☰43〕─1─日露戦争と日韓併合の原因をつくったのは朝鮮国王・髙宗であった。露朝密約事件。~No.112 ⑬ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 歴史力のない現代日本人では、当時のロシアを含む国際情勢、中国や朝鮮のアジア情勢さらには日本の歴史さえ理解できない。
   ・   ・   ・   
 儒教尊王攘夷といっても、日本と中国・朝鮮とは本質が違う。
 吉田松陰や水戸斉彬ら民族主義者・愛国主義者・天皇主義者(勤皇派・尊皇派)らが目の敵にしていた西洋人とは、ロシア人であった。
 それ故に、初期の攘夷派はロシアが攻めてくる東北沿岸や蝦夷地へ走ったのである。
   ・   ・   ・   
 日本が教訓とすべきは、アヘン戦争に敗れて衰退した清国(中国)ではなく、臣下のマハラジャ藩王)に裏切られて滅亡したムガル帝国であった。
   ・   ・   ・   
 2020年7月9日号 週刊文春出口治明のゼロから学ぶ『日本史』講座」
 〔近・現代篇〕
 日清戦争 その一 清による朝鮮保護国
 日本を守るためにも朝鮮を掌握しなければ、と考えた明治政府は、強大な清国の出方を窺います。清も、日本の進出を警戒して朝鮮への圧力を強め、さらにアジアに進出したいロシアも絡んで、朝鮮はパワーゲームの草刈り場となってきます。
 明治政府は1879(明治12)年3月に、第二次琉球処分を行いました。第一次では琉球王国薩摩藩に組み換え、今度は薩摩藩沖縄県とした。
 ……
 親日開明派への反乱
 さて朝鮮では1882年7月に壬午(じんご)軍乱が起こります。
 日本から派遣されていた軍事教官を殺害し、日本公使館を襲撃します。王宮も襲って開明派の政府高官を殺害しました。
 髙宗は、守旧派で10年前に追い出していた実の父親の大院君に、政権を返す他なくなります。
 このとき李鴻章はいち早く清軍を派遣して軍乱を平定し、大院君を天津に連行して、閔妃政権を復活させますが、これを機会に朝鮮の内政にも干渉をはじめ、朝鮮の保護国化を進めました。
 ちなみにこの李鴻章の清軍の若手将校の中に、のちの中華民国大総統になる袁世凱がいて現地の朝鮮国王代理の扱いにまで成り上がります。
 日本もなんとかしようと画策しますが、先に清軍が居座ってしまい、なかなか出番がありません。
 当時の日本陸軍の常備兵は2万人足らず。対して李鴻章の動かせる清軍は10万人を超えていました。
 朝鮮半島は日本の利益線やでと主張してみたところで、清が軍隊を出したら何もできへん、ということで、日本は軍事拡張の8ヵ年計画を立てひたすら軍拡を進めます。
 さて李鴻章袁世凱のラインが朝鮮を支配するようになると、朝鮮の開明派は2つに分かれます。
 1つが事大党と呼ばれる閔妃の一族。『清のバックアップで文明開化を進めるで』というグループ。
 もう1つは『それは中国の属国化路線やで。朝鮮は独立国やで』という金玉均を代表とする独立党。独立党は反清ですから、必然的に親日グループとなりました。
 83年には、ベトナムを巡って清仏戦争が始まります。ベトナムも清の冊封国ですから、そこにフランスが入ってきたから清の利益線が侵されるわけです。だから朝鮮と同じかたちで清が介入していました。
 独立党のクーデタ
 そうなると清の注意はベトナムに向いて、朝鮮はなおざりになります。この隙にやってしまえと、金玉均たちは84年12月に甲申事変というクーデタを起こしました。
 閔妃政権の有力者を殺害し、国王髙宗を擁して新政権を樹立します。
 しかし袁世凱は清軍を動員して新政府と、クーデタに加担していた日本軍を破ります。日本人居留民や軍人の30人が殺害され、公使館も焼かれました。
 金玉均は日本に亡命しますが、のちに暗殺されました。
 事変の後始末は李鴻章伊藤博文が交渉して、天津条約で一応片をつけます。双方が撤兵し、今後軍隊を派遣するときは双方とも事前通告お行うというものです。
