☴6〕─5・A─拉致被害者置き去り論。金丸信・田辺誠訪朝団。日本社会党。1990(平成2)年9月~No.28 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本の総理大臣・政治家で、日本人拉致事件を解決すべく最も精力的にそして寸暇を惜しまず努力してきたのは安倍総理であった。
 そして最も努力しないどころか、拉致事件解決を妨害してきたのは、自民党のリベラル派や革新派の野党である。
 特に罪深いのが日本社会党である。
 日本人過激派は、日本人拉致事件に深く関与し、日本人拉致に協力していた。
 つまりは、日本人拉致事件で厳しく非難されるべきは日本人である。
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 2014年8月2日 産経新聞「【ニッポンの分岐点】日朝関係(1)金丸訪朝団 正常化目前「償い」で禍根
 日朝間の最大の懸案である拉致問題。日本にとっては、拉致問題の解決がない限り北朝鮮との国交正常化もあり得ないが、20年以上前、日朝国交正常化が目前に迫ったときがあった。
◆予期せぬ金日成発言
 平成2(1990)年9月26日。北朝鮮有数の景勝地、妙香山の招待所で自民党の元副総理・金丸信社会党副委員長の田辺誠、北朝鮮主席の金日成(キム・イルソン)が顔を合わせた。
 金丸、田辺の2人が日朝の友好を進めるため、双方に「連絡事務所」の設置を持ちかけると、金はこう返して2人を驚かせた。
 「いや、そんなのをつくる必要ないでしょう。(日朝の)外交関係をつくればいいんですから。日本と仲良くしたい」
 予期せぬ発言に動揺を隠せない金丸。田辺に「どうする」と目をやった。田辺も「いいんじゃないですか」と即答した。金丸は金に向かって「社会党もいいと言っている。私たち自民党も責任を持つ」と応じた。
 この瞬間、北朝鮮に拘束されていた第18富士山丸の船長、紅粉勇ら日本人2人の釈放と、日朝友好親善が主目的だった訪朝が、政府間の国交正常化を前提とした外交交渉に転換した。
 55年体制以降、対北朝鮮外交は「万年野党」の社会党を中心に展開されてきた。だが、昭和58年に党書記長に就任した田辺は「野党外交では限界がある」と主張し、「万年与党」である自民党を引き込むことを画策する。
 北朝鮮も、社会党との関係を維持するだけでは展望を開けないと考えていた。韓国は、平成2年9月末にソ連との国交を樹立。東アジアで孤立することを懸念した北朝鮮が、日本との国交正常化に活路を見いだそうとしている-。田辺は北朝鮮側の変化を感じていた。
 田辺は、同じ国対族で親交の深かった金丸に声をかけた。北朝鮮が政権与党と接点を持ちたがっていることを紹介し、金丸にも注目していることを伝えた。
 だが、金丸は田辺の依頼をいったん断る。東側陣営に冷淡で、外交にあまり縁がなかったことが理由だった。それでも、田辺は半年間にわたって金丸の説得を続け、金丸も最終的に訪朝を決断する。第18富士山丸問題が、訪朝によって解決できる可能性が高まっていた事情も後押しした。
◆5時間続いた密室会談
 「俺が、風穴を開けたんだ!」。平成2年9月28日夜。金丸は帰国の途に就いた日本航空の特別機内で興奮気味に語ると、大きな拍手がわき起こった。
 笹川平和財団会長の羽生次郎(68)は、その光景を今も鮮明に覚えている。羽生は当時、運輸省(現国土交通省)国際航空課長として訪朝団に加わり、日朝間の航空路開設交渉にあたった経験を持つ。羽生によると、世論やマスコミは訪朝団の功績を軒並みたたえ、国交正常化を支持する声が多かったという。
 しかし、訪朝団は後に大きな批判にさらされることになる。9月28日に調印された自民党社会党朝鮮労働党の3党共同宣言の中に記された「戦後45年間の謝罪、十分な償い」が、北朝鮮への戦後賠償の表明とみなされたからだ。
 共同宣言は、金丸訪朝団事務総長の石井一(79)、同団事務局長の武村正義社会党訪朝団副団長の久保亘らが中心となった起草委員会で議論された。
 武村ら日本側は「交戦もしていない国の戦後賠償には応じられない」と突っぱねたが、北朝鮮はなかなか折れない。16時間にわたる協議の末、最後は金丸の鶴の一声で「償い」の文言を入れることが決まったのだった。
