそれが理解できない。
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 現代日本人は、関東大震災(大正12年)時の日本人による朝鮮人惨殺を忘れるなと言いながら、尼港事件(大正9年)における朝鮮人による日本人虐殺をなかった事して完全無視している。
 人として、当時の軍部・軍人の方は、現代日本の左翼・左派・ネットサハ、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者、人権派護憲派反戦平和市民団体よりも悠に情があつかった。
 特に、国家の為に死んだ先人を悼み魂を供養する公的慰霊祭を「政教分離の原則」で潰す反宗教無神論原理主義者は、情のなき最たる人間である。
 つまり、惻隠の情において、現代日本人は薄く、昔の日本人は濃かった。
 関東大震災朝鮮人惨殺問題、慰安婦問題、樺太残留朝鮮人問題、徴用工問題、靖国神社問題、歴史教育問題、・・・。
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 歴史力のなさ、見識のなさ、教養のなさ、品位・品格・品性のなさは、右翼・右派・ネッヨウヨクの方がさらに酷い。
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 シベリア出兵時、日本陸軍は戦争をしながらロシア人避難学童を、日本人軍国主義者は私財を投げ打ってポーランド人戦争孤児を、そしてシベリア・ユダヤ人や白系ロシア人達を、欧米列強が見捨てる中を助け出し、ロシア人共産主義者らによる虐殺から救ったという人道貢献を行っていた。
 その意味でも、日本領土北方領土四島を不法占拠しているロシア人も助けられた恩など意に介さない。
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 現代日本人の情とは、自己満足、自己本位、「褒めて貰いたい」一心で他人に見せびらかしているに過ぎない。
 その反動として、自称・正義の味方として、気に食わない他人に対する非難中傷をSNSなどで繰り返し、標的とした相手を自殺へと追い込んで自慢している。
 日本人の本質は、猫をかぶった、「蛇の生殺し」あるいは「ネズミをいたぶるネコ」である。
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 日本人には、朝鮮人も中国人も理解できなかった。
 日本武士は、長年、親の代から殺し合っている憎き仇敵であっても敵であっても、同じ帝(天皇)が住まう日ノ本(ひのもと)の住人であるとして、自然神の怒りによる自然災害や疫病で被害を受けて困っていたら「お互い様」「相身互い」として手を差し伸べて助け、元気になったら戦場に立って正々堂々と戦って斬り合った。
 日本人は、日韓併合朝鮮人は同じ日本国民となった以上は、困っていれば食糧や医薬品などの救援物資を与えて助け、貧しければ資金や技術指導などの支援をおこなった。
 朝鮮半島スペイン風邪コレラ、ペストなどの感染症が流行すれば、日本政府・朝鮮総督府・日本人有志が朝鮮人を救うべく最善を尽くした。
 ところが、朝鮮人独立派はロシア人共産主義者と協力し、日本軍のシベリア出兵で手薄になっている尼港を襲撃し日本人居留民を地元ロシア人共々虐殺した。
 中国海軍は、対華21ヵ条要求(大正4年)に対する悪感情から、救援を頼んできた日本人居留民を砲撃して殺した。
 日本人は、中国人を共に戦っている味方・戦友と信じて助けを求めたが、中国人の裏切りで殺されてしまった。
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尼港事変と島田元太郎