 通告すれば相手も派兵することになるので、お互いの派兵を抑制する効果がありましたが、清はすでに朝鮮に対して治外法権や貿易特権を持っていて、日本よりも優位に立っていたのですね。
 この間に福沢諭吉が『脱亜論』を書いています。『アジアは迷妄の国やで』というのです。大院君対閔妃、つまり尊王攘夷を唱えるグループ対中国べったりというグループで、20年も殺し合いをやっているようではアジアに希望はない。そんなアジアの事なんかに構わず、ひたすら西欧列強に倣って、自分たちは近代国家を作っていかなあかんでと、主張したのです。
 この脱亜論は、『西洋を単純に崇拝したもの』として現代では評価が悪いですが、朝鮮で事変が続き、日本の居留民が殺されたという状況下で感情に任せて書かれているので、脱亜論一本で福沢諭吉を評価するのは少し可哀そうな気もします。
 82年に李鴻章は、メレンドルフというドイツ人を『外交顧問にどうや』と朝鮮に押し付けました。
 メレンドルフは、大院君派と閔妃派に挟まれて立場がない髙宗に、『ロシアと組めばフリーハンドを持ってまっせ』と唆(そそのか)します。こうして清が送り込んだ人間がロシアを巻き込むという面白い構図になります。
 これは第一次露朝密約(1885年)と呼ばれます。髙宗は翌年にも駐朝ロシア公使に朝鮮への出兵を求める第二次露朝密約事件を起こしますが、李鴻章によって密約は破棄され、清の圧力が更に増していくことになります。
 過激派と軍艦
 1885年に大井憲太郎や、東洋のジャンヌ・ダルクと呼ばれた福田英子による大阪事件が起きます。
 朝鮮に出向いて事大党の政府首脳を殺して、独立党の金玉均の政権をもう一回押し立て、その結果日清関係が緊張するのに乗じて日本でも革命を起こそうという企てでしたが、発覚して関係者が逮捕されます。自由民権運動の過激派はそのように夢想していたのです。
 86年8月には長崎事件が起きます。出来立ての清の新鋭軍艦、定遠鎮遠が修理と補給のために長崎に寄港し、清の水兵たちが街中で暴れました。お互いに相手国の死傷者にお金を出すという形で日本は穏便に済ませて、清との関係悪化を避けました。
 清は91年、92年にも定遠鎮遠を日本に寄港させて、日本の海軍関係者などに軍艦の中を案内しています。親善目的を兼ねて『どうや、オレの軍艦はすごいだろう』と日本に見せつけたわけです。
 この頃の日本は、定遠鎮遠に対抗できる軍艦を持っていませんでした。だから政府は『うちもでかい軍艦が欲しい』と、毎年その費用を予算に計上しては議会で揉めていたわけですね。この流れが日清戦争の開戦まで続くことになります」
   ・   ・   ・   
 日清戦争。明治27(1894)年8月に勃発、翌28(1895)年4月の下関条約終結した。
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 露朝密約事件とは、19世紀末の朝鮮政府が清や日本、イギリスを牽制するため、秘密裏にロシア帝国と交渉を行い、軍事的援助と保護を求めたとされる一連の事件。1885年(第一次)、1886年(第二次)の二つがある。
 第一次露朝密約事件
 最初の露朝密約事件は、朝鮮政府の外務協辦を務めていたパウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフの主導によった。1885年、メレンドルフは朝鮮の不凍港の租借を対価として、朝鮮の保護や軍事教官団を招聘することを試みた。ロシアも教官団の招聘には応じることを検討し、駐日公使館書記官のシュペイエルを漢城に派遣したが、朝鮮政府内の異論や清国当局の反対により、密約は成立しなかった。そして、メレンドルフのこのような動きは、旧来の東アジアの伝統的国際秩序が近代的な条約に基づく関係に移行する中で、あくまでも朝鮮を影響下に留め置こうとする清、とりわけ李鴻章の目論見に反していたために背信と捉えられ、メレンドルフは失脚することとなった。
 また、メレンドルフからの要請とは別に朝鮮国王の密使がロシア国境当局に派遣されたが、これに対してロシアは朝鮮の保護に対して何ら言質を与えない回答をするに留まった。