 金丸は滞在中、金日成と2人だけで5時間近くも密室で会談している。ただ、日本側の通訳や外務省の随員が入っておらず、記録を残していないため、大きな問題となった。この密談の中で、金丸は数十億ドルの「戦後賠償」を約束したともいわれているが、「誤解だ。『償い』までは是認していない」と否定している。
 石井は「金・金会談」の直後、金丸が「国交正常化の調印式を富士山のふもとで行う。金日成山梨県まで来てもらうんだ」と言っていたことを記憶している。そして「金日成と接してファンになってしまったんだな…」と回想する。金丸の「人の良さ」があだとなった面は否定できない。
 実際、訪朝団に対する金日成の歓待ぶりはすさまじかった。2万人が動員されたマスゲームは代表例で「金丸信先生と田辺誠先生の引率する日本使節を熱烈に歓迎する!」という人文字に金丸は感動した。
 産経新聞政治部記者として訪朝団に同行取材した北村経夫(59)=現自民党参院議員=は金丸の様子について「北朝鮮の術中にはまっていた」と振り返る。そのうえで「最終的な北の狙いは戦後賠償だ。『償い』は今も尾を引いており、拉致問題にもつながっている。日本外交にとってマイナスだった」と断じる。
◆拉致は議題とならず
 7月30日、前橋市で自身が運営する老人ホーム「恵風園」に、92歳になった田辺が姿を見せた。つえをついているが、滑舌は往事のまま。田辺は「金丸訪朝団で国交正常化に限りなく近づいたが、政府や外務省を巻き込めなかった。成功と失敗、相半ばだ」と総括した。
 当時、拉致問題はまだ大きくクローズアップされていなかった。国家公安委員長梶山静六は、昭和63年3月の参院予算委員会で、53年夏に日本海側で連続して発生したアベック行方不明事件について「拉致の疑いが濃厚」と初めて答弁していたが、金丸訪朝団では拉致が議題に上った形跡はない。
 平成2年10月、船長の紅粉らが釈放され、国交正常化の機運はさらに高まっていく。国交正常化交渉は3年1月から始まり、4年11月まで計8回行われた。
 だが、大韓航空機爆破事件の犯人、金賢姫(キム・ヒョンヒ)元工作員の教育係、李恩恵(リ・ウネ)(後に田口八重子さんと判明)に関する日本側の調査要求に北朝鮮が反発し、4年11月に交渉は一方的に中断された。その後、日朝の国交正常化交渉は動かないまま、12年4月まで途絶えることになる。=敬称略(山本雄史)
 【用語解説】金丸訪朝団 平成2年9月、自民党金丸信元副総理、社会党の田辺誠副委員長らが第18富士山丸事件解決などのために訪朝した。自社両党と朝鮮労働党の3党は、戦後45年間、朝鮮人民が受けた損失について公式的に謝罪を行い十分に償うべきだと認める▽国交正常化のための政府間交渉を同年11月に開始する-などを盛り込んだ共同宣言で合意した。」
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 産経iRONNA 
 「首相の訪朝を実現する」詐欺師と同じ日本置き去り論に警戒せよ
 『重村智計
 重村智計(東京通信大教授)
 南北首脳会談が4月27日に開催されることが決まった。5月中には米朝首脳会談が行われる予定である。これに先立つ形で、北朝鮮金正恩キム・ジョンウン朝鮮労働党委員長は3月末に中国を訪問し、習近平国家主席と首脳会談を行った。
 この動きを受けて、日本政府の「置き去り」「乗り遅れ」を主張する報道や論調が多い。中には、便乗して「私が平壌につなぐ」「首相の訪朝を実現する」と売り込み、首相官邸周辺を徘徊する「詐欺師」まで現れた。
 しかし、日本で金委員長に直接つながる個人や組織など99%いない。そんなチャンネルがあれば、とっくに機能しているだろう。北系団体や親北政治家、運動組織の多くは嘘つきだ。民主党政権時代、官邸はこの手の「詐欺師」に多額の「機密費」を騙し取られてしまった。
 「置き去り」や「乗り遅れ」を唱える論者は、真実を隠す「北の手先」なのだろうか。さもなくば「朝鮮半島の国際政治」を知らず、「日本への愛情」もない人たちといわざるを得ない。