 第二次露朝密約事件
 二度目の露朝密約事件とは、翌1886年8月に、朝鮮政府が在漢城ロシア代理公使ウェーバーに宛てて、朝鮮が第三国との紛争に陥った際に、ロシアに軍事的保護(軍艦の派遣)を求める旨の密函(秘密書簡)を送った事が露見し、国際問題に発展した事件を指す。当時、朝鮮政府の内部には、ロシアを引き込むことで清の圧迫に対抗しようとする「引俄反清」「斥華自主」の機運があった。しかし、清からの報復を怖れた閔泳翊が、袁世凱に密告することで清当局の与り知るところとなり、清国軍の派遣と高宗の廃位が取り沙汰されることとなった。
 結局、ロシア外務省は密函の受領は認めたものの、高宗の要請には応じない旨を清に約することで、国際問題としての密約事件は終息した。
   ・   ・   ・   
 文化露寇事件。(シャナ事件・北辺紛争・フヴォストフ事件)。 
 日本の陰暦……文化4年4月23日〜文化4年5月1日。
 西洋の太陽暦…1807年5月30日〜1807年6月6日。
 ウィキペディア
 樺太への襲撃 文化3年9月11日(1806年10月22日)、樺太の久春古丹に短艇で上陸したロシア兵20数名は、銃で威嚇して17、18歳のアイヌの住民の子供1人を拉致した。13日にも30数人の兵が再び上陸し運上屋の番人4名を捕えた後、米六百俵と雑貨を略奪し11箇所の家屋を焼き、魚網及び船にも火を放ち、前日拉致した子供を解放して帰船。ロシア側本船は17日に出帆しその地を去った。船を焼失した影響で連絡手段が絶たれたため、翌年4月になってこの事件が松前藩及び幕府に報告された。
 シャナ事件 文化4年4月23日、ロシア船二隻が択捉島の西、内保湾に入港した。番人はこれを紗那の幕府会所に通報した。紗那は幕府会所のある同島の中心地であり津軽南部藩兵により警護されていた。箱館奉行配下の役人・関谷茂八郎はこの報に接し、兵を率いて内保まで海路で向かうがその途中、内保の南部藩の番屋が襲撃され、中川五郎治ら番人5名を捕え米、塩、什器、衣服を略奪して火を放ち、本船に帰り既に出帆したとの報を受ける。関谷は内保行きを中止して紗那に戻り、その守りを固める。
 影響
 この事件は、爛熟した化政文化の華が開き、一見泰平にみえる日本であらためて国防の重要性を覚醒させる事件となった。江戸幕府の首脳はロシアの脅威を感じることとなり、以後、幕府は鎖国体制の維持と国防体制の強化に努めた。また、日露関係の緊張によって、幕府は自らの威信を保つためにも内外に対して強硬策を採らざるを得なくなった。このことは1811年のゴローニン事件の原因となった。さらに、この事件は平田篤胤国学を志すきっかけとなったともいわれている。
   ・   ・   ・   
 文化5(1808)年 幕府は、蝦夷地(北海道)・北方領土樺太防衛強化の為に、東北諸藩に対して前年07年の派兵約3,000人に対し更なる増派を命じた。
 東北諸藩は、ロシアの侵略に備えて蝦夷地・北方領土に合計約4,000人の兵士を送った。
 アイヌ人は、日本の敵か味方か。
   ・   ・   ・   
 安政元(1854)年 イギリス軍艦アクティオン号は、ロシア帝国が南下して日本海を制圧する事を警戒して、日本領である対馬を測量した。
 イギリスやフランスは、日本にはロシア帝国の侵攻を防ぐ軍事力がないと分析し、非公式の雑談的な会話として幕府に対して対馬租借を持ち出していた。
 横井小楠は、フランスが対馬租借を申し込んでいる事を書き記した。
   ・   ・   ・   
 ロシア軍艦対馬占領事件
 文久元年2月3日(1861年3月14日)、ロシア軍艦ポサドニック号による対馬上陸占領事件。
 4月12日 ロシア水兵は、大船越の水門を通過しようとしたとことを制止した対馬藩警備兵の松村安五郎を銃殺し、郷士2名を捕虜として拉致し、軍艦に連行した。
 吉野数之助は、舌を噛み切って自殺した。
 興奮したロシア水兵達は、番所を襲撃し武器を強奪し、数人の住民を拉致し、7頭の牛を奪って帰船した。
 翌13日 ロシア水兵は、100人以上で徒党を組み大船越の村を襲撃し略奪を行った。