 かつて、1990年の「金丸訪朝団」をはじめとして、渡辺美智雄氏(95年)、森喜朗氏(97年)、飛鳥田一雄氏(77年)など与野党の指導的政治家が、北朝鮮を競って訪問した。だが、結局コメなどを北朝鮮に「援助」として奪われただけで、日本の成果は何も残っていない。その「成果なき訪朝」を動かしたのは「乗り遅れ」と「置き去り」の声だったのである。だから「置き去り」論は「戦略的歴史観」に欠けている。
 朝鮮半島に軍事的、政治的に深く関与すると、日本は必ず大敗北することを歴史は教えてくれた。7世紀の白村江の戦いや、豊臣秀吉による文禄・慶長の役は歴史的大敗北に終わった。中国が必ず介入するからだ。近代に入っても、日清、日露の戦勝後は帝国主義的植民地化の失敗により、韓国と北朝鮮からいまだに恨まれ、日韓・日朝外交も混迷したままだ。
 しかしながら、朝鮮戦争に直接参加しなかった戦後の日本は、「朝鮮特需」により経済復興という利益を手にしたのである。この教訓は非常に重い。
 実は、中朝首脳会談において、報道も専門家も見落とした一節がある。「朝鮮半島情勢は重要な変化も起きている。情義の上でも道義の上でも、私は時を移さず、習近平総書記同志と対面して状況を報告すべきだった」。中国外務省の公表文には、金委員長のこの発言があった。
 この発言は「これまで中国を訪問せず申し訳なかった」という金委員長の謝罪である。「情義」「道義」という言葉にも、「義理と人情を忘れていた」とのお詫びが込められている。「時を移さず、状況を報告すべきだった」ということから、北朝鮮が南北首脳会談と米朝首脳会談を中国側に事前説明しなかった事実が読み取れる。
 また、夕食会でのあいさつで、金委員長はこうも述べている。「両国関係を継承・発展させる一念で、中国を電撃的に訪問した。我々の訪問提案を快諾した習近平国家主席に感謝する」。特に「訪問を受け入れた習近平主席に感謝する」との言葉には、中国がようやく訪問を許した、との真実がうかがえる。中国は「核放棄を約束するまで訪問させない」との方針を示していたとされるが、金委員長の言葉により、くしくも裏付けられた格好である。
 では、習主席はなぜ「金正恩電撃訪中」に応じたのか。それはひとえに「トランプの背信」にある。トランプ大統領は、大統領選中に中国に対して激しい非難を繰り返したが、就任後は一転して「米中友好」に切り替えている。
 それが、中国製品への大幅な関税引き上げで「貿易戦争」に方針を変えた。中国はトランプ大統領の「敵対政策」復活を敏感に受け止め、「対北朝鮮政策では協力できない」と米国に反撃に出たのである。
 一方で、トランプ大統領は、大統領選でのロシアによる選挙干渉疑惑の捜査の行方を心配している。メディアと世論の関心を他に向けるために、米朝首脳会談に即座に応じたわけである。韓国の文在寅ムン・ジェイン)大統領にしても、支持率回復と憲法改正によって政権の延命を図り、北朝鮮を支援するために南北会談の求めに応じた。言い換えれば、米朝の「仲介役」を演じているのである。要するに、金委員長や習主席をはじめ、トランプ大統領も文大統領も、それぞれが政治的問題を抱えているから首脳会談に応じたのである。
 とりわけ、朝鮮半島の国家は「乗り遅れ」論を流すことで、周辺の大国を外交競争に引きずり込む戦略を展開する。まさに「巻き込み外交」の天才だ。例えば、米ソ冷戦が終結した1990年9月に、旧ソ連は密かに「ソ韓国交正常化」を北朝鮮に伝えていた。
 何も知らない日本は、金丸信元副総理を団長、田辺誠社会党副委員長を副団長として訪朝し、日朝国交正常化や経済支援を約束する羽目になった。国家崩壊を恐れた北朝鮮が日本に画策した「巻き込み外交」が成功したのである。
 北朝鮮は冷戦時代、大国の対立を利用し、中ソの間を行き来する「振り子外交」を得意としていた。だから、今でも周辺諸国に「乗り遅れ懸念」を撒き散らす。南北関係が悪化すれば米朝交渉に向かい、米朝がダメとなれば日本に秋波を送ることを繰り返したのである。
 南北関係と米朝関係、中朝関係、露朝関係が同時に友好であることはなかった。つまり、南北首脳会談も米朝首脳会談も「簡単に成功するとは限らない」、この戦略的視点が大切である。米朝首脳会談の焦点は「北朝鮮の核放棄」「在韓米軍撤退」「米朝平和条約」「対北制裁の解除」、この4つの外交カードをどのように組み合わせた合意ができるかだ。極めて難しい交渉であり、決裂の可能性もある。
 ただし、日本にとって朝鮮半島に関わらない政策が「戦略的」だとしても、拉致された日本人の救出は急務だ。そのためには日朝首脳会談が欠かせない。日本は、拉致問題と核問題を切り離した交渉に持ち込むのが望ましい。安倍晋三首相は4月中旬の訪米でトランプ大統領に対し、米朝首脳会談拉致問題の解決を議題にさせ、核問題と切り離した日朝首脳会談の実現を改めて求める必要がある。
 拉致問題はなぜ解決しないのか。2002年、当時の小泉純一郎首相と金正日キム・ジョンイル)総書記の間で行われた日朝首脳会談で、日本側が「拉致被害者全員の帰国」「北朝鮮の主権侵害」を主張しなかったからだ。北朝鮮高官によると、日本の交渉責任者は「拉致被害者の安否情報」だけを求め、「全員帰国」を要求しなかったという。「国交正常化後の拉致被害者の段階的帰国でいい」という方針だったらしい。
 過去の国際政治から、北朝鮮は必ず「日本に近づく」という教訓を残した。日本は拉致問題解決のために、日朝首脳会談を、欧米の首脳やプーチン大統領、習主席など大国の首脳に常に働きかけ、国連決議に盛り込むことが大切である。
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2019年5月13日 東洋経済ONLINE「安倍首相「北朝鮮と直接対話」発言の真意
「条件つけずに向き合う」にいぶかる北朝鮮
福田 恵介 : 東洋経済 解説部コラムニスト
 安倍晋三首相は北朝鮮との直接対話に意欲を見せ始めている(撮影:尾形文繁)
 5月に入り、安倍晋三首相が北朝鮮との直接対話に意欲を見せ始めた。
 アメリカのトランプ大統領と6日に行った電話会談で、「私(安倍首相)自身が金正恩朝鮮労働党委員長と条件をつけずに向き合わなければならない」と述べ、日朝首脳会談の実現に動くと明言した。首脳会談を行う以上、日本人拉致問題の解決に資する会談にしなければならないとしてきたこれまでの姿勢から、軌道修正を行ったことになる。
 北朝鮮が首脳会談に応じる可能性は低い
 では現在の状況で、北朝鮮は首脳会談の実現に応じるのか。残念ながら、答えはノーだ。それは、北朝鮮がこれまでの安倍首相の言動をまったく信頼していないためだ。「条件をつけず」と言っても、再び強硬姿勢を続け、常套句の「拉致問題の解決のための会談」と言い出すのではないか――。日本としては拉致問題こそ、北朝鮮に対する最大の問題だが、北朝鮮拉致問題を解決済みとみなしており、これ以上話し合う名分がない問題だ。
 日本との話し合いに応じる優先順位も低い。北朝鮮の外交は、一にアメリカ、二にアメリカ、三が韓国、四に中国、ロシアで、日本はその次だ。今年2月下旬にベトナムハノイで開かれた米朝首脳会談以降、アメリカとの関係は2018年と比べてぎくしゃくしている。しかも5月に入って短距離ミサイルを2回発射するなど、北朝鮮は挑発行為も行った。それだけアメリカとの問題に神経を集中させており、日本への関心は低い。
 安倍首相の発言には、「7月の参議院選挙をはじめ、安倍首相は目先の手柄を上げる必要に迫られている。安倍外交の主軸の1つであるロシアとの北方領土交渉の進展にも減速感が生じている。それなら、北朝鮮と対話でもするか、という下心があるように北朝鮮には見えている」(中国の北朝鮮研究者)。しかも、安倍首相は拉致問題に深くコミットし、その後首相の座を得た人物ということが北朝鮮でも広く知られている。そんな人物が「条件つけずに会おう」と言ってもにわかに信じられない、ということだ。
 もちろん、日本では「過去の清算や経済支援といった名目で金が入るなら北朝鮮は対話に応じる」という見方はある。だが、いまや金の出どころは日本だけではない。現実的に商売相手となっている中国や韓国もそうで、アメリカとの関係が改善すれば経済環境は好転し、アメリカ企業をはじめ他国から資金が流入するだろう。日本のポジションは相対的に低下しているのが現実だ。