   ・   ・   ・   
 徳川幕府は、ロシアの日本侵略に備えるべく東北諸藩に蝦夷地・北方領土防衛の派兵を命じていた。
 尊王攘夷の対象国は、アヘン戦争のイギリスやペリー黒船艦隊のアメリカではなく海賊行為のロシアであった。
 尊王攘夷派が最も恐れたのは、日本人を奴隷にして金儲けをし、殉教を美徳とする天草島原の乱を引き起こした血の生け贄を強要するキリスト教の宗教侵略であった。
   ・   ・   ・   
 無宗教日本民族日本人には、宗教や信仰の為に喜んで死ぬ=殉教が理解できなかった。
 信心が薄い日本民族日本人は、神や仏への信仰と命の二者択一を迫られたら、迷う事なく命を選び神や仏を捨てた。
   ・   ・   ・   
 初期の対ロシア戦略は、日本・清朝(中国)・朝鮮の3カ国が攻守同盟を結び、3カ国連合軍を組織してロシアの侵略軍を撃退し極東アジアを軍事力で守る事であった。
 だが、清国(中国)と朝鮮は、背後に迫っている真の敵であるロシアを見ず、目の前で攻守同盟を求めている日本を滅ぼすべき敵として攻勢を強めていた。
   ・   ・   ・   
 日本は、薩英戦争や馬関戦争(四国連合艦隊下関砲撃事件)で彼我の戦力差を肌身で痛感し、日本を守るには西欧の武器や軍隊でなければ不可能である事を悟った。
 ロシア軍に対抗する為に、海軍はイギリス、陸軍は幕府はフランスを明治政府はドイツを手本とした。
 旧態依然の清国は頼るに足らないと切り捨てた。
 明治新政府が、西洋を取り入れて近代化を急いだのは、分析力のない現代日本人に多い盲目的西洋礼賛ではなかった。
   ・   ・   ・   
 対ロシア戦略では。
 ウラジオストック樺太カムチャツカ半島などの北からの侵略に対しては、北海道(旧・蝦夷地)・北方領土で防衛するべく旧佐幕派藩士屯田兵として配置した。。
 中国・満州・朝鮮の西からの侵略に対しては、対馬、できれば国外の朝鮮半島で防衛する。
 南から侵略してくる危険性のあるイギリスやフランスの西洋列強に対しては、琉球王国を最前線防衛拠点とするべく日本国に併吞した。
   ・  ・   ・   
 明治5(1872)年・明治(1879)年 琉球処分
 琉球人は、日本の敵か味方か。
   ・   ・   ・   
 明治17(1874)年 台湾出兵
 日本は、国家の責任として、琉球人を日本国民と認定し、琉球人を殺害した台湾原住民に報復した。
 清国は、国家の責任を放棄して、台湾原住民を化外の民として見捨て、日本軍の台湾原住民に対する報復攻撃を黙認した。
   ・   ・   ・   
 日本にとって、周辺諸国である中国・朝鮮・ロシアはいつ何時侵略してくるか分からない油断も好きもない敵国であった。
 特に、朝鮮は日本を滅ぼすべく軍事大国を煽り日本を攻撃させようとしていた。
   ・   ・   ・   
 清国は、日本の侵出を警戒し、強大な軍事力を見せ付け威圧すれば、日本は朝鮮のように恐怖に慄き、土下座して謝罪して引き下がると高を括っていた。
   ・   ・   ・   
 弱小国日本は、軍事大国ロシアの侵略から故郷である天皇・国・民族を守る為に、援軍を送ってくれる同盟国・友好国を持たない孤独な状態で、1カ国のみで、沈着冷静に、必死になっていた。
 日本は、「窮鼠猫を噛む」の状態で、「肉を斬らせて骨を断つ」の犠牲を出す覚悟で戦っていた。
   ・   ・   ・   
 自由民権派は、薩長藩閥政権の庶民を犠牲にした強権的軍備増強に反発し、各地で反政府暴動を起こしていた。
 庶民の間でも、徴兵や血税に反対する反政府運動が盛り上がっていた。
 薩長藩閥政権は、対ロシア防衛戦争勝利の為に、各地で起きている反政府運動を武力で鎮圧し、首謀者を問答無用で死刑にして弾圧した。
 日本人キリスト教徒は、異教国の清との戦争には反対しなかったが、キリスト教国のロシアとの戦争には反対した。
   ・   ・   ・   