 しかし、北朝鮮との対話がすべて不可能かと言えば、そうではない。2018年8月、北朝鮮の対日外交で最前線に立つ宋日昊ソン・イルホ)日朝国交正常化担当大使は「日朝間に必要なのは対話だ。1990年代前半には日本企業と北朝鮮が深く付き合った時代もあった。互いに利益を得てきた実績もある。今後も情勢が変われば、企業間の交流も増やしたい」と『東洋経済』の記者に述べたことがある。
 宋大使が述べた「1990年代前半」とは、1990年9月に自民党金丸信副総理と社会党の田辺誠副委員長(いずれも当時)を代表とする訪朝団(いわゆる「金丸訪朝団」)に対し、金日成主席が国交正常化交渉を提案。その後交渉が行われたことを指す。
 宋大使はまた、「北朝鮮のメディアが『拉致問題は解決済み』『植民地支配から現在に至るまでの謝罪と清算が必要』と言うのは、日本の過去の清算と反北朝鮮的な姿勢を解除せよ、ということ」と説明した。植民地支配に起因する過去の清算を行う約束をし、経済制裁などを行うな、ということだ。宋大使の主張はそのまま、北朝鮮の原理的かつ教条的な主張だ。目新しさもない。だが、北朝鮮にとっては、日本がそのような方向で少しでも行動してくれれば、北朝鮮側も応じるという考えのようだ。
 北朝鮮は「話し合いに応じる用意あり」
 そこで浮かんでくるキーワードが「信頼」だ。金委員長が2018年から積極的に推進してきた首脳外交において、「信頼」という言葉がよく登場する。例えば、米朝首脳会談トランプ大統領に対して「信頼が増している」という一方で、ポンペオ国務長官などアメリカの外交実務者に対しては「信頼がまだ足りない」と北朝鮮側は使い分けている。逆に、2018年に3回の首脳会談を行った韓国の文在寅大統領に対しては「(米朝関係で)おせっかいな仲裁者」といった辛辣な言葉を投げかける。首脳会談で合意した取り決めを、韓国の国内事情やアメリカとの関係悪化で実行できずにいる文大統領に対し、金委員長が信頼を喪失しているためだ。
 核実験やミサイル発射などを繰り返してきた北朝鮮からいきなり「信頼が必要」と言われても、日本としては信頼できないのは当然のことだ。国際社会でどちらが信頼されているかと言えば、言うまでもなく日本だ。しかし、外交は対話を始めるにふさわしい雰囲気作りがあってこそ始まるものだ。とくに北朝鮮からの報道を総合的に評価すれば、原則論を掲げて辛辣な対日批判を続ける裏側で、「日朝関係の改善という大枠を提示し、その中で双方の懸案の問題を話し合うことができる」というメッセージを読み取ることができる。「日朝双方の原則論を包摂するようなビジョンがあれば、話し合いに応じられる」という意味だ。
 その点で、拉致問題の解決ありき、という従来の原則論を脇に置き、「条件をつけず」とした今回の安倍首相の提案は必ずしも否定的な受け止め方をされていない。さらに進めば、信頼の第一歩へとつながる可能性が高い。だからこそ、日本の軌道修正の真偽を北朝鮮側は慎重に見極めているのが現状だ。
 ビジョンや信頼と言う前に、日朝間には重大な問題も横たわっている。それは、日本も北朝鮮もお互いのことをほとんど知らないということだ。前述した1990年代初頭の国交正常化交渉と有力政治家との数回のトップ会談を除けば、日本外交が北朝鮮としっかりと向き合って話し合った経験は非常に少ない。しかも、そのような経験はすでに20年以上前の話だ。指導者も交代し、国際環境も変わった現在の金正恩政権に対して、過去の経験は通用しないと考えるべきだろう。また、北朝鮮の思考方式や論理形成など、交渉を始める前段階の知識さえ不足していることは否定できない。
 北朝鮮側も事情は同じだ。人的往来、とくに党・政府関係者らの相互訪問数は日本側の制裁も重なって極度に少なく、北朝鮮に入ってくる情報も限定的だ。裏返すと、教条的・原理的とも言える対日批判は、日本国民の感情や日本を取り巻く国際環境をきちんと理解したうえでのものではない。日本との関係が細ったため、日本語能力に優れ、日本に精通した人材も極端に減っている。相手を知らないままの状態では、建設的な対話は不可能だ。