 朝鮮の独立と近代化を目指した金玉均(キムオクキュン)ら若手エリートが率いた独立党・開化派は、親日派知日派で、クーデターに失敗するや日本に亡命した。
   ・   ・   ・   
 世界の軍事常識では、弱小国日本と軍事大国清国(中国)が戦争すれば、日本完敗・清国大勝利であり、西洋は勝ち馬の清国に靡いていた。
   ・   ・   ・   
 イギリスは、中国市場の独占の為に清国を支援し、対ロシア戦略から清国軍増強に協力していたが、日本海軍の為にも軍艦を建造して売却した。。
 清国の高官李鴻章は、日本との戦争に備えて北洋軍と北洋水師(渤海艦隊)を作った。 清国の最高権力者である西太后は、廃墟となった円明園再建に巨費を投じ北洋軍への支出を渋っていた。
 ドイツは、清国に7,000トン級の装甲戦艦である定遠鎮遠を売却し、北洋水師は東洋一最強の海軍になった。
 欧米の国際資本は、日本と清国の両国に軍事物資を売って大金を稼いでいた。
    ・   ・   ・   
 清王朝元王朝ジンギスカン)の後継王朝で、北狄満州族モンゴル族は中華儒教朱子学原理主義の漢族とは違って東夷の日本との戦争には消極的であった。
 満州族は、フビライ汗の元軍を打ち破った日本を嫌い、手を出さず放置しておきたかった。
 漢族は、明王朝滅亡の原因になった日本を憎み、滅ぼそうとした。
    ・   ・   ・   
 軍国日本は、北から侵略してくるロシアから日本国・日本民族日本人そして天皇・皇室を武力で守る為に、攻撃的国防計画を実行した。
 攻撃的国防計画とは積極的自衛戦略で、ロシア陸軍の侵攻最短ルートを満州→朝鮮→対馬→日本と分析し、朝鮮を日本の最終防衛ラインと定めた。
 なぜか、貧弱な日本海軍では世界規模のロシア海軍を食い止められない、と判断したからである。
 日本の戦略は、日本と朝鮮が対ロシア軍事同盟を組み、両国連合軍で侵略してくるロシアの大軍を打ち破る事であった。
 その為には、朝鮮を清国(中国)から完全に独立させ、近代国家に改造し近代軍隊を新設する為の親日政権を樹立する事であった。
 だが、当時の李氏朝鮮は朝鮮国王髙宗、王妃閔妃とその一族、髙宗の実父大院君、さらに守旧派開明派、開化派、事大党、独立党、親日派知日派、親清朝派(親中国派)などで数多くの党派に分裂し内紛が激しく、さらに政府高官・貴族・両班などによる横領や不正が横行して国内は腐敗し、財政は赤字で政府の体を成さない有様で、日本の国防戦略を実現できる状況ではなかった。
 弱い立場に追いやられていた髙宗は、起死回生の一手としてロシアと手を組み、ロシアを内紛に参加さ、親ロシア派勢力を増やしていった。
   ・   ・   ・   
 軍国日本は、対ロシア戦略から朝鮮問題を解決するには攻撃的謀略しか手段しかなかった。
 立憲君主制親日政権を樹立する上で最大の障害物は、朝鮮の宗主国である清朝(中国)であった。
 次に朝鮮を親日派国家にする上での君主=統治者に、髙宗、大院君、閔妃の誰を据えるかであった。
 親日派政権と攻守同盟を結ぶ上で邪魔になる、守旧派開明派、事大党、親清朝派(親中国派)、親ロシア派を如何に排除するかであった。
 最後に、国家を腐敗堕落させた特権階級の政府高官・貴族・両班らを如何に処分し、民政を回復させ、庶民の生活と健康を安定させ自由を与えるかが課題であった。
   ・   ・   ・   
 現代において、侵略してくるロシアの大軍を日本国土の外、朝鮮及び満州で迎え討つという攻撃的国防計画・積極的自衛戦略は国際法違反の戦争犯罪として否定されている。
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 パウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフ(Paul Georg von Möllendorff, 1847年2月17日 ツェーデニック - 1901年4月20日、寧波)は、ドイツの言語学者・外交官。19世紀後半に朝鮮の国王である高宗の顧問を務め、また中国学への貢献で知られる。また満州語のローマ字表記を考案したことでも有名である。