 日朝関係が改善すれば、核開発を実質的に進めた北朝鮮と対話を進めることで相互理解と信頼を構築し、日本の安全保障環境の改善を促す。ひいては経済分野をはじめ相互理解につながり、民間レベルでも安定した友好関係に資することが見込める。安倍首相の軌道修正は、北朝鮮にとっても日本に歩み寄れる現実的な提案だ。時間はかかるものの、安倍首相の提案が何らかの対話につながっていけば、「まずはよし」と考えるべきだろう。
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 社会民主党(英: Social Democratic Party、略称: SDP、SDPJ)は、日本の政党。1996年1月に日本社会党が改称して発足した[1]、社会民主主義を掲げる政党である。
 日本語略称は社民党(しゃみんとう)、社民(しゃみん)。1字表記の際は、社と表記される。
 
 朝鮮民主主義人民共和国
 朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)とは、日本社会党時代から長きに渡り引き続き良好な関係を保っていたが、2002年の日朝首脳会談金正日が拉致を認めた後、社民党朝鮮労働党宛質問状に返答がなかったためと称して、「労働党との関係凍結についてはもう少し慎重に検討すべき」(宇賀神文雄幹事長(栃木))などの反対意見を封殺して、「多角的な議論の上で」(福島幹事長)同年12月関係を凍結すると発表する一方、在日本朝鮮人総聯合会に対して、従来通り友好関係を維持(福島幹事長)するとしている。
 また、一部の地方組織では、北朝鮮と引き続き関係を保っているところもある。
 北朝鮮による日本人拉致事件への姿勢
 社民党は、社会党時代の1963年に第一次訪朝団を派遣して以来、朝鮮労働党との交流を積み上げ、「朝鮮労働党唯一の友党」を標榜してきた。
 一方で、党の拉致事件への対応について、日本社会党時代から朝鮮統一問題に取り組んできた田英夫は「『ご説ごもっとも。友好第一』で、本当の友人として批判する態度ではなかった」、「拉致を信じていなかった。だまされた」と述べている。
 1990年に、自民党金丸信と訪朝した田邊誠元社会党委員長は、当時拉致問題に関しては全く知らなかったと釈明し、「家族からの陳情も私には届いていなかった。行方不明者がいるという話を小耳にはさみ、訪朝前に外務省や警察庁に聞いたが確認できなかった」と主張した。
 社民党機関誌『月刊社会民主』1997年7月号では、社会科学研究所「月刊日韓分析」編集員の北川広和の論文「食糧支援拒否する日本政府」が掲載され、次のような記載がなされた。「拉致疑惑の根拠とされているのは、つい最近、韓国の国家安全企画部(安企部)によってもたらされた情報だけである」「産経新聞に掲載された元工作員の証言内容に不自然な点がある」。従って「拉致疑惑事件が安企部の脚本、産経の脚色によるデッチあげ事件との疑惑が浮かび上がる」。「20年前に少女が行方不明になったのは、紛れもない事実である。しかし、それが北朝鮮の犯行とする少女拉致疑惑事件は新しく創作された事件というほかない。……拉致疑惑事件は、日本政府に北朝鮮への食糧支援をさせないことを狙いとして、最近になって考え出された事件なのである」。2001年、日本人拉致事件が明るみに出て以降も、同論文は同党の公式ウェブサイトに掲載され続けた。
 2002年9月17日の小泉純一郎金正日との日朝首脳会談以降、「これまで朝鮮労働党は、社民党が参加してきた森団長、村山団長の2度にわたる訪朝団との会談で『拉致は存在しない』『行方不明者として調査する』と対応してきた。社民党も同会議の席上、拉致・行方不明者の生存確認の追及を厳しく求めてきた。」との立場を取りつつも、上記論文について、2002年10月3日の常任幹事会後の記者会見で、保坂展人総合企画室長(当時)は、「党の見解と同一かを確認したことはないが、なるべく早い時期に見解を出したい」と述べ、当面は掲載を続ける考えを示した。
 しかし、既に当該論文の内容や社民党における取り扱いなどが、マスメディアによって周知されており、この党の対応に対しては、党員からも抗議が殺到、保坂展人総合企画室長(当時)は「論文が拉致がなかったという内容で、家族の気持ちを思うと不適当だと判断した。今日、執筆者と連絡が取れ、削ってもいいという了解をもらった」 として、論文の削除を行った。