 来歴
 プロイセン貴族メレンドルフ家の出身。プロイセンの高官ゲオルグ・フォン・メレンドルフの息子。ゲルリッツのギムナジウムに通い、1865年にはハレ大学に入学した。ここでメレンドルフは法学や東洋学、言語学を学んだ。メレンドルフは古典および外国語に対して強い才能を示し、ヘブライ語に熟達したが、その時はまだ東アジアの言語を学ばなかった。
 中国での活動
 1869年、メレンドルフは研究を中断して、上海の中国海関 (Imperial Maritime Customs Service) に加わるために中国へおもむいた。上海と後に漢口の海関(税関)で働く間、メレンドルフは中国語に熟達し、速やかに言語試験に合格した。しかし、彼はやがて仕事の内容に不満を覚え、1874年には通訳としてドイツの領事館に就くため海関を去り、ついには天津の副領事に任じられた。
 天津において、メレンドルフは清国の北洋大臣李鴻章の官房で働く馬建忠を助けた。1879年、メレンドルフは李鴻章がドイツ企業フルカンとクルップより武器と軍艦を調達するのを助けている。1881年、メレンドルフはドイツの北京公使マックス・フォン・ブラントとの込み入った関係により、領事職を去った。
 朝鮮政府の外交顧問に
 「露朝密約事件」も参照
 1882年7月に李氏朝鮮で起こった壬午軍乱は、清国軍による興宣大院君(国王高宗)の天津への連行・拉致で幕を閉じ、10月4日(朝鮮暦9月12日)、清国と朝鮮は天津において中朝商民水陸貿易章程を締結した。清国側は北洋大臣李鴻章のほか周馥と馬建忠が、朝鮮側は兵曹判書の趙寧夏と金宏集、魚允中がこれに署名した。天津をおとずれていた趙寧夏・金宏集は『善後六策』を李鴻章に提出して軍乱後の政策について李鴻章の指導を仰ぐ一方、朝鮮政府が外交顧問として招聘すべき人材の推薦を依頼した。李鴻章が推薦したのはメレンドルフと馬建忠の兄馬建常(元神戸・大阪領事)であった。メレンドルフと馬建常は、この年の12月に帰国した趙寧夏とともに漢城(後のソウル特別市)入りし、12月27日、高宗に謁見した。メレンドルフは、朝鮮国王が召見した最初のヨーロッパ人となった。
 メレンドルフは速やかに高宗と意を通ずるに十分な朝鮮語を身につけ、まもなく高宗の信頼を獲得した。高宗はメレンドルフを外務協弁(外務次官)に任じ、朝鮮海関(税関)の設立を委ねた。メレンドルフは中国・朝鮮風の「穆麟徳」(朝鮮語発音:モク・インドク、北京官話発音:ムー・リントー)を名乗り、すぐに朝鮮政府で大いに影響力のある人物となった。当時、朝鮮の税関は釜山、元山、仁川の3港に設けられたが、メレンドルフは閔氏政権の重鎮で閔妃の甥にあたる閔泳翊と謀って税関収入の一部を閔妃個人のために支出している。また、1883年、朝鮮の国庫の窮状を知ったメレンドルフは「当五銭」という悪貨の鋳造を朝鮮政府に勧め、これは漢城江華島平壌で大量に鋳造されたが、金玉均らの急進開化派(独立党)はこれに対し猛烈に反対し、その代案として日本からの借款の獲得をめざした。
 メレンドルフは李鴻章や中国海関の総税務司ロバート・ハートの希望に反して朝鮮の独立を主張することを望んだ。彼は中国海関から朝鮮海関を可能な限り独立させたかった。メレンドルフは朝鮮半島に対する中国と日本の影響を均衡させるために、朝鮮がロシア帝国と同盟を組むことを唱えた。しかし、これはメレンドルフの独走とみなされて清国の警戒するところとなり、1885年、李鴻章は朝鮮政府にメレンドルフの罷免を強要した。旧5月、メレンドルフは協弁交渉通商事務・総税務司を解任された。1888年、高宗はメレンドルフの復職を試みたが、不成功に終わっている。
 学問的著作と後半生
 朝鮮政府での任を去り、メレンドルフは中国海関の仕事に復して、南の条約港・寧波の関税局長官となり、余生を送った。彼は寧波で関税事務の改善に従事したほか、中国学の多くの作品を書いた。1896年と1897年の間、彼は英国・アイルランド王立アジア協会の中国支部長を務めた。
   ・   ・   ・