 2002年10月7日、所属する田嶋陽子が、一連の対応を「(拉致事件という)現実に対する対応にスピード感も柔軟性もない」と批判のうえ、離党を表明する事態に陥ると、福島瑞穂幹事長(当時)は、本来、党の政治的見解等の広報を担う機関誌に掲載した論文であるにもかかわらず「当時の状況下における個人論文で党の見解ではない」と釈明し、土井たか子党首(当時)は田嶋陽子の離党に関する記者会見において、「(朝鮮労働党との間で)拉致問題を取り上げなかったわけではないが、追及が十分とは言えなかった。被害者の家族には申し訳ありませんと、お詫びしたい」と発言している。
 安倍晋三内閣官房副長官(当時)は、そのような党の姿勢について、「いかにも(自分が)昔から取り組んでいたかのように、小泉純一郎首相の決断を批判するのは、ちゃんちゃらおかしい。まずは反省するべきだ」「警察も外務省も対応が冷たく、新聞もどこも報道しなかった。それどころか社民、民主の議員は『いいかげんなことを言うな』とわめいていた」等と厳しく批判した。
 平沢勝栄からは「拉致はないと言っていたんだから社会党は。それを信じていたんだから。」「拉致問題はないとは言ってないと言いますけどね、私は土井たか子さんの(発言を)鮮明に覚えてます。土井たか子さんはね、『拉致問題拉致問題って言うけど、先方が拉致なんかないって言っているんだからないんです』とテレビで言った。これは鮮明に覚えています。」と厳しい批判を受け、また、拉致被害者家族の有本嘉代子からは「社民党ですか? 私、あれ日本の政治家と思ってませんよ。あれは北朝鮮の政治家です。」と厳しく批判されている。
 拉致被害者有本恵子は、土井たか子の選挙地盤であった西宮市の出身であり、有本夫妻は当初、北朝鮮にパイプを持つ土井に拉致問題の調査を依頼したものの、拉致の存在を信じていなかった土井は、積極的に取り組まず、土井や社民党に失望した有本夫妻は、土井の対抗馬であり、民社党兵庫県議会議員時代から、日本人拉致事件に取り組んできた自由民主党大前繁雄を2003年の総選挙において応援。その結果、土井たか子は党首であるにも関わらず、兵庫県第7区で落選を喫し、近畿ブロック比例区で復活当選した。
 2003年11月2日放送の『報道2001』では、司会の「かつて社民党は拉致は『でっち上げ』ということをおっしゃっていましたよね」との質問に対し、土井たか子は「そんなことを党として言った事はないですよ、それはおかしい報道ですね。それは事実と違います」と発言した。
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 田邊 誠(田辺 誠、たなべ まこと、1922年2月25日 - 2015年7月2日)は、日本の政治家。
 衆議院議員(11期)、日本社会党委員長(第11代)を歴任。

 社会党での活動
 衆議院では社会労働委員会に属し、社会福祉政策の充実を訴えた。一方、社会党内では江田三郎派に属し、次第に右派の重鎮としての地位を築いていった。1977年、社会党国会対策委員長に就任。
 国対委員長時代には、自民党金丸信国対委員長とのパイプを築いた(国対政治)。盟友関係は金丸の死去まで続き、互いに「マムシナマズ」と呼び合うほどだった。後に金丸が不正蓄財問題で失脚した後、金丸と仲の良かった田辺もダーティーなイメージで見られたが、側近の船橋成幸は、「田辺の私生活は清潔であった」と著書の中で述べている。自民党の実力者との交流は、社会党関係者や市民運動家の要求を通しやすくするためにおこなわれていた側面もあった。
金丸信#政界のドン」も参照 
 1981年1月、水曜会を中心に右派既成派閥「政権構想研究会」結成に参加し、会長に武藤山治政審会長を据えた。しかし、同年11月の社会党委員長選で自派の武藤政審会長が飛鳥田一雄委員長に大敗し、国対委員長を退任した。1982年7月、平林剛書記長の急死で書記長代行に就任。さらに、1983年7月には、石橋政嗣委員長の下で書記長に就任した。1985年12月の党大会で執行部は田邊を中心に作成された新綱領を提案し、協会派の低迷にも助けられて翌1986年1月の採択にこぎ着け、西欧型社会民主主義政党にすることに成功した。
 1986年7月、衆参同日選で、社会党が大敗すると石橋委員長の辞任に合わせて、書記長を辞任した。1989年、土井たか子委員長の下で、副委員長に就任。
 1991年、第12回統一地方選挙では敗北の責任を取って土井委員長が辞任すると、後任の委員長に就任した。河上丈太郎委員長以来、26年ぶりの右派出身の委員長であり、自民党や中道政党とも太いパイプを持つ田邊は、社会党政権交代可能な政党へと脱皮させる人物としてマスコミなどから期待された。田邊もそれに応えるように、影の内閣を党内に設置するなど、政権交代を視野にいれた路線を打ち出した。
 詳細は「社会党シャドーキャビネット#田辺誠「シャドーキャビネット」」を参照
しかし、委員長選挙で左派が推す上田哲との得票差が僅か1万票に過ぎなかったことは、田邊の党内支持基盤が脆弱であることを党の内外に露呈した。田邊自身も必要以上に左派に気を使うようになり、思ったような党内運営は出来なかった。
 「日本社会党委員長#日本社会党委員長選挙の結果」も参照
 1992年、通常国会で田邊委員長は、PKO法案に対し、当初は自衛隊とは別組織にする条件で妥協する予定だった。しかし、自民・公明・民社の三党が別組織論を反故にしたこと、派遣自体に反対する党内意見などの理由で、社民連連合参議院(別組織論)、共産党(派遣自体に反対)と共に牛歩戦術社会党衆議院議員総辞職で反対姿勢を示した。
 党内基盤の弱い田邊は、徹底抗戦を訴える左派を説得することは出来ず、また左派も田邊と自民党とのパイプをはなから期待して、事態の収拾に動こうとはしなかった。PKO関連法案は、自民・公明・民社の自公民協力体制で成立。7月の参院選では、PKO法案に強硬に反対しながら、同法案に賛同した公明党民社党選挙協力するという一貫性のない対応が仇となり敗北した。
 詳細は「PKO国会」を参照
 党内で参院選の敗北の責任を問う声が高まったことや、田邊の盟友の金丸が失脚したことで、政治家としての田邊のイメージも悪化したことから、1993年1月、書記長だった山花貞夫を後継の委員長に指名して、委員長を辞任した。
 「金丸信#失脚」も参照
 1993年、細川護熙連立政権が誕生すると、連合の山岸章会長は、田邊を衆議院議長に推したが、新生党小沢一郎らは左派の発言力封じのために、土井たか子衆議院議長に推し、田邊議長は実現しなかった。それでも、田邊は右派の中心人物として、新生党らとの非自民連立政権維持を説いてまわった。
 そのため、自民党との連立を選んだ村山富市内閣とは距離を置き、1996年9月には社会党の後身である社民党を離党し、民主党設立委員会に参加した。1996年総選挙には立候補せず、政界引退。同年、勲一等旭日大綬章受章。2005年2月に民主党群馬県連常任顧問に就任した。
 政界引退後は、父から受け継いだ老人ホームの経営に専念していた。
 田邊は1990年、金丸信と共に北朝鮮を訪問し、金日成国家主席朝鮮労働党総書記と会談するなど、北朝鮮との交流に熱心であったことが知られている。しかし日本人拉致事件発覚後は、北朝鮮側に対し自分をだましていたと抗議し、関係を絶っている。
 詳細は「北朝鮮による日本人拉致問題」および「社会民主党_(日本_1996-)#朝鮮民主主義人民共和国」を参照
 2015年7月2日死去。93歳没。叙従三位

 南京大虐殺紀念館の建設要請
 浜田幸一によると、田邊が1980年代に中華人民共和国江蘇省南京市を訪れた際『南京大虐殺紀念館を建設する様』求めたという。浜田はこの要請や総評から南京市への3000万円の寄付によって、同紀念館が建設されたと語っている。しかし、1999年11月と12月の阿羅健一のインタビューでは「パールハーバー50周年の際に日本の反省を述べたことはあるが、南京事件については知らないので、中国に対して南京事件について言ったことはない」と述べている。
 詳細は「南京事件論争」を参照